2012年10月21日日曜日

亡くなった親父に連絡したいこと

今から3年ほど前に親父が亡くなる時、ウチの姉は三人目を妊娠していてちょうど

5カ月くらいだった。

 長男、次男のときは早めに親父に知らせていたし、親父もそれを生きがいにしていた、でも三人目の時は

 僕も姉も親父には伝えないというのがなんとなく二人の暗黙の了解になっていた。

 親父に伝えても体の弱っていた親父はその子に会うことができないだろうという気持ちと、

 家族の優先順位のなかで新しい子供のことよりも親父の最後のほうが大切な気持ちがしていたのかもしれない。

 だから無くなった親父の中では自分の孫は姉の産んだ二人の男の子だけになっている。

  親父が無くなった後に無事に三人目が生まれ。これもまた男の子で元気に育っている。

  その子が産まれたばかりの頃に姉は

 「赤ちゃんがずっと天井を眺めているときがある、私には亡くなったお父さんと話しているように見える」

  と言っていた。  一人がこの世を去れば、新しくまた一人が産まれてくる。

  自分もそのサイクルの中にいるのだな。 と思うと少し安心したような気持になる。


  そしてその姉は今日4人目の子供を産んだ。待望の女の子だった。


  
 
   親父は僕が海外にいるときにいつもこのブログを見ていてくれた。


   
  だからここに書けば親父が何処かで見ているような気が今でもしている。

  お父さん、孫の数はお父さんの知っている倍の人数になりましたよ・・・・・ 

   

  
   

  

2012年10月17日水曜日

10年前を考えれば10年後が読めるかも

 世の中は便利になっているのか、窮屈になっているのかはわからないけど、

 大きな変化はなくても小さな変化はたくさんあるものだなー、と振り返ってみたくなった。

  今では意外とあたりまえだけど、コンビニやファミレスのレジの前には必ずと言ってよいほど

 不要なレシート入れがある。  街中にレシートを捨てる人が少なくなることはまあ良いこと

 なのだろうね。 あとはレジの前に小さな棚というかハンドバックを置ける場所ができている

 ところも多い。財布を出す時には便利だものね。

  そういえば昔は缶ジュースのプルタブは完全に取れるようになっていた。だからプルタブが

 街の中に散乱していた、いつの間にかプルタブは折り畳み式のような形になっている。

 最初は違和感があったけど、もうすっかり慣れてしまった。

  そういうと昔はバイクもヘルメットは必要なかったし、シートベルトも義務付けされてなかった

 今はタクシーの後部座席にのってもシートベルトする時代になってしまったね。

 チャイルドシートも義務付けだものね。

 
  高速道路のETCもなかったら降り口はいつも渋滞していたのを思い出す。

  スイカもなかった。  昔は早く電車に乗りたいのに、切符売り場が並んでいてイライラすること
 
 があったものね。 やっぱり世の中は便利になっているんだろうね。

   そのうちに車もハンドルの部分にナビだけが付いていて、場所を打ち込むと

  そこまで連れて行ってくれるようになるのだろうね。 どのルートを通るのが一番車が

  混んでいないか計算してくれるから渋滞はもっと無くなるのかもしれない。

   駅まで子供を迎えにいくのもドライバーが必要いらないなら携帯電話で行き先だけ打ち

込んで送信すれば駅まで無人の車を迎えに行かすことくらい簡単になるのかもしれない。


   タバコを吸う人もドンドン少なくなっているよね。今は街中で歩きながら煙草を吸えないのだから昔では考えられないよね。 でも喫煙所でタバコを吸っている人達はなんとなく一体感

 があって幸せそうに見える時もあります。

 そのうちに歩きながら携帯電話をいじっていてぶつかったり、駅のホームで電車と接触したりして

 問題になって、「歩きながらの携帯電話取締り条例」みたいなのができて、罰金とられるかもね。

 「人生の免許書」みたいなものができて、例えば歩きながらのタバコで減点2点、歩きながらの

 携帯で減点1 、信号無視も減点1、自転車二人乗りも減点1、電車の中での音楽大音量は減点1、優先座席に健常者が座っていて見つかったら減点1、酔っぱらい歩行も迷惑だから減点1、オナラ減点1、大便したトイレを流し忘れると減点1、ゴミのポイ捨て減点1、
立ちションベンは減点3、などと運転免許以外のことでも減点がとられる時代が来るかもね。
 10年間無事故、無違反で「人生のゴールドカード」みたいなことをになるかもね。
そしたら納税額減らしてくれるとよいね。

  日本はそういう国だものね。だって「路上駐車禁止」となったら本当に路上駐車無くなる国だ

  ものね。 都内ではいたるところにタイムスができてるよね。 あの会社は儲かってるだろうね。

  設備投資にお金かからないものね。

   飲酒運転もなくなったね。それは良いことだね。

 ひとはそうやって少しづつ進歩しているのだろうね。

  でも実は進歩しているように見えて、便利になりすぎると生活のなかで工夫したり応用したり

 (例えば自動車の運転の技術を身につけたり)する必要が無くなって、パソコンとスマホだけ

 いじって生活するようになるのかな?

  前から思っていたのだけど、体が丈夫そうで、ガッシリしている男性が持てるのは、女性が

 本能的に「この男性ならたくさん獲物を取ってきてくれそう、世の中を生きる力がありそう」

 と思うからだとしたら、そのうちに食糧調達もコンピューターで操作できるようになって、人間が

 肉体労働しなくてよくなったら、今度は逆に小さくて頭でっかち(見た目も中身もね)な男性が

 もてるようになるのかな? だって肉体労働しないのなら体が丈夫なことよりもビル・ゲイツ

 みたいに頭の良いほうがお金を稼げるわけだし、女性が本能的にそういう男性のほうが

 時代を生き抜く力があると思ったらそういう男性に魅力を感じるようになるのかもね。

 でかい男は場所もとるし、雑で頭も悪いというレッテルを貼られて邪魔者扱いされる世の中が来るかもね。 人間にもコンパクトで高性能がもとめられる日が来るのだろうね。

 結婚条件は3低
 
 低身長、低燃費(大食いしないということね)、低姿勢
 
 そういう男が理想の男性になる日がくるかもね。

  まあ仕方ないか。  だいぶ話が飛びまわってしまってごめんなさい。 

 でもたまに意識して世の中がどれほど便利になってどういう部分が変わったのか認識して

 おくことって大切だと思うのだよね。だから自分の中で少しまとめてみました・・・・


2012年9月24日月曜日

男の人生で最高のコーヒーの味

 青年海外協力隊としてバヌアツにいたとき、僕が島に入ってすぐに先輩隊員は任期終了で

帰国してしまった。それから8ヶ月間一人で島にいた。

 その次にテツヤが来た。二人になった時は本当にうれしかった、でもお互いに日本人同士で固まらないようにと週末だけ会うように心がけていた。

 その6カ月してヒロが来て、タクヤがきて、最後に僕の後任のヨリがきてくれた。

 ここまで書いて分かるようにウチの島には昔から女性は送らないことになっている。
 タンナ島の男達はマンタンナと呼ばれてバヌアツ人の中では気性が激しいとされているから
  女性はいない。

 最初にタンナに行った時は自分は一人で2年間なのかもな? と思っていて。

 だから食器もほとんど買わなかったし、地味な生活をしていた。でも3人4人と増えていくと
 
我が家が大きかったこともありみんなが集まるようになってきた。

 週末にみんなで集まってそれぞれの活動の悩みを聞いた。

 ある程度みんなが同じ悩みを持っていた。でも後輩たちは僕よりもたくましく活動している

 ように感じた。実際にみんなよく働いていた。

  4人目のタクヤが来た頃、みんなで食事ができるように椅子とテーブルを作ろうと思って

 材木屋から材木を買ってきた。テーブルは簡単だけど、座り午後地の良い椅子を作るのは

 とても大変だと分かった。

 でもみんなでそろって食事をできるのは楽しかった。みんなと一緒にここにいたいとも思ったし。

  2年間一度も帰っていない日本に戻れるうれしさもあった。

  その頃は食後は焚火を囲んでコーヒーを飲むのがいつものパターンだった。

 日本ではありえないくらいの安物のグラスとか100円ショップでも売っていないような

 プラスティックのカップ、全員揃うと足りなくてジャムの空き瓶でコーヒーを飲んでいた。

  ジャムの空き瓶は取っ手が無いし、熱が伝わりすぎるからコーヒーを入れると直接手で

 もつことは難しいことも学んだりした。

  なるべく新しい隊員にはきちんとしたカップで飲んでもらいたくて、古い隊員がジャムの空き瓶

 でコーヒーを飲んでいた気がする。

  でもそれを見て「かっこ悪いな」と思う隊員は僕達の中にはいなかったと思う。

 あの時にみんなで飲んだコーヒーは間違い無く僕の人生で一番うまいコーヒーだった。

 かっこ悪いとかダサいとかいう人もいるかもしれないけど、そういう人にはきっとわからない

 のだろうなと思う。

  みんなで一つの焚火を見つめてコーヒーを飲んでいたとき、僕たちはあの島で本当に良い

 時間を過ごしていたのだと思う。

  日本で一日中蛇口から水が出てきても、いつでも電気が使えても、 携帯電話で常に連絡がと

れても、立派なブランドのカップで一杯千円近いコーヒーを飲んでも。

 僕の人生のなかであのコーヒーに勝るものはないと思う。

 だから日本で生活しているとたまにどうしようもなくむなしくなることがある。

 あの充実感は日本で味わうことは難しいのかもしれない。

 すでに5人とも帰国してそれぞれの人生を歩んでいる。

 人生には何もかもが便利すぎるから逆に味わえなくなってしまう「本当の味」があるのだと思う。
 

 

2012年9月6日木曜日

自分は我慢強いと思っている人へ

 普段の生活の中で自分は我慢強いとか、いつも我慢しているという人がいるけど
40歳近くになった僕が感じるのは、年をとってきても自分が我慢強いと思っている人の
多くは実は我慢強いのでは無くて、
 
 自分の我が強すぎて物事がうまく運ばない ⇒ 結果的に自分は我慢をすることが多くなる 

 ⇒ 本人はまわりに自分が合わせてあげていると思いこんで自分は我慢強いと勘違いしている 

 ということもあるのではないかな? と思ってきました。 20代なら社会に出たばっかりだし、学ぶことも多いから我慢は必要だと思うのだけど、年齢を重ねるごとに世の中をスイスイを渡っていく術というか、ある程度は流されたほうが結果的には物事は上手くいく。世の中は目先の利益だけではないということに気がつくと思うのだよね。自分のなかでこだわる部分とそうでなくて良い部分が分かるというか、世の中を信じることができるというのかな・・・・
 色々な成功体験を積み重ねて、そのたびに感謝していけば、物事を長い目で見ることができるようになるのだと思います。 

 僕も若いころ

 「若者は結果を早く求めすぎる」

 と先輩にしかられたことが多くありました。そういう言葉を伝えてくれる素敵な先輩がいてくれた事はとても幸運でした。 

  ちかごろ 「自分は我慢強いのだ!」

 と言っている人を見ると、その我慢はその人の我儘(わがまま)さや傲慢(ごうまん)さからくるものなのでは?
  
 と感じるようになってきました。 

 なんとなく日本の教育の中に「我慢ずることは良いことだ」 という認識があるからかもしれないけど、でも大人になって根本的に自分が我慢しなければならない状況を未然に防ぐ技術が身につけば この世の中はそれほど難しいものでは無くなってくるのだと思います。

2012年8月27日月曜日

スポーツは笑顔でなくても楽しめる

 スポーツを楽しむっていう言葉があるけど、

 それには二つあるのだと思います。

 一つは体を動かして、自分をリフレッシュさせるようなスポーツ

 もう一つは、人生の一時期を競技に捧げるようなスポーツ

 僕のやっていたアメフトなら

 日本一を目指しているようなチームがついに決勝まで来て

 前半を終わって14対0で負けている

  (これはサッカーだと2対0くらいかな?)

 後半に14点以(2タッチダウン)以上とらないと逆転できない

 圧倒的な劣勢に立たされている。

  それでもチームの誰もが逆転をあきらめていなくって

 「自分たちは絶対に勝つのだ!」と信じ切っている
 
  そして後半になって少しずつ差を詰めて、試合が終わった
 
 時に結果的には勝利している。

  そういう試合に味わう充実感を楽しむことことが

  リフレッシュともう一つあるスポーツの楽しみ方なのだと

 思います。 

 その時の「楽しさ」って人生のなかで最も大きな楽しみで

  限りなく充実感という言葉と近いのだと思います。

  一流の競技スポーツの選手はそこを「楽しんでいる」の

 だよね、だからオリンピックの金メダリストが
 
「楽しかった」というのはそういう「究極の勝負」を楽しんでいるの
 
 であって、ニコニコ笑って楽しんでいるのとは違う楽しみなの

 だと思います。

 

2012年8月19日日曜日

どんくさいけど、自信のある子供

どんくさいのに自信は人一倍ある子供はどうやって育てたらよいのかなー? 

 って最近漠然と考えています。

 このカテゴリーは4つに分かれていて、

①能力があって自信がある ⇒ ほっておける

②能力があって自信がない ⇒ 褒める、励ます(可愛く思える)

③能力も自信もない     ⇒ 教える、励ます、成長する(可愛く思える)

④能力はないが自信はある ⇒ ほっておけない、
                        でも学ばない(可愛くない)

 最近甥っ子を見ていて自分の子供の頃を思い出しました。 
 
 注意してあげるのだけど、言うことは聞かないし、やることが全てどんくさくて怪我ばかりするし、他人に迷惑をかける。
 自分が怪我するのなら良いのだけど、よその子供に怪我をさせたり、人に迷惑をかけるのはやっぱり注意しないとね。
 でも注意しても本人は反省しているつもりだけど、3分で忘れてしまうのだよね。

 まさに自分がそうだったのだよね。子供の頃って人の迷惑とか考えてなくって(今も若干そうだけど・・・)親は苦労したのだと思います。でも注意されても治らないのだよね。成長しないというか。

 だから母親は僕をビビらす事ばかり言っていたのだと思います。
「今のままでは普通の人間になれない」
「ほかの子供はみんな良い子だ」
「いとこの誰々ちゃんは私学の中学校に行っている」
「うちのマンションの子供はみんな頭が良いのでお母さんはずかしい」
「お父さんみたいになってほしかったのに・・・・」
 
 そういった言葉は僕の行動の抑止力になったわけではなくって、なんとなく自分の中に生きている事に対する「罪悪感」みたいなものと、自分を受け入れてくれない世の中に対する「反社会的」な気持ちをため込んでいくという結果になったのだと思います。

 潔癖症とかってそういうところから始まるのだろうね。自分が不潔であるというのは、何か処理できない気持ちの表れなのだろうね。
 
アメフトで妥協を許せなかったのはボールを集中して捕るというポジションには必要だったと思うけど、チームワークという面では協調性は必要だからマイナスなのかもしれないね。

 そこら辺はプラス面もあり、マイナス面もあったのかな?

 協力隊でボランティアに行った理由も全てではないとしても
「人生を攻めていないことに対する罪悪感、自分だけ日本で楽して生活してるのではないかという気持ち」
 があったのではないかなとも思います。 

 じゃあ親はどうしたらよいのだろうか? と思うと難しいよね。
「どんな子供でも私はあなたを100%愛している」
と言ってあげたいけど、それで自由奔放な子供が交通事故にあったり、よその子供に怪我をさせては駄目だものね。

 毎日子供と周りに気を使いながらいつまでたってもそれに気がついてくれない子供を見守るしかないよね。そいういうときには周囲の助けとか母親以外にその子供に接してくれる人がとても助けになるのだろうと思います。
 そして親ができる最大の仕事は「成長を待つこと」だろうね。
こっちがしつけなくっても子供は心も体も成長していくから、高校生くらいになると急に気がつく事ってあると思います。

 それまでに親が過剰に子供に注意しすぎるとバランスを失ってしまうのだろうね。 とは言っても高校くらいいける学力はつけてほしいしね。
 
 まとまらないけど子育ては難しいなーって思います。
  そして一番辛いのはその子供本人なのだということも身にしみて分かっているつもりです。

ムヒカ大統領のスピーチについて

 開発教育とか国際理解教育とかグローバル人材育成なんていうように、3年くらいで言葉は変わる日本の教育界だけど最近世界の流行りは
「持続可能な発展」 Sustainable Development
持続可能な社会」 

 という「持続可能」という言葉がキーポイントみたいです。
 ようは50年後も同じレベルが保てる事が大切で、例えばガソリンで走る車なんかは何年か後にガソリンが無くなったら維持できなくなる便利さだよね。 それではいけませんよということみたいです。

 前回のブログで紹介した  「ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ」
のなかで気に行ったところをコメントしようと思います。
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①ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

ウルグアイの大統領だからドイツとインドなのだろうけど、日本と中国に当てはめると分かりやすいと思います。

 発展は良い事である! という漠然とした考え方に流されているけど、日本人の約10倍近くいる中国人の全員が日本人と同じ生活レベルまで「発展」したとしたらすでに地球はパンクだよね、持続可能な世の中では無くなるよね?


②どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか? 

 これもものすごく納得、資本主義社会に追いついてこい、と言って援助してみたり、同じ価値観を進めたりして、ある程度のレベルまではかわいい子供みたいなものだけど、発展しすぎて自分の意思を持ち出すとライバルになってしまう。
 でももともとは発展が良いことだといって先進国のライフスタイルに途上国をひきこんでいったのは我々だよね。「可哀そう」から始まった政策はいつも間にかお互いの首を絞める「持続可能ではない世の中」を作っていると思います。
 

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

耳が痛いです。ブランド物を買いあさったり、海外旅行に行ったり、癒しという言葉に騙されてマッサージやエステに行く人達はいつになったら満足するのだろうね? きっと全ての物欲を手に入れたら次は「不老不死」を手にいれたくなるのだろうね。
 結局は満足することを知らない。資本主義社会の中で「本当の豊かさ」を学べなかった我々の問題点だと思います。
 ここらへんを学問的に追求することが
「持続可能な開発の為の教育」 ESD という言葉で今世界中で始まっています。
 
 この「持続可能」  Sustainable サステインナブル  
という言葉、オリンピックの開会式でも使われていたし、日本語としては「持続可能」って使い慣れていない言葉だけど、今後しばらくはキーワードになると思います。 

ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ


ウルグアイの大統領のリオ会議でのスピーチを最近知って納得しました。 次回のブログはこれをヒントに書きたいと思います。

ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ: (訳:打村明)

会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。
私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝 いたします。
国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。
しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。
午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。
私たちの本音は何なのでしょうか?
現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。
同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

 私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

 このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?

 どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは 発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命より も高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では 私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、 1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと 働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題です し、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私 の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働 になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。 毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するもので あってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限 のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

ありがとうございました。

回転木馬のデッドヒート

 先日に村上春樹さんの本の題名で
「回転木馬のデットヒート」 
というのがあった、短編物だったのだけど、
その中に
 「人間は人生というレースが何処かの方向に向かって進んでいると思っているけど、実はメリーゴーランドの回転木馬のように人間は同じ場所をクルクル回らされているだけなのだ。」 
 というような内容でした(本は図書館に返したのできちんと覚えていなくてごめんなさい・・・・) 

 でもこの言葉ものすごくおもしろいなーって思いました。
 回転木馬なのに、それがデッドヒート(死に物狂い)で競い合ってるということだよね。でも今の世の中を見ているととてもぴったりだと思いました。

 回転木馬という楽しいはずのテーマパークの中でスイッチが入れられると1日中ゴールもないのにデッドヒートを繰り返している(ようにみえる)、本人達は必死なんだろうけどね
 
ものすごく奥が深い言葉だなー、って思いました。

 さすがですよね
 

結婚式と葬式と・・・

 昔から結婚式は苦手で、なんか途中で疲れてしまう。
 なんかみんなが無理して喜んでいたり、はしゃいでいたりすることに気疲れしてしまうのかもしれない。
 もちろん素敵な結婚式もたくさんあった、それは本当に来ている人が二人を祝福するようなムードがあり、無理せずにそこにいられる時だ思う。

 もともとが運動をしていたので、体育会系の結婚式が多かったというのもあると思う、そういうもので良くあるのは
 ・脱ぐ
 ・暴露話
 ・いじられキャラをみんなでいじる
 ・食べ物コンペティション
 ・景品が当たるゲーム

 という感じかな?
 たくさん結婚式いったけど、式場とかその日の余興は覚えているけど、誰の結婚式だったか忘れている式がたくさんあります。
 みんな個性が無くて同じなんだものね。そしてそれが良いと思っているのだろうね。
  今思えば結婚式は基本的に「若者」がするということだから
 やっぱりノリは若者文化になるのかもね。
 
  でももしアラフォーで結婚すしようと思っている人が結婚式上にいって、いかにも無理して若者向けの式を挙げさせられるのはなんか可哀そうだなー。とも思うけどね。 そういう人は神社でやればよいのか?
 でもその関係って難しいよね。 お金もうけでやっている結婚式の会社と、建前としてはお金にとらわれてはいけない お寺の間でどのような話がされているのか? とても興味があります。

 僕は結婚生活に最近興味はあるけど、結婚式には昔から全く興味はないのだよね。 半分くらいの男性はそうなのだと思うけどね・・・・

 たかが5時間で300万物金を使っている。ご祝儀があっても100万は自分で払うのだよね?

 その金を使って毎日の結婚生活をもっと充実したものにしたほうがよっぽど良いと思います。 5時間で100万だったら5時間我慢して100万貯金したと思えばよっぽど良いけどね。
 
 お嫁さんの為とかご両親の為とかいうけど、結局は結婚式場の為にやらされているということに何故きがつかないのかね?

  まあこういった発言が僕の器の小ささを露出してしまうのだね・・・ もう少し大人になります・・・・
 
 結婚式しなくて良いという女性がいたら結婚したいと長く思っていた時期もありました。

 でも結局は本人たちがそれでよくても、

「親戚が・・・ 」 「親が・・・・」 「会社が・・・・」

 という「日本人的」な考え方で結局はそうはいかないのだ。

 まあ結局はやってしまえばやっぱり  「やってよかった」

 となるのだろうけどね。 でもそういうときの日本社会は僕には重たい。 先日に結婚式に来ていた元同じチームの外国人選手に 「日本の結婚式どう思う?」って聞いたら
 「クレイジーだ」と言っていて少しほっとした。
外国人から見たら宗教的でもなんでも無くて、みんなでから騒ぎするだけの式ってなんだろう? って思うのだろうね。
 結局は日本にはお金が余っているのだろうね。

 同じような事を思ったのが親父の葬式の時。
うちの親父は大阪で亡くなったけど、式は山口でするので、大阪では遺骨にするだけでした。だから家からそのまま火葬場に持っていってほしい。
 と葬儀屋さんにお願いすると。
 「最近は家からというのはあまりなくて、いったん葬儀場でお預かりして、そこでお別れをしてそこから火葬場というのが普通なんですよ。」 と何度こちらも事情を説明しても理解してくれない。

 金額も家からそのまま火葬場だと50万、一度セレモニーホールを使うと、その使用料で100万アップする。それプラスお花代とかくだらない物がプラスされるのだろうけどね。
 「一般的とかそうでないとかは関係なく、親父からの遺言で式は大阪でしないというおことなのでセレモニーホールに行ってもだれも来ませんから、家から直接で良いです」
  と再度言うと
 「それはよくわかるのですけど実は最近はマンションから直接に出棺されるのをマンションの方や自治会、管理人さんが嫌がられることがあるので、こちらとしてはそういったトラブルを避けるためにもやっぱりセレモニーホールをお勧めします。」

 というのだよね。でも親父の遺体は今は家にあって、そこからセレモニーホールに持っていくにしても、火葬場にもっていくにしても、いずれにしてもマンションの入り口を通るよね?
 それに何の違いがあるのかな? ただ火葬してほしいだけだよ?葬式は山口県でやるからね。

 って思ったし、身内を失って弱っている家族に言い方は丁寧だけどマンションのほかの方が嫌がる。なんていうのはとても変だとおもいました。今の日本では人は死んではいけないというとなのかね?

 うちの親父は35年前に新築でマンションができたときに入居してきたのだし、それから35年間、最近は自治会の役員までやっていたのに、その人の出棺を嫌がって「気持ち悪い」と思う人がいたら、その人の考え方がすでに「気持ち悪い」 よね。

 家族を失った人にそんな言葉まで使ってセレモニーホール100万円コースを進める会社って何なんだろう? と思ってしまいました。 でもあの人へ会社に帰ったら上司に
「お前の営業力が無いからセレモニーホール使えなくて100万取り損ねたじゃないか!」
 とおこられるのだろうね。冠婚葬祭業界には務めなくないなー。

 結局管理人さんに聞きにいったら、管理人さんもとても改まって
「そうでしたか、浦さん亡くなられたのですね、ご病気されたいたのは前から存じていましたが、ご愁傷さまでした」
 とても丁寧に挨拶してもらって、自治会から香典までいただきました。 
やっぱり葬式屋の言っていることはおかしいのだと思ったね。

 結局はそういう商売のやり方が今でも成り立っているということは不景気とは言ってもあるところにはお金があって、日本人は人生を楽しむことよりもそういう建前の為にお金を使う民族なのだろうね。 冠婚葬祭のタブーはまだまだ破られないだろうと思います・・・・
 

 

2012年8月11日土曜日

日本とアフリカの旅行の違い

先日にアフリカから帰ってきた協力隊員に話を聞いたら

日本の凄いところは旅行に行く時に
(例えば東京から東北に行くとして)
その間にまったく誰にも道を尋ねずに行けてしまうところだ。
 と話していました。
 看板がきちんと整備されていて、切符だって新幹線やバスのシステムだって統一化されているし、いざとなればスマートフォン見れば人に聞くよりも早くて確実な情報が入ってくるものね。

 アフリカならいろいろな人に聞きながら、一緒に考えてもらったり助けてもらったりして目的地にたどり着くので、その感動も大きいし、到着を待ってくれている友人との再会も感動的だし、一つの旅で経験することも多くなる。

 日本人の追求してきた便利さにアフリカから帰国してきたばかりの私は今は違和感と物足りなさを感じている。
 と話していました。 

なるほどー、確か自分にもそういうことを感じた時期があったなー、と日本社会にどっぷりつかってしまっている自分が少しさみしくなってしまいました・・・

金メダルかジャイアンツの選手か?

先日に後輩が言っていた

「ジャイアンツの選手よりもオリンピックの金メダリストのほうがよっぽど素晴らしいけど、今の物質主義の中では結果的にお金を多く稼ぐプロ野球選手のほうが勝ち組になれるのはおかしい」

 この話を聞いた時になるほどなー、とは思ったけど、まあ僕の素直な気持ちとしてはプロ野球選手もオリンピック選手もどっちも同じくらい素晴らしいのに、入ってくるお金の額が圧倒的にプロ野球選手が多いということに不満を感じるのだろうな、と思いました。

 でも金メダリストの良いところは日本人の好きな
「パッと咲いて、パッと散る」
という面もあるよね。意外とみんな普通の人、だからメダルをとった時にインタビューなんかもプロ選手とは違って言葉になってなかったりする。それが日本人の感動を呼ぶのだと思います。ある意味高校野球みたいな感動があるよね。

 応援していた家族もみんな普通の人、どこにでもいるような田舎の人で、この人はきっと子供がオリンピックに出なかったら一生海外旅行なんて行かないのだろうなー。っていう見ていて微笑ましい家族もいるよね。

 でもトータルするとどっちが良いのかな?って考えると
また不思議な気持ちになります。

 プロ野球選手は引退後はみんなどんなことをしているのだろうね。

 年収とか高いから現役の頃は良い生活しているけど、引退後
 にそれと同じ収入が得られるわけではないし、今までのプロ選手としての充実した生活は終わってしまって、普通の人になってしまう。プロ野球選手だったから仲良くしてくれていた知り合いなんかも少なからずいるだろうから「元プロ野球選手」になってしまうと離れていく人もいるだろうね。

 子供の頃から野球中心の人生だったから野球という土俵の上では強いけど、それ以外の仕事の場所ではどうなのかな?
 元プロ野球選手だったという「ピエロ」的な仕事はあるだろうけど、そんな見せ物的な仕事で満足するような事はないだろうしね。

 まあどちらもスポーツ選手である前に自分という一人の人間である。という気持ちが無いといけないのだろうね。
 スポーツは自分の人生の大切な部分ではあるけれど、家族があって仕事があってスポーツがあるという三本柱を形成することを忘れない事が大切なのだと思います。

 ここではやっぱり前回にも書いた「武道」というスポーツを通じて以下に人格形成をしておくか、が引退後の人生を左右するのだと思います。

2012年8月9日木曜日

「勉強道」なのか「勉強術」なのか?

スポーツマンっていう言葉だったり、スポーツしてる人間はさわやかでハキハキしているべきだという意見があったりして、
子供の頃は漠然と「そうあるべきなんだ」みたいな気持だったけど、
実業団でフットボールを長くやったり、海外でプレーしたりするうちにスポーツは礼儀や人間性を育てるものだ。

という気持ちを忘れていったような気がする。
 
ある時に空手をしている先生に
「空手の世界ではそこらへんはどうなっているのですか?」
 と聞いたら、
「それには明確な答えがあって、日本では武術と武道にわけている。武術は自分のテクニックをあげて強くなること、試合に勝つかに優先順位を置いている。
逆に武道というのは空手を使って人間としての道を極めることに優先順位がある。だから勝ち負けに優先順位はない」
 
なるほどなー 

 って思ったのだけど、最近オリンピックを見ていて思うのは日本のスポーツは武道と武術の比率がどうしても武道のほうに偏りがちなのだと思いました。(ほかの国と比べてね)
 負けた選手が泣いていたり、必要以上に感謝の気持ちを述べたりするのは日本独特のものだと思います。
(それが良い悪いは関係なくです)
 特にオリンピックはアマチュアリズムにのっとっているからどちらかと言えば大会の趣旨も「武道」ということなのかもしれないけど、実際には「参加することに意味がある」という気持ちでオリンピックに参加している人はすでにいないよね?

 そして今日書きたかったことはもう一つあって、日本の教育についても同じような事が言えると思います。
 学校は勉強しながら社会性や人間性を学ぶところ、という「武道」の精神だとおもうのだけど、いつの間にか評価の基準は「受験に勝つため、学力の向上」
という武術になっているのだと思います。 
それで言うと塾は最初から勉強だけという「武術」の世界なのでスッキリしてるよね。
こちらはお金を払って、先生は勉強を教えるというプロの世界。塾の先生は能力が低ければ生徒がこなくなって失業するだけだからね。

 でも学校は難しい、武道ですよというスローガンを掲げながら、評価の基準はあくまでも勉強という「武術」になってしまっている。本当は「勉強」というツールを通じて子供に「人間としての道」を教えるはずの「勉強道」であるべきものがテストや受験で良い点数をとるためのテクニックを教える「勉強術」になっているのだろうね。

 それでも良いと思うのだよね。だって僕は小学校の頃にやっていて「スポーツごっご」よりも実業団でやっていて
「勝つためのスポーツ」から多くの事を学んだからね。
 
有名な関西のアメフトの監督も言っていました

「スポーツは勝つことが全てではない、参加することに意義があるなどというトロい取り組み方をしていては、勝つこと以上に大切なことも手に入れることはできない」 

 やっぱり「ごっこ」では人は本当の意味での強い人間は育たないのかもね。 もちろんその子供の年齢とか能力にも関係するだろうけどね。

 日本の学校ってそこらへんが明確ではないのではないかな? だから先生達が迷ってしまう。人間性を育てろという大きなスローガンがあるけど、実際にそれはできない。
 
 武道と武術が混同しているのだろうね。分かっていてやっているのとなんとなく矛盾を感じながら教えているのでは少し伝わり方が違うと思います。教えているほうが迷ってしまうのではないかな?
  なんてオリンピックを見ながら考えていました・・・
 

2012年7月30日月曜日

フェアトレード

先日にフェアトレードのイベントに行ったんだけど、

 インドの人が作ったオリジナルマフラーが3000円でした。 

でもフェアトレードのやっているイオンのビルの3階の

ユニクロにはもっと素敵で扱いやすいマフラーが

999円で売っていました。


フェアトレードを否定する気は全くなくって、


でもあの3000円マフラーが人助けという

付加価値がついても一日一本しか売れなくって


逆にユニクロのマフラーが一日に30本売れて売上3万円

その売りあげの5%である1500円をユニクロが

途上国に送るのと、

フェアトレードの3000円のマフラーの半額の1500円が

途上国に行くのとでは同じことなのだと思ってしまいました。 

 だから人の心がけ次第ではどちらもやり方でも人助けは

 できるのだと思います。

2012年7月23日月曜日

少子化万歳!

 今日の朝に山手線を待っていたら向かいのホームから人があふれそうになっていた。
先日も渋谷から乗ったら
「現在原宿駅でホームから人があふれているので、この電車いったん停止いたします」
 って言ってたけど、ホームから人があふれているなら早く電車を入れて乗せてあげないと、次から次えと人が来てますますあふれるだろうなー、
 と思いながらも原宿駅の様子を想像してみました。 でもなんか原宿って常にお祭りみたいな町だからきっとみんなホームでオシクラマンジュウ ワッショイ!ワッショイ!みたいになって楽しんでるのかな? なんておかしな想像しかできませんでした。 
そういうのを期待して原宿に着いたら意外と普通だったけどね。

 でもその時に思ったのだけど、人がどんどん増えるなら山手線とかすべてのホームを長くして、電車とかも20両にするとか、もしくは2階建てにするとか(無理か?)なにか対策しないとこのままではいつまでたっても改善されないな。 と思う反面。 
待てよ?少子化になってこれから人口がどんどん減って20年後に団塊世代が減りだしたら、高いお金を出してホームの改装工事が終わったころには日本の人口が減って寂しくなってしまうのではないかな?

 とも思いました。そういえば最近は大学受験だって倍率が低くて意外と入りやすいそうだからね。 いつか東大の学生は9割が留学生!地方の大学はすべて地域のコミュニティーセンターへ!慶応大学3年連続定員割れ!みたいな日が来ないかな?
そしたら慶応に入れていただきたいです。

 だから電車もこのままでよくって僕たち人間がも少し我慢すれば良いのかな?
って思いました。

 家だってそうだよね。おそらく20年もしたら団塊世代の人達のもっている家がその子供達に継がれていって、しかも少子化でその次の世代の子供達は少ない。
 第三次ベビーブームって言葉は日本には存在しないんだろうなー
 きっと家の値段もお手頃になるんだろうな。って思いました。 そうしたらそれほどお金稼がなくても家も買えるし、そうなると逆にみんな家なんてどうでもよくなるのかもしれないし?
大学も入りやすいし。駅のホームもあふれることは無くなるし、日本はもっと良い国になるのかなー。
 なんて思いました。

 みんな年金のことばかり気にしているけど、少子化には良いこともあると思います。

2012年7月12日木曜日

本当のプライスレスって何だろう

 日本で宝石を買いに行くと気にいったデザインは大抵高い、だから安くてソコソコのをとおもって選ぶと、なんか悲しくなる、みじめになる。途中から疲れてしまって 高い物=良い物 
となって自分の美的センスは関係なくなってしまう。

結局は高いのを買っても無駄使いをしたと後悔し、安いのを買うと「もっとお金があったら」と思って寂しくもなる。


 バヌアツの小さな離島の海岸で綺麗な石を探したときは胸が躍った。この砂浜で一番綺麗な石を探してやろうと思って夢中で探した。どんどん良いものが見つかってポケットがいっぱいになっても何も問題はない。最後に一つを選べばよいからね。 純粋に自分の好きな石を自分の五感を使って探すことができた。

 どっちもやっていることは同じ、気に入った「石」を一つ探しているだけなのだけど、金額という価値観が付いてくると純粋に自分の五感とか美的感覚を使うことができなくなってしまうのは悲しいものだと思う。


  日本の生活は貨幣社会なのでお金はとても大切だと思うけど、自分が一番美しいと思うものを見つけ出せる気持ちは年をとっても持ち続けていたいと思います。

 

2012年7月10日火曜日

楽して幸せになる方法

 一流のスポーツ選手が決勝戦ですごいプレーをした時に最後に言う言葉は
「気合で打ちました」 
 が多いよね。 だからかもしれないけどスポーツで勝つには気合が一番大切なのだと思っている人が多いと思います。
 
 でも実際はリーグ戦の初戦から決勝に行くまではあまり気合は関係無くって、どちらかと言えば、心(気合)、技、体の三つのバランスなんだよね。
  体(フィジカル)を鍛えることがまず基本、その次に技(テクニック)を身につけることが大切だよね。そして最後に心(メンタル)なのだと思います。
 ようは体力がついてテクニックがつけばメンタルは最後に自然とついてくるものだと思います。(京都大学のアメリカンフットボール部の水野監督も言っていました)
 だってリーグ戦の初戦から最後の決勝戦で使うのと同じくらいの気合を入れて戦っていたら途中で心が折れてしまうよね。
 そんな初戦から気合だけで戦っているギリギリのチームが優勝するとは思えないよね。 マンガじゃあるまいしね。
 
 心を33%、技を33%、体を33%鍛えて、最後に残った1%で完璧になるその最後が気合なのだというとかっこよいかもね。でもそういうものだと思います。

 最後までは体と技、土壇場まで来てこれ以上は体と技で何もすることはできないというところで最後に勝負を呼び込むのは気合なのだと思います。 だからMVPをとる人は
「気合で頑張りました。」
 となるのだと思います。
 
  これを世の中に当てはめると人生にも順番というか心技体的なものがあると思うんだよね。

 今の世の中って少し「お金」に対して意識しすぎだと思います。

 ようはよく頑張って努力した人がお金を持っているからみんなお金があれば成功なんだ、って思ってしまってるところがあるとおもうのだよね。
 MVP    = 気合で頑張った
 人気者  =  お金があるから人が寄ってくる
 
 でも本当はそうではないと思います。人が集まってくる人は決してお金だけではないと思うのだよね。
・体が丈夫で ・頭がよくって ・心(ハート)が良い、だから成功するのだと思います。まさに心技体だよね。
 もちろん頭が20%で体が30%で心が50%とかでも良いとは思うけどね。でもバランスが良いほうが人気が持続可能なのだと思います。

お金を持っているから人が寄ってくるのであればその人のお金に寄ってくるだけで決してその人間に寄ってくるのではないと思うのだよね。

 お金がある = 成功者 と思っていているのは用は気合があれば試合に勝てる。と勘違いしているのと同じだと思います。

 それを言うと女性の美しさも同じだと思うんだよね。
 女性のなかには 
 美しい = 幸せになれる  と強く信じ込んでエステとか洋服にお金を使っているけど、美しさと幸せは必ずしも=ではないと思います。

 女性に美しさを求めている男性はその女性の外見が好きなのであって「心」が好きなわけではないものね。こういう女性は自分自身でもうっすらとそれに気が付いていて、自分の美しさが衰える = 男性が去っていってしまう。 という頭の構造になっていて異常に美しさばかりにこだわったり、自分に自信が無くって異常に男性に尽くしたりするのだと思います。 そして自分より美しい女性が大嫌い! 
 でも実際は


 ⇒ きちんとした生活習慣をもっていて
      ⇒ 気立てが良くって
           ⇒美しい


 この三つのバランスで女性は幸せになるのだと思います。
 それが分かっている男性と一緒になるのが一番安心で幸せです。
 綺麗になる = 幸せになれる と勝手に美しさが幸せに直結すると思っていて、そこばかりに気を使っているよね。
 そうやってもうけているエステ業界やそれとセットになっている広告業界に食い物にされていることに気が付けないのは悲しいよね・・・・

 それでは努力の方向が間違っているからいつまでたっても自分が本当にほしいものは手に入れらないのだと思います。

  ・スポーツで勝つことも
  ・多くの友を持つことも
  ・幸せもつかむことも
 
 バランスが大切、もちろん気合やお金、美しさも要素のひとつで大切ではあるけども、それが一番大切。というのは間違えだと思います。それが分かれば人生は意外と簡単でみんなもっと楽にたのしく生きれるのだと思います。

 僕もそういう風に思って頑張ろうと思ってる今日この頃です。
 


 

 

2012年7月4日水曜日

京子と中子の間で・・・・


京王線との出会いはある朝に突然訪れた。

僕は毎朝新宿から中央線で八王子に通っているのだけど、この

中央線というのは2日に1度はダイアが遅れる。まあ遅れたところ

ですべての電車が10分とか20分とか遅れるので一本前に来る

はずだった電車に乗れるので問題のないことも多いのだけどね・・・・

その朝も6時40分ごろに中央線のホームにいた、八王子まで約

一時間、快速とかいってもほぼすべての駅に止まる。しかも八王

子から新宿に来る電車が混むの ならわかるが、新宿から八王子

に行く電車も混んでいて、一時間のうちの半分は座れない。家で

朝飯など食べた日には途中で気持ちが悪くなる。 慣れてきたひ 

とつわかったのは吉祥寺や立川の私立の小学校に通っている子

供は必ずその役で降りるので、その子供の前に立っていれば、そ

の駅に着けば必ず席が確保でき る。 大の大人がそんなセコイ

ことを思いついてしまうほどに中央線の朝は殺気立っているの

だ。


そんな僕と中央線のすさんだ関係がダラダラと続いた朝に京王線

に出会ってしまった。

そ の日もいつものように中央線は遅れていた。電車が10分遅れ

ると、そのあと八王子まで約20駅ある中央線の駅のホームに人

があふれんばかりに溜まってし まう。その全員が10分遅れてき

た電車に乗り込もうとする。 青梅線と分かれる立川などでは乗り

換えのためにホームに降りた人と、電車に乗り込もうとした 人が

どちらも一歩も動けず上り階段にも下り階段にも人があふれてい

てお互いに動きようがなくなってホームのモラルは朝から完全に

崩れてしま う。


そんな憂鬱な6通勤が今日も始まってしまう予感がした時40分の

中央線のホームでなんとなく京王という選択肢が頭に浮かんだ。


「そういえば京王線は中央線と並行して八王子まで行っている。少し歩いて京王線の新宿駅に行けば八王子まで座れるかも知れない、座れなくても中央線でなければもうなんだって良い」


少し浮ついた心で京王線 のホームへ行ってみた。 そこには少し

涼しい顔をした「京王八王子行」きが僕を待っていてくれた。 喜

びもせず、嫌がりもせずというかんじであった。しかも大して並ば

なくても席が確保できてしまったのだ。


八王子までの約45分間、本を読んだりうたた寝をしたり、朝から

とても癒されて出勤することができた。 そんな安心感が僕を京子

の虜にし、会社に申請した正式な通勤路である中子との関係を

少しずつ冷めさせていた。


中央 = JR  即ち  国立 (国鉄か・・・)

京王 = 私鉄 即ち  私立


やっぱり田舎者の僕としては国立大学の女性よりも私立大学の

お譲さまに心ひかれるし   京王と打ち込めば変換の仕方に

よっては「慶応 」と僕の意思とは関係なく慶応大学を 連想させる

文字が変換されることもある、中央は何度打っても中央大学だ、

変換のミスはない。 もちろん中央大学は素晴らしい学校だし国

立でもないが、しかし電鉄会社である限り、陸の王者を名乗る「慶

応」という言葉の響きには勝てないのである。

しかしそんな京子との甘い生活はやはり長くは続かないもので、

約2カ月続いた京子との関係も思わぬところで問題が出てきてし

まった。


この三ヶ月間の外勤の交通費の申請の時期が来てしまったのだ。
会社に正式に申請しているのは中子との関係であり、京子との関

係ではない。したがって外勤で中央線に乗った時には定期を持っ

ているという判断から交通費は支給されないことになる。 


しかし今の僕の生活は実質的には京子との事実婚になっている。 

ここで正式に中子との関係を終わらせて京子との関係をオフィ

シャルなものにすれば、中央線を使った外勤にも交通費が支給さ

れることになる。 そして僕の外勤は、日野市、立川市、武蔵野

市、青梅市と圧倒的に中央線沿線の外勤が多いのだ。 これは

馬鹿にならない金額である。 

今まで正式に交際をしていることになっていた中子と別れを告げ

て会社に京子との正式な関係告白すれば、中央線での交通費は

胸をはって申請できる。 事実僕は今中央線での出勤はほとんど

行っていない。 


しかし男として、一度申請した中子との関係を簡単に解消してよ

いのだろうか? という疑問も残る、やはり一度は世の中に計約

を明らかにした間柄ではあるのだ。 

中子に対してひとつ言い訳をさせてもらえばそもそも彼女は僕だ

けを乗せて走っているわけではないのだ。 遠い東京駅からほか

の多くの男たちを乗せており、僕は 途中の新宿から八王子まで

を利用しているだけ、八王子で中子も一緒に終点なのかといえば

彼女は僕を下した後も山梨のほうまで走って行ってしまう、所詮

僕は 彼女の路線の途中から乗り、途中で降りていくという行きず

りの客に過ぎないのだ、それに比べると京子は始発の新宿で僕

の乗車を待っていてくれて、そのまま一緒に 終点の京王八王子

までいってくれる、そこで僕を下して自分はほかの客を乗せてそ

の先に進むようなことはしない。

夕方にはまた京王八王子で僕の帰りを待っていてくれる。そこか

ら本を読んだりうたた寝をしたり新宿まで癒されながら帰る

ことができる。必ず席は確保できるし、ほかの乗客のマナーも決

して悪くない。 

ここはひとつ男として一大決心をするべき時なのか、それとも男

が一度決めた相手を簡単に変えることは許されないのか、アラ

フォー男は毎朝京子との甘えた関係を正式なものにするかどうか

を迷っているのである。 馬鹿馬鹿しくてすいません。

おしまい・・・・



2012年6月22日金曜日

人間に値札の付いている国、日本

本当の価値って何だろう? って最近よく考えてしまうんだよね。

 それは第2次ベビーブームの僕たち世代くらいが持っている悪い価値観なのだとおもうけど、

 お金がかかっている =  カッコ良い ステータスがある

  みたいな感覚がまだあるところだと思います。それが自分にとって本当に必要なものか
 
 どうかということではないんだよね。

  実際にグッチやコーチのデザインが好きかどうかではなくて、それがブランド品だから

 良いと思っている人。 結局は自分でその商品がよいのかどうかわからないから

 とりあえず他人に認められるブランドを買っておけば安心と思っている人が

 多いのだと思います。

 まあ僕が買えないからひがんでるのかもしれないけどね。

  たとえば一緒に結婚指輪を買いに行ったときに、

  そのお店の指輪に一つも値段が張っていなくても、

  もしくはすべての指輪に値段が初めから張ってあったとしても

  2回とも

 「私はこの指輪がよい!」

 と同じ指輪を選べる人がいたらその人は自分の価値観がしっかりしている

 人だと思います。

  100個の指輪のなかから選んだ一つが、3万円だったから、ほかのよりも安くて
 
 なんか納得いかない。 って思う人はだめだと思うんだよね。

   
 逆に値段を知らずに50万の指輪を選んだのならそこは男として

 何としても買ってあげたいと思うだろうしね。

   バヌアツでの人柄も同じでした。みんなお金を使っていないから、純粋にその人の人柄
 
 だけで勝負なんだよね。 良い人にはみんなが集まってくるし、嫌な人には集まってこない。

 もともとみんな平等だから上司も部下もないしね。地位とか名誉とかいうものがあるとしたら
 
 それは純粋に人柄の良さだけで判断されます。

  今の日本みたいにあの人は部長だから、とかあの人はお金もっているからとかという

 人間の値札みたいなものはバヌアツではついていないからね。

  だから3万円の指輪でも限りなく輝ける世界なんだよね。

  みんなが100%心から他人に優しくできる国なんだよね。

  震災があって世の中の価値観が研ぎ澄まされてきた時代になったと思います。

  本当に自分に必要なものを選べる人間になりたいな。と僕は思っていますし

 それを胸を張って言うことがかっこ悪い時代ではなくなってきたのだとも思います。

2012年6月17日日曜日

とっても難しい幸せ感の話

幸せな国指数
 
 人生満足度 × 平均寿命  ÷  地球環境負担度  =  幸福指数

 という計算みたいです。平均寿命と地球環境負担度というのは計算すればある程度の正確な数

字は出るのだとおもうけど、人生満足度という一番最初の部分は難しいよね?
 
日本人は国民性で
 
「俺って幸せ!」 と言ってる人にはなんとなくうさんくさく感じるところあるものね。

 本当に生活が充実している人は「脳ある鷹は爪を隠す」「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

 という言葉があるように

  あなたは幸せですか? と聞かれた時に

  「幸せです」

  というのかどうかわからないよね。

 現在になってなぜ盛んに日本人の「幸せ感」について語られることが多いのかと考えると

 ひとつは震災があると思います。

もう一つは経済成長がこれ以上望めなくなってきたからだろうね。

 今あるお金でいかに幸せに満足して暮らしていけるか、ということを考えていかないと

 「お金がある = 幸せ」  という計算はこの先は通じなくなってきたのかもしれません。

  いままでそれが成り立ってきたことがおかしかったのかもね。戦後から70年間近くも
 
 経済成長を続けてきた国って世界中で何カ国あるのかな?

  世界一幸せといわれているブータンはもともと経済成長が望めなかったから

 お金がなくても幸せになることを考えよう、という「幸せ先進国」なのかもね、
 
 日本は「お金の先進国」ではあったけど、 お金がある = 幸せ ではないことに気がついて
  
 今からブータンやスウェーデン、スイスのような大人としての幸せを追求することができるように

 なっていくのかな?

   途上国の話を中学校や高校で話した時に

  「それではみんなは今の日本を幸せだと思いますか?」

  と聞くと

  「僕たちは幸せだと気がついた」

  と言ってくれてそれもまたうれしいのだけど、そういった現状を知る今日の今まで

 自分達が幸せなのかどうかすらも意識しないで生きていたって少し不思議だよね。

  もしかしたらそれを意識しないで生きてこれたことが「幸せ」ということなのかもしれないけどね。

    僕の話が逆に
 
 「海外では日本よりもお金持ちも国がもっとあります、医療、福祉、洋服や車のデザイン、

  生活の便利さは日本よりもさらに洗練されたものを持っています」

 というお話をしたあとに

 「それではみんなは今の日本を幸せだと思いますか?」

  という質問をしたら生徒はきっと

  「少し惨めだったことに気がつかされた・・・・」

  となるかもね。 

  
    そこが国際理解教育の難しいところで、他と比べて自分たちが幸せだと気がついてもらう

 のはまだまだ第一段階でその次の段階としては

 「それでは世界中の人達が環境を壊さずに格差がなくて平等に幸せだと思える世界を創造しよう

 というところまで持っていければもっと意味のある話ができると思います。

  このブログでも何回も書いてきたけど

 大人と子供の違いは、子供は自分の価値観がないので、他人と比べて自分が幸せかどうかを
 認識する、
 人より高級なカバンを買えるから自分は幸せだ、人より大きな家に住んでいるから自分は幸せだ、人より多くのお金をもっているから幸せだ。

 でも大人は自分の価値観をきちんと持っているから他人や金額は関係なく、自分にとって素敵だと思えるデザイン、自分にとって住み心地の良い家、ということなのだと思います。

  前にテレビで見たスウェーデン人の夫婦はお互いに仕事が忙しいから必要なのは夫婦が

 ゆっくりとくつろげるシンプルな家、大きな家は掃除も大変だし必要はない
 
 と話していました。

  その後にアメリカの成功者の家はプールとテニスコート、ホームシアターが完備という

 その設備は年に何回使うんだ?

  なぜ家の近所にあればよい施設を家のなかに作る必要があるのか?

 結局は自分たちが成功していることを他人に見せつける為の家であって、自分たちがくつろいで

 そこで人間らしい生活をするための家ではない。

 という印象を受けました。 いかにも歴史の重みを知らないアメリカ的な家だな。

 と感じました。 まあ「価値観」は一人一人違うのだから否定はしてはいけないのだろうけど、

 そういった生活をする人がいることが50年後や100年後の未来の世界に対して良い影響

 を与えるのかな? と思うとそうではない気がします。

  このテーマは今後も考えていきたいと思いますが長くなったのでひとまず

 今日はここまでにしますね。

 


2012年5月28日月曜日

広告会社に騙されない為に・・・

 久しぶりにバヌアツのメンバーと代々木公園に行きました。

ラオスフェスタがやっていたこともあって、公園内でビールを飲んだり、バドミントンをしたり、

サッカーをしたり、みんなそれぞれ楽しそうに遊んでいました。 

外国人が多いのも目につきました。

代々木公園は無料で入れるし、トイレはあるし、

コンビニでビールを買えば1000円あれば十分に酔っぱらえるし、

風は気持ちよいし、最高の一日でした。

(ラオスフェスタが無かったら代々木公園はビールだめなのかなー?)

海外に行くと改めて思うけど、みんなお金を使わずに楽しめる方法をよく知っていて、

それが一番良いと感じているようです。 

日本みたいに週末はディズニーランドとか車で郊外のアウトレットに行く。

次の週末はスカイツリーに! 

みたいな遊びってすべてがどこかの代理店がお金儲けのためにテレビコマーシャルや

電車の中刷り広告、トーキョーウォーカーなんかで宣伝していて。結局はお金が絡むんだよね。

いままではみんながそれがカッコよいとおもっていた時代だったと思います。

週初めの月曜日に

「スカイツリーに行ってきたよ!」

なんていうと、なんか最先端!いけてる人みたいな感じになるものね。

でも一番世の中に踊らされていて、

自分の楽しさがわかってない価値観の乏しい人だともいえるよね。

もちろん電車の中刷り広告に

「無料ではいれる代々木公園でコンビニで買ったビールを飲んで、一日1000円で酔っ払おう!」

なんて広告はだれもはらないとおもいます。どの会社も儲からないからね・・・・
 
でも海外ではそういう週末が当たり前。 

ハワイは公共の場での飲酒はだめだったけど、みんなビールをコップに入れ替えて、

バーベキューしてたし、そのレベルだと許されるしね。イギリスは犬の散歩とか乗馬、

乗馬というとお金がかかると思うけど、自分で普段から趣味でかっている馬だからタダです。

海外ではゴルフだって庶民のスポーツで2000円とか3000円だしね。

日本のゴルフは確実に商業ゴルフになってるよね。

海外にあこがれた高度成長時代の親父たちが勝手にゴルフを

崇拝しているだけだとおもいます。

お金を使う イコール 価値が高いこと  という方程式は明らかに成金&拝金主義の

下品な文化です。

心が豊かではない人間が惑わされる罠だよね。

  日本は何もかもが商売になっていて、それに踊らされていることができるお金もちが

最先端というような幼稚な文化があったのだと思います。

海外では

「週末にビーチに行こう!」

と言って寒くて泳げないシーズンでもビーチにって一日中ひなたぼっこしているし

「夕陽を見に行こう!」

「バーベキューをしよう!」 (もちろん入場料とかいらないところで)

「サイクリングしよう」

「犬の散歩しよう」

「木の実を採りに行こう」

「あるこう!」

なんでもありです。でも日本だとそういったお金を使わない地味な遊びはカッコ悪い・・・

みたいな風潮があったのだと思います。

でもこれからの時代はそれがありだと思うんだよね。

最近ぼくはよく図書館に行きます。

2週間借りれるから、とりあえず6,7冊を借りてきて、その2週間の間に読めなかったり、

読んでいたけどあまり楽しめなくって後回しになった本はいったん返してまた新く6,7冊を借りて

きます。 それだと常に一番読みたい本を読めるので、

「新書を1200円出して買ったから、面白くなても最後まで読もう。」

というような気持ちがないです。常に一番読みたい本が読めます。

でもバブルのころ、若いころの自分は図書館はなんかダサい人の行くところ。

 月曜日に

 「週末何してたの?

 って聞かれて

 「図書館に行ってた」

 っていったらなんとなく会話が終わりそうだったよね・・・

 でも今はそんなことないと思います。無駄な紙と印刷代を使わないため

にもどんどん利用するのが良いと思っています。

フリーマーケットでも市民プールでも公立学校でもカッコ悪くない!

そういう変な価値観に踊らされているのは第2次ベビーブームを含む今の30歳以上の

独身の人たちに多いと思います。あとは団塊世代ね。

30代でも結婚している人はある意味地に足が付いている生活をしているとおもうので、

お金を使わずに遊んでいると思うんだよね。

逆に言ったら広告を作ったりお金もうけをしている会社はそういう人達に宣伝しても

お金にならないからね。

アラフォーの独身者とか団塊世代に向けて宣伝するのが一番もうかるのだと思います。

そういう風潮が世の中に蔓延しているのが今の日本の悪いところだよね。

一万円使っても千円使っても一緒にいる仲間と自分が本当に好きなことが分かっていれば

お金なんて必要ないんだろ思います。

本当の価値観を見つけること、お金をかけずに楽しむこと。僕はどんどん見つけようと思います。

お金を使うよりも楽しいことが世界にはたくさんあるからね!

足りていないのはお金ではなくて、人生を楽しむためのイマジネーションのほうだと思います。

2012年5月24日木曜日

改めて格差って・・・

世界で一番幸せな国のバヌアツで毎日のように暇な親父たちに囲まれて聞かれたことがある

日本にも俺たちみたいにスタップノモ ようは無職の人っているのか?

まあ日本にもホームレスはいるから

「いなくはないよ」

って答えたら

「そいつらはやっぱりジャングルの中に住んでいるのか?」

って聞かれたので

「いや、逆に都会の中に住んでるよ」

「そうなのか、でも基本的にその人たちは俺達と同じようん生活をしているんだろ、

その人たちと俺達の違いはなんだ?」

って聞かれて困ったことがありました。

 プライドの問題だ! とも思ったけど、それだけで片づくものでもないよね・・・

 

アンゴラにいたときも一緒にいたケイタと話していたんだけど、

アンゴラの今のレベルって日本の江戸時代くらいかな?

でも江戸時代の人はそれなりにプライドを持って生活していたはずだす、けっして援助な

んて必要としてなかっただろうな。

じゃあ何故いまのアンゴラに援助が必要なのかな?
  
 それはアンゴラよりも進んでいる国があるからだし、鎖国していないので、そういった情報が

 流れてくることがみんなをダメにする。

そう思うと格差があるから人はみじめに思うんだよね。

 同じ時代に自分よりもよい生活をしている人がいる。

 それがストレスになるのだと思います。
 
 「大人は価値観がしっかりしているから人と比べない。

 子供は自分の価値観がないから人と比べたがる。」

  そうだよね! 大人になろうって感じてしまいます。



2012年5月6日日曜日

タンナ島派遣中止宣言

僕が2年間少し遅い青春を過ごしたバヌアツ共和国タンナ島!

隊員の派遣が打ち切りになってしまいました。

窃盗団が隊員の家からものを盗みすぎたみたいです。

僕がもっと体育の授業中に規律とかフェアプレー精神とか

表現できればよかったのかもしれないけど、まあそれは仕方ないこと

被害にあった隊員は本当に気の毒で、タンナ島の為に! って思って人生の大切な

2年間をささげるつもりで行ったのに、嫌な思いをしたのだろうからこちらもかわいそうに

なります。


僕らのころにも意外とものがなくなる事があったのだけど、本当に必要なもの

(パスポートくらいかな? )はチーフに言うと戻ってくるものでした。

今回もパスポートは戻ってきたみたいです。

こないだ聞いた話では過去に盗まれたレトルトカレーの日本語表示を見て

バヌアツ人が隊員に

「どうやって食べたらよいのか?」

と聞いてきたらしいです。 たぶん盗んだのはその人ではないのだろうね。


窃盗団っていうと口をバンダナとかで覆っていて、馬に乗ってるようなイメージあるけど

決してそういうのではなくって、基本的には村の若者が興味本位でやってるだけで

人を傷つけるようなことはしないものです。ようは空き巣です。

基本的には自給自足が成り立っているからお腹が減って盗みに入るわけではないしね。

  
隊員も島にすみだしてから最初の一年以内ならそれは防ぎようの無いことだろうけど

一年過ぎでたらある程度は自分で防げるものだと思います。

「あの日本人の家からは盗んではいけない」

たとえ学校に通っていなくてもお互いに認め合っていればそれくらいのことは

わかるものです。

逆に一年すぎていれば、多少のものを盗まれても、

「困ったことだけど、こっちにも隙があったな、まあなんとなく理解できる」

くらいの感覚になれるだろうし、ちょっと周りに話すと、周りがすごく同情してくれて

結局は大切なものは戻ってくるのだと思います。

そういう絶妙な感覚が島にはあるんだよね。

そこらへんはある意味では深いレベルで成り立っているんだよね。



 物を盗まれている時点で成り立っていないのでは?


 という意見もわかるけど、それは法治国家日本の常識であって

島というのは法治国家とは違うからね。

若いころは少し悪い事して、恥ずかしい思いもして、でも大人はみんなそこらへんのことは

了解済みで、ある程度まで行くときちんと制裁が下るシステムが島にはあります。

もう何百年もそのシステムでやってきたから、少しくらいのことではブレることはないだろうね。

あの島は時代から取り残されることを気にしていないし、火山が爆発しても

温暖化で水位が上昇しても、自分達で解決する責任能力がきっちりと備わってると

おもいます。

究極的に言うと自然に任せているのだろうね。

 だから協力隊の派遣の中止は現地の人たちにとっても残念だろうけど、

 協力隊の隊員である日本人がタンナ島独特の「ルール」を学ぶ機会を失ってしまった

 ことにも残念だと思います。

  すこし様子をみて少しずつ良い方向にむかえばよいと思います。

 


2012年4月30日月曜日

高校生に伝える「夢と現実」とは?



  近いうちにスポーツで有名な高校で協力隊の経験を話させてもらうのだけど

 僕が選ばれた理由は実業団での選手経験があったからみたいです。

 16歳でそろそろ将来のことを考える生徒たちの中には

Jリーグのジュニアチームみたいなのに入ろうと思っている生徒も

いると思うし、不景気のこの時代に夢を追っても仕方ないから

進学して会社員を目指す生徒もいるだろうし、

親の影響とか経済的理由とか現実的な問題がたくさんあると思うんだよね。
 
僕だって長くアメフトやれたし、とても恵まれた環境でプレーできたけど、

だからと言ってそれだけで一生食べていけないのも現実。

 でもそこで、

「日本ではスポーツで飯を食っていけるのはプロ野球選手と

一部のJリーグの選手と相撲取り。

テニスとゴルフに関してはある程度のレベルに行くのには相当な

お金がかかるので貧乏では無理、お金があるならどうぞ!」

 っていう必要ってあるのかな? どうなのかな?

 

 僕も高校生くらいのときに将来は海外でボランティアしたいって話したら

 親から

「あんたみたいないい加減な人間には絶対に無理!」

 と何げなく言った一言に対して10倍くらいに否定されて、

二度と言わないと思ったことがあります。


 でも今はもう海外ボランティアに行ってきたら

 いつか母ちゃんにはいつか誤ってもらいたいね、

 (器小さいね・・・ボランティア行かせてもらったも、しょせんこんな器なのか?

  と言われそうです)

 大学に行きたいって言った時も

「絶対に無理!」って高校の先生に言われたし。
 
 アメリカのプロリーグに行きたいって言った時も

「考え方が甘い」
 
 ってエージェントに言われたし。

 親戚にも上司にも

 「ウラが考えてるみたいに世の中は甘いものではないよ」

 って言われてきたし、自分でもそう思ってはいるんだけど

 でも挑戦しないであきらめることが出来なくって

 とりあえず飛び込んで行ったら何とかなったんだよね。

  実際に飛び込んですぐは大変だったけど、人間の能力とか適応力は

 自分がおもってるよりも意外と高くて、今まで何とかなりました。


 「良い人との出会い、助けてくれる人がたくさんいたことも確かです」

 この言葉はあまり好きではないし、みんなよく使うからありきたりで

 嫌いなんだけど、確かにこれは本当。

 
  でも今の僕が16歳のころの僕

 「偏差値が大阪で最低レベルの普通科高校、アメフト部も大阪最弱

 漢字は書けなく、勉強はできなくて、実力も自信もないのにその裏返しで言う

ことだけは一人前、体力もなくて体は細くて、それでいて大人の言うことは聞かない」

 
 にアドバイスするとしたらなんて言うかな?

 「海外にボランティアに行けると思うよ、大学でアメフトもできるだろうし

 実業団でもできると思うよ」

 って言えるかなー? でも言わないといけないのかなー?
 

 それを言ったら無責任なのかなー?

 「しょせん他人の子供だから無責任なことを言って!」
  
 って父兄に怒られるかな?


 でも逆に有名な、ミュージシャンやお笑い芸人は周りにどれだけ否定されても

 迷いながらも自分を信じてやってきて成功してるんだろうしな・・・

 たとえ夢がかなわなかったとしても何かに一生懸命に打ち込んだ経験は人を成長させるし

、成功できなかったらそれはまたそれで、

頑張っている人の気持ちがよくわかる人間になれるしね。(そういう人は教員に向いていたり

 するとおもいます。)

 でもその場合は年齢を決めて

 25歳まで、とか30歳までというのを設定しておかないと駄目だろうね。

 

  いまどきの言葉で言うと「リアル」 ってことですね。

 あとは彼らが考える事だろうね。

 こちらは応援するしかできないよね。

 10年前の自分だったら(28歳ね)

 「絶対に夢は叶う、自分を信じて頑張ってみろ!」

 
 って言ってたんだけど、なんで年取るといえなくなるのかな?

  ひとつ今思っていることは、もしかしたら僕は自分の夢が結構

 叶ってしまって、でも叶ったらその夢は自分にとってはすでに過去に

 なってしまっていて、大したことではなくなっているというのがあるの
 
 かもしれません。だから夢をかなえたってしょせん人間は叶えた夢だけで

 一生食べていけるわけではなくって、次にまた生活のためなのか夢のため

 なのか現実(まさに「リアル」)が待っていて、過去に叶えた夢よりも

 今、現在の毎日の生活が結局は大切だと言うことが身にしみて分かっているか

らなのかもしれません。

 でもちょっと待てよ?
 
 そうなると自分の夢が貧乏フットボール選手や海外ボランティアではなくって、

 ビルゲイツだったら話は変わってくるな。

 だって叶えた夢と一緒に現金が残るからね。 

 資本主義社会では現金は夢よりも大きなものだよね!?

 自分の子供にプロゴルファーとかプロテニス選手になってもらえるかも

 しれないよね。

 やばい、結局は夢ではなく金なのか?

 いろんな矛盾が頭に浮かんできて、

 高校生に何を話したらよいのかわからなくなってきた・・・

  でも今回の高校はスポーツのことだけがテーマでよいんだったっけ?

 もう少し考えてみます・・・・