2013年5月15日水曜日

三人兄弟の真ん中と人間の先天性について

 僕は昔から三人兄弟の真ん中の人が好きという特殊な友人関係を持っています。

 そして青年海外協力隊のボランティアには三人の真ん中が多いのだよね。

 三人の真ん中って家族の期待は長男に行き、いつも気にかけてもらえるのは三番目で
 
 真ん中で成長するって、教えられることよりも肌で感じて学ぶという環境で生きてきている

 から、独立心があるし。しかし自分自身は子供のころからいつも寂しい気持があるから

 目立たないけど、思いやりがあって、海外にボランティア行こうと思ったりする人が多いのだと

 思います。 あとは三人いれば一人くらい海外に出ても親はあまり反対しないというのも

 少なからずあるかもね。だって一人っ子がアフリカに行くって言ったら

 結構な確率で両親は止めると思うのだよね・・・

  ということで僕は三人兄弟の真ん中の人が好きです。

 その時にいつも思うのが、人間の性格の先天性と後天性です。だって三人兄弟の真ん中の

 人は生まれてきたときには100%の確率で末っ子のはずだよね。

 次男や次女であっても真中であることはあり得ないよね。(双子、三つ子は除くけど・・・)

 生まれてきたときにまだ二人兄弟になるのか、今後に三人になるのかは全くわからない

 でも三年以内くらいに弟が生まれた時に初めて真ん中の子供になるのだと思います。

 そして家族の空気を読むようになり、我慢強くなって、物わかりが良くなって、

 結果的に我が侭な僕の面倒をみてくれて親友になるという流れだと思います。

 そう思うと数人いる三人兄弟の真ん中で人格者な僕の友人達は生まれながら人各者

 なのではなくて、生まれて数年経って自分より下の子どもが生まれてから人間的に

 完成されていくという、その環境が彼らを人格者にしていくという後天的要因がとても

 大きいということになります。だから僕にだって三歳くらいの時に弟か妹が生まれていたら

 もう少し辛抱強い大人になっていたかもしれません。

 やはり育ってきた環境は大切だと思います。 

頭が良いということ①

 僕は長いことブログを書いているし、考え方がおかしいと自分でもよく思う、でもなぜおかしくなったのか? と真面目に考えると頭が悪くて勉強ができなかったから、子供のころから自分の人生について言い訳を常に考えていないと生きていけなかったからだと思う

例えば九九がいつまでたっても覚えられないとか、昨日に覚えたはずの漢字が今日すでに思い出せないとか、記憶力があり、頭の良い人なら起こらないはずの事件が僕には毎日起こる、そして周りから怒られる。

 「努力しないから、頭が悪いから」

となる、それでも生きていかなければならない時に人はいろいろと言い訳を考えるのだと思う。

要は自分を肯定するために社会を否定するようになるのだ

 たとえば

・学歴社会が間違っている、人はみんな医者や弁護士を目指さなくても大工や農家や蕎麦屋になっても良いはずだ。

・やりたいことのない人間は大学に行って勉強すればよい、自分にはやりたいことがあるから早く社会にでて自由に働きたい、学歴になんの意味がある?

 とかまあそういう感じ。 これが何故言い訳なの? 言ってることあってるかもよ?

と思う人もいるだろうけど、東京大学に行ってこの台詞を言えば、それは言い訳にはならないけど、あやうく中卒になりかけた人間が言った場合は明らかに現実逃避の言い訳で 僕はまさにそのタイプだった。

 

頭が良いということ②

 それでは頭の良い人はどうかというと、子供のころから普通の人以上に

 何でもできるから、言い訳することは少ないのではないかとおもう。

 合法でなんでもこなせるから逆に考え方がシンプルで素直に育ってしまう。

  受験だって、今まで3時間勉強していたのを5時間に増やして頑張ろう

 になるだろうし、英語が必要な会社に入社すれば

 朝早起きして毎朝30分英語の勉強をしてから仕事に行ったりして、3年くらいで

 英語が喋れたりするのだとおもう。

  しかしこちらはそれができない、したがってできない自分にイライラし、夜にお酒を

 飲んで憂さを晴らし、人生の言い訳をしてしまうので、二日酔いで早起きなんてできるわけも

 なく、英語の勉強はまさしく三日坊主で終わってしまう。

  そしてますますひねくれた人間になって、青年海外協力隊に行ったり
 
 こんな風にブログを書いたりするのだと思う。 (かなり意見が偏ってきてが・・・・)

  

頭が良いということ③

 「天才」は普通に記憶力と物わかりが良い人で、「秀才」がなにかの才能に恵まれた

 人だとすると、僕の周りにはその両方がいる、そして天才の人は普通の人よりも

 努力すれば何でもできてしまうので、人生に挫折が少なく、スイスイと進んでいく、

 しかし人生には寄り道も結構大切で、そういうひととお酒をのんでも意外と面白く
 
 なかったりする、やはりいろいろなところで挫折を味わってきた人は、話もそれなりに
 
  面白い。

 そして「秀才」のひと、少し芸術肌の人は自分を見失うことが多い

  「サヤのない名刀 」 というのだっけ?

 人間の器という刀をカバーするものがなく、「才能」という刀がむき出しなので

  凡人には理解されず、周りも自分自身も傷つけてしまう。

 レースに使うF-1の車の運転席に素人が座って運転してしまう

 ようなもので、少しアクセルを踏めばすぐに100キロもスピードがでるので

 器の全く完成されていない人間だと、結局その才能を持て余して

 事故ばかり起こし、 自分の持って生まれた才能と人間としての

 「器」がバランスよく育っていないと、結局は身を滅ぼすのだとおもう。

 よくスポーツ選手で高卒ルーキーがいきなり活躍しても、結局は周りの大人に

 利用されて自分を見失ったりするのと同じだと思う。

  そう思うと松井は若いころからF-1カーを操れるだけの「器」と「才能」の

 両方が備わっていたので、野球を引退しても人としては一流なのだとおもう。


 

頭が良いということ④

 昔に人間的に完成されたフットボール選手が引退する時にその友人が言っていたことばで

 「彼は偉大なフットボール選手なのではなく、偉大な人間なのだ、たまたまその
 
 偉大な人間が人生の何年間かヘルメットをかぶってフットボールをやっていたにすぎない

 だから彼の偉大さは引退しても全く変わらない」

 というようなことを言っていた、最近国民栄誉賞をとった松井はまさにそういうひとなのだと

 思う。

 昔に山下達郎が言っていた
 
 「僕は普通の人と同じようにディスニーランドに行ったりするしスーパーで買い物もする、
 
 だって普通の人と同じ生活をしていないと、普通の人の気持ちが歌えなくなるから」

 村上春樹も先日に同じようなことを言っていたと思う。

   このことについては先日に才能に対するプレゼンテーションを見て驚いたのだど

 昔の人はそういった才能というものは人が持っているのではなくて、ほかの所に

 普段はいて、たまに特定の人のところに降りてきて、作曲をさせたり詞を書かせたり

 するのだと考えていた。 ジーニアスとかダイモン(デーモン) という言葉はその降りてくる

 才能のことを意味していて、それを書いた人間とは関係のないものだと考えられていて

 だから偉大な芸術家たちも謙虚でいれたし、逆にスランプにもならなかった。

  といっていた。

 そういう考えができれば偉大な人達ももっと楽に生きれるのかな? と思う。

頭が良いということ⑤

 僕の知り合いで素朴な沖縄の女性が

 「もし私がIQ200あったらアメリカのライス国防長官のようになるのが夢だ」
 
  と言っていたことがあった、しかしその人には素敵な恋人がいて、誰もが認める

 微笑ましいカップルだった。

 だから僕は言った

 「もしあなたがIQ200になっても、今の旦那さんと同じように生活してくれたら

 それはとても幸せなことだとおもう、でももしそのIQを使って国防長官になって

 しまったら、それは逆に普通の事になってしまって、あまり意味がないと思う

  今の旦那さんは素敵な人だからIQが上がっても今と同じ生活をしてくれたら

  それがもっとも幸せな人生だと思う。」

 

 100億もっているひとが100億の生活をするより、それだけ持っていても

 周りの人と同じ生活をしていることの方が僕には幸せに感じる。

 頭も良いに越したことは無いけど、逆に自分らしさを見失しなうこともあるのだと思う。

 結局僕は頭が良くないから想像するだでそういうひとの気持は一生わからないのだけどね・・・・

  また人生の言い訳をブログに書いてしまいました・・・・・