2011年2月19日土曜日

「押し付け」よりも「動機付け」


 <農業の時間に働いている生徒達です、人数が多い割には仕事と道具が
 少ないので、みんな立ち話が始まってしまいます、まあ仕方ないなー
 となんとなく納得して今います、憎めないんだよね・・・>

  物事を人に教えるにはやはり動機付けというか

なぜそれが必要なのか? どういった効果があるのか?
 
 をきちんと伝えることが必要だと思います。


 たとえば毎朝グランド2週を100人の生徒に走ってもらいたい。

 生徒が嫌いな野菜を昼ごはんに食べてもらいたい。

 そういうことでも何かこちらが変えようとすると必ず拒絶反応が出ます。

 「日本人が言い出したから取り合えずやろう!」
 
 という外国人ならではの特権が生かせるときと。

 「外国人に言われて自分達のやり方を変えたくない!」

 という場合があります。


 たとえば朝のランニングは今までやってないことだったから、僕が言い出したらみんな朝の6時におきて走ってくれました。

 その後にきちんと出欠を取ることにより、さらに出席率は上がりました。
 
 でも今日感じました。 走る理由出席を取る理由を説明しないと続かない

 「朝一番で体を動かすことにより、朝ごはんをしっかり食べることができるし、体も目覚める、それによって午前中の授業に集中できる、朝に軽い運動をすることは大切だ。

出席は必ずとる、それはきちんと走っている人と走っていない人が同じ評価なのはきちんと走っている人のやる気を失わせるからである。

遅れてきて、病気だから今日は走れませんと言い訳するのは良くない、遅れるなら早めに着てきちんと理由を述べるべきである。遅れる生徒に病気が多いのは、時間がなくて走れない走りたくないことの言い訳である」

 本当はランニングを始めるときにきちんとここまで予想しておいて説明
するべきだったんだろうけど、ポルトガル語でこれを教えるのはとても難しいし、毎朝ランニングすることがうちの学校にとってどれほど強制力を持って押し付けてよいものかもアンゴラでの感覚がわからなかったし、気がついたら真面目にやる生徒とやらない生徒が出てきてしまいました。


 料理のほうはもっと難しいでうす。

 好調は芋だけど、ショッパイ大根みたいな野菜を生徒に食べさせて欲しいと
僕に頼みました。

 いろいろと試した結果、細かく刻んで大根のようにして鶏肉と煮込めば、ご飯にかけて食べれてもおいしいことがわかったので、朝一番せ畑に行って50個ほど掘り起こして、ポンプの水で洗ってキッチンにもって行きました。

 今週の月曜日から生徒とその芋のことについて話していたのですが、結局みんな料理するのを嫌がったので、金曜日の今日は強制的にでも入れてもらおうとおもって、準備したのですが。結局生徒は誰も皮をむくのを手伝う気もなく、

 「明日にしたらよい」

 「ご飯には合わないからパスタの日にしたほうが良い」
 
 「作っても誰も食べない」

 「日本では食べていても、アンゴラでは食べない」

 「晩御飯のスープに入れたらよい」

 などといって料理してくれません。ぼくが

「校長からのリクエストで生徒がみんな嫌いなのは知ってるけど、
すでに畑にいっぱいなっているし鉄分が多くて体に良いから食べるように
といわれているんだよ、日本で僕も食べたことないよ」

 とせつめいしても

「じゃあ半分だけそれで作れば?」

 と言い残して気がついたら勝手に料理を始めてしまっていました

 結局とってきた芋は使い道がなく、今日も断念。

 やっぱりきちんと健康に良いとか、自分達で育てた野菜を食べることは大切だとか、米と肉だけの食事は良くない

 などの理論がないと生徒達は単に「ウラが言っている」
 
 だけでは動いてくれないのだと思います。

 そうなるとポルトガル語だよね。

 それができない自分は相手に強制させることはできないよね。

 っておもいました。

  でもできれば生徒達に試してみて欲しいとおもいます。

 生徒が試してみて、試食してみて、その結果やっぱりアンゴラのやり方のほうが正しいと思ってくれたのなら、それは生徒の「選択」による結果だから、良いけど、最初から「やりたくない」
というだけの理由で挑戦すらしないのなら、それは「選択」ではなくて、「無知」だから、やっぱり試してみてから決めたほうが良いのだと僕は思います。

日本人はそうやって外国のものをドンドン吸収して、時にはそちらが良いと選択したり、時には日本のほうが良いと選択したり、その真ん中をとってさらに良いものを作ったりするのが得意のだと思います。
 生徒にも朝一番で試食を作って食べてもらって、みんな
「おいしい」
 とはいうものの、
「それでは今日はこれを作りましょう」

 というと、みんな嫌がってしまいます。

 やっぱり栄養のこととか、自給自足の生活の良さとかプレゼンすべきなのかな?とも思いますが。

 そこまでして、生徒にやり方を変えてもらうよりは、半年仲良くみんなと
同じものを食べてるほうが良いのかな?校長先生にはわるいけどね。
それが限界かな? などとも思いました。
 もう少し長い目で見て、何か改善しようと思います。

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

浦さんへ

六本の手だろうが二本の手だろうが、芋を料理させようが仲良く半年過すだろうが。。。。

去年、地元の新聞にある哲学者がこのようなことを云っていました。『最近の音楽家(ミュージシャン)と呼ばれる人達は、良く「愛」だとか「恋」、「勇気」、「希望」という言葉を使いすぎていて、ふとラジオから流れてくる音楽を聞くと気持ちが悪くなってくる。ベートベンやショパン達の時代に作られた物こそ本当の音楽で、今更にそれ以上のものはできないし、わたしは期待しない。』と、いうような事が書かれていました。

私はこの記事を読んだ時に、この人の心の根を疑いました。音楽という物も、他の芸術もいつの時代でも良い物、悪い物は両方が必ず出ます。でも、それを作っているのが商業主義に侵されて、作られた物だとして、それの何が悪い?偉大な芸術家(音楽家にも、小説家にもその他にも)金を稼ぐ為に作った、作らずを得なかった作品があり、その作品の中には今の時代まで評価され残った物、残らなかった物が当然あります。商業主義は悪だというならそんな哲学者は新聞なんかに自分の意見を載せるな。

人が個人の意志で作りたくなって創られた芸術はそれは素晴らしい物です。加えて、作らなければならなくって自分の時間を割いて創られた芸術はどうか。私は心を大にして云いたい。それだって素晴らしいじゃないかと。ただし、その価値は同じ時間を生きるその他大勢に、はたまた時間を隔ててれば、世代と時代を超えて評価されてしまうのです。それは当然です。でも、ここでもう一度云います。芸術と呼ばれる物に関して、その作られた経緯は一切関係ないのではないかと。

六本の手は私はいりません。(宇宙人にはなりたくないから)笑。でも、援助がいるかどうか、必要ならば質と量はその対象となった人が決められたらと思います。芋の料理、食べてみて美味しければ、私は作りたい。しかも、その土地で集められる材料で、且つ、慣習が料理を許容するのであれば(時間や男女の問題等)。

浦さん、ちょっと人と話し終わったら、愚痴り?たくなってばーっと書いてしまいました。読み返してもないのでUPせんでいいからね。よっしーの愚痴?として読んでくださいな。

浦 輝大 さんのコメント...

ヨッシー内容もすばらしいけど、言葉に力があったからとりあえずアップしたよ。 とりあえず俺のことを励ましてくれてるんだよね!
 バヌアツに続いて、アンゴラは途上国二国目だけど、別に途上国だとは思えないんだよね。

 だから俺に何かする必要あるのかな?
って思ってます。その言いわけが6本の腕になったような気がするね。まだ模索中だからあまり鋭いコメントしないでね、俺の考えもまだまだ甘いからね! ではでは今後ともよろしくです!