2010年11月12日金曜日

 まとまらないこの半年のまとめ⑥

そしてもう一つこの6カ月で気がついたことがありました。

 もし日本の教育、技術が世界一で我々は西洋文化に染まる必要はないのだ、

 っていう考え方は間違っているとは思いませんが。

もしそれが進みすぎると、それが人種差別の始まりになることもあるのでは?

  とこの半年間で勉強したアフリカのことと、

 自分の毎日の生活のなかで感じました。

 たとえば日本に文化の違う沢山の外国人が

 10万人くらい入ってきて生活しだすとします。

 彼らは文化が違うので、仕事に一時間くらい遅れても当たりまえ、

 交通ルールもあまり守らず、ゴミの分別やリサイクリングにも興味がなく、

 町が汚くてもあまり気にせず、立ちションベンも当たり前。

 だってそういうルールで今まで生活してきた人たちだから、

 その国ではそれが当たり前だったとします。

 そして日本人は何度も彼らにお願いします。
 
 「頼むからそういう習慣を直してほしい」

 でも彼らも同じようにおもいます。

「これは習慣ではなくて、我々の文化なので、

 今まで長いこと我々はこの文化で育ってきたのだ、

 お互いにお互いの文化を鑑賞するのは良くないことだ!」

 そして日本人は思います。

 彼らに我々が今まで守ってきた規律や謙虚さ公衆衛生、食の安全、

 年長者を敬う気持ちなどを無視されることはこれ以上は許されない。

 そして日本人は自分達の文化のレベルを下げないために

 彼らとは生活を別々にしたいと考えだします。

 日本人にとってはそれは自分達の文化を「守る」ための

 プロテクションになりますが、違う見方をすればそれは


 「人種差別」の始まりになることもあるのだと思いました。

 

 とても難しいしすべての人種差別がそこから

 始まったわけでは無いことは明らかです。

 特に黒人に対する差別は、勝手に西洋の人達が彼らを奴隷として


 連れ去って来て、自分達の国に連れてきておいて、


 その後に差別をしたという矛盾があると思いますし。

 日本にもそういう歴史は沢山あります。


  逆に下品で野蛮だけど「多数派」な人達が

 上品で思いやりと優しさを持った「少数派」の人達のところに


 攻め込んでその人たちを奴隷にしたり差別したりすることも

 歴史の中で沢山あるとおもいます。

 

 でも高い教育と文化を持った人たちが
(実際はどの文化が高いとか低いとかいう判断は誰にもできないと思いますが、
 一般的に低いと考えるひと達、他人の権利を踏みにじることが平気な人達)
から自分達の文化を守ろうとしたときに人種差別が始まることもあるのだと思います。

 僕が日本人としてのプライドを捨てずに、

 頑固に寡黙にこの半年間この学校で頑張ってきて、

 西洋文化の自己主張に染まることを拒んだとき、

 この感情は僕にとっては自分のレベルを下げたくないという

 プロテクションであったかもしれないけど、逆を言えばこれが

 「人種差別」の始まりなのかな?

 とも考えることができると思います。

 とはいっても日本文化が世界基準から言って高いとは断言できないし、

 しかも今の時代の世界基準が
 
 「自己主張する文化」

 なら少数派である僕たちには長いものに巻かれるしかなく、

 時には

 「もう一度鎖国してやる!」


 なんて思ったこともありますが、

 やっぱりいろんな文化を知ることは楽しいし、いろいろと経験できたし、

 時には自分の持っている文化よりもさらに良いものがあることにも

 沢山気がつかせてもらったし。

 何と言っても自分が好きで勝手に申し込んでここまで来たんだし

 今後もそういうことに関心を持ちながら自分のできる

 範囲で色々と考えながら工夫して生活していこうと思います。
 
 こういう問題は答えを求めてはいけないのだと思います。

 一生懸命考えるだけ、それが大切で面白いのだと思います。