2011年5月29日日曜日

出島と参勤交代が現在にもたらしたこと


 
 <写真は教育実習中の生徒ドミンゴスです、もちろん彼女の表情も優しそうで
 よいけど、僕が関心したのは手を挙げている子供の腕のラインの美しさです>
 
 アンゴラ人によく聞かれます。
 
 日本人は日本語以外に何語を話すの?
 
たとえばアンゴラはね、ポルトガル語が公用語だけど、

それぞれの州でローカルの言葉が10個くらいあるから、

町ではみんなポルトガル語だけど、村に入ると、お年寄りはポルトガル語を話さないし、

キンブンド語とかウンブンド語とかのローカルのランゲージを話すんだよ。

 日本はいくつあるの?ってよく聞かれます。

 アフリカで植民地になっていない国はないのでそういう発想はよく理解できます。

 アメリカに原爆を落とされたので英語を話していると思っている人も多いようです。

 南太平洋のバヌアツでもよく決まれました。

「日本人にはいくつの言葉があるの?」って

おそらく世界中に日本ほど、

国という枠と言語という枠がほぼ一致する国はないのかも知れません。

 言葉ができた後に国という枠ができるのは当たり前だし。

話せない人達が国という組織づくりができるわけないものね。

その後に戦争で領土を取ったり取られたりして、

あとからできた「国」という枠はあくまでも政治的なまとまりであって、

言葉で分けてるわけではないものね。

 先日に 森嶋 通夫さんという方の「続イギリスと日本」(岩波新書)

 という本を読んでいたのですが、そこには

 明治維新後に日本が大きく発展したのは、江戸時代に行われた参勤交代によって、

言葉と文化が統一化されていたという理由がある。
 
明治維新後に産業が西洋に追いつけたのは、

出島のような海外の技術はある程度入ってくるけど、

日本の産業も守る制度があったからだ。と書いてありました。

もし自由貿易が江戸時代から始まっていたら、当時農業国だった日本は、

自分達の農産物を売って、海外の製品を買うことになっていたので、

そうするとさらに農業化が進むし、自国の産業は遅れることになる。
 
でも出島によって、日本の産業は守られたまま、

海外の技術が少しずつ日本に入ってくることになった。

これは意図して行ったことではないけど、

明治維新後にすでに日本の産業が一定の水準にあったのはそういう理由がある。 

と書いてありました。

 なるほどね。そういうことか、

江戸時代と鎖国って今の日本にすごい影響を与えているんだな。と関心しました。

 バヌアツ、アンゴラと見てきて、国の発達には言葉の問題はとても大きいと感じます。

お年寄りや地方の人達が公用語を理解できないと、

何か通達があってもそういう人達が取り残されてしまうものね。

そういう人が少数派なら何とかフォローできても、

言葉が三つくらいの大きな言葉のグループに分かれていた場合は

本当に細かいところまでのまとまりは難しいと思います。

そういう意味では明治維新後と戦後の日本の発達はとてもやりやすかったのだと思います。

それぞれの国によって事情はとても違って住んでみないとわからないものだな。

じます。

2011年5月23日月曜日

アンゴラ人はみな強い


バヌアツではよく子供が泣いていました。兄弟で遊んでいると、よく子供は泣きます。

周りの子供がそれを大人に言いつけて、いじめていた子供が大人に怒られてまた泣きます。

 それほど大人が子供を世話を焼いていましたし。

子供は泣くことによって何かが解決されるという認識があるのだと思います。

 アンゴラでは泣いている子供をみることはほとんどありません。

歩けるようになればすでに親とは一緒にいません。

裸のままで2歳、3歳の兄弟達と遊びだします。
 
そういうやって成長する子供は泣くことは少ないのだと思います。

甘やかされたり、可愛がられることは日本やバヌアツほど無いのだと思います。

 そうやって育った真の強い子供たちがポルトガル語圏独特の自己主張の強い環境でされに鍛えられて、

町の中で育っても野性的な人達に磨きあげられるのだと思います。

 相手の気持ちはど考えていてはいられない。明日のことより今自分が良ければそれでよい。
 
そういった鋭い感性の人達が育っていくのだと思います。

 人目につくところで立ちションベンだけではなく、大便でもすることも、

水溜まりで手を洗うことも、食事に虫が入っていることも、

運転しながらお互いに挑発することも、みんな当たり前なのです。

 もちろんそれは男性だけではなくて女性も同じことです。

金のある男の子供を産んで養育費をもらう。
 
そういう感覚が20前から芽生えているのを感じます。

それが当たり前、何の疑問もありません。


なんでそういう風になったのかな?っていつも答えを探していますが、なかなか奥が深いです。

 
一つは500年続いて植民地支配、

ポルトガルはアンゴラ、モザンピーク、東ティモール、ブラジルなどを植民地にしましたが、学校や教会よりも優先して、自分達の利益を考えていました。

だから搾取してばかりで「人」を育てようとは考えていなかったし、

そういうビジョンが彼らにはありませんでした。 

だからアンゴラ人は一生懸命はたらいてもただ利用されるだけ、搾取されるだけ、
 
それなら言い訳していかに働かないか、独立した1975年の後はいかに人の上に立つかに集中します。

逆にイギリスに植民地にされたインド、ケニア、南アフリカなどの現在の発展をみると、

明らかになります。
 
イギリス人は本当に自分達の国が素晴らしいとわかっていて、世界に進出して学校と教会をたてて、もちろん搾取もしたけど本当によい国と組織作りができる社会を作ろうという

使命感がありました。

 しかしアンゴラでは一生懸命働いたら上の人が認めれくれて出世できる。

という世界ではないのです。

まじめに働くと利用されるというのは教育を受けずに育った人達のなかではある意味

常識なのかもしれません。だから組織の一員として働くこと、
歯車の一つのなることは彼らにとっては難しい行動の一つです。

 あとは過去に何かを成し遂げたという成功体験を学校の教育の中で得ていれば

忍耐強く働く書けるのかも知れませんが、教育が追いついていない今の状態ではそいういう経験をすることすらありません。


自分の努力が結果につながるのは自分で畑を耕している人くらいなのだと思います。

 
生徒に関しても自主性を育てて努力をさせるよりも、罰を与えるほうが効果があることは明らかです。 僕がいくら毎朝声をかけても遅刻してくる生徒達も、他の先生が僕の出席簿をみて、遅刻した生徒に掃除や農作業をさせるようになった途端出席率はてきめんにあがりました。

それは当たり前みたいです。

 カンニングに対しても罪悪感は全くありません。

 「恥ずかしくないのか?」
 
 という言葉は彼らには理解できません。

生徒にそこまでの自主性を求めていた自分が間違っていたのだと感じました。あきらめてはいけないとは思いますが。。。

 あとはキリスト教と仏教の違いもあるのだと思います。
 
 何かの本で読んだのですが反省というのは外国の人にはわかりにくいようなのです。

 だから海外にいったら「すいません」と言ってはいけない、罪を認めてはいけないのだとよく言われます。

仏教は仏は存在は自分の中にいて、自分と向き合いながら信仰していくものです。だからキリスト教のように毎週教会に行かなくては信仰できます。
逆に日本では何か罪を犯しても反省すれば許されることが多いです。
反省している人にさらに罰を与えることはありません。
 
逆にキリスト教では神は教会にいます。だから自己完結してしまう反省という感覚はあまりピンときません。何か罪を犯すと、教会に行って神様に問いかけます。自分の外に問いかけます。
 この世で罪を犯すと天国に行けないという、基本的に罰を受けないためによいことをするという感覚があるのかもしれません。

  他の国ではどうなのかはわかりませんが、アンゴラではそういう解釈であっていると感じます。 だから何か悪い事をした時に先生に言い訳というか許しを乞うために屁理屈でも何でもよいのでとりあえず言い訳をするという習慣です。日本だと罪を素直に認めないのは潔くないと感じますが、こちらでは他人に話すことによって許されるのであって自分の中で完結して反省する感覚はありません。彼らは逆に不思議に思います。
 「じゃあ日本では反省するフリしたら許してもらえるの?それなら楽でよいね!」

 という疑問が彼らのなかに湧くのだと思います。
 

 最後に立ション、野グソの件ですが、サバンナ気候で空気がドライなアンゴラでは排泄物はハエがたかってウジがわく前にカラカラに乾いてしまいます。
だから道で用を足しても他の人の迷惑になる前に乾いてしまいます。

ウジがわくことはほとんどありませんし、においが迷惑になることもあまりないのだと思います。  
だから日本でイメージするほどの罪悪感は生まれません。
彼らが下品かどうかなのではなくてこの問題に関しては自然環境が彼らを合理的にさせているという解釈であっているのだと思います。
 アンゴラで毎日ボーっと過ごしている僕ですが、なんでこうなのかな?

逆に日本はなんでこうなったのかな?などと考えていると時間はあっという間に過ぎていきます。

ひとをまとめる技術のヒント


 <写真は学校で授業をしているデモステネスです。彼は右手が少し麻痺して
  いますが、言葉巧みに人をまとめる素晴らしいセンスを持っています>

  昔に親父に言われたことがありました。

「他人がお前の言うことを聞いてくれないのは、お前に魅力がないからで、

いくらお前が正しいことを言っていたとしても、

言ってる人間に魅力がなければその言葉は相手には伝わらない」

 自分自身も自身もあまり動かずに他人に指導ばかりしている人はあまり好きではないし、

 そのうちに指導と私欲が混同して自分が楽するようになると、

 自分は基本的にだらしない人間だから、ドンドン悪い指導者になっていきそうな気がする。

 という恐怖心から、常に生徒よりもたくさん動きたいし、

 ファミレスで働いていた時も常にみんなよりたくさん働くように心がけていました。

 でも最近になって思ってきたのは自分も年をとってきたし、

そろそろもっと上手に指導をしていけるようにならないと、この先続かないな。

という限界も感じてきたし、5人くらいの人の指導をするなら自分も

一緒に働いてそういう姿を見てもらうことにも効果があると思うけど、

もし自分が50人とか100人の人と一緒に働くのなら、

きちんと組織作りができる人間になっていかないと人は動いてくれないということも

感じだしました。

 松下幸之助の言葉に
 10人の部下なら怒れば働く
 100人だったらお願いすれば働く
 1000人だったら拝まないと働いてくれない

 というのがありました。

 拝むかどうかは別として指導者とはそういう気持ちでいないといけないのだと思います。

 うちの学校にジョドール、デモステネス、カシパートという生徒がいます。
 
彼らはいつも掃除や農作業、ビルの簡単な修理など、

生徒達が学校で生活しながら学んでいく仕事のオーガナイズをしています。

なぜこの3人かというと、3人とも交通事故や病気で、体が少し弱いからです。

ジョドールに関しては完全に片足を失っています。

 だから他の生徒が働いているとき、彼らは指導者役になります。
 
時間の管理、作業と人の割り当て、進み具合のチェックなど、事前に計画して、

オーガナイズします。しかし一番の仕事は働かない生徒に対する指導です。
 
仕事が少なすぎると働かない生徒が出てきますし、

多すぎても目標が定まらずにさぼりだします。

単に働きたくない生徒もたくさんいます。そういう生徒達を上手くまとめて、

時には怒って、時にはなだめて、時には一緒に休みながらも上手く指導していく

彼らの姿を見ながら、この技術は盗めると感じるようになりました。

 彼らはとてもおおらかで、人をよく観察していますし。

 先頭にたって働くことはないですが、苦労している分人格も育っている気がします。

だから周りも文句を言わずに働くのだと思います。  
 
 アンゴラは障害者に対する過剰な感情はありません。彼らは自分達で自分のやり方を

 見つけて、たくましく生き抜いていきます。

自分も年を取っていくにつれてそういう指導法を学んでいきたいなと感じています。


 HIVの患者さんの意見で、自分がHIVだということで避ける人はたくさんいるし、

 どうふるまってよいのかわからない人もたくさんいる。それは普通だとおもう。

一番困るのは傷つけたくなくて、過剰にハグしたり、近づいてくる人たちで、

 こちらも疲れてします。

 普通にしてくれるのが一番よい。という意見を聞いたことがあります。

 そういう感覚で言うとアンゴラの社会はバランスのよい社会だと思います。

2011年5月20日金曜日

ちょっとお休みしてました


 
 <写真は町でごみ箱を燃やしているところです。 これも普通の風景です。
決して戦争しているわけではありません。>

すいません、しばらく更新してませんでした。
 
言い訳すると、部屋に電気が来なくて、パソコンを使うときはいつも

学校内の教室に行かなければならなくて、

ブログをよく書く朝に自分の部屋に電気がないので、

ついつい書く習慣がなくなってしまいました。

 
 それに加えて自分の中で少し考える時間が必要だったのもあります。

 このブログはバヌアツの頃から書いていて、いつも面白いこ、

バヌアツの生き生きした出来事、援助以上に大切なことみたいなことを書いてきたし、

自分としてもそういうことを書くのが好きだったのだけど、

アンゴラにきて3カ月がすぎて、

アンゴラはまたバヌアツとは違うということに気が付き始めたのだと思います。

バヌアツの頃と同じようにブログを書こうとする自分に無理が出てきたのかもしれません。

 南大西洋の島国でイギリスとフランスの植民地だったバヌアツと

アフリカ大陸でポルトガル植民地だった資源豊富な大国アンゴラでは

まったく違うのだと感じます。

植民地としてポルトガルに500年搾取され続けた人達の心の中にある、

複雑な気持ちは、南太平洋であまり搾取されずに教育と教会を与えてもらった

バヌアツ人とはなにか真剣さみたいなものが違うのだと感じます。

 なるべく面白くわかりやすくそこらへんを書いていきたいと思っています。

2011年4月23日土曜日

発展と幸せのバランス


 <写真は教育実習に行っている生徒の学校に付き添いで行った時に
 写真です、この男の子は授業中に10秒に一回くらいの僕のことを振り返って
 くれました
 

 世界で一番人々が幸せに暮らしている国NO1に選ばれたバヌアツという

南太平洋の国に協力隊として派遣されていた時、

バヌアツ人に言われたことがあります。

 西洋文化って面白いよね。今日よりも明日、

明日よりも明後日のほうが進化していないといけないんでしょ。

毎日勉強して、毎日働いて、毎日少しでも向上していくことが大切な

文化なんだよね。それはとても興味ぶかいなー。

 バヌアツではね、昨日と今日、今日と明日、明日と明後日、

毎日同じことの繰り返しで一生が終わることが一番幸せだと

考えられているんだよ。

 「昨日と今日が同じことの繰り返しでなにか困ることがあるの?」

 っていわれたらそこには君達の知らない高度な精神世界があるのだ!
 
 って言いたくなるかもしれないけど、それをわざわざ彼らに教えて、

 資本主義社会では君たちは負け組なんだよ。ってわからすことに

何も意味もないし、でもどっぷり西洋文化につかってしまっている

 自分の生き方を変える勇気もないしそこはやっぱりお互いにお互いを尊敬
 
しあって行くことが大切で、こっちのほうが良いのだ!

と言いたい人がいるのなら、

それは西洋文化とかバヌアツの文化だからではなく、

その人の人生の個人的な問題のような気がします。

 僕はどっちの文化に生まれていても結構楽しめる自信あるよ!

 はなしをもどして、アメリカ人のボランティアは

 「どちらを選ぶかは彼らのそれはチョイスだ、
  われわれボランティアは新しい世界と生き方を掲示するだけだ」

 という意見でした。

 
 医療もないから、死んだ理由はたった一つ、「死んだ」だけです。

日本みたいにもっとお金があったら高度な医療が受けれて長生きできたとか、

保険に入っていればよかった、定期健診をキッチリ受けていればよかった。

などの後悔は一切なしです。

 誰かが亡くなればみんなで思い切り悲しんで、それでおしまい。 

 死に方にも格差なしです。死にそうなおじいさんの周りに家族が集まって、

 みんなで一緒に居て、おじいさんを順番でウチワであおいであげていました。

 あの姿をみたとき、自分が少しだけ強くなれたような気がしました。

 何が正しいかは本当に難しいです。

地球は平らだとみんなが信じていた時代もあるし、

キリスト教が邪教扱いされていた時代もあるし、

「アフリカ人は組織作りができないから、代わりに頭の良いヨーロッパ人が
まとめてあげよう!」って使命感を持って植民地を作っていた時代もあるしね。

「21世紀の人達は心の豊かさよりも、物質的な豊かさを競い合う時代でした、自分にとっての大切なものよりも、他人よりも多くを持っていることが幸せだと信じていた、ユニークな時代でした」

と語られる日が来るのかもね。

 資本主義についてのメキシコ人とアメリカ人の面白い話があるので
 また次回アップします!

メキシコ人とアメリカ人の話



<写真は一緒にボランティアに来ているメキシコ人のエリックです。
 彼のプロジェクトはニュートリジョンです、スペイン語とポルトガル語は似ているので
 僕なんかよりもずっと活躍しています。ちなみに彼はMBAを持っています!>

 この話は資本主義社会の矛盾についての有名な話です。


メキシコ人の漁師が小さな網で魚をとってき た。その魚はなんとも生きがいい。

それを見たアメリカ人旅行者は、

「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」

と尋ねた。すると漁師は

「そんなに長い時間じゃないよ」

と答えた。旅行者が

「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」

と言うと、漁師は

「自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だ」

と言った。

「それじゃあ、余った時間でいったい何をするの」

と旅行者が聞くと、漁師は

「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。

戻ってきたら子供と遊んで、女房とシエスタして。夜になったら友達と一 杯やって、

ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」

旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。

「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、

きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、

漁をするべきだ。それで余った魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。

そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。

その儲けで漁船を2隻、3隻と増や していくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。

そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、

そこに魚を入れる。

その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、

ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。

きみはマン ハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」

漁師は尋ねた。

「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」

「20年、いやおそらく25年でそこまでいくね」

「それからどうなるの」

「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」

と旅行者はにんまりと笑い、

「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」

「それで?」

「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、

日が高くなるまでゆっくり寝て、日中は釣りをしたり、子供と遊んだり、

奥さんと昼寝して過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、

歌をうたって過ごすんだ。どうだい。すばらしいだろう」

2011年4月21日木曜日

河童とサボネッチ


体は大きいけどいつも笑顔で微笑んでいる19歳の男の子、

サボネッチが僕の日本語の辞書に興味をしめして、

ページをめくりだしましました。

 その辞書は政治、教育、生活、文化など、ジャンルごとに分かれています。

 動物の欄をみていたので

 「アンゴラにはライオンは居るの?」

 って聞くと、自信満々に

 「テイン!(いるよ!)」
 
 って答えました。日本には居るのか?と聞かれたので、

 「いないよ!」 っていったら少し自慢げに鼻の穴が膨らみました。

 その後にヤギ、鹿、カモシカ、像、キリンと順調に
 
 「テイン!」

 が続いて、パンダになった時に、サボネッチが「テイン!」

 っていったので、

 「本当なの?パンダって知ってるの、熊みたいなやつだよ」

 っていったけど、やっぱり少し鼻の穴を大きくして言い張るので、

 まあどっちでもいいや!っておもって次のページに行きました。

 ナマケモノ、とアリクイで初めて居ないと認めたサボネッチでしたが、

 夢を食べるという「バク」になったときに、これはポルトガル語特有ですが

 女性名詞ではアンタとなって、男性名詞ではタピールって書いてあったんだけ

 ど、「アンタはいるけど、タピールはいないよ!」

 って言った時に、

 「サボネッチきちんと字が読めてるのか?」

 ってちょっと疑問がわきました。

 そしてなぜポルトガル語の辞書の動物欄にそれが乗っていたの

かわかりませんがアルマジロ、犀(サイ)と続いたとの後に、

河童(かっぱ)が入っていました。 ポルトガル語でヒポポタマス

 そういえば人間ってホモサピエンスとかホモヒポポタマスだよね?

 そういう流れなのかな?なんて思いながら、

コンペイトウとかカルタとかカステラなど

日本語とポルトガル語は共通点があるし

でもまさかアンゴラにカッパは住んでないだろうな!

 っておもって、

「サボネッチ、カッパも居るのか!」

 って期待して聞いたら

 「テイン」(居るよ!)

 って自身満々に答えました。絶対にこいつは負けず嫌いなだけだ!

 っておもって、

「サボネッチ、カッパしってるのか?川に住んでるんだぞ!」

っていったら、

 「学校のあるバンゲラには居ないけど、俺の地元のウィラにはたくさんいるん
 
  だよ、群れでいる」

 って言ってきたから

カッパが群れでいる姿を想像してみましたが、やっぱり理解できませんでした。

そういえばワンカップ黄桜のCMのカッパは親子だったけ?

 と一瞬自身が揺らぎましたが、そんなはずない!と思いました。

 とりあえず面倒だったし、難しいこと話してもポルトガル語わからないから

 そのまま次の、熊、オオカミ、狐へと進みました。

 暑くて頭ぼーっとしてたし、アンゴラではそれくらいの理解できな

い出来事は毎日僕の周りでおこってるし、まあ良いや!

 っておもっていたのだけど、夜になってもう一度辞書をみなおしてみたら

 僕が「河童」(かっぱ)だと思っていたのは実は河馬(かば)でした。

 それならアンゴラの川に群れでいてもおかしくはないよね。

 でも辞書の小さい字なら間違えるよね?(かば)(かっぱ)紛らわしいよね

 変に納得しようとしていた自分が少し恥ずかしくなりました。

 でも異国に居て言葉や文化が理解できないと毎日これに似た状況

 がおこっています。今回は誤解がわかっただけでも良かったです。

 サボネッチ疑ってごめんね!

2011年4月14日木曜日

エミリアに感謝していること



<一階で足をかきながら携帯で電話しているのがエミリアで、
  二階は洗濯干し場です・・・>

 初めてエミリアを見たとき前任だったアートラッテンが

少し美人だったこともあって、凄い人がきたなー、なんか豪快だなー、

アートラッテン戻ってこないのかなー? って少し思ってしまいました。

アンゴラの女性にしては体も大柄で、声は大きくて、笑い声は豪快で、

寝起きは悪くて、おこると怖くて、昼寝は長くて、授業は短くて、

携帯で話す声は馬鹿でかく、毎日Tバックのパンティーを二枚ずつ二階に物干し

に干しているのは何かのサインなのか?それと何かのアピールなのか?

とケイタと二人で毎日見上げながら話し合ったりもしましたが、

でも料理が上手で生徒にはやさしいエミリアは25人いる

プレファラトリオと呼ばれる今年の8月から正式に生徒に

なる準備期間の生徒たちのよきお母さんなのだと最近になって気が付きました。
 

 実はどういう成り行きだったのか忘れましたが、

このプレファラトリオ達はエミリアと同時に僕も彼らの面倒をみる為に

学校に居るのだと思い込んでいるみたいで。週に二回の日本語の授業と、

毎朝のランニングの出席をっとっているだけですが、

ものすごくなついてくれています。

 そしてこの日本語の授業、最初は僕は英語とかほかの授業のほうが生徒の今後

に役立つのではと思って、少し英語を教えたりしました。

アンゴラの生徒は全く英語を話さないので、

僕のレベルでも多少は教えることができます。

 生徒は使う機会のない日本語よりも英語のほうがやる気が出るのだろう。

とどっちつかずで続けていた授業で、

何となく生徒たちもやる気がなくなりかけていた4回目くらいの授業の時に

「ウラ、英語はもういいからもっと日本語教えてほしい」

と言い出しました。

「あっそうなの?逆に日本語もういいから英語教えてほしい」

っていうのだと思っていました。

 その後にだんだんと授業のペースもつかめてきて、10回を超えた今では、

2時間と少し長めな授業の流れも安定してきて、

生徒達も日本語を話し始めました。

あれ日本語意外と簡単なのかな?って最近は思いだしました。

 はじめのころは眠っていたり、途中で抜け出したり、

ノートをとりたがらなかった生徒達も、

今は意外ときちんと授業を受けてくれています。

でも何か不思議な気持ちがしました。

なんでプレファラトリオはこんなに良い子なんだろう?って思っていました。


 朝のランニングも2010年入学の生徒達約100名と

プレファラトリオ25人の合計125人で始まりましたが。

 僕には名前と顔が一致しないし、それを良いことに代返したり、

病気を装ったり。出席だけとって走らずに帰ったりと苦労しましたが、

結局は2010の生徒は4月から実習が始まって走らなくなったので

プレファラトリオ25人だけになった後は、

一時期ほとんどいなくなった出席者なぜか今はみんな戻ってきて

走るようになりました。みんな機嫌よく走ってくれています。

 なんでなのかな?しかもまんざら嫌そうではないんだよね。
 
「ウラ、明日の朝も走るからね!」

って寝る前に言ってきたりします。

 なんでだろう?って不思議に思っていました。

 
 でも最近になって気が付きました。一見豪快なようにも見えるエミリアは

実はとても気が回るし、面倒見も良く、上手におこるし、

生徒の好き嫌いもないので、生徒達はとても安心して学校に入れるようです。

特にこの学校のように全寮制の学校では私生活の面でも、

きちんと目を光らせてくれていて、怒るときにはきちんと怒って、

笑う時には一緒に笑ってくれる先生がとても大切なのだと感じました。

 エミリアはとても自然体です。寝起きで生徒が教室やキッチンの

カギをとりに来ると、とても寝むそうにして起きてくるし、たまに居留守使うし

授業の合間に自分の洗濯物をゴシゴシ洗っているし、

サッカーするときはほかの生徒を押しのけてでも大笑いしながらボールを

奪いに行くし、バレーボールをしていて疲れた時には

自分のチームをほって休憩しているし、いつでもとても自然体なのです。
 
でも生徒に怒るときにはとてもキッチリと話しています。

ポルトガル語だから何を言っているのかわかりませんが、

生徒達が嫌な顔をせずに聞いてるところを見ると言っていることは

間違っていないのだと思います。

 プレファラトリオ達が学校に来て約2カ月が経ちましたが、

彼らがドンドンと良くなっていくのは何気にエミリアの力が大きいのだと

最近になって思うことが多くなりました。

 僕の第一印象は「恐竜」だったのですが、

今は「よきお母さん」という風に感じています。

 最近はアートラッテンよりもエミリアのほうが素敵に見えます。

 彼女に恋愛感情を抱く勇気はまだ僕には全くありませんが・・・・

 年はたぶん25歳くらいだと思います

2011年4月12日火曜日

言葉と行動



 <写真は海で泳いでいた子供たちです、みんないつも砂まみれです> 
 

朝の6時に生徒は起きて学校のまわりの掃除を始めますが、

レベッカとクラウディオがとても深刻そうな顔で何かを話しています。

ポルトガル語だから内容はわからないけど何やらとても深刻そうでした。

 月曜の朝だから憂鬱なのかな?それとも何かあったのかな?

 って思って見守っていると、急に二人で大爆笑しました。

 何これ? なんでこの雰囲気でこうなるの?今までの深刻さは何だったの?

 アンゴラでは結構こういうことがあります。

イギリスでも何言ってるのかわからないことが多かったけど、

アンゴラみたいに急に場の雰囲気が変わることはなかったです。


 昨日も海で、僕たちは人の少ないところを選んで泳いでいたのですが何やらその場所は遊泳禁止だったみたいで、監視員みたいな人が来て、

僕たちの隣で泳いでいた若者7,8人のグループに

遊泳禁止だということを伝えていました。

 僕はすでに砂浜に上がっていたので、その様子を見ていましたが。

若者達はいっこうに監視員の言うことを聞きません。

 30代くらいで、ものすごく体の大きい監視員の人は若者達に辛抱強くお願い

しているような感じでしたが。彼らは人数が多いからか、海の中から言い返すば

かりで、泳ぐのをやめようとはしませんでした。

 怒った監視員が一番いいわけをしている男の子を指さして、

「お前ちょっと上がってこい!」

 といって人差指で指図しました。

僕は殴り合いでも始まるのか?と様子をみていましたが。

 海から上がってきた20歳くらいのその男の子は180センチくらいある

監視員のおじさんよりもさらに5センチくらい体が大きくて、たくましい体をし

ていました。

 「監視員のおじさん勝てるのかなー?」

 少し緊張して様子を見ていると。

その青年はものすごく言い訳しながら、急に監視員に右手を差し出して握手しま

した。そして

「オブリガード」 (ありがとう)

 と言いました。

「え!なんで?」

 って思ったけど、結局二人は2分くらい話してから、

それで分かれてしまいました。

そのグループは海からは上がらずに少しだけ横にずれましたが。

結局はほぼ同じ所で泳いでいました。

 それにしてもあんな凄い勢いで言い合っていたのに、

結局は事態は全く変化なかったのはなんでなのかな?
 
って不思議に感じましたが、アンゴラでは結構そういうことがあります。

 ちなみにそこが遊泳禁止なのは海底に船着き場だったころの

鉄の柱がまだあって、それで怪我をしないためだよ。
 
とその監視員の人が僕たちに丁寧に説明してくれました。

 
学校でも生徒もものすごく言い合いをした後に、

結局は何も解決しないまま、終わることが多いです。

 
ちなみに日本人の話し方の意味がわからない僕が言われた時に経験を一つ。

 イギリスの学校からデンマークの学校を訪問した時の空港で、

暇だった僕がケイタに

「何か本を持ってない?待ち時間が長くて退屈してしまった」

 と尋ねました。ケイタは

「ウラサン、これどうですか?リーダーシップとマネージメントの本です」

 っていって僕に一冊の本を貸してくれました。僕が

「どんなことが書いてあるの?ケイタはどこがおもしろかったの?」

と目次を見たり、中に書いてあるグラフをみたり、

面白そうなところを少し読んだりしていました。

 ケイタも熱心に内容について説明してくれました。
 
おそらく5分くらいは話していたと思います。
 
それを空港の待合席の向かいで60歳の女の先生のカリンがずっと

観察していたみたいで。

 「ウラは本を読んでいる、ケイタはウラに一生懸命話しかけている。

ウラは本を読みながら話を聞いていて、たまにケイタを見ては頷いている、

私にはウラがとてもいい加減なことをしているように見えるし、

ケイタが自分を無視しているウラに何を一生懸命に話しているのか

全く理解できない?」 
 
と尋ねられたことがありました。

 ケイタと僕は顔を見合わせてしまいましたが、カリンに

「二人でこの本について話しているんだよ」

 と説明すると、何となくわかったような、

でも何か納得いかないような感じでした。

 でも言葉が理解できないと、人の行動ってこれほどおかしく感じるんだな。

と感じました。

 たとえば字幕なしで全くしらないドイツ語の映画を見ていると

何がおこっているのか全く理解できないのと同じ感時なのかもしれません。
 
 言葉と行動って密接に絡み合ってるんだなーっていつも思います。

 

難しいけど現実的なこと



 <写真はアンゴラの女性がよくやってる頭にものをのっけて運んで
 居る所です、写真は生徒のリンダ、年は二十歳くらいだとおもうけど
 ものすごい貫禄です。アンゴラの女性はつわものぞろいです>

昔バヌアツでみてコマーシャルなんだけど、

20歳くらいの女の子が椅子に座っていて、大学入学の推薦状を持ってい

ます。カメラがその推薦状からドンドンと引いていくと、椅子に座ってい

るその女の子はお腹が大きくて妊娠していることがわかります。
 
 その子は大学に行くチャンスを逃してしまったというストーリーです。

 初めてみた時、悲しい出来事だし良くできたコマーシャルだと思いまし

た。バヌアツにはピッタリだとおもいました。

 一方アンゴラ、このコマーシャルはあまり受けないと思います。

 あまりにも先進国にあわせてつくったコマーシャルに感じます。

 
途上国の問題は女性が10代から子供を産み始めて、

一人の女性が5人以上の子供を持つと、子供の学費が払えなくなる。

だから教育が受けれなくてますます貧困が広がっていく。
 
 一人につき2、3人くらいの子供にして、

教育をきちんと受けされるべきだ。

 ということが叫ばれていますが、
 
アンゴラの女性の立場から言えば、 頑張って教育を受けたって、

アンゴラは仕事してお金をもうけているわけではなくて、

石油とダイアモンドを輸出してお金をもうけているだけだから、

女性のつける仕事なんて無い。

そもそも兄弟が5人以上いたら、親は男の子に優先的に教育を受けさす。
 

 だったら今好きな人と子供を作って30歳までに5人から10人の子供

がいれば、学力なんて無くても社会が自分をほっておくわけがない。 

結局は誰かが面倒を見てくれる。という現実もあるのだと思います。

アンゴラで学歴があっても30歳で子供2人しかいない女性は少しさみしい気がします。

もちろん素敵な旦那さんがいて、しっかり守ってくれるのなら話は別ですが、

なかなかそういう雰囲気ではなさそうです。

 だからある意味こちらでの
 
 「子供作ろう」

 は純粋でまじめです。

 先進国みたいに快楽のための遊びや商売ではないようです。

2011年4月1日金曜日

「熟成」させること


<写真はプレファラトリオと呼ばれる、来年に入学予定ですが、すでに
学校で生活して準備をしている生徒たちです、約25名ですが、彼らが
一か月前に学校に来た時にすでに僕は学校にいたので、とても僕になついて
くれていて、とりあえず可愛い生徒たちです。みんな田舎の子が多くていつも
仲良くしていて微笑ましいです。一日に何度もこうやって水を汲みに行きます>
 

 イギリスの学校でも、今のアンゴラの学校でも、

何かを変える前には少しだけ

「熟成」させることが大切だな。 と感じています。

 たとえばイギリスの学校は食事の後の皿洗いを生徒がしますが、

食堂とキッチンが違うビルにあるので、食べ終わったお皿はプラスティッ

クのコンテナに入れて、カートで運んでいました。

 でも皿をきちんと重ねて入れないと、運んでいるときに

コンテナの中でお皿が崩れて、割れたりしてしまいます。

 マグカップは取っ手が取れてしまってよく湯のみのようになった

 マグカップで、コーヒーを飲んでいました。


  掃除に使うモップやホウキ、チリトリや水きりなどもトイレの角にま

とめて立てかけているので、

特にモップなどはいつも湿ってしまって不潔でした。

 トイレから持ってきたモップで食堂を掃除するのは誰もが

疑問に思っていましたが、みんなが日々の生活の追われてしまって、

忘れているか
 
「誰かが言いだすのを待っている」

 という感じでした。

 
でもそういうの変えるのって、その状況が悪いとみんなが感じてから、

しばらく「熟成」させて方が良いのだと思います。

 3割くらいの人が危機感を持っているときに変えてしまっても。

あとの7割の人は、

 「そうなんだ、やりかたが変わったんだ、でもなんで変えたのかな?
    
   でもまたすぐに戻るだろう」
 
 くらいの感じなのだと思います。

 皿洗いの仕方でも、モップのかたずけ方も、みんなが不便だなー。

 って思いだしてから、しばらく待っていると、

 何となくみんなの中の共通意識で。
 
「やっぱり変えないとな」

 みたいなものが生まれてきて、7割くらいの人が、

 その必要があると感じたころに、さりげなく。

 「実はさー、気になってたんだけどさー、俺はさー、もしみんながよかったらさー、お皿の入れるコンテナを、コップ用とお皿と分けいのだけど協力してくれるかな?」

 とか

「モップを壁に掛けられるようにホック作ったから、
 みんなに使ってほしいのだけどよいかなー、
 あとトイレ用のモップには赤いビニールテープ張ってみたから、
 試しに使ってみて、赤いのはトイレ用だから、
 食堂はそれ以外ので掃除してね」

 みたいな感じに、全員がいる前できちんとした改善策を持ってプレゼンすれば意外と組織って変わるものだと思います。

 でもポイントは7割の人が危機感を持つまでその問題を
 
 「熟成」させることだと僕は思っています。

 よくあるよね。気の付く人が何でも早々と変えてしまって、

周りの人はなぜそれを変えなければいけないのかよく理解していなくて、

新しいシステムが徹底されなくて、

常に中途半端な改善になってしまうことが。 

 
 あとこれは自分によくあることなのだけど、変えようかな?って

「熟成」させているうちに、ほかの人が気がついて、変えてくれるとき。

 そういうときには喜んでその人の意見を聞くべきだと思うし、

協力できます。
 
「俺もそう思ってたんだよね!」

 っていってその人のフォローするときに方が自分としては気が楽です。

 自分が言いだしっぺだと何となく荷が重いしね。


 まあいずれにしても改善策を誰かが打ち出したなら、

絶対にみんなに徹底させるまで、新しい状態を保つこと、

モップがフックにかかっているか1日何回もチェックすべきだし。

お皿の仕分けは誰かが混ぜてしまったら、すぐに戻しておくこと。 

不思議なことに最初の10人がきちんと分けて下げればあとの

100人はそれに従って無意識に分けてくれます。
 
だから最初の10人が下げたときに一度きちんと整頓しておけば

あとは何もしなくても問題はなしです。
 
それを2週間続ければあとは習慣化されます。

 ・熟成させること

 ・キチンとした改善策と一緒に全員の前でキッチリと伝えること

 ・その後の2週間はあきらめずに徹底して管理すること

  その三つができれば

 「あの人が言い出したことは常に実行される」

 という認識がみんなに伝わるものだと思います。

 

二か月が経って・・・


 <写真はビルディングウェークエンドといってみんなで学校の掃除、
農作業、雑草刈り、ペンキ塗りなどをするときのものです。
こういう状況に出くわしたら、
自分もクワを握って半日一緒に働いてみるとよいと思います。
午後には必ずこうなります。怒るべきところかもしれないけど、
一緒に働いていると怒れなくなるし、
逆に僕が一緒に働くと生徒も時には僕の言うことを聞いてくれるようになります>
 

 アンゴラに来て早2ヶ月。ブログも書こうと思ったんだすけど、

 何か頭が回らないと言うか、考えがまとまらないというか、

 書く気が起きませんでした。

 たぶん2か月経って、、この環境に慣れてきて、

体も心もホッとしてるのだと思います。

 最初は生徒の名前を覚えて、自分のできる仕事を探して、

学校の1日の流れ、自分が手伝えるところ、割りこめるところ、

 難しくて今はできないところなどを探っていましたが。

 ようやく、そういうのが落ち着いて、心と体が安心して、

落ち着いた感じがあります。しばらくボーっとしていました。

 それが2カ月という感じです。

 ちなみにこの2カ月で僕ができたことと言えば、

 ポルトガル語の基本がわかって、

あとは聞き取りと自分が使える単語の量を増やしていくこと。

 ほかの先生達がどれくらいのペースで働いているのかを見ること。
 
生徒の行動パターン、ポルトガル圏特有の自己主張の仕方になれること。

 買い物、水汲みなど自分の生活に必要なことを整えること。

 アンゴラの暑さと昼と夜の気温差に慣れること。
 
 生徒が1日どういう流れで食事を作っているのかということ。

 まあそんな感じです。

 一番勉強したのは食事のことです。

これは週に一度のローテーションで、6人チームですが、

3人の男子が三食に使う水をそのつど運んできて、

女子がおもに洗い物、そして女子男子ともに、料理をする。

 という流れです。 改善できるのは豆もコメも水に浸さずに、

いきなり煮始めるので、マメもコメも底は焦げて、

 上のほうは芯が残ってしまうことです。
 
芯があるのに焦げくさい。という

「ワイルドなのにまだケツの青い」

みたいな何とも不思議なご飯が炊きあがります。

 少しずつですが改善すべきところですが、今のところ許容範囲です。

僕はたまにいって皿洗いを手伝ったり、金タワシを買ってきて、まっくろ

だった鍋の外側を磨いたりしました。 

 キッチンにはギダさんというおばさんが生徒の面倒を見ながら、

料理の指導をしているので、ギダさんと一緒に働いています。

とても良いおばさんで僕のよき理解者です。

 生徒にきちんと怒れるのもギダさんの良いところです。

ちなみにギダさんは僕のこと大好きです。行く手放しで喜んでくれます。

生徒は僕が鍋を洗ったり、ゴミをマメに捨てたり、

女子しかしないような床の掃除とか、洗い物とかをしているのを見て、

安心感をもったくれたし。1日に6人ずつのグループで一緒に働くので、

 仲良くなれるし、とても親切にしてくれますし。少しずつですが、

僕の意見に耳を傾けてくれるようになりました。

 僕のほうもなにか改善しようかな?って思いながらも、

みんなと一緒に働いていると、まあこれでよいかな?

なんて、ミイラ取りがミイラになるように、

改善点を言えずにいたりもしています。

 でもそれで許せるなら良いよね。なんて思いながらも、

 最近は1日姿を見せないと、

「ウラ、なんで昨日はいなかったの?」

なんてみんなに聞かれたりして。少しうれしくなったりもします。

 ちなみに本日金曜日の午後から祝日の月曜日まで生徒たちは

家に戻れるようです。

みんなうれしそうに朝から溜まった洗濯物を洗って

帰宅に備えているようでした。 僕もゆっくりしようと思います。

2011年3月21日月曜日

少ない情報からですが地震について

 地震の情報は今の僕の生活ではほとんど入ってきません。

 写真の多いホームページやユーチューブはここで見ることは難しいです。

 民間のテレビを見た生徒やラジオ、家族、友人からのメールで情報が入って

 来ました。

 この大切な時期に日本にいなかったことは、今後日本人が共通認識として

持ち続ける今回の地震に対する意識を自分は持てないことになり。

 日本人としての何かが自分に欠けてしまったような気もしています。


 
 「世界からみれば秩序を維持しながら、

    懸命にたちむかっているというところだと思います」

 という連絡が人生の大先輩からあり。

 その一文だけでも、さすがに日本だな。 と感じました。

  災害に便乗して、商店を荒らしたり、人々が暴徒化している映像を見るのは

 日本では無いのだな。 と改めて感じます。

  もちろん必要に迫られて必要な水や食糧を多少もらうことはあるとは

思いますが、普段から仲の悪かった移民の店を荒らしたり、食糧以外の宝石や

貴金属をとったり、さらにマスコミがそういう状況を煽るように、

自国の恥を面白おかしく報道したりするような風潮は

今の日本の社会では許されないのだと思うと。安心します。

それと同時に今回の震災がそれほど深刻なものだということも

感じることができます。
 
 特に北の人達は我慢強いのかな?

 などと思いながらも、早く安定した生活に戻ってほしいと思います。

 
 10年後20年後に、

 「震災の後で日本はさらに強く美しくなった」

 と言われる日が来るまで、我慢強く頑張ることしかできないと思います。

 もちろん失ったものの大きさは計り知れないと思いますが。

 やっぱりそこは黙ってやるしかないのだと思います。


 とりあえず安定した生活に早く戻って欲しいと思います。

 不便でも安定してほしいと思います。

  
 
 高度成長を支えてきた団塊の世代、バブルがはじけて少し自信を失い

 かけていた人達が、最後にその存在感を示し後任に自分達の仕事を仕方を現

場で教えることができる良い機会なのだとも思います。

バブルの崩壊よりも今回の震災のほうが団塊世代の使命感は強いと感じますし、

若い世代は団塊世代と一緒に意味のある仕事をできる最後のチャンスだと思

って多くを学んで欲しいとも感じます。

それが日本の今できることだと思います。

  たくさんの人が亡くなったので、情報の無い僕が多くを語ることはよくない

 と思います。

今はただ不安を口に出さずに我慢する時期なのだと僕は思います。
  

2011年3月10日木曜日

異文化理解と国際貢献


異文化理解と国際貢献

この二つの言葉が違う意味を持つのかどうかはわからないけど、

日本の中では西洋ほど使い分けができていないと思います。

 異文化理解というのは別に途上国とか先進国とか関係なく、

自分と違う文化の人達と交わって、勉強することによって、自分の

今まで育ってきた文化の良いところ、良くないところを改めて

 確認することができて、今後の人生に生かすことができるもの

だと思います。だから特に途上国に行く必要もないよね。



 国際貢献は少なからず相手の国に対して何か利益というか

「貢献」するのが目的だから、提案でも改善でも良いので、

 なにか残すことができればよいのだとおもいます。

 そうなると途上国のほうがそういった問題点は見つけやすいのかも

しれません。ここで難しいのは、単に資本主義社会側からみて

「問題点」であって、人生何が正しいのかは本当は誰も知らないの

だけどね。まあここでは一応「基本的人権」というような観点から

みた「正しさ」です。それ自体も先進国が決めたルールだけどね。

簡単に言えば基本的人権って

「なるべくみんなが笑顔になりましょう」

という風に理解してれば良いのかな?と個人的には思います。

 そして日本人は「異文化理解」という言葉が苦手なのだと思います。

 協力隊みたいに海外に2年間もいて、相手を理解して、

自分の人生観を変える?

そんな理由でリスクの大きい途上国に税金を使って行くことは許されない。

だったらその2年間は机に向かって勉強して学歴付けなさい。

 というほうがなんとなく日本社会的だよね。

 だから協力隊も「異文化理解」の要素が大きいけど、表向きは

「国際貢献」という感じになっているのだと思います。

 でもアメリカのボランティアもヨーロッパのボランティアも

それほど国際貢献とは思っていなくて、

「自分の人生観を変えたい、空っぽな人生に刺激が欲しい」

 というようなことを普通にみんな話しています。

 最初から異文化理解をしに着ているんだよね。

  募金活動をしている僕に対するイギリス人の励ましの言葉は

「良い経験してきてね」 

 であって、決して

 「途上国の人を助けてきてね」

 では無かった気がします。みんなわかってるんだよね。僕みたいな

 若者が(自分で若者って言ってしまった・・・)アフリカに半年間行っ

たって何も変えられない、

変わるのはせいぜい自分自身くらいだってことを・・・・

 協力隊に話をもどすとそのバランスはとても難しくて、

本当にスキルがあって言葉も話せて、

そして2年間という長い時間があれば

「国際貢献」してしまう人も結構いるのだと思います。

 そして最初から「異文化理解」といって人を集めたら、

2年間税金を使って遊ぶ人もたくさんいると思います。

だから「国際貢献」ということで志の高い人達に集まってもらって、

その人達が現場で一緒に働きながら、色々と経験してもらって、

2年後に帰国したときに得たものは結果的に50%は「

異文化理解」で50%は「国際貢献」であった。

というバランスが日本的なのかも知れません。


 ちなみに今回の僕のアンゴラでの半年は「異文化理解」だと

自分では思っています。日本の税金ではなくてイギリス人の

「良心」からくる募金できているから胸張ってそういえます。

 だから生徒と一緒に泥臭く働いて、生徒が歴史の勉強をしていれば、

その隣でポルトガル語の勉強を一緒に座って自習して。

 時には一緒に海に言ったり、料理したり、同じもの食べて。

日本人だってアンゴラ人と同じ生活できるし.

日本人がみんな算数ができて、車が作れてパソコンいじれるという

彼らの勘違いを正そうと思います。そういう僕の100%

「異文化理解」的行動が、彼らの心の中に

「日本人には泥臭い奴もいるし、俺達と変わらない」

ということをしってもらって、

10年後20年後にそういう彼らの気持ちが結果的には

「国際貢献」になっていた。ということになればメデタシ!メデタシ!

なのかな?っておもいます。
 
 先日学校の用事で町にコピーをとりに行ったのだけど、

メチャクチャ待たされたのにおとなしく嫌な顔もしないで座っていたら、

お会計のときにアンゴラ人の店長に

「もしかして日本人なの?」

って聞かれました。そうだよ!ってこたえたら。

「そうだと思った、僕は昔日本人と働いたことがあってね。
  あなたも日本人だと思った。僕は日本人大好きだよ、
    アンゴラに来てくれてありがとう」
 
って言われました。

 その人が日本人の方とどこで何をしていたのかはわからないけど、

そういうすばらしい日本人がいて、アンゴラの人が今でも

良いイメージを持ってくれているということは僕にはとても

 うれしかったです僕の生徒が将来日本人と働くことになったときに

 良いイメージを持ってくれたらとてもうれしいな。

 と僕は感じていますし。もし僕が日本で働いているアンゴラ人に

 あったら同じように

「日本に来てくれてありがとう」

 って言いたいと思います。それが異文化理解だと思います。


 

若いときに学んだこと


 <写真は日曜日に寮でオズワルドの髪を切るザカリアス、
  一緒に生活しているとこういう私生活も見れて楽しい
  です。ザカリアスの落ち着いた表情と見事な出ベソが
  印象的です。日本では出ベソの人少なくなったけど
  アンゴラではいまでもみんな立派に出ベソです>

昔の話なのでドンドン大げさになっていますので、

実際はこの3分の1くらいしか頑張ってません。

 フットボール現役時代、週に三回はきちんとウエイトトレーニングを

して体を作る、それが勝つために自分がすべきことである。

 春に練習が始まってから、、練習と仕事の合間を縫って、

ジムに通ってウエイトをします。

 2ヶ月も過ぎると、慢性疲労がたまって、

朝に起きれなくなってきます。

友達からもらったアリナミンを寝る前に飲んだりして、

何とかおきるように頑張ります。

 朝の8時から18時までファミレスで立ち仕事して、
その後に何か少し食べて20時ごろにはジムに行きます、

ウォーミングアップで20分エアロバイクをこいで、ストレッチして、

ウエイトの器具に座りますが、疲れて踏ん張れません。
 
「とりあえず神経だけでも興奮すれば疲れた体はついてくるものだ」

とおもって、カフェインの強めのコーヒーを飲みます。

朝専用のカフェインの多いコーヒーをトレーニング前に

よく飲んでいました。

 ジワット汗が出てきて、ウエイトトレーニングがはかどります。

そんなふうにして自分をだましてトレーニングを続けていると、

体の抵抗力が弱っているし、胃袋にも良くないので、

風気を引いたり腹を壊したりしやすくなります。
 
「風邪なのかな?それとも慢性疲労なのかな?」

でも

「やらない理由は自分が決める」

「妥協の数だけ自分が弱くなる」

 と思って、無理にウエイトしますが、体に力が入りません。

 今日はプールとジャグジーで休養しよう。

 と思って、プールに入って休みますが、

 案の定その日の夜には熱が出ます。
  
 でも次の日は仕事、朝おきて7度5分以下なら大丈夫。

ファミレスで朝一番に社員が出社できないことはありえないので、

行きにコンビニでユンケル飲んで頑張ります。

 8時から1時まで働いて、少し落ち着いたら

メニューにある雑炊を食べて30分ほど車で寝ます。
 
腰とか太腿の筋肉が痛いけど、とりあえず水をたくさん飲んで、

午後も頑張って、働いてクタクタで帰宅。

 二週間ほどジムは休むことにしますが、

その間でも仕事と週に三回の練習は休めません。

常にだるい体とウエイトをしてないことの罪悪感。

毎日生活に追われている感じ。

フットボールの練習ですら休みたくなります。

 そんな状態がシーズン中に一ヶ月くらい続くと、

この状態が一生続くような気がして。

人生がとても辛いことのように感じてきます。

練習中も良いプレーができなくて、自分に腹がたちます。

 不注意からくる練習中の小さな怪我も多くなります。

 食欲がないからいっぱいだけと思って飲んだビールが

いつの間にか焼酎に変わって、ついついのみずぎて、

二日酔いで朝ごはんが食べれなくて、朝はコーヒーだけ、

10時ごろに蕎麦をやっと食べる。

というような典型的な駄目な食生活になって行きます。

 シーズン後半には膝と腰痛の痛み止めの副作用でさらに胃袋が弱って、

体重も減ります。

「ウエイトしなさい」

ってコーチに言われるだけで腹が立ち。

前向きでない自分に気がつきます。

 気がついたらあまり人と話さなくなって、

必要最低限のこと以外には何もしなくなってるんだよね。
 
部屋の中は腰が痛いので、床においたものをとるのが面倒になり。

汚れ放題になります。仕事と練習に遅刻しないで行くことがやっとです。

(大分大げさなので実際はこれの3分の1くらいの辛さだったことをここで改めて書いておきますね)

 でもここまでやけくそになるから試合中でも怪我なんて怖がらず、

良いプレーができるし、

ここまでやったんだからどんなことをしてでも勝つ。

という気持ちになれるのだと思います。

 チームやコーチも最終的に勝つのはメンタルだ。

とわかっているので選手にプレッシャーを与えてきます。

こちらもコーチができることはすべてやってくれている。

選手のすべきことは自分を追い込んで、

試合の土壇場でも妥協しなような自分をつくることだ。

と理解しているからできるんだよね。

 それくらいチームとコーチを信頼していました。

 チームとコーチが何もしていなくて、

勝てないのはお前達気持ちが弱いからだ!
 
って言ってるチームもあるかもしれないけど。

それは間違っているとお思います。

気持ちというのは勝つための一つの要素であって、それ以外に、

戦術、トレーニング、医療、栄養、休養、練習環境、道具

などの要素の中の一つでしかないと思います。

大切なのはバランスだよね。
 
そのビジョンを持っているコーチの下でプレーできたことは

僕にとってとても幸せなことでした。

 今なら体が疲れてきたら素直に休めます。

 あの頃休まずに自分を追い込めたのは

「若さ」だったのだと思います。
 
だからシーズンが長いことを考えずに、その日の自己満足と罪悪感で

トレーニングしていたのだとおもいます。 

そういう潔癖なところが僕にはあったのだと思います。
 
大人になるともう少し長期的に物事を考えることができるよね。

 でも若いときにそうやって自分の限界と弱さを学べたことはとても

良いことだったのだと思います。

 アンゴラで20歳くらいの生徒達と一緒にいると不意にあの頃の自分

を思い出して、生徒達に対して尊敬というか、応援したくなる気持ちが

湧き上がることがあります。

若さって「純粋さ」であって決して「不器用さ」ではないのだと思います。

 大きな気持ちで見守ってあげるべきものだとだと感じます。

 

2011年3月8日火曜日

南北問題


 僕の聞き取りが間違ってなければ、昨日生徒が僕に教えてくれた内容は

大統領かゲリラ側かは知らないけど、

「今のままの政治が続くのなら2年後にもう一度内戦を始める」

って発表したらしいです。

 「ウラはその頃もういないから大丈夫!」

 って何か自信ありげに言ってたけど、

2002年に終わった内戦から約10年、

現在二十歳の生徒達が10歳の頃からやっと国が良くなって、

10年間安定して教育を受けて、

これから先生になって国に恩返しできるという時になって、

また逆戻りなの?
 

 昔聞いたことがあります

 植民地から独立したアフリカの国は内戦が始まって彼らの中の誰かが

今度は自分達の国民を植民地化しようとする。

その政治が悪かったりすると、独立しなかったほうがましだった、

ということになる。

 血みどろの内戦が終わって、やっとのことで新政府が誕生した後の

第一段階は

「武装解除」

 みんなの武器を回収して、独裁政治、クーデター、軍隊が力を持ちすぎる

ことなどを避ける、3年から5年間



 第二段階は

「インフラ整備」

町づくりが始まる、内戦で壊された橋、水道、道路、病院、学校、地雷撤去

などを行って、効率よく生活できるように、町を整えていく。

 10年くらいかかる


 段三段階は

「教育」

 義務教育から初めて、長期的、計画的に物事を考えることができる人を

育てる、政治家でも教員でも今後の「国つくり」をきちんとできる人を育成

する、そしてその人達が社会に出て実際に活躍して国が良くなるまでにかか

る時間が

 20年から30年

 第三段階まで行けば、そこで初めて独立と自立が成功したことになるのか

も知れない、日本の戦後30年って第一次ベビーブーム、いまや団塊世代が

30歳のときだよね。日本人は良く頑張ったのだと思います。

 
アンゴラは内戦が終わって10年、中国の技術援助とともにこの10年で

インフラ整備が進んできています。女性や子供がやっと安心して暮らせるよ

うになってきたのに、

2年後に内戦はじめるのはあまり賢い選択ではないと思います。

 もう少し我慢して欲しいと思います。

 そして、もう一つの疑問は

ダイアモンドや石油をたくさん持っているアンゴラが今後順調に国力を伸ば

していったら、困る人達や国もあるのだと思います。

 内戦が始まってアンゴラからの石油の輸出が不安定になれば、

値段があがること間違いないしね。

 そしてアンゴラが石油とダイアモンドを売ったお金で順調に

成長していって、もともと賢くて真面目なこの人達が教育を受けて強くなる

ことを恐れている人や国もあるのだと思います。

 自分の国に資源がない先進国の国は、アンゴラのような国には常に不安定

であってもらうころが大切なのだと思います。

 だから国つくりがある程度成功してくると、

反政府側に都合の良い話を提案して

お金や武器を援助して、内戦を起こさすのかもしれません。

そうすれば第三国が介入できるビジネスチャンスがまた増えるわけだしね。

ものすごく奥が深くて、アフリカがいつまでも成長しなくて世界で問題視さ

れている一番の理由はここにあるのだと思います。

 こういうのを南北問題っていうのかな?

 それを操っているのは資本主義、物質主義でお金持ってないと勝ち組にな

れない、正義を叫ぶ貧乏な人は説得力が無く、

「いつまでも学ばない民衆」はお金をもっている強いひと人と国の言うことを聞

いてしまうのが現況なのだと思います。無意識のうちに自分もその民衆の一人

かもしれないけどね。



 日本の戦後の歴史は奇跡的だよね。

 アメリカ一国が日本の面倒を見てきたからからかな?

 それとも島国だし、資源とかないから利用価値がないと思われたのか、

日本がまさかこれほど「物づくり」上手だとはどこの国も気がつかなくって、

気がついたら自分達が買う側になっていてお金払わされていたのかもね。

 日本は国としては戦前からすでに成熟した国だったこともあるのかな?

 建国200年のアメリカには理解できないし、コントロールできない

部分もあったのだと思います。


 日本人は、日本のそういった世界の中でもユニークな歴史をたどってきたこ

とを意識しながら、よその国とかかわっていけたらと思います。

 


 そしてそうやってアンゴラの利用している一部の人達に、

「アンゴラを利用するのは良くない」

 と言ったとすると、

 「何が悪いの、自国の利益考えるの当たり前じゃない、俺達は頭が良い
 
  だけだよ、国際社会ではそれが当たり前じゃない?

  アンゴラ人には内戦を断る選択肢もあるんだしね、俺達は選択肢を

  増やしてあげているだけ、選択しているのは彼だから俺達悪くないよ」

 ってあっさり言われるのだとおもいます。

 ヨーロッパを中心とする「西洋文化」ではすでに何千年も前からそうやって

 お互いに駆け引きしあって歴史を作ってきたわけだから、それは汚いことでは

無くって、当たり前なんだと思います。そういった国から見たらアンゴラ

みたいに、「幼い」国を外からコントロールすることは

 簡単なことなのかもしれません。 アフリカの本当の問題はここにあるの

かもね。

 

 自分の国の国民に選ばれた政治家達がよその国の利益になることより

自分の国の国民の利益を考えることは当たり前だものね。

 
 今一緒にいる生徒達が2年後に兵隊ではなくて教員になって欲しいと

 僕は思います。

 せっかく10年かけて育ててきた長期的に物事を考える事ができる

 人達なんだからね。

 大事なことはそこまでわかっていも現場レベルで毎日コツコツ

頑張ることだとも思います。それができないと「自分の為」に良くない

気がします。文句ばかり言っていても誰も僕の為の都合の良い人生を

 作ってくれるわけではないしね。

 今日も一日健康で頑張れればとりあえず2年後も良くなると信じようと

思います。

2011年3月7日月曜日

平凡で非凡な日曜日


 <写真は水場から見える学校と農園の風景です>

日曜日なので水場に洗濯に行った。

 ナイススミス、ゴメシュ、ジョニートの三人が先にいて、

 ナイススミスはラジオの音楽に合わせて上半身裸で静かにずっと

踊り続けていた、ゴメシュ、ジョニートは洗濯をしていた。
 
ラジオからかかっている曲はレディー・ガガ

 その後はアメリカのヒットソングがずっとかかっていて、

  ゆっくりと踊っているナイススミスと洗濯の二人が話している内容は

 デモクラシー、アメリカ、アンゴラ、テクノロジー、アジア、中国、

日本、教育、お金、など聞き取れたのはそんな感じだけど、

雰囲気からいって民主主義について話しているみたいだった、

 


  「アンゴラ人が日曜日にアメリカンポップスに

    乗って踊りながらポルトガル語で民主主義について真剣に話しているのを

    洗濯しながら横で聞いている日本人の僕」



地球は果てしなく広いのか狭いのか理解に苦しむなー、

と思っていたらレディー・ガガが終わった直後のラジオのコマーシャルは

いきなり元気の良い中国語でした。
 
「これもまたありだよねー」

っておもいながら、気がついたらポルトガル語のラブソングが

流れているみたいで、三人はうれしそうに合唱していました。

 その後にトレイシー・チャップマンという僕が中学校の頃にはやった、

曲の少し新しいバージョンの曲が流れていて、

なんとなく懐かしかったし、

あの頃はまったく歌詞とか理解していなかったけど、

今英語で聞くと少しだけ意味がわかるようになったなー、

と自分も少し変わったんだなー、と感じながら、

気がついたら三人は洗濯が終わって戻っていき、

時間は午後の1時、強い日差しだけど、

乾いた風が吹く水場の空気はなんとなく気持ちよくて、

木陰でしばらく風に当たっていました。

 「人種も大陸も言葉も時間さえも混ざりあう世の中なんだなー」

  寝坊して、何をするにも中途半端な時間だから、

とりあえず洗濯して昼飯まで時間つぶそう、

っていう本当にごく平凡なよくある日曜日の風景なのに、

これだけの事が混ざり合っているんだなー、
 
三人がラジオとともにいなくなって静まりかえった

アンゴラの水場でしばらくボーっとして今いました・・・・
 
 なんとなく良い日曜日でした

2011年3月2日水曜日

「中途半端に賢い人」と「本当に賢い人」


 <僕の髪はこちらでは珍しいけど、黒人の人の髪ってとっても
  やわらかくて驚きます。フワフワです>

 僕は大学から社会人3年目まで、7年間ずっと2軍でした、いつも試合で

活躍している同期や先輩の姿をみて、自分もいつか試合に出たい!

 って思っていたし、試合に出てる人の何か助けになれば。

と思ってチームの為にがんばっていました。

 そういう2軍の選手から見ると、一軍の選手の中でも二つのタイプの選

手がいることがわかります。

 一つはプレーできていることに感謝できている選手、二軍の僕達のこと

も気遣ってくれて、自分が活躍することよりも、チームの勝利を考えてい

る選手、そういう選手が試合中に良いプレーをすると、試合に出ていない

こちらも感動するし、たとえそういう選手が良いプレーができなかったと

しても

「頑張って欲しい!」

 という気持ちが沸き起こります。試合中でも思わず

「今日も期待してますよ!」

って声をかけに行ってしまいます。

 それがその人にどれほどの効果があるかわわからないけど、

みんなが必死なときにたとえ2軍の僕からでも励ましてもらえることはと

ても意味があると僕は思います。

 もう一つはもともとセンスがあってあまり努力しなくても活躍できる選

手、どちらかと言えば、毎日努力しても試合に出れていない僕のような選

手が馬鹿らしく見えるし、へたくそな選手に足を引っ張られてチームが負

けるのは迷惑だ、と考えている選手。

 仕事なら40代、50代で結果が出ることが多いから実力と人間としての

器が同じタイミングで育ってくると思うけど、スポーツは10代、20代

ですでに一流になれるものね、逆に30代に入ると練習量が落ちてしまう

のは仕方が無いよね。

 だから人間としての器が出来上がる前にものすごい地位と名声を手にし

てしまえば、そうならないほうがおかしいのだと思います。

 そして、

「俺がこれだけ頑張っているのに、ほかの選手のせいで勝てなかった」

「へたくそ組のやつらは今の倍は練習してもらわないと、チームは勝てない、それがチームのためだ」

「もっと自分は尊敬されるべきだ、これだけ試合中にチームで貢献しているのだから」

 というような気持ちが起こるのだと思います。

 そしてそういう選手が怪我で練習を休んでいたり、辛い練習をしなかっ

たり、練習に遅れてきたりすると、なんとなく2軍にいる僕は

「シラケテ」しまうよね。

 その人の倍は努力してるはずなのに、才能が無い、認められない、チー

ムのお荷物扱い、フットボールではなくて仕事でしか貢献できない僕とし

ては素直にチームを応援できなくなるのだと思います。

 今となっては

僕の努力の仕方が間違っていたからいつまでも2軍だったのだ!

 と認めるしかないですけどね・・・・

 まあそのときは若かったし、やっぱり悔しかったのを思い出します。

 そんな話をなぜ今ごろ思い出したかというと、

才能だけがある選手を「中途半端に賢い人」とすると

才能があってしかも2軍の選手やチーム全体のことを考えることができる

選手は「本当に賢い人」

なのだと思うからです。そこまで気がつけるというのは本当に賢いのだと思います。

 中途半端に賢い選手は

自分のため、自分の名誉のため、自己満足のためにプレーするし、自分の

才能を使うと思いますが。

 本当に賢い人は自分の才能を、組織全体のため、弱い立場の人のため、

世の為に使ってくれるのだと思います。

 そういった「使命感」を持ってる人は判断を間違えないし、自分の才能

以上のものを発揮することができるのだと重います。

 回りも応援してくれるしね。やる気が持続するのだと思います。

 でも「自己満足」の為にやっている人はやっぱり途中で挫折することも

多いのだと思います。そこで気がついて世の為人のためにと思える人もい

ると思いますし、

「俺がここまで頑張っているのみ、認めてくれなかった社会が間違っている」

となってせっかくの才能を無駄に終わらせてしまう人もいるのだと思います。

 ずっと2軍だった僕から見たら、なんともったいない・・・・

 ということになるのかもしれませんし、彼らから見たら

「ずっと2軍の奴は良いよな、栄光が無かった分、挫折を感じなくてもすむ、でも俺は一度頂点に立ったから落ちたときのショックは大きいのだ・・・」

 となるのかも知れません。

 僕の周りには「本当に賢い人」と「中途半端に賢い人」

の両方がいたと思います。

そして本当に賢い人は引退してもほかの業界で今でも輝いています。

そういう人は自分のためだけに努力しているのではないので、

判断力が良いし、使命感をもっています。

 挫折しても立ち上がります。やっぱり人間って自分のエゴだけの為に働

き続けることってよっぽどのエゴの強い人で無い限り難しいのだと思いま

す。家族のためとか社会のために働いているほうが人も集まってきて、

やる気が継続しやすいのだと思います。

 僕はいまだに人生は2軍ですが、先輩にもそして最近は後輩にも

「本当に賢い人」が出てきました。

 30代になって、そういう人達が自分の「使命」に気がついて、それぞ

れの道を進んでいくのを見ると、自分もエネルギーをもらえる気がします。

 それはちょうど試合中に

「今日も期待していますよ!」

って言いに行きたい気持ちと似ています。

 みんな僕より出世して、

 僕のことをいつか雇ってくれたらうれしいです。

 下働きならいまでも結構良い仕事する自身ありますよ。

2011年2月27日日曜日

自主性を保ちながら管理すること


 <いつもは干上がっていて歩いてわたれる川ですが、上流で雨がふったので
 今日は靴を脱いで濡れながらわたりました>

 「自主性を保ちながら管理すること」って本当に難しいなと改めて

感じてしまいます。それは実業団のフットボールでも、ファミレスの店舗

でも、大学の体育会でも同じだと思います。

 組織が大きくなって、一人ひとりの意見が反映されなくなると、

みんな自分では考えることをやめてしまって、従うだけになるんだよね。
 
 だからといって、自主性に任せてしまうと、方向性を見失ったり、

モラルが下がったりしてしまいます。

 それを保つにはきちんとしたビジョンを持つリーダーが常に全

体を「見守る」ことができることが大切なのかもしれません。

 常に上の人が自分を見ていてくれているという「安心感」

はやる気とモラルを保つには大切なのだと思います。

管理する側がそれをしなくなると

管理される側もそれをしなくなります。

 実業団でフットボールをしていた頃に九州から来た選手がいました。

3年間関東の実業団でフットボールを勉強して母校に戻って、

自分の大学を九州で優勝させる。

 というのが目標だったので、良い選手だったのに

3年でやめて九州に戻りました。

 僕と何人かの同期が年に2回ほどその大学に呼ばれて教えていたのです

が、一番最初に合宿に呼ばれていったときの選手達の目の輝きは凄いもの

がありました。

 今までは関東の大学のビデオを見ながら選手同士で

「ああでもない、こうでもない」

と話し合って、そのまねをしていたのが、それを実際にやっていて、

今は実業団でプレーしている僕達が教えに来たのだから、

喜んでくれるよね。

 金髪に髪を染めたり、関東とはまた違うファッションでたくみに九州弁

をあやつる学生達のフットボールに対する質問は、

とても高度なものから、単純なものまで数多くあり。

 「実際に関東でやってる俺達もそこまで考えてないよ!」

っていう質問から。

 「よくこのレベルまで考えてるな?」

と感心させられるものまで、選手の意識の高さはすばらしいものがありました。

 
2年、3年と続けて行っているうちにあるプレーの選手の動きが気になって

「何でこのプレーはこうやって動いてるの?」

 ってきいたところ

自分が、大学一年生のときにウラサンにこの動きを教えていただきました

 だからそれから3年間、ずっとこれを守ってやってきました」

って言われて、

 とても驚いたし感動もしたし責任を感じた記憶があります。

 その後、僕は自分のフットボールが忙しくなり、2年ほどその大学から

遠ざかってしまいましたが、その間に創部30年近くで初の九州制覇をと

げ、大学から予算もたくさん下りて、しかも高校からのスポーツ推薦枠も

3人までが10人近く取れるようになり。

チームの環境も大分良なりました。

 俺達貢献できたのかなー?なんておもって久しぶりにコーチに行った

時には、きれいなミーティングルームも完成して、エアコンがかかった

なかでミーティングして、グランドで練習もしましたが。

 ミーティングでは特に質問もなく、選手はフットボールに対して自分達

で考えるのを辞めてしまって、コーチにやらされる感じでした。

 練習前の自主練習もとくに行わず、どこの体育会でもある練習前の憂鬱

な雰囲気が漂うチームになってしまっていました。

 僕の同期は監督になっていましたが、自主性の無い選手に怒ることも多

くなり、選手からは鬼コーチ呼ばわりでした。

 九州で優勝してからはそれまで関心を持っていなかったOB達がやたら

と口を出すようになって、関東から来た僕達があまり歓迎されなくなり。

高校で野球や柔道をしていて、運動能力が高く推薦で入ってきた能力の高

い選手は先輩を尊敬しなくなって、

5年ほど前に初めて僕達が尋ねたときの雰囲気は

なくなってしまっていました。

 ちなみに5年前に初めてその大学の合宿に呼ばれていったとき、

僕は夜中にものすごく怖い夢を見て、金縛りにもあい。

九州にはオバケがいると感じて
 
人生で初めて夜中にトイレに行くのが怖くなって一緒に寝ていた同期を起

こしてトイレに行ったことが、

次の日の朝には選手全員に知れ渡っていて。

「ウラサン偉そうなこと行ってるけど、
 大人なのに怖い夢見てトイレ行けなくなったらしいぞ」
 
 と選手にささやかれていたことを合宿の帰りに聞きました。

 でもあの旅館絶対に何かいたと思います。

選手達はチームを変えるためにわざわざ関東の実業団で3年も修行して、

自分達のチームを九州で優勝させた

僕の同期の長年の情熱を理解しているのかな?

と感じながら、人を管理すること、教育すること、そして

「鬼コーチ」
とささやかれても情熱を持ち続けることは大変だし、

それができて初めて、「教育者」なのだと感じました。

 アンゴラの学生はとても自主性があります。

子供の頃から自分から主張して勝ち取っていかないと、

食事でも勉強でも誰も準備してくれないからです。
ここにいる生徒はとても高い生存競争のなかで勝ち残っていた

生徒なのです。実際に多くの生徒たちが兄弟の死を経験しています。

 ようは九州の大学に僕が始めていったときのような

「向上心」と「野望」が彼らにはあります。

こちらが管理しすぎて、甘やかされた生徒にしてしまうよりも、

できるだけ一緒に働いて、何かを感じてもらって

今後の人生に生かしてもらうことが、半年しかいない僕にできる

最低で最高のことなのではと感じます。

 ちなみにアンゴラではまだ怖い夢を見ていないので、

今のところ「ウラはカラテを扱う凄い日本人だ!」

 ということになっているはずです。

2011年2月25日金曜日

久米宏的教員と筑紫哲也的教員


 
 <写真は毎日僕達が食べている豆を料理しているところです>

  親父に言われたことがある、この二人の違いはなにか?

 久米宏はアナウンサーのプロである、だから話すことは上手だし。

 表現力も豊かである。視聴者が求めているものが何かを見極めて

 それに答えるべくニュースを作ってサービスのように届ける。

 
 筑紫哲也はもともとアナウンサーではなく、新聞社で働いていた。

 だから社会人としての経験がとても長く、世の中の「現実」や汚い

部分もたくさん学んできたことになる。

 だから時に番組の中でコメントに詰まって

 「うーん、難しい問題ですね」

 とかいって、何か考えているような時がある。

 きっと過去の自分の経験から肯定も否定もできないニュースが世の中

には多いことを良く知っているからだとおもう。

 話すプロとしてのアナウンサーとしては駄目なのかもしれないけど

  「アー」とか「ウー」とかうなるだけでも何か僕には訴えるもの

があったような気がする、人柄からうかがえる何かがあの人にはあった

 と思う。

 そして自分の意見をまとめて番組の最後に話すコーナーもあった、

 きっと記者の経験が長かったので、自分の意見は一度文章にしてから

 読んだほうがやりやすかったのかも知れない。

  
 と僕がなぜ今僕がこの二人のことを考えているかというと、

 学校で教員として働いている中でこの二人のことをよく思い出すからです。


 たとえば教員一本でいた人は久米宏的要素が大きいと思います。

 常に臨機応変に生徒の意見に対応して、その場でことをまとめなけれ

ばいけない、子供の意見は勉強したくなかったり、ルールを守れなかったときの言い訳であることが多いので、とっさに正論をいえなくてはいけないのだと思います。

  でも僕は自分は学生の頃はずっと勉強できなくって、落ちこぼれで

「言い訳番長」だったし、ファミレス、フットボール、協力隊と色々な

組織や、国、ものの見方を学んできて、とっさに正論を言うのをためらってしまうというか、言ってる自分に自信が持てなくなるときがあります。

 もちろん正論を振りかざすことは気持ちよいけどね。

 だからどちらかといえば筑紫哲也的なのだとおもいます。

正論を振りかざすことにためらいます。だからとっさに

「あー」とか「うー」とか言っちゃうんだよね。

 それで困った顔になると、生徒のほうも察してくれて

 「アー、ウラ、別に良いよ、ウラの言うこと聞いてあげるよ!」

 みたいなことになることが5割よりもちょっと多くて6割くらいです。でも6割なら良いかな?

 後の4割は子供に押し切られます。

 「言ったもの勝ち」

 になって、口の上手い生徒がいつも得するようでは駄目だな。

 と思いながらも、生徒達の「良心」に助けられて、今日も頑張っています。

2011年2月24日木曜日

長期的に考えること


 <写真はバスケットボールのファールをめぐってポルトガル語で激しく
 抗議するサムエル、見方からも「サムエル、ジョガ!ジョガ!」
 (しゃべるのやめてプレーしろ!)ってずっと言われてました

アンゴラにいてよく感じることは、長期的に物事を考えることに

 慣れていないな、ということです。

 1975年に独立してから内戦がが2002年まで続いていたこの国では

 人々の関心は10年先ではなくて、明日なのだと思います。

 今でも内戦の銃弾の後や地雷がたくさん残っています。

 そういった環境で育てってきた人達は、長期的なことは考えません。

 農業よりも略奪のほうが効率が良いかもしれませんし、

 貯金よりも今日おなかいっぱい食べるほうが賢い選択だったのかも

しれません。

 そして共同でものを管理することにも慣れていません。


 たとえば僕が働いているキッチンですが、食材の中でもニンニク、

 玉ねぎ、トマト缶、洗剤、油などは実際に使う量と同じだけ、

もって行かれてしまいます。

 トウモノコシの粉や米、小麦粉などはなくなっていても僕には

わかりませんが、それ以外は昨日まで10あったものが、一しかない

ことも普通にあります。

 新しく買った2本のナイフも一日で無くなってしまいましたし。

 チキンを切っていても、

 「ウラ、おなか痛くてみんなと一緒に食べれないから別に料理

したいの、一切れ頂戴」

 と悪びれずに言ってきます。おなか痛かったら鶏肉良くないよ!

 っておもい増すが、あまりにも真剣な目つきにこちらも渡して

しまいます。

 すこし大げさに言えば、とりあえずキッチンに入ったら何かを

ポケットに入れないといけない。という雰囲気があります。

 僕がキッチンにいるとみんな少しだけですが気まずそうな雰囲気に

なるときがあります。なにか働きにくそうなのです。

 僕が生徒に

「ニンニクが昨日はたくさん会ったのに今日は
             ゼロだからどうしよう?」

 っていうと、生徒が

 「部屋にあるから持ってきてあげる!」

 っていって悪びれずに持ってきました。

 一番信頼しているキッチンで働いているおばちゃんのですら、

 帰るときには用意した黒のビニール袋に何かを持って帰ります。

  みんながしていて、それで成り立っているから良いといえば

良いのですが、これを変えていくのは難しいなー!

 と思いながら、昨日はナイフが一本も無かったので、野菜は切れませ

んでした。

 だから料理は豆と米ばかり、

 学校側としては玉ねぎとかトマト缶とかかってきても無くなるだけ

だから、米と豆だけにして毎日同じメニューにしおいたほうが良い。

 と思うのが当たり前なのかもしれません。

 生徒自信は結局は自分達の行為が、毎日同じメニューを食べる結果

を招く。という長期的な考えよりも

 とりあえず今日自分がおいしいものを食べれれた

らそれでよい。明日がどうなるかは明日考える。

 メニューが同じになったらとりあえず上に文句を言えばなんとか

なるかも。

それが、長いこと植民地にされて、内戦が続いて、将来的に物事

を考えていてもその結果が出る前に、ぶち壊され続けてきた人達の
 
 標準的な考え方なのだと納得できます。

 なぜ中国と国の発達の為に共同で働いているのかという質問には

 「中国人はビルを建てるためにセメントを5袋用意したら、5袋つか

ってビルを建ててくれる。アンゴラ人なら5袋すべて自分の為に使う、

中国人はすばらしい、だからアンゴラは契約を交わした」

 と話していました。

 最初は少し戸惑いましたが、少しずつ納得してしまいました。

 なかなか根が深くて、向上していくのは時間がかかる問題だと

 思います。彼らを攻めることは今の僕にはできません

「王道」から思い出した話


 <写真は干上がった川を歩いてわたる人達です、
 でも空は晴れていても、上流で大量に雨が降ると、ものすごい勢いで
 泥水が流れ出すので要注意です> 

  地味な仕事が今の「王道」

 って書きましたが、続きがあります。
 
 イギリスでもアンゴラでも感じることがあります。

 日本の社会は地味に一生懸命働いていれば、

上司や社会がそれを評価してくれるものだとおもいますし、

そうなりやすい社会なのだと思います。

 「そんなの嘘だ!」

 と日本社会で働いている人は思うかも知れませんが、本当です。

 イギリス、アンゴラで感じることは、

地味な仕事をコツコツやって自己主張しない人は周りから

 「あの人は地味に働くことが好きな人なんだ」

 って思われます。我慢して社会や組織のために地味に働いている

 とは誰も思いません。

  だからもし、自分が評価を得たいのなら、

 「これだけ働いたよ!、結果出したよ!」

 って言わないといけません。

 それはイギリスの学校でよく感じました。

 ちなみにイギリスの学校にはイギリス人の先生はいなかったので、基本的に

 文化としてはフランス、イタリア、ポルトガルなどにラテンの国、自己主張

の強い国の人達が主導権を握っていました。

 そういう人達は働く前に自己主張します。不利な仕事はしないんだよね。

 最初はそういう文化に戸惑ったけど、それはある意味当たり前なんだと感じ

 ました、だって地味に働くことも、ある意味では自分の意思だととられるから

 です。

 ヨーロッパやアメリカみたいに色々の国の人が混ざって働いていると、

 日本みたいに仕事に対する「共通認識」みたいなものは無いんだよね。

 日本みたいに嫌な仕事は誰が決めなくても順番に行うというのではなくて、

 毎回きちんと明確にローテーションを決めないと、誰もしないし。

 そうするには最初に自分が権力を持ってローテーションを

 決める立場にならないと、他人がその立場になったら、

 自分は使われる立場になってしまう。

 そしてみんな恐ろしいほど自分のモラルとリーダーシップに

 自信を持っています。自分はすばらしい人間なのだ!

 という絶対的に自信を持っているラテンの人達は日本の

 それの3割増しくらいはいると思います。

 だから自己主張激しいです。

 日本人は、それほどもめるのなら、僕は使われる立場でよいよ、そこで地味に

やっていたら、いつか評価されるだろう。

 と思いますが、それではいつまでたっても評価されないこともあります。

 でも不思議なことに、結果としては同じなんだよね。

 自己主張の強い人達はお互いに足を引っ張り合うから、結果的に

 「一番働いている日本人に仕切ってもらおう!」
 
 見たいなことになりかねないからです。話がとても矛盾んしていますが、

 まあ時と場合ですね!

2011年2月22日火曜日

地味な仕事が今の「王道」



<写真は学校から歩いて5分のところにあるお店の子供達です。子供の笑顔
は世界共通ですね、うーんなんか自分らしくないありきたりな表現・・・>


 アンゴラに来て自分の居場所を見つけるのは難しい、

 学校はすでにきちんと運営されているので、そこで何かやりがいの

 ある仕事を見つけるって難しいのです。

 居場所っていうかね。

 もしポルトガル語がペラペラだったら生徒達にももっと内容のある話を

 することができると思うし、会話の中で人間関係を作っていくことも

もう少しできるかもしれない。

 でもそれは今言っても仕方ないんだよね。

  最初からポルトガル語ができないことをは自分が一番知ってることだから

 それをわかっていてここまで着たんだしね。

 

  でも実はこの一ヶ月で大分伸びました。文法は英語と一緒だし、ようは

 単語を覚えて、英語と同じ文法に乗っけて話せばよいんだよね。

 そして生徒は一生懸命に理解しようとしてくれる。よく言葉を覚えるには

 その言葉を話す恋人を作れば良いっていうけど、生徒達、特に男子生徒は

 今は僕の恋人です。アンゴラの男の子凄く真面目です。

 ものすごく眉間にしわを寄せて、一生懸命に僕のポルトガル語を理解しようと

してくれます。 あまりにも真剣な視線で僕の顔を見つめながら、時には額から

 汗が2、3滴にじみ出てくるので、こちらは会話よりもそっちのほうが気に

なったりしますが、取り合えず彼らは真剣なのです。憎めません。

 やっぱり日本人は他人と視線を合わせて会話するのに慣れてないのだな!

 っとこちらも真面目な顔をしながら頭をよぎったりします。



 自分の居場所の話だけど、会話ができずに、仕事も無く、その中で自分の
 
 居場所を探すには、地味な仕事でも与えられた仕事をコツコツするしか無いの

だと思います。こないだも「人生の王道」っていう言葉を書いたけど、

 それが今僕のできる「王道」なのだと思います。

 かっこつけて凄いことをしようとしても空回りしてできないことはわかって

います。だから朝一番にするジョギングの出席を取ったり、生徒がやりたがらな

い、ご飯のあとかたずけとか、焦付いた鍋を洗ったり、水汲み、掃除

そういう仕事を当たり前のように生き生きとするしかないのだと思います。

 「ウラ、たくさん働くね!」

 って男の子も、女の子も評価してくれます。

 そこには見下したような雰囲気はないんだよね。

  「日本は戦後なんでこんなに発展したの?」

 ってよくきかれるけど、

 「戦後の日本人は次の世代のために一生懸命働いたからだよ」

 って答えてる日本人の僕が、地味な仕事を一生懸命やってると説得力が

 あるものね。そういうところから自分の居場所を作るしかないのかな?

 っておもいます。 それが今の自分のできる「王道」なのだと思っています。

2011年2月19日土曜日

「押し付け」よりも「動機付け」


 <農業の時間に働いている生徒達です、人数が多い割には仕事と道具が
 少ないので、みんな立ち話が始まってしまいます、まあ仕方ないなー
 となんとなく納得して今います、憎めないんだよね・・・>

  物事を人に教えるにはやはり動機付けというか

なぜそれが必要なのか? どういった効果があるのか?
 
 をきちんと伝えることが必要だと思います。


 たとえば毎朝グランド2週を100人の生徒に走ってもらいたい。

 生徒が嫌いな野菜を昼ごはんに食べてもらいたい。

 そういうことでも何かこちらが変えようとすると必ず拒絶反応が出ます。

 「日本人が言い出したから取り合えずやろう!」
 
 という外国人ならではの特権が生かせるときと。

 「外国人に言われて自分達のやり方を変えたくない!」

 という場合があります。


 たとえば朝のランニングは今までやってないことだったから、僕が言い出したらみんな朝の6時におきて走ってくれました。

 その後にきちんと出欠を取ることにより、さらに出席率は上がりました。
 
 でも今日感じました。 走る理由出席を取る理由を説明しないと続かない

 「朝一番で体を動かすことにより、朝ごはんをしっかり食べることができるし、体も目覚める、それによって午前中の授業に集中できる、朝に軽い運動をすることは大切だ。

出席は必ずとる、それはきちんと走っている人と走っていない人が同じ評価なのはきちんと走っている人のやる気を失わせるからである。

遅れてきて、病気だから今日は走れませんと言い訳するのは良くない、遅れるなら早めに着てきちんと理由を述べるべきである。遅れる生徒に病気が多いのは、時間がなくて走れない走りたくないことの言い訳である」

 本当はランニングを始めるときにきちんとここまで予想しておいて説明
するべきだったんだろうけど、ポルトガル語でこれを教えるのはとても難しいし、毎朝ランニングすることがうちの学校にとってどれほど強制力を持って押し付けてよいものかもアンゴラでの感覚がわからなかったし、気がついたら真面目にやる生徒とやらない生徒が出てきてしまいました。


 料理のほうはもっと難しいでうす。

 好調は芋だけど、ショッパイ大根みたいな野菜を生徒に食べさせて欲しいと
僕に頼みました。

 いろいろと試した結果、細かく刻んで大根のようにして鶏肉と煮込めば、ご飯にかけて食べれてもおいしいことがわかったので、朝一番せ畑に行って50個ほど掘り起こして、ポンプの水で洗ってキッチンにもって行きました。

 今週の月曜日から生徒とその芋のことについて話していたのですが、結局みんな料理するのを嫌がったので、金曜日の今日は強制的にでも入れてもらおうとおもって、準備したのですが。結局生徒は誰も皮をむくのを手伝う気もなく、

 「明日にしたらよい」

 「ご飯には合わないからパスタの日にしたほうが良い」
 
 「作っても誰も食べない」

 「日本では食べていても、アンゴラでは食べない」

 「晩御飯のスープに入れたらよい」

 などといって料理してくれません。ぼくが

「校長からのリクエストで生徒がみんな嫌いなのは知ってるけど、
すでに畑にいっぱいなっているし鉄分が多くて体に良いから食べるように
といわれているんだよ、日本で僕も食べたことないよ」

 とせつめいしても

「じゃあ半分だけそれで作れば?」

 と言い残して気がついたら勝手に料理を始めてしまっていました

 結局とってきた芋は使い道がなく、今日も断念。

 やっぱりきちんと健康に良いとか、自分達で育てた野菜を食べることは大切だとか、米と肉だけの食事は良くない

 などの理論がないと生徒達は単に「ウラが言っている」
 
 だけでは動いてくれないのだと思います。

 そうなるとポルトガル語だよね。

 それができない自分は相手に強制させることはできないよね。

 っておもいました。

  でもできれば生徒達に試してみて欲しいとおもいます。

 生徒が試してみて、試食してみて、その結果やっぱりアンゴラのやり方のほうが正しいと思ってくれたのなら、それは生徒の「選択」による結果だから、良いけど、最初から「やりたくない」
というだけの理由で挑戦すらしないのなら、それは「選択」ではなくて、「無知」だから、やっぱり試してみてから決めたほうが良いのだと僕は思います。

日本人はそうやって外国のものをドンドン吸収して、時にはそちらが良いと選択したり、時には日本のほうが良いと選択したり、その真ん中をとってさらに良いものを作ったりするのが得意のだと思います。
 生徒にも朝一番で試食を作って食べてもらって、みんな
「おいしい」
 とはいうものの、
「それでは今日はこれを作りましょう」

 というと、みんな嫌がってしまいます。

 やっぱり栄養のこととか、自給自足の生活の良さとかプレゼンすべきなのかな?とも思いますが。

 そこまでして、生徒にやり方を変えてもらうよりは、半年仲良くみんなと
同じものを食べてるほうが良いのかな?校長先生にはわるいけどね。
それが限界かな? などとも思いました。
 もう少し長い目で見て、何か改善しようと思います。

2011年2月16日水曜日

6本の腕


 
 <写真は典型的なアンゴラのバンゲラという町の風景です。乾燥した
空気のサハラ気候では植物は育ちにくく、捨てられたゴミばかりが乾いた
大地に残って目立ちます。もう少し植物が生えればきれいな風景というか
やさしい風景になるのにな、と感じます>


 日本人は相手の気持ちになって考えることが得意な

人種だと習ったこともあるし、自分でもそう思います。

 相手の気持ちを創造できるので、相手が嫌がるようなことは言わないし、

 協調を優先するので、衝突も少ない。

 でもたまに思います。

 日本にいてアンゴラの映像をみて、

 子供がごみをあさっている、

 マーケットで女性と男性がつかみ合いの喧嘩をしている。

 泥水を飲んでいる

 車は人がすれ違うような感覚で走っている

 薬不足で日本でなら簡単に救える命が救えない

 教育を受けれない子供達がいる

 
そういう光景を見て相手の気持ちになって考えることが得意な日本人は

 もし私が明日この状況になったら生きていけない。

 そう思うと何かしなくてはいけない。

 と思うかもしれませんが、

 たとえばアンゴラの人達が昨日まで日本のように豊かで今日、

急に今の現状のようになったのなら、

日本人の「想像力」はアンゴラの人達にとっては一時的に

「ありがたい」

だろうし、津波や地震で今までの生活が急に破壊されたのなら

 そういう援助は今すぐにでも必要な援助だとおもいますが。

 生まれたときからそれが当たり前の人達にとっては、

そういう想像力とか援助というなの「同情」よりもきちんとした

 ビジネスパートナーとして同等に仕事をしてくれる仲間のほうが

必要なのかもしれません。



  前にもブログに書きましたが

 100年後の2111年からタイムマシーンで未来の人達がきて

「日本人の平均寿命は85歳なんてかわいそう、ガンやエイズで死ぬなんて

100年後には考えられない、2111年の平均寿命は120歳だよ」

 っていわれて、日本人を救ってあげよう!

 みたいなキャンペーンをされてもうれしくないように。

  
 たとえば地球人全員が阿修羅みたいに腕が6本あって生活しているなかで

事故か何かで急に4本の腕を失って2本になってしまった人がいたら、

その人は次の日から不便だと思うだろうけど、

生まれたときから2本で生活してきた僕達がが今のところそれで

 十分だと思っているように、アンゴラ人も特に今の状況を

 不便だとは思っていないのだと思います。

 

相手の気持ちを考えることができることはすばらしいことだと思いますが、

 もう一つ次の段階、「裏の裏」まで考えてあげて、そこから相手のプライド

を傷付けないように、そしてさらにお互いに利益が上がるように。

 そこまで考えての援助なら必要ですが、

「2本の腕だけでは可愛そうだから」

 といって急に援助というなの現金と同情をもらっても

一時的なものになり、結果的には自分で働いて得たお金でないと、

簡単に賄賂や私腹を肥やすために使われてしまうのだと思います。

 だから援助は難しい、そしてビジネスパートナーとして考えるなら

援助国の日本にもきちんと利益があがらなくてはいけない。

 同情というな利益ではなくて現金が儲からなくてはならない。

 そこまでわかっていての援助が大切なのかな?

 と思ったりしています。

 

2011年2月13日日曜日

やっと大人になれたのかもしれません


 <写真はビーチにいたアンゴラの子供です。人生には
  迷わずワイルドに育って欲しいと思います>

健ちゃんとヨッシーのコメントの返信を書こうと思います。

アンゴラに来て何も感じないというか、

アンゴラ人の人生も日本人と変わらずに普通の人生なのだな・・・・

 と思った自分を客観視して感じることは

 もしかして自分はやっと大人になれたのかな?

 ということでした。

 「世の中にはもっと面白い場所がある」

 「自分にはもっと活躍できる場所があるはず」

 「もっと自分のことを理解してくれる人達がいる」

 と思っていままで頑張ってきたし、

 イギリスの学校のなかで派遣国の選択肢にあった

 モザンピーク、アンゴラ、インド、マラウイのなかで、もっとも困難で

 協力隊の派遣も行われない、首都のルアンダは世界でもっとも物価が高く

 治安が悪い、などといわれていたアンゴラまで着てみてわかったことは

  結局はこの世の中はどこに行ってもそれほど悪い世界ではない

 ということを自分が理解したのだと思います。

 逆に言えば、

 世の中はどこまで行っても汚いことと嫌なやつばかりですばらしい世界など

ないということも理解したのだと思います。

 でも不思議なことにここアンゴラよりも、

世界中の先進国の人達が集まっているイギリスの学校のほうがよっぽど純粋で

はない世界だったような気もします。

 それが世の中というもので、

そういってる自分が一番矛盾だらけ客観視できてないのかな?

 とも思うし。

 それが人間なのだと納得してきたのだと思います。


 自分を受け入れられると、世の中のどんな世界も意外と受け入れられるよう

 な気がしてきました。

 きっとこの年になってやっと大人になったのだと思います。

 別にアンゴラに危険を求めてきたわけでもないし、ただ、日本と正反対の

 国を見ないと価値観の違いがわからない、と思ってバヌアツ、アンゴラ、

 そしてイギリスを見て納得したことは、人生とはそういうものだのだ。

 ということだとおもいます。 

 でも無駄な時間をすごしてきたとも思わないんだよね。

 いろいろなことを経験して納得した上で

「人生はこういうものだ!」

 と納得して理解するのと、教科書や人から聞いて

 「こういうもののはずだ!」

 っておもうのとでは自分の気持ちの奥深くにある納得の重さが違う

 とおもいます。

 大分と時間がかかったけど、ようやく大人に慣れたかな?

とも感じています。

 けんちゃん、よっしー いつもありがとうございます!

 

 

2011年2月10日木曜日

面白いことが書けない理由


 <写真は先週の日曜日に海に行ったときのものです。
 子供達のサンダルと洋服がすべてまとめて置かれていました、
 子供達は小さなグループは作らないで30人くらいで一緒に遊んでいました
 僕も31人目として子供達と遊んでもらいました>


 アンゴラに到着して、約一ヶ月がたちました。

滞在は7月の24日にイギリスに戻るよていなので、残り5ヶ月半です。

残りといっても始まったばかりですが。

 アンゴラのブログ、何か面白いことを書きたいと思っていたのですが、

なぜかかけません。

それはアンゴラと僕のいる教員養成校がきちんと成り立っているからだと

思います。

 すべてがいたって普通なのです。

 授業の運営もきちんと組織化されていて、

掃除、食事の準備、農業、スポーツ、もちろん勉強にいたるまで、

こちらが言わなくても生徒はきちんと動きます。日本と同じなのです。

 
 生徒は普通5名から10名ほどの兄弟をもっています。

その中で優秀な子供が教員養成校にきていることもあるとおもいますが、

兄弟が多いと子供の頃から親に手をかけてもらう時間が少ないので、

自然と自分で考えて行動するようになるのかもしれません。

大家族で育つと自立するのが早くなるのだと思います。

 

 食事を取るのも、勉強するのも、掃除をするのも

 親に注意されたからするのではなくて、自主的にやっている気がします。

待っていても誰も自分のことなど気にしてくれないからです。 

 逆に言えば他人をあんまり意識しないで生活しているので、

マイペースに見えたり、相手の気持ちを考えないな。と思われたり、

合理的過ぎたりします。


 日本人は合理性よりもみんなが周りの気持ちを考えすぎて、

たまに窮屈だったりしますよね。 ケーキでもなんでも必ず最後の一切れが

「遠慮のカタマリ」として残るし
 

 飲み屋の支払いもお互いに

「今日は私が出します!」

 「いや、今日こそ私が!」

 みたいなことになって、

合理性よりも人間関係を優先して疲れることもあります。

 
だから見えないところで陰口が出たりすることもあると思います。

 アンゴラ人はそういうことがない分、ケーキの最後の一切れは絶対に

 残らないし、支払いは最初から割り勘は当たり前。

 おごってもらっても特に感謝はされないかもしれません。
 
 「お金があって出したいなら出せば」

 っという感じかもしれません。すごいでしょ!

 でもそれが世界基準なのだと最近は思います。

 ギブ アンド テイク のバランスは日本ほどきっちりしていません。

 そのかわり陰口は無しです。ストレートです。

 疲れていたら話さないし、親切なときは100%心から親切です。

 無理して親切を装ってお互いに疲れることはないです。

 
  
  高い教育とはすなわち
 
 「やせ我慢」

 なのかと思うこともあります。

 お互いに上品ぶって、自分が下品だと思われたくないので、

相手に道を譲ります。

 本当に生活にゆとりがある人ならそれでよいですが、

 一般庶民同士がそれをすると、生活に困ります。

 そういう気持ちは陰口やねたみに変わるのかも知れません。

 「あの人は図々しい、相手の気持ちが考えられない」

 っておもうこと、日本人は良くあると思います。 

 どちらもバランスが大切なのだと思います。

 
 合理的過ぎると、弱者が守られない社会になるし、
 
 気を使いすぎても陰口が出るのだと思います。

   そのバランス感覚を持っていることが大切なのだと思います。

 
 結果としては
 
  アンゴラでそのバランスを持っている人は日本に行っても人間関係で

 悩むことはないだろうし、日本のなかでそのバランス感覚を持っている人は

 アンゴラに来ても成功するのだと思います。

  結局人間としての基本はアンゴラも日本も同じなのかもしれません・・・

 やっぱりまた最終的には普通でありきたりな

ブログにまとまってしまいました。

 せっかくアフリカのアンゴラまで来て何か違いを

 見つけたいと思っているのに、

 この世の中はどこまで行ってもみんなが普通に生活を営んでいて、

 家族をもって平和に暮らしているのだとつくづく感じてしまいます・・・・

2011年2月9日水曜日

一日の時間割


 
 <写真は卒業式の前日にお料理をしている女子生徒たちです>

朝の6時に生徒は起きます。

 7時まで水汲みと農業、清掃などします。

 7時から朝ごはん、

 8時から一時間目が10時まで

 30分の休憩の後に10時半から12時半までが2時間目

 教科は、理科、地理、歴史、国語、科学、英語、社会

 といった感じ・・・・

  1時から2時がお昼ご飯で、2時から午後の授業が4時まであります。


 その後にもう一度農業したり、僕と一緒にスポーツしたりして

 一日が終わります。

 晩御飯は7時からですが、三食すべて生徒が作っています。

  朝ごはんはトウモロコシの粉を水で溶いて、砂糖で味を付けたもの。

 昼と晩は赤い豆を塩でゆでたものにライスかパスタ

 このローテーションが永遠に続いています。
 
 二週目で吐き気がして体が受け付けない時期がありましたが、

 それを乗り越えると食事という概念が自分の中で変わってしまって、

 楽しいというよりも、ノルマ的に食べれるようになります。
 
 たまに干したアジがマーケットで売っているので、ご飯と一緒に食べると
 
 とても食が進みます。

   ちなみに時間割はすべて20分前後の遅れがありますが、

それはそういうものみたいです。それでも意外ときっちりと授業をしていて

 感心します。

 

2011年2月6日日曜日

急に仕事が始まりました


 
 <写真はインチキ空手を教えているところです、意外と女の子に
  うけが良かったです、それにしても写真にあるように砂漠と山
  ばかりなのがうちの学校です、空気はいつもドライです>

到着から三週間、1月31日の卒業式に初めて現れた女校長のデルフィナは

特に僕達に挨拶をするわけでもなく、しかめっ面で卒業式に出席していました。

年は34歳だそうですが、そうとう貫禄はあります。

 次の日に部屋をたずねてくれたときにはとてもにこやか、

 その後にどういう仕事ができるか、

 何を教えることができるのかのミーティングをしてくれました。

 僕は料理と体育を教えたい。と伝えました。

 ケイタは生徒と一緒に農業をしたいと提案しました。

 どちらも賛成!でした。デルフィナいわく

「何も無い状態なので、何をしてくれてもうれしいのよ!

 料理も毎日三食、同じメニューで同じものを食べてるけど、

 それはお金の問題というよりも、単に誰も何も知識が無いだけなの」

 と言われて少し驚きました。

 必要なものがあれば、見積もりだしてくれたら予算おろすからね!

 っていわれて、本当かな? っておもったけど、

 とりあえずボールとコーンは体育に必要なので、

出すだけ出してみようかな?っておもいます。

  料理はどんな食材があるかわからないし、包丁もまな板も無いので、

 しばらく様子をみて少しずつ向上できればと思います。

  ということで、実際に仕事はいつからなの?っ手思っていたその日の夕方

 デルフィナが僕のところにやってきて、きちんと正式にコピーした

 時間割みたいなものを渡しました。
 
 「ウラこれ今週の時間割ね!今日は火曜日だからここ見て、夕方5時から

 スポーツになってるでしょ、今4時だから5時からね、あなたすでに先生だか
 
 ら好きにしてよいわよ。頑張ってね、鐘を鳴らしたら生徒が集まってくる

 仕組みになってるから、今日は説明だけで終わっても良いわよ、

 初日だからね」

  っていわれたけど、基本は90人の生徒を女子、

男子一緒に授業するのは難しいです。

 でも

 「日本社会は窮屈だ、あれも駄目、これも駄目で自由が無い!」

 ってたまに思う僕が、自由を求めて勝手にきたアンゴラで、

 「自由すぎで組織化できてないから体育できない!」

 って言い訳したら、結局どこに言っても自分は言い訳してるだけになるよね

 だからまあとりあえず生徒に体を動かしてもらおうと思いました。

 
 だって授業の説明するって言っても、ポルトガル語も話せないものね。

  道具に使うコーンが無いから生徒が水を汲むのに使っているバケツを

 もってきて、って頼んだら、うまく伝わらなくて、半分くらいの生徒は

 バケツではなくて大きなタライを持ってきてくれました。

  「これじゃあコーンにならないよ・・・・」

 っ手思ったけど、とりあえずインチキ空手でハートを掴んでからは、

意外と普通にみんな楽しくやってくれました。

  午前中に一日4時間やっていたバヌアツに比べたら一クラスだけの授業は

 楽なもんだな! っておもいながらも、早めに道具をそろえてポルトガル語を

 覚えないと、すぐにねた切れだな・・・・

 なんて思いました。

 
 でもまだどの授業も始まってないのに、いきなり体育の授業を最初にできたの

 は生徒達に体育を意識してもらうのには良かったかも知れません。

  授業のあとに運動のすきそうな男子生徒達がバスケットを始めたので、

 「この子達のハートを掴めば、体育授業ももっと楽になるだろう!」

 とおもって、バスケットも参加しました。 膝の怪我も気になってるけど、

  それよりも今は生徒とコミニケーションをとらないとね!

 って思って、老体に鞭打って頑張っています。

  でも久しぶりにしたバスケットボールは意外と楽しくって、おなかも

 すいたし、良かったです。

  週ごとに時間割が変わるらしいので、来週はどうなるかわからないけど、

 とりあえず呼ばれたらいつでもできるように、常に準備をしておこうと
 
 思います。

 

二週間めですが、まだ何も始まりません



 <写真は生徒達です、ふけて見えますが大体20歳から25歳くらいです>

恐ろしいことに到着から二週間、

ポルトガル語の勉強以外は何もしていません。

 昨年末のクリスマスホリデーから始まって、

13日に僕たちはアンゴラに到着しましたが。

 一月20日にオランダから学校に寄付をしてくれた人が見学に来るので

その寄付で学校のどこを修理したとか、どこに電気を取り付けた、

どこの教室にガラスを入れた、などの確認と、

それにかかった経費のレシートの確認をするので、

学校にいる生徒は午後になるとみんなガラスを拭いたり、

ペンキを塗ったり、お掃除したりの毎日でした。

 それが終わると1月27日に予定されていた

卒業式の準備が始まりましたが、

 クリスマスから体調不良でキューバに手術をしに行っている

校長のデルフィーナの帰国が遅れるということで、

その卒業式も1月31日に変更になりました。

 ちなみに今日は30日なので明日が卒業式になります。


 そういった学校の事情が良くわからなかった僕とケイタは、

 「デルフィーナが帰ってきたら仕事くれるからね」

 っていわれて待っていましたが、なんとなく情報を収集すると、

僕たちが一緒に働くのは2010年度の生徒たちみたいで、

その子達が学校に来るのは2月に入ってからみたいです。

 とりあえずそれまで後一週間は何もおこりそうにありません。

  でも僕にとってはそれは良かったかもしれません。

  気温がマイナスだったイギリスから、

気温40度近くのアンゴラにきて時差が無いにしても

 体は相当びっくりしていると思います。

  実際に寝ようと思えばいくらでも眠れるし、めまい、

午後には頭痛がします。

 水をたくさん飲め、って言われて水を飲んでいますが、

井戸から汲んだ水は殺菌してもやはり日本の水とは違うので、

飲みすぎると下痢します。

  水を飲んで頭痛とめまいを回避するか、

飲まないで下痢を回避するかの選択になります。

 バヌアツのころも最初の二ヶ月くらいはこんな調子だったのを

思い出します。

  いったん痩せて、病気もして、下痢もして、

体はそれから現地に対応しだすのだとおもいます。


 ちなみにポルトガル語はいたって順調。

 なんといっても生徒がみんな親切です、

みんな壁のペンキ塗りやお掃除に飽き飽きしているので、

僕が勉強していると、とても親切に教えてくれます。

 「何人兄弟がいて、どこに住んでいて、
            卒業したらどこの学校の先生になる。」

 その三つの質問をすでに10人以上の生徒にしたので、

その言い回しについては完璧です。

 たまに同じ生徒に気がつかないで二回同じ質問をしているかも知れませんが

暇な生徒達は 親切に二回同じ質問に答えてくれます。途中で

 「この子には一度聞いたような気がするな?」

 っておもうけど、相手はすでに気がついていて、付き合ってくれているなら、

 許してもらえるかな?って思っています。

 こっちの人達は僕のポルトガル語が聞き取れなくても

 「えっ?何?」 「理解できない?」

 などと、急に眉間にしわを寄せてこちらをナーバスにさせるような態度はとらないので、

 とてもリラックスしてお話できます。

 そこが英語を話す人達の文化と違うところかな???

 とおもいます。

  ということで、いまだに学校の校長にもあえず自分が教える

 生徒にも会っていませんが、

 とりあえずもう少しまとうと思います。

 唯一した仕事といえば、卒業アルバムのための個人写真を撮ったことです。

 みんななぜかカメラから目をそれします。

 それがこっちではかっこよいみたいです。

 平均で2枚ずつとって選んでもらいましたが、なぜこちらを選ぶのか?

 と僕はいつも疑問に思いました。 やっぱりそれは文化だと思います。

2011年2月5日土曜日

比較しにくいアンゴラとバヌアツ


バヌアツとアンゴラの違うところ、 

バヌアツは島国なので、物資が届きにくい、車の輸送はすべて船なので、

車の数と質は圧倒的に違う、アンゴラはすべてにおいて物が豊かだ、

そして石油があるのでお金があるセメントや車もどんどん輸入できる、

ビルもどんどん建つ、

バヌアツには資源が無い、だから外貨の獲得は難しい、

資源が無い国の外貨獲得は観光になる、

しかし観光はお金と引き換えに自分達の大切な自然とともに、

人間としてのプライドを失うことになりかねない。
 
外国からお金を持ってくる観光客のほうが自分達より

優れていると思わざるを得ないこともあるからだ。

そして彼らからしか現金を得ることができなことは悲しい。

 アンゴラのビザ獲得になぜ2ヶ月以上もかかったのか、

今なんとなくわかる、

彼らは外国人たちが勝手にアンゴラに乗り込んできて、

車やセメントと引き換えにオイルやダイヤモンドを

買っていくことを制限したいのだとおもう。

外国人に勝手に商売されては困るのだ。
 
そうやって自分達の国を守る手段を知っていることは

とてもすばらしいことだとおもう。

 僕も外国人としてビザ獲得に泣かされたけど、

やっぱりそうやって自分達の国と国民を守ることは当然の権利であり、

そういう面は日本も見習うことができるとおもう。

 日本もバヌアツも島国なので、

外国に対する警戒意識はどちらかといえば低い気がする。



そして教育、バヌアツの頃は僕は初等教育、

ローカルの村の小学校が専門で、

日本の教育との差は教育レベルの面でも、

組織つくりの面でもものすごいギャップがあり、戸惑った。

 

そして今はアンゴラの教員養成校。
 
小学校、中学校と選らばれて、しかも親もお金持ちで、

エリートとして育ってきた子供たちの集まり、
 
年齢は20歳前後だが、

彼らは僕の想像以上に真面目で親切で誠実なことに驚いた。

 途上国という言葉はバヌアツとアンゴラではまったく違ってくるし、

ヨーロッパとアジアがまったく違うように、

アンゴラとバヌアツもまったく違う。
 
比較はできないし、

バヌアツの学校での経験はアンゴラの学校では

応用はできない気がします。

 それほどの違いを今は感じています。

2011年2月3日木曜日

ポルトガル語と発展への道




  <写真は市場で売っていた、虫です。食べてみるとそのまんま
   「虫」のこおばしい味がしました。
   って書こうかな?っておもったけど、そうかいて
   「なるほどあの味か!」って思える人は日本にはあまりいないとおもいます。
   僕にも虫の味がどういうものか、どの虫がおいしくて、どれがまずいのか? 
   を論じる自信はありません。まあしいて言えば雑魚みたいな味です>

 アンゴラには天然資源のダイアモンド石油がたくさんあり、

 内戦が終わって平和になった今、

 中国を初めたくさんの国が興味を示しています。もちろん日本もです。
 
 でも少しだけアンゴラが難しいところは、

 ポルトガルに植民地にされていたことです。

 やっぱり今世界の中で経済的に豊かな国は英語を話しています。

 アメリカにしてもイギリスにしてもラテンの国の人達も、

 基本的には英語を話さなくても理解はします。
 
でもポルトガル語を話す国で経済的に豊かな国は無いのが現状です。

 ポルトガル、東ティモール、ブラジル、アンゴラ、モザンピーク
 
 特にアンゴラに関しては、

 ポルトガル人は植民地にして搾取だけして

 帰っていったという評価があります。

 イギリスやフランスみたいに学校を作って、農園を組織化して、

キリスト教を広めて、

 というような教育や国つくりにはあまり興味が無かったみたいです。

 そこがアンゴラの難しいところです。

 どの先進国と一緒に国作りを行えばよいのかが難しいのだと思います。

 先進国のほうも英語が通じれば一緒に仕事をしようかな? 

と思うかも知れませんが、言葉が通じないと、

とりあえず資源だけ買って商売しよう。

 という風になるのかもしれません。

 アンゴラの生徒が言っていました。
 
 「僕たちには資源というお金がある、

そのお金を使って教育にまわせば僕たちに国も日本みたいになれると思う」
 
 日本の戦後の復興についてよく聞かれます、

 でもそれはアンゴラだけではなくて、
 
スペイン人にも、ノルウェー人にも聞かれました。

 海外に行く人は自分なりの答えを考えていたほうがよさそうです。
 
ちなみに僕は

 戦争ですべて失って劣等感があったこと、

 みんなが何も持っていなかったので格差が無かったこと、

そして戦前からすでに日本の教育水準は高く「読み書きそろばん」
 
 が一般の人のレベルまできちんと行き届いていたことなどを説明しました。

  バヌアツの人達は心の中では発展することを望んでなかったけど、

アフリカの人達、特にアンゴラでは発展への意識は高いみたいです。

 バヌアツにいた頃とはまた違った感覚を今僕は感じています。

アンゴラ一週間目です



 アンゴラにきて約一週間、学校のネットは3ヶ月ほどつながってないらしくて、


  いつあっぷできるかわかりませんが、とりあえず近況を書こうと思います。

 10年ほど前まで内戦があって危険、しかも地雷もまだう待っている、

 マラリアは普通に念に一度はみんながかかる、

 ピアスは耳からもぎ取って盗まれるし、腕時計は腕ごとバッサリきられる。
 
 それがアンゴラ。
 
 なんて、昔話がどんどん大げさになるように、

 一つの噂が無知な人達の勝手な創造でどんどんと大げさになるように、

 ここアンゴラもそういう風になってしまっているようです。
 

 バヌアツ行く前も、


 「人を食べている、もちろんマラリアもある、逆夜這いの文化がある」

 と聞いていましたが2年間待っていても何も起こりませんでした。

 ちなみにアンゴラ人、凄くよい人です。

 というかノー天気に良いというわけではなくて、礼儀正しいということです。
 
 もちろん今回の僕の派遣先はバヌアツの頃みたいに

 ローカルな場所に行って現地の人と一緒に働くというものではなくて、
 

 アンゴラの中にある教員養成校、(20歳前後)に半年住み込んで、

 日本の文化を教えたり、英語が教えれればさらによし、

 体育が教えれればもっとよし、何もできなくてもそれもまたよし。

 というものなので、学生も毎日きちんとした格好をしているし、

 先生に関してはアイロンをあてた襟付きシャツを毎日着ている

 (一週間同じシャツをきていますが)


 という恐るべし「規律」を守っている学校です。

 先生も生徒もとてもプライドが高い、ポルトガル語を話さないと馬鹿にされる。

 
 という話でしたが、こちらが一生懸命に勉強していると、

 みんなとても喜んで教えてくれます。

 生徒はみんな礼儀正しくて、

 「すいません」 デスクーペ

 「失礼します」 コン リセンサ

 などといたってまじめです。

 もちろんみんな若いから何か楽しいことがあると大声で笑っていますが、

 バヌアツの頃のように常にみんな面白いことを探している。

 何があっても笑っている、というのではなくて、

 時にはとても真剣で、真面目です。

 放課後にバスケットをしているのを見ていましたが、

 みんな額に汗をかきながら、ものすごく真剣に勝ちにこだわっていました。

 笑いはほとんど無し、

 時には口論しながらどちらのファールなのか言い合っていましたが、

 おそらくそれは彼らの日常なのだとおもいます。

 真剣で真面目な黒人達。とても自分達にプライドを持っていて、

 物事を追求する姿勢があるように思います。もちろんおおらかさもありますが。

 バヌアツ、アンゴラと途上国と呼ばれる国の中で両極端な国を見て感じたことは、

 世の中人のすんでいるところは、それなりに規律があって、

 バランスが取れている、

 日本のドキュメンタリーとかユーチューブで流れてるような

 「この世の終わり」

 みたいな世界はテレビが作った世界であり、

 先進国の人達が自分の人生に少し疲れてしまったときに

 そういう番組を見て

 「あー、アフリカに比べたら、自分のほうがまだましなのかな?」

 
 っておもうための世界であって、

 実際にはどこもとても良いところなのだと思い始めました。

  
 もしかしたら刑務所の中だって入ってみたら意外とみんな良い人なのかもな?
 
 なんて思いました。

 それがアンゴラの第一印象です。

2011年1月26日水曜日

Genki desu

Angola ni tukimasita ga internet ga nai node kousin ga okurete imasu.
demo genki ni ganbatte imasu.
tikai utini net ga tunagaru to omoimasu mou sukosi matte kudasai.
yorosiku onegai simasu,
Teruhiro URA

2011年1月15日土曜日

ここからアンゴラです。


ついにアンゴラに到着しました。

 なんと言ったらよいのか、ちょっと難しいのですが、協力隊のOBの人がこのブログを

 読んでくれている思うので、正直に書くと、あまり実感がないというのが

 正直なところです。

 バヌアツでの2年間で僕の中ではなんとなくボランティアにたいする

 考え方がまとまっていて、

 今回の6ヶ月間はどちらかといえばそれほど熱く無いという気持ちです。

 ひとつの理由は4名で一緒にきましたが、

 みんながアフリカを目の前にして興奮しているのを見て、

 なんとなく一緒に興奮できない自分に気がついてしまったこと。

 空港に着いたときに感想は、

 なんとなくバヌアツに戻ってきたという気持ちでした。
 
 空港、町、人、匂い、湿気、食事、なんとなくすでに知っている気持ちでした。

 ただ一つ違うのはポルトガル語だということ、

 初日に来た首都の学校の先生達は英語を話しますが、

 それ以外はみんなポルトガル語だということです。

 アンゴラはポルトガルの植民地だったからです。

 
 もうひとつの僕がの気持ちが熱くならないというか落ち着いている理由は、

 学校の生徒も町の人たちもみんな親切でよい人達だとわかったからです。

  東京よりも物価が高くて、世界で一番すみにくい町と呼ばれている

  首都の町ルアンダですが、

 (ルアンダとはアンゴラの首都で、別にルワンダという国もあります)

  今日一日過ごして、みんながよい人だということがわかったので、

やっぱり地球はどこに行っても自分次第、

 みんなよい人という安心感をもちました。

  今は協力隊みたいに熱い気持ちではなくって、もっとこう大人な気持ちで

 挑むべきなのかな? と感じています。

 
 明日の朝から400キロほど南にあるバンゲラという町にある教員養成校

 バスで8時間かけて行きますが、

 少し冷静に、実践的に働きたいと思います。

  

 もうひとつの感想は、協力隊は2年間だったけど、今回は6ヶ月だということ。

 協力隊で初めて任地のタンナ島に着いたときみたいに、

 「ここで2年間すむんだ、それぞれのシーズンを二回経験して、

 帰国するときには自分は2年も年をとるんだ、

 何が何でも言葉を覚えて、島に貢献したい」

 という気持ちでした、でも今回は。

 「自分には半年しかない、

 プロジェクトの中心に自分がなることは言葉の面でも、

 時間の面でもありえない、

 だったらいまプロジェクトと学校を一生懸命運営している人を

 どうやってサポートできるか? 

 どちらかといえば裏方に徹することがもっとも貢献できる道だ」

 という気持ちでいます。そのなかでこっそりとポルトガルを覚えようと思います。

  
 イギリスとアンゴラの間で時差が1時間しかないのも理由のひとつかも知れません。

 変な時間に眠くなったり、食べたくないのに食事を取らなければならなかったりという

 海外旅行独特な変な健康状態になることはありません。

  いたって普通です。

 
 それがアンゴラの初日です。

 ちなみにアンゴラは内戦が長かったので、協力隊の派遣はありません。

 でも見た感じではいたって普通、ものはバヌアツよりも豊かです。

 国の規模もバヌアツより10倍くらい大きいしね。
 
 国土は日本の5倍くらいはあると思います。

 そんなアンゴラ生活始めますので、またよろしくお願いします。

2011年1月11日火曜日

一流の人


 <写真はイングランドに田舎町です、冬は昼間でも気温がマイナスなので
 これだけ日がてっていても凍りついた木はとけません、強い日差しなのに
 枝が凍っているのはとても美しかったです>
 
フットボールをしていた頃。

 数々の伝説的な先輩と一緒にプレーすることができました。

 学生の頃に、

 「あの先輩はすごかった」

 と色々な伝説を聞いていた先輩や、

 ほかの大学でも大学からものすごく活躍していて、

雑誌に載っているような僕があこがれていたような選手と

 一緒にプレーできたことは僕にとってはとてもよい経験になりました。

 
 やっぱり一流と呼ばれる人は何かほかの人とは違うものを

 持っている気がしました。

  試合中にそういった先輩がものすごいプレーをして、

 チームみんなが盛り上がったときに、

  
 「流石ですね、すごかったですね!」


  って僕が声をかけたときに
  
 「いや、もっとやれた、あんなんではあかんな!」

 と普通な感じで返事が返ってきたときに

 「やっぱりこの人は違うなー!」

 っ手気持ちが引き締まった思い出があります。


  試合前にお互いの選手同士が少し興奮して、

 喧嘩しそうな変な雰囲気になったとき、

 
 「おい、なにやってるねん。相手にするな、早く戻って来い」


  ってうちのキャプテンがめちゃくちゃ落ち着いた声で普通に言ったとき、

 チーム全体の浮ついた気持ちが一気に静まって試合に集中できました。

 
 
  大切な試合の前にゼネラルマネージャーがみんなを励まそうとして

 「次の試合はスポンサー、マスコミ、

 その他もろもろのものすごい期待がかかっている、
  
 君たちの人生もこの一試合で大きく変わる」

 などと、練習後の寒いグランドで永遠と20分くらいしゃべり続けて、

 みんなが何かものすごい

 プレッシャーと不安を感じはじめた後に、うちのキャプテンが

 「簡単なことや、ようは勝つだけ」

 って少し面倒くさそうに言ったときその一言でチームの不安が取れて、

 みんな勝つことだけに集中できたような気がします。

 「ウラ、ちょっとくらいいいプレーしたからって喜んでたら

 いつまでたってもお前は二流や、本当の一流はよいプレーしたあとに、

 これくらいのプレーのレベルはすでに経験済みだよ、
 
 っていう顔ができないとあかん、

 そういった態度は自分のチームを引き締めるし、

 相手チームに恐怖心を与えることができる、

 だから雑魚な選手みたいにしょうもないプレーでイチイチ喜ぶな」

 っていわれたことあります。

 たぶんこういう人が戦国時代とかに天下取るような人なんだろうな、

 生まれる時代を間違えてるなー っていまでも思います。