2010年2月23日火曜日

写真で紹介フツナ⑮ 最後に


島の静かな生活を愛し、昔からの生活を守り
 
 自然を尊敬して、自分たちは地球に住まわしてもらっているという気持ちを持って
 
 自然を破壊しないようなさまざまなカスタムを自分達でつくり、

日々の安定した生活に感謝しながら心豊に生活するフツナの人々。
 
 逆に、
 
  自分の理想に近づく為に努力をして、達成したときの喜びや充実感、
 
  成功体験をエネルギーに変えて
 
 次の目標へとチャレンジすることの面白さを学んでしまった僕ら先進国の人達。
 
  「向上心」
 
 っていう前向きなはずの言葉がときに自然を破壊してしまい。
 
 「人より多くのものを持つ事が努力した結果だ」
 
 という考えかたが競争意識をあおり時にはモラルに反したこともしてしまう。
 
  僕も日々の仕事の中では

  「バヌアツ人働かない!時間守らない!」
 
 なんて言いながらも 
 
 一週間のフツナ滞在で感じたこの「心地よさ、安心感」ってどう説明したらよいのか
 
 難しく感じます。
 
  
 
  先進国の向上心を親の愛情としてたとえるなら 
 
 「子供のことを思いすぎて厳格になりすぎた父親」
 
 なのかも、愛情の前提に無ければならないのは
 
 子供が能力があっても、逆に能力が無くってクラスの落ちこぼれでも
 
 その子供の努力を認めて愛してくれる事だと思う。だって家族だから。
 
 でもいつの間にかそれが、結果が伴わないと愛さない!子供として必要無い! 
 
 という偏った愛情になってしまっていて、愛を語る事は敗者のすることみたいに
 
 なってしまったのかも。
 
  能力がある人は賞賛されるけど、落ちこぼれれば居場所が無い。愛情ではなく、
 
 少し人間性を失った向上心になっていて、そしてそれに勝ち残らなければ、
 
 守るべき家族も守れない状態、
 
 だから家族を守るためには職場では人間性を捨てなければならない事もある。
 
 ちょっと矛盾してるっていうか、行き詰まりなのかもね。人類の思春期なのかも。
 
 そしてそういった価値観で生活してきた人達は多くの物を持っているから

 持っていないバヌアツの人達に対して優越感を持つと共に
 
 向上心が無いと判断してしまうこともある。
 
 そして環境破壊が進んで破綻しかけてる自分たちの生活スタイルに
 
 無理やりバヌアツの人達を引き入れようとして一生懸命になっている。
 
 
 
 逆にフツナで感じたのは
 
 「母親がくれる愛情」
 
 子供の能力によって愛するのではなく単に自分の子供だから愛す。

 そこには理屈は無いと思うし永遠に行き詰まりが無いものだと思います。
 
 この一週間で感じたのはそういった安心感。もちろんフツナにもドン臭い
 
 人や働かない人は居ます。でも自分の居場所が無くって困っている人は一人も
 
 居ませんでした。バヌアツに着てから思っていた一つの
 
 答えが、フツナの一週間で納得できた気がしました。
 
  
  先進国の人達の思春期が終わったら人間はもっと大人になって、
 
 もっとみんなが住みやすい世界ができるのかもね。
 
 まあ思春期に荒れた人ほどその後に器の大きい人間になるとも言うから 

 もう少しの間だけ地球に頑張ってもらうしかないかも・・・・

それではフツナの紹介はこれで終了です!

写真で紹介フツナ島⑭ 夕日、火山、タンナ島


この写真はフツナ島から見た僕の家のあるタンナ島です。
 
 ホームシックにはならなかったけど、夕日に照らされて綺麗でした。
  
 そして注目して欲しいのは写真の右の端にキノコ雲が上がっている事。 
 
 これはヤスール火山です。一年中噴火してます。
 
 火口の200メートルくらいまで歩いて見に行けるんです。
 
 たまに外野フライのように溶岩が飛んでくるので見に行くときはグローブが必要です。
 
 (グローブは嘘です)
 

写真で紹介フツナ⑬ 台風


実は僕がフツナに出発する前の週はフツナ島にサイクロンが直撃!
 
 ウチのボスに
 
 「行かないほうが良い?」
 
 って聞いたら少し考えて
 
 「よい時も悪いときも見たほうが良いから言ったほうが良い!」
 
 と相手の為を思っているようで、結構いい加減な返事!
 
 でもまあなんとなくその一言で気が楽になりました。
 
 被害は結構あって沢山の木が根元から倒れていました。
 
 こちらは半壊のローカルハウス、
 
 全壊の家もあったけど、写真にとっても伝わりにくそうだったからこちらにしました。
 
 島の人怖かっただろうなー、と思いました。

写真で紹介フツナ⑫ コウヘイ君


一番左に座っているのは現在フツナ島にフィッシャリーを作るプロジェクトで来ている

  コウヘイ君です、大学のゼミが立ち上げたプロジェクトの調査員として
 
 半年間フツナ島に滞在中です。2月末には帰国してしまうそうです。
 
 今回のフツナ島で僕が一番お世話になったのは彼です。
 
 ビシュラマ語も村語も良く話せて、一年間居る僕よりもバヌアツに溶け込んでる気がしました。
 
 まだ大学一年生、帰国したら2年生です。 なかなかの好青年でした!
 
 日本の若者ってすごい!
 
 
 ちなみに真ん中で満面の笑みの女性はタンナ島の我が家の二軒先に住んでいるレイモンドの娘の
 
 リンディー、現在は首都に住んでいるんだけど、こないだの正月にタンナに戻ってきていて、みんなで一緒に

 海に行ったのにフツナで会ったときに僕のことに気が付きませんでした・・・・
 
 彼女もフツナに旅行中でした、
 
 お米を口にいっぱい頬張りながら時に大爆笑するので、
 
 お米が口からいっぱい飛びだしてました、まったくそれを気にしないところが素敵でした。
 
 これも文化の違いなのかな?

写真で紹介フツナ⑪ ピクニック


木曜日は仕事が無いので海でピクニック、
 
 沖からカヌーがやってきて魚が出てくるのかと思ったら
 
 スイカご沢山積んでありました。食後のデザートだったみたい。
 
 子供は何も言われなくてもスイカを陸に運んで居ました。
 
 子供は本当に良く働きます!

写真で紹介フツナ⑨ 純粋な子供達


僕が泊まった家からは夕日がすっごく綺麗で、
 
 夕方にシャッターチャンスを待っていると子供たちのこの笑顔!
 
 すでに授業を一緒にしたので警戒心も無く近寄ってきてくれて撮ってもうれしかったです。 
 
 働いた後の御褒美はやっぱり子供の笑顔ですねー

写真で紹介フツナ⑧ 公衆電話


公衆電話!

写真で紹介フツナ⑧ ローカルハウス


これが僕が一週間泊まった家です。
 
 101号室、102号室、103号室ですが僕が泊まったのは一番右の3号室でした。
 
 ちなみに1号室はピースコープのトニーの家です。
 
 2号室は現在開いています。
 
 ローカル素材は風がよく通るので夜も暑くなく快適ですが、風が強いと木の粉が天井から
 
 降ってきます。
 
 困るといえば蚊が多いいこと、蚊取り線香は必需品です!
 

写真で紹介フツナ⑦ つかみはOK!


こちらは島に一校になってしまったイシヤ小学校、

 今回の僕の出張の目的はこの小学校で火曜日と金曜日に授業をすること
 
 校長先生が生徒を集めてくれてまずはご挨拶、
 
 「右手を上下に動かして、左手は左右に動かす、これを一緒にできるかな?」
 
 ってやってもらってみんな混乱して大笑い
 
 「今はできないけど、練習すればできるようになるんだよ、体育ってシャイにならないで
 
 何かに挑戦してそれを一つずつできるようになる喜びを知る事が大切なんだよ」
 
 ってまとめるはずだったのが、みんな初めて経験する動きに大ハシャギと大爆笑で
 
 僕の話を聞く気はまったく無し! でもとりあえず 
 
 「つかみはOK!」
 
 と満足して先生達をみたら先生達も子供に負けずにやってました。
 
 そして水曜日の午後のスポーツタイムも新学期が始まったばっかりでまだコーディネイト
 
 できてないからやってくれる? 
 
 って言われて、結局引き受けました。
 

写真で紹介フツナ⑥ ピースコープ トニー


彼の名はトニー、
 
 思いっきり日本人だけど実はピースコーというアメリカのボランティアです。
 
 すでにバヌアツ3年半だそうですが、イロイロな活動をしているうちに
 
 今でも伝統を守って静かに暮らしているフツナ島に魅力を感じて
 
 現在はこの島で活動中です。
 
 主な仕事は島の学校で理科を教えること。

 今回はサイクロンの被害の調査をしに着た海外の調査団と一緒に島を回ったりして
 
 被害状況を説明したりもしていました。
 
 両親が中国からアメリカに移住したので育ちはアメリカ。
 
 服はボロボロ、髪はボサボサだけど村人からの信頼も厚く、言葉も完璧
 
 同じボランティアとしてとても良い刺激になったと共に見習う点が多くありました
 
 時にバヌアツ人よりバヌアツ人ぽい感じがします。
 
 でもちゃんと自分のアイデンティティーを持っていて、自分がバヌアツ人とは違うという
 
 事も嫌味がなく表現できているところがすてきでした。
 
 昔日本を騒がせたカリスマ宗教家の松本さんに似ているとも言われています。
 
 今年7月に4年間の活動を終えて帰国するそうです。

写真で紹介フツナ⑤ ロストワールド


これが飛行機から撮ったフツナ島です。
 
 全体が岩でできていてロッキーアイランドとも呼ばれています。
 
 丸い帽子のような形に島がなっていて、頂上には広い平地が広がっていますが
 
 そこには誰も住んでいないそうです。写真のように頂上には常に雲がかかり雨が多いので
 
 その雨が岩を伝って下にある村に流れてきます。だから水はすごく豊富です。
 
 昔、小説で誰も入った事の無い山の頂上の平地には今でも恐竜が居るという内容の本
 
 「ロストワールドだっけ?」というのがあったんだけど、それとよくにています。
 
 そして夕方には羽を広げると1メートル程もあるコウモリが島の周りを飛んでいます。
 
 人を寄せ付けない土地ってなんか魅力的ですよね!

写真で紹介フツナ④ 機長の余裕


観光気分の機長に少し不安を抱きながらも飛行機はフツナに向かいます。
 
 多分200キロ位だと思います。飛行時間約1時間です。

  ちょっと落ち着いたなー、って思って前を見るとなんと機長が読書をしていました。

  「やっぱりこの人は素人ではなかったんだ!」

 という安心と共に
 
 「これで大丈夫なの?」

  っていう不安が少し沸いてきたけど、小型機の中はエンジンのすごい音で後ろから
 
 写真を撮っても気が付かないから。その姿をパチリ!

 でも別に訴えようとかそういう気持ちは無いので皆さんも温かい目で見てあげてください。

よく考えたら飛行機って信号機無いし対向車は来ないし、空見てるだけでやる事無いものね!
 
 芝の空港への着陸もスムーズに終わり、無事にフツナに着きました!

写真で紹介フツナ島③ ヤスール火山


出発から約10分、タンナ等の上空を飛行中に見えてきたのはヤスール火山!

 相変わらず爆発してました。火山を上から見る事ができるなんてすごい!と思って思わず
 
 写真を撮っていたら、なんと機長もデジカメで写真をとっていたので、
 
 「なんで?毎週撮ってるのかな?それともこの人普段は違う路線なのかも?」
 
 と少し不安になりました・・・

写真で紹介フツナ島② エアーバヌアツ!


出発と思ったら、飛行機のチケットに座席番号が入ってないからおかしいな?
 
 と思っていたら本日フツナに行くのは6人だけだから君達はこっちね!って言われてしまいました。
 
 なんとアイランダーという小型飛行機、
 
 中はエスティマより幅が無くってVOXYとかステップワゴンって感じ、とりあえず座席は8席あるけど荷物が多いので
 
 後部座席は倒して荷物置きになっていました。
 
 運転手は一人なので満杯だと助手席に乗れることもあるそうです。
 
 子供は二名座席に三人座らされて両サイドのシートベルトで縛られて出発する事もあるそうなので
 
 近いうちにはつり革なんかも着くかも知れません。 さすがエアーバヌアツ!

写真で紹介フツナ島① 出発


僕の配属先はタフェア州教育省でタフェアとは
 タンナ島
 フツナ島
 エロマンガ島
 アニワ島 
 
 4つの島の頭文字をとってできた名前です。
 もちろん日本でダントツ有名なのはエロマンガ島、バヌアツは知らなくてもエロマンガは知ってる人は
 多いはず、ちなみにこっちの人は短縮して
 
 「エロ!エロ!」
 
 と言います。
 
 ウチのボスはフツナ島の出身で、前から僕にタンナ以外の島も行ったほうが良い、と言ってくれてたのに
 僕はタンナ島だけで精一杯だったので昨年は行かなかったのですが、今年の仕事始めはフツナ島への出張から
 はじめることにしました。
 
 ちなみにエロマンガ島は昔は人口4万ほど居たのですが、数百年前に貿易のためにやってきた白人から伝染病
 が広まったらしく、人口が数百人に激減して今はひっそりと残った人たちが暮らしている静かな島です。だからエロ   
 くないと思います。
 
  ボスは「二週間いけば?」って言ってくれたんだけど、初の単身での出張で二週間は長いし、フツナは先日
 台風が直撃したばっかりで、島の状態がわからないという事で一週間にしてもらいました。
 飛行機は月曜と木曜の週に二便飛んでいます。
 
 では飛行機に乗って出発です。
 

僕は中小企業の社長編


バヌアツはフランス式で三学期は12月で終わります。昨年の公式最終日は12月の7日。

 11月のバヌアツ全土の統一テストのナショナルイグザムが二週目に終わってその次の週にそれぞれの学校で行わ
 
 れるファイナルイグザムが終わって、その後って生徒は学校に来るけど、特に授業とかは無くて単に終業式を待つ
 
 だけです。
 
 でもそれはちゃんとした学校で、それを待たずに勝手に解散してる学校も結構あります。特に全寮制の学校は
 
 授業が無いのに生徒が泊まっているだけでは意味が無いと思っているみたいで、勝手に終業式をしてドンドン解
 
 散してしまいます。
 
 11月の僕は巡回先に行ってみたら
 
 「先週言い忘れてたけど今週はテストだからまた来週ね!」

  って軽く言われて、次の週には
 
 「先週言わなかったっけ?先週はバヌアツ全土の統一テストのナショナルイグザムで今週はそれぞれの学校が行う

 ファイナルイグザムだからまた来週ね!」
 
 その次の週は
 
 「テスト終わったら子供がこなくなちゃったからとりあえず今居る子供集めるから待っててね!」

  という感じで僕が生徒に教えるって言うより、暇な生徒達が僕の授業に付き合ってくれてるみたいな感じになっ
 
 て、いつのまにか今年の5校の巡回指導は終わってしまいました。
 
 結局11月からまともな授業はできずに、気がついたら僕の協力隊一年目の仕事は終わっていました。
 
 昨年一年を振り返って思ったことって、自分は体育っていう価値を売り歩く中小企業の社長みたいだなー
 
 ってことです。
 
 巡回指導は飛び込みの営業みたいなもので、実践して見せることで体育の価値を宣伝して回る。
 
 体育委員会は営業マンの育成みたいなもので、一人で営業してても60校の足並みをそろえるのは難しいから
 
 現在居る8人のメンバーを育てて営業エリアを分割して効率良く体育を広めたい。
 
 ワークショップはその名の通り先生達を集めて体育の実践の仕方の講習会です。
 
 後は協力してくれそうな人、例えば中学校、高校の体育コミッティーとか巡回先で体育に意欲的な校長や先生
 
 が居ないかとかユースアンドスポーツのオフィサー、時にはよその国のボランティアなどに話を聞きに行ったりして、何
 
 処かにビジネスチャンスが無いかを常に考える感じです。
 
  きっと中小企業の社長ってこんな感じなんだと思います。
 
 どんなことにも常にアンテナを張って頑張らないとね。
 
 でもなかなか上手くはいかないもの・・・・
 
 ボランティアだから頑張れるけどもし本当に会社だったら倒産だな・・・・

 
 写真はお隣のクウィンティルです、このでっかいさやえんどうみたいなのの中身が好きみたいで集めては食べてま
 
 す。 いやされます・・・・

失敗談


昨年フツカイ小学校に巡回に行ってたときの話です、今思えばそこの校長は女の先生であまり体育
 
 に前向きでは無かったみたい。
 
 8年生は期末テストが終わるまでは忙しいので体育はいらないということになり、
 
 一年生から7年生までを2学年づつ一緒に午前中に45分を4コマで教えてたんだけど、
 
 あるとき
 
 「できれば体育は午後にやってもらいたいけど良いかな?」
 
 って言われて、まあそれまでほかの学校では午後に授業をしたこと無かったけど、ちょうどフツカイ小
 
 の隣に7年生、8年生だけの全寮制のフランス語の学校があったので、午前中に一時間だけそこを
 
 教えて、午後にフツカイに行けばもう一校教えれるな。
 
 と考えたのもあってOKしました。
 
  でもそれが間違い、 
 
 バヌアツは午後の授業が12時半から14時半で2時間の授業があるんだけど、30分で4コマで組
 
 むとどうしても時間が足りない。
 
  しかも午後は先生がランチに家に戻ったきり学校にこなかったりするから世辞にもちゃんと授業やっ
 
 てるとはいえない状態で

 そういうクラスの生徒が暇で体育の授業に勝手に入ってきたり、冷やかしたりするし、逆に体育が

 嫌いな子は勝手に抜けて家に帰ったりしていまう。
 
 巡回指導で週に5校の学校を教えている僕には子供の学年や名前は覚えられないから毎回
 
 授業は崩壊していまうし、やっぱり担任の先生が一緒に見ててくれないと子供の意識も低く
 
 なってしまう。
 
 それまで体育の授業を喜んで受け入れてくれなかった学校が無かったので、フツカイ小でも喜んで
 
 もらえると思っていたのだけど、そういう失敗もありました。あの頃はフツカイに行く月曜日は憂鬱だ
 
 たなー!
 
  でも今年は大丈夫!理由は現在州の教育省がが建て替え中で一時的にウチの家が教育省に
 
 なっていてそこにイロイロな学校の先生や校長が尋ねてくるんだけど、その中で
 
 「ウチにはいつ来てくれるの?」
 
 って言ってくれた学校を優先して回る予定だからです。
 
 しかも昨年は一校につき半年づつ巡回したけど、今年は一ヶ月で変える予定。
 
 体育の授業を先生達に教えるというより、体育という概念を多くの人に見てもらうことからはじめようと
 
 思っています。

 今年もたくさん失敗すると思うけど、旅の恥はかきすてとも言うし、2年目はすでに最後の年だし
 
 ノビノビ活動しようと思います!

  写真は近所のヤケル村のツリーハウス、普通木の真ん中に作るけど流石バヌアツ人テッペンに
 
 建ててしまってます。日当たり風通しは最高だけど一時間も居たら揺れて船酔いみたいになります。
 

僕の村の変な日本人


僕の名はジョスア11歳、写真の一番左です。
 
 右に居るのは弟と妹、あと兄と姉も同じくらい居て写真には写ってません。僕はちょうど兄弟の中で
 
 真ん中だと思います。
 
 今日はうちの島に一年前から居るおかしな日本人について書きます。
 
 日本という車と電化製品を作っている国からバヌアツ人を助ける為に来た!
 
 といってるけど、その日本人が車もラジオも作っているところを見たことが無く
 
 しかも毎日村人に助けられてる姿は毎日見るけど助けたことは一度も無く
 
 日本から来たのに空手もカンフーもできないし・・・・

 いつか突然変身して俺たちを助けてくれるのかな?と観察しているのだけど、

 村にきて一年が経っても一度も変身したことはありません

 最近村人の中で彼は何しに来たのか疑問に思ってる人が多くなってきました。
 
 僕をはじめ8人の子供が割礼の儀式を行ったときにチーフが
 
 「困った人はどこの国の人でも助けるべきだから、あの日本人にもやさしくしなさい」
 
 と言ったのでその後は他の6人と一緒に日本人の面倒をみています。後の2人は割礼のためだけに島に来たから

 今は島に居ません。
 
 割礼が終わって痛みをこらえている僕らに日本人が
 
 「痛いの?」
 
 と心配そうに聞いて回っているのを見たときに隣にいたチョップが
 
 「あの日本人割礼終わってないんじゃない?」
 
 と言ったので大笑いしました。最近では彼のあだ名はデープスキンです。

  その日本人は
  
 「俺も木に登る!」
 
 と豪語したわりには、途中で蜂の巣を見つけてビビッテ降りれなくなっていたし
 
 「俺も今日からお前らと同じように裸足で生活する」
 
 といってたわりに途中で脚を切ってウチの弟のサンダルを借りて家まで帰っていたし
 
 「俺は肌が強いから蚊には刺されない」
 
 と言ったその日に、ムカデにかまれて入院していたし。
  
 ココナッツジュースを飲んではお腹を壊し
 
 マンゴーを食べては口がかぶれ
 
 自慢げにバイクに乗っては転び
 
 夜中に懐中電灯無しで歩いては牛のウンコを踏み
 
 ホームシックになったときには日本語で犬に話しかけ
 
 トイレットペーパーがないからブッシュの中でウンコができないと僕に相談してくるし・・・・
 
 面倒を見るのが大変です
 
 愛想は良いし村人が想像できないようなおかしな行動してるからみんなは常に気にかけていて、
 
 5日も姿をみないと
  
 「もしかしてどこかで死んでるのでは」
 
 と心配するようになって来ました。
 
 でも一年も面倒をみていると、来年居なくなってしまうとつまらなくなります。
 
 結局何のために日本人が来たのか良くわからないけど、村人の中ではあいつは日本に帰る気は無いようだ
 
 とささやく人もいます。僕もできたら帰って欲しくない気がします。
 
  誰かと結婚させようと言う話もありますが、デープスキンとは誰も結婚したがりません。
 
  こないだのチーフの会議で今年の5月の割礼の儀式に日本人も参加させると決まったそうです
 
 なんか楽しみ・・・・

お金と人柄編


「上司は部下を使う立場だから常に部下の能力を見ているが、部下は上司を使うわけではないから能力よりもその人間性を見ている。だから部下の目は怖いものだ」
 
 って本で読んだことあったんだけど僕も赴任して約一年、自分のなかでは何か形をと思うけど、バヌアツの人って僕の仕事の結果よりも人間性を見てるのかもな?って感じることあります。
 
 残り一年が終わって任地を去るとき、帰りの飛行機のなかで僕の心に浮かぶものって自分がどれだけの仕事をこなしたかってい満足感よりも、空港で別れを惜しんでくれるみんなの顔かもしれない。
 
 大げさに言うと、人生の最後に自分が何を思うかって、結局そういうことなんだと思います。
 
 死んで天国行きの飛行機に乗って離陸するとき、現世から離れて飛び立つときに思うことって、自分の人生でどれだけの結果とお金を残したということより、自分が一人の人間としてどれだけみんなに愛されたかって事かも知れない。
 天国行きの飛行機のなかから現世を見下ろしてみんなの泣き顔を見ながら自分の人生は価値があったなー!
 
 って思えるかどうかだと思います。もし飛行機から見えるのが遺族達の遺産争いだったらその飛行機は墜落して地獄に行ってしまうかも・・・・
 
 でも人生の最後はそうだけど、それまで80年間生きていくって事はそれなりにちゃんと仕事で結果を出してお金おもうけないと家族を養っていけないし、死ぬ時はお金は問題ではないけどそれまでの80年はお金が大事、日本ではお金ないと生活できないし医療費高いからね。日本の問題はその二つの価値が死ぬときに逆転とまではいかないけど少し矛盾してしまうことかな?
 
 もちろん人柄もお金も兼ね備えてる人も沢山いるから少し僕の言い訳なんだけどね!
 
 そういうとバヌアツって逆転しません。食べ物沢山あるからお金のことを気にしないで食べてお話してるだけだから、死ぬ瞬間までたった一つの価値観である
 「人柄」
 だけで通せるんだよね。自然な感じがします。
  
 お互いの国の良いところが混ざり合うようにできたらよいなー! 
 

キックベース編


小学校で教えている中で一番上級な授業はなんと言ってもキックベース、
 
 ドッチボール、サッカーは簡単だし、バスケットボールは生徒は知らなくても先生がある程度理解
 
 できてるからまだ何とかなります。
 
  でもキックベースは難しい!
 
 キックベースをするときは僕はいつもキャッチャーなんだけど、満塁だからどこのベースに投げても
 
 オートマチックでアウトになるからね!
  
 って言ってるのに、必ず一塁に投げる子供や、逆に誰も出塁してないのに、いきなり三塁に投げたり
 
 バックホームしてきたりします。
 
  グランドも正方形を作ってしまうと、感覚的にピンとこないみたいで、ひし形にして、二塁ベースを遠
 
 くにすると、なんとなく向こうに向かって蹴ればよいんだな!ってイメージしやすいみたい。
 
 守備もそのほうが左右に広がらなくてよいから退屈しないみたいです。
 
  でもやっぱり教えるの疲れます。何回打順を教えてもちゃんと並ばないしね。
 
 そして一番むかつく瞬間が、キックベースが一番盛り上がるのが、得点が入ったときでは無くて、
 
 スリーアウトチェンジのときだと言うこと。

  キャッチャーの僕が
 
 「チェンジ!」
 
 と言って手を大きく回した瞬間にみんないっせいにゴレンジャーのショッカーに変身して
 
 「ヒョー!ヒョー!」
 
 と叫びスキップしながら守備と攻撃が交代します。
 
 そうやってみんなの場所が一斉に変わるのが楽しいみたいで、僕がいくらお互いのチームの点数
 
 を数えてあげても知らん振り!
 
 みんなの気持ちは常にスリーアウトチェンジの瞬間に集中されています。
 
 「絶対にお前たちのペースには巻き込まれないぞ!チェンジする瞬間はスポーツではないのだ!」
 
 と強く心にきめてるんだけど、最近ついつい生徒の期待にこたえて、自分の
 
 「チェンジ!」

 の声が必要以上に大きくなってしまって居ることに自分で腹が立っています!
 
 こうなったらチェンジだけを専門に行うスポーツを考え出すしか無いかもね・・・・

さよならクーパー

多くの教員隊員の要請には、将来的には現地の教員達だけで授業の運営ができることを目指す。
 というのが基本的な要請で。そのためのステップとしてチーム・ティーティングというのがよく使われています。
 
 現地の先生と隊員がチームを組んで授業をシェアするんだけど、体育で言うなら、準備運動と整理体操は
 現地の先生にやってもらって、メインの運動や新しい動きなどは隊員が行う。というところから始まって、ゆくゆくは
 すべての授業を現地の先生にやってもらえるようにする。
 
 というものなんだけど、僕は昨年の2月から巡回指導を始めたときに、チームティーティングできるかな?くらいに考えていました。
  
  そして実際に過去の隊員が巡回指導していた学校では積極的にお願いしてみました。
 ほとんどの先生が簡単なウォーミングアップはできるし、メインの活動も現地のローカルゲームなどを取り入れて、
 上手にできる先生も居ます。
 
 その中で一番輝いていたのが、コーナースクールという学校のクーパー先生でした。年は30歳くらいかな?
 
 僕の授業にもとても興味を持ってくれるし、上手に子供を動かして僕の知らない現地のゲームを見せてくれたり
 して、すごく参考になりました。
 
 まだ言葉のたりない僕の変わりに通訳をしてくれたり、ほかの先生達にも積極的に呼びかけてくれたりしまいた。
 
 でも残念なことに8人居るコーナースクールの先生の中で一緒に体育の授業に参加してくれるのは、校長先生
 
 のミセス オーグンとクーパーの二人だけでした。
 
 女性の先生は当然のように日陰で見ているだけだし。 男性の先生の中には僕が授業をしているのに、隣でサ 
 ッカーを始めたりして、子供の集中力を奪ってしまう先生も居ました。
 
 でも巡回指導はこちからお願いして週に一度行かしてもらっている立場なので、理解の無い先生達に強制する
 力も、そこまで説明する語学力も僕には無く、
 
  「魅力的な授業をすればきっと先生達も体育の意味を理解してくれる」
  
 と願うしかないのが現状でした。
 
 とりあえず参加してくれる先生だけでも将来的に授業ができるように。と思っていました。
 
 でもだんだんと気が付いてきたのは、参加しない先生達の中でも実は体育を教える技術を持っていたり、
 
 準備運動ならできる先生も居ることでした。 そして何週目かに気が付いたことは
 
 「クーパーに迷惑がかかってる」
 
 ということでした。
 
 参加してくれる先生とだけ一緒に授業をして、嫌がる先生にノータッチならば、面倒な先生はみんな授業には
 
 参加してくれない、そしてクーパーのようにまじめに考えて参加してくれる先生への負担が大きくなっている。
 
 クーパーだけが授業に参加して、それ以外の先生が木陰でその様子を見ているのが続いたとき、
 
 「自分がすべての先生に平等に教えることができないのなら、真面目な先生が馬鹿を見るだけなので、チーム・
 
 ティーティングはもうやめよう。それに週に一度隊員が来て、隊員が授業をせずに現地の先生達の授業を観察
 
 して、評価していくなんて少し失礼かも知れない。」 
 
 と自分の中で決めました。

  それからはクーパーにも特にチーム・ティーティングは求めないようにしました。でもそれは二人にとっては特に
 
 問題ではなく、チーム・ティーチングという形ではなくても、今までと同じように助け合って授業を作っていました。
 
  
  そんなコーナースクールへの巡回も昨年の6月で終わり、クーパーとはたまに村であって立ち話をしたり、家に食
 
 事に呼んでもらったりと言う関係でした。
 
  でも昨年の12月にクーパーにあったときに急に
 
 「父親の体調が良くないので、来年は実家のあるエピ島に戻って教員を続けることになって、タンナ島に居るのは
 
 今月いっぱいなんだ。」
 
 といわれたときビックリしました。
 
 「実は赴任当初に一番僕が頼りにしていた先生はあなたで、あの時は僕を支えてくれてありがとう」
 
 と言おうと思ったけど、そういう風に言わなければと頭で考えていたら先に目から涙が出てきてしまって、我慢し

 二回くらい鼻をすすった時には、目から涙がこぼれてしまいました。
 
 あわててダボダボのTシャツのお腹を引っ張って涙を拭いたけど、何も知らないクーパーにしてみたら
 
 「ウラどうしたの?日本人って涙もろいなー」
 
 と驚いたと思います。結局気持ちを伝えるには胸がいっぱい過ぎて、そこへ高校の校長のドネルが通りかかって
 
 会話に参加したので、ただの泣き虫で終わってしまいました。
 
  そして僕が先週に首都から戻ってきたときにはクーパーの家にはもう違う人が住んでいました。
 
 2年間の活動って、現地の人に見送られるだけだと思ってたから、まさか自分が見送る立場になるとは思って
 
 無かったので、とても寂しい気持ちになりました。 赴任した当初にやさしくしてもらった人には今でも強い感情が
 
 残っています。
  
  「さよならクーパー、いつかこの感謝の気持ちをちゃんと言葉で伝えに行くので待っててください。
 
     エピ島での活躍期待しています!僕もタンナで頑張ります」

息子が誕生!


彼の名前はウラ君!先日アンブリム島という島に一週間ワークショップをしにいったんだけど、

 その時に参加してくれていた先生がワークショップ中に産んだ子供で、僕の名前を取って

 「ウラ君」にしてくれました。
 
 写真は生まれてから24時間後です。参加していた先生みんなに、是非会いに行ったほうが良い
 
 といわれて初対面したときの写真です。
 
 あれから三ヶ月ほど過ぎたけど病気しないで無事に育ってるかな?
 
 もちろん僕の子供ではないけど、やはり他人じゃない気がします。 変な名前だって将来いじめられ
 
 たりしないと良いけど・・・・
 
 でもやっぱりうれしいよね、自分の名前を付けてくれるって、こちらも身が引き締まる感じです。
 
 日本に帰国する前にもう一度あいたいけど、チャンスがあると良いなー!

時にはパンダになって


先日、同期隊員のトミーとその両親が島に遊びに来てくれました。
学校の年度がフランス式のバヌアツは12月が終業式のシーズン、僕ら教師隊員はやっとお休みになります。
それで例の「優勝パレードトラック」に乗って観光に行かせてもらいました。
 
 トラックの荷台に乗って走っているといたるところで子供達が
 
 「ミスターウラ!」
 
 といって声をかけてくれます。
 
 新隊員のテツヤとバヌアツに一緒に来た同期のトミーが僕に
 
 「ウラさんちょっとした人気者ですね」
 
 っておだててくれたんだけど、それって僕の人間性が魅力的だからではなくて、僕がテツヤとともに島に二人しか居ない日本人の一人だからなんだよね。
 珍しいからみんなが手をふってくれてるだけなんです。 

 昔に同級生の女の子が
 「結婚式の日ってみんなが綺麗、綺麗って言ってくれるし私に手を振ってくれるから、その日一日だけ芸能人になって見たいな気持ちだよ!」
 
 って言ってたんだけど、まあそんな感じです。
 
 動物園のパンダなんだよね。みんな可愛いし、珍しいから可愛がってくれる、そのパンダの人間性?(動物性か?)はあまり関係ないんだよね。
 
 それで僕は一つ気がつきました。
 
 「自分がバヌアツに何か残さなくては!って考えたら毎日焦りばっかりで何もできないけど、自分はパンダなんだ!って思ってしまえばパンダはパンダなりに何ができるか考えればよいのではないかな?」
 
 だって日本じゃ僕なんてパンダにすらなれないものね!せっかくみんなに可愛がってもらえるならその分みんなにお返ししないとね、でもパンダだからそんなに多くは残せない、みんなを笑顔にすることくらいかな?
 
 でもそれだけできれば十分なのかもね?だって中国から上野動物園にパンダが送られてきたとき、日中関係良くなったもんね!あの時のパンダは良く頑張ったよね!
 そう思えば日本からウラって言うパンダがバヌアツにきたと思えばよいんだよね。日本とバヌアツの友好のために頑張らないとね!

何故か得してます


先日たまたまサルファベイという海に行ったら、ウチの親戚日本に行ったよ!
 って言う人にであってビックリしました。
 
 しかも家族で! 
 
 しかも9人兄弟と両親揃って11人で!
 
 なんで!? 
 
 テレビで!
 
 そういえば首都に上がったときにジャイカ事務所の僕の郵便受けにテレビ局の人から送られてきたそのときのものらしいDVDが入っていたのを思い出して早速村に持っていって見せて上げました。 
 
 村人みんなが大笑いして自分の村の人家族が日本に行ったときの映像を見てました。
 
 本人達も大喜び!
 
 上機嫌で、僕に
 
 「今日は帰らないよね!」 
 
 って拉致されて、そのまま海に連れて行かれて海岸でヤギの群れからヤギを一匹捕まえて来てそのまま晩

 御飯にしてくれました。
 
 そしてちゃっかり一泊して、次の日に帰ってきました。
  
 自分はテレビ作ったわけでも取材に協力したわけでも無いのに、美味しいところだけもらった感じ・・・・ 
 
 ゴメンナサイ、ちゃんとテレビ作った方々、でも村人全員スッゴク喜んでましたよ!
 
 「もちろんまた来るよね!」 
 
 って言われたからそれからもう一度遊びに行っちゃいました。今はすっかり家族です!
 
 次は何時行こうかなー!クリスマスかなー?
 
 

はやりのキーホルダー


最近タンナ島でこのキーホルダーが流行ってます。覚えてる人も居るかな?昔インディージョーンズに出てきた
 昆虫です! 
 みんな沢山服に付けて満足気!
 
 そしてその後はお腹も満足!
 
 だってこれは立派なお菓子だからです。
 手をちぎって、焚き火で少しあぶって首をはずしてから少し生暖かいのをチューチューと吸うそうです。
 
 この季節木の枝に生息中です。でもどう見たってキーホルダーだよね?

小さな援助


朝の10時からヨーヨー、ポワス、デイヴィッドの小1トリオがやってきて
 
 「ウラ、ドギー(小4)の自転車のホイールが壊れたから修理のパッチが欲しいんだって!」 
 
 っていわれたんだけど、最近子供達はパンクしてないのに、僕からパッチをカツアゲしてるという情報があったので、
 
 「壊れたんならチューブを見せにきたら上げるよ!ドギーにはこないだ二枚あげたもん!」
 
 って言いました。僕のビシュラマもぎこちないし、三人は小1だから村語は良くわかってもビシュラマ語はあまり得意じゃないけど、そのまま三人で戻っていきました。
 
 3分後
 
 「ドギーが自転車の何かが壊れたから欲しいと言ってる、たぶんオイール・・・・」
 
 って言ったから
 
 「ホイールなの?オイ-ルなの?」 
 
 オイルならCRCをドギーのチェーンに使ったことあったし。なんか最初といってることが違うから
 
 「ドギーに自転車が壊れたんならここまで持ってきて俺に見せないと何も貸さないと言っておいで」
 
 って言ったら三人とも肩で息をして汗をダラダラ流しながら戻っていきました。
 
 かわいそうだったからキッチンにいって冷たい水でレモネードつくって戻ってくるの待ってたらドギーも一緒にやってきて。
 
 「ウラ、俺が欲しいのはオイルじゃなくてホイールを直すパッチなんだよ、俺達はタイヤの中身のことをホイールって言ってるんだよ」 
  
 って言われて納得、ようはチューブのことをホイールって言ってるみたいでした。
 
 とりあえず落ち着けよ!ってことで四人にレモネードあげたら冷たいから大喜び!

 「でも俺こないだ二枚あげたでしょ!」 
 
 って言ったら、
 
 「あれは俺のに使ったんだ、でも今日はファンドリックのが壊れたんだよ」
 
 ってことでした。
 
 「だったらそれを持っておいで!」

 って言ったときには小1トリオはすでに走り出していました。冷たいレモネードを飲んだからには何か貢献しないといけないといけないう責任感があってみたいです。 
 小1トリオは本当によく働きます。今度は二分で戻ってきました。

 話をよく聞くとドギーは手先が器用で近所の子供のパンクを直して上げてるみたいです。
 
 学校がお休みになった小学生の一番の遊び道具はやっぱり自転車!タンナ島には自転車屋は無いからみんな首都で買って船で送ってくるんだけど、中国製のゴムって弱いし、毎日ジャングルの中を走り回ってれば中国製じゃなくてもすぐにパンクするよね。
  でも修理するにもパッチまでは離島に届いてないから、みんなバイクを持ってる僕のところに着ます。
 
 でも最初に仲のよい子供一人に上げると、それが広まってしまって最近は初対面の子供が
 
 「パッチ頂戴!」

 って言うようになります。ボールでもバンドエイドでも写真でもインチキ空手教えるのでも何でもそうなります。でも子供がそうなるのは自然なことで、それを上手くコントロールできなかった自分が悪いんだよね。最近言葉が上達したから難しいことも上手く説明できるようになりました。
 赴任当初は
 「あげない・・・」
 としか説明できなかったから、誤解されることもあったけど、最近はちゃんと
 「一人にあげるとみんながもらいに来て、ダンダンと僕一人では手に負えなくなるからあげれないんだよ。でも君は僕の仲の良い友達だから今日だけ特別にあげるね!でもみんなには秘密だよ!」
 って言ってあげれるようになりました。結局あげちゃってるけど・・・・
  
 まあ基本的には大人も一緒です。一つの学校に援助するとそのうわさって島にある60校に広まって、初対面の先生までが
 
 「ウチにはボールが無いから体育できない!」 
 
 となります。対応しきれなくなります。そこで必要なのは人としての「器」だろうね。たとえ援助できないってわかっていても話は真剣に聞いてあげることが大切
 「大変な状況はよく理解できました、僕にチャンスがあればぜひあなたの学校に援助しますし日本の事務所にも伝えますね」
 
 と誠実に対応すれば相手の人の気持ちは落ち着くと思うんだよね。ありがたいことにバヌアツ人はそうやって話を聞いてもらうとそのことは忘れるみたいで、たまに本当に援助できることになって伝えに行くと本人は忘れてたりすることもあるくらいだしね。
 
 今日は久々に朝から子供達に上手く対応でき自分も自分もちょっと成長したなー!て満足してました!

バヌアツ鎖国計画


バヌアツの人と教育がなぜ必要なのかを話すときに僕がよく言うのは、
「スローライフはとても良いけど、これから外国のビジネスマンがドンドンバヌアツにやってくるからそういった人達が来たときに自分達の生活を守る知識を持っていなければならないよ」
 と言います。
 
 実際に首都では海沿いの綺麗な場所はすでに外国のリゾートが買い占めていてバヌアツの人は土地を失ったりしています。チーフに話をしないで勝手に売ってしまった人も居るようで、後から問題になっていますが、「契約」というものがどういうものかわかっていないので、わずかトラック一台で大切な土地を売ってしまうこともあるようです。
 
 親しくなった外国人に自分もバヌアツ人になって家族を呼んでこの土地に住みたいから自分の車とこの土地を取り替えて欲しいといわれて、契約書にサインした後に、実際にはブルドーザが来てリゾートホテルみたいなのを建て始めて、慌てて買った本人を尋ねると、
 「実は家族がこれなくなってので、他の人に売ってしまったんだよ、君が土地を僕に売ってくれたのと同じことを僕もしただけだよ」
 といわれ、抗議するけど契約には勝てずに山の中に追いやられていく

 それはもう世界中で何百年も続いている歴史で何も知らないバヌアツ人が今後困ることになるのは目に見えています。
 
 世界がバヌアツだけでできていれば彼らは今の生活にプライドを持っていられるのに、よその国の人のお金儲けのために自分達の生活を変えていかなければならないのはかわいそうだけど、時の流れなので仕方がないのかも知れません。
 「だから今教育は必要で、日本みたいになる必要はまったく無いよ」
 っていうと
 「フーン」
 って感じです。
 
 「いっそのこと鎖国しなよ!」
 
 って教えてあげたいです。
 
 そう思うと今から何百年も前に自分達の生活を守るために鎖国した日本人は凄いし、国民みんなが守ったことって凄いなーって思います。
 
 ちなみに僕の住むタンナ島はプチ鎖国してます、政府が決めたのではなくチーフ達が集まって決めたみたいです。外国人の島での商売禁止令 
 です。
 だから首都に沢山ある中国人の経営する雑貨店はないし、レストランも中国人が居ないから味は落ちます。やはり中国の人が作った食事は 
 美味しいです。それでも白人の経営するリゾートバンガローは何件かあります。
 多くはやはり契約でだまされてしまったものと、教会を建てるといわれて譲ったらホテルだったということもあるみたいです。
 実際に経営してる人がみんな良い人だからおおらかなバヌアツ人は「今あるのは例外!」って認めてるみたいです。
 協力隊員の歴史は20年近くあるし、中国人は居ないので僕を見て
 「中国人?」
 という人は居ません。
 「ジャイカ!」
 って言われることは結構あります。それは国の名前じゃないからね!って訂正します。
 
 僕らの仕事もどちらかと言えば教育水準を上げることより、彼らの発展が良い方向に進んでいけるように見守ってあげることが大切な気がしま  
 す。できれば何時までも今のままで居て欲しいと思います。

 写真は教え子達!カメラを向けた瞬間に一気にテンションが上がってこの通りです。逆立ちがはやっていてみんな逆立ちで登校してきます!

まずは草野球から


バヌアツって戦後の日本と似てると言われることあります。独立してからまだ27年しか経ってないし、何も無い状態だしね。
 これからみんなで作っていこうっていうところです。
 
 日本は何が凄いってやっぱり戦後の何も無い時代からみんなで一緒にいろんなものを一斉に作り上げてきたことだとおもう。
 それは驚くべき成功体験の繰り返しだったと思います。 
 みんなが中流階級意識を持ってて、冷蔵庫、テレビ、洗濯機の「三種の神器」を買い揃えることを目標に、万博があったりオリンピックがあったり、力道山いたりでみんなの目標っていつも一緒だった気がします。
 それをもう60年も続けてきたって凄いなー、って思う。
 
 バヌアツが日本の戦後と違うのは、昭和20年の感覚の人も居れば40年のレベルもいて平成の人も居れば2007年とつながってる人も居る。
 だから何もかもが足並みが揃わないんだよね。戦後というより縄文時代の人もまだ居るからね。
 
 例えばだけど野球大会をしようということになったら、2007年とつながってる人たちはすでにプロ野球をテレビで見ちゃってるからプロ野球みたいにユニホームそろえてスタジアムの芝の上でしたい。
 っていう感覚で居るんだよね。
 でもそれって今はまだ無理でしょ!とりあえずは草野球からはじめようよ、っていうと。
 そんなのかっこ悪いよ、だったらやりたくない!
 ってなってしまうこともある。
 でも逆に彼らの夢をかなえるために先進国から援助してもらってスタジアムとユニフォームそろえて大会したとしても、もともとが援助で始まってるし、コストがかかりすぎるから継続不可能だしね・・・・
 一回きりの援助で使えなくなった高級品がそのまま放置してあること多いです。
 良い例がパソコン、バヌアツの人はみんな欲しがるけど電圧が安定していなくて280ボルトとかまで上がることあるし、なんといってもホコリが凄いから寿命って2年くらいなんだよね。
 壊れても誰も修理できないし、もらいっぱなしでメンテナンスとかまでは考えられてないから捨てるに捨てれないし、放置してあるのを沢山見ます。もちろん個人レベルで買っても同じです。
 
 まあパソコンって段階を得てプロ野球レベルになったわけでは無くて、できたときからすでにプロ野球レベルの物だから維持できないのも仕方ないよね。今更タイプライターを援助してもどうしようも無いしね・・・・やっぱり援助って難しいなー・・・・
 
 野球なら草野球レベルの援助からでも大丈夫だけどね・・・・
 あくまで「独り言」なんで考えてるだけで答えがなくってゴメンナサイ・・・・

写真はお隣のクウィンテルとティンティナです。スノーケル逆に付けてるほうがなんとなくしっくりいってるのが不思議です?

離島の恋 ④ (思われ編)


そのストレートな愛情表現に、最初は少し戸惑ったよ・・・・
でもやっぱり愛されてるって素敵だよ、その上目使いも、熱い鼻息も、すこし毛深いところも、今はもうなれて、僕はいつも君に感謝しているよ。
 「スパイダー!」
 時には我が家への侵入者を威嚇し、僕が夜道を一人で歩くときには他の動物達から僕を守ってくれる、それでいて君が僕に甘えようとベッドに登ろうとしたときには
 「シー!」
 という僕の一言で君は家から出て行かなくてはいけない。
 雨に打たれて雨宿りをしにきたときには、手が汚いという理由で僕に触れることすら許されないけど、それでも毎日僕を守ってくれる君はやっぱり最高! 
 一年後には僕はここを去るんだよ、最後の日まで君にそのことを説明することができないのが僕の悩みだよ、だから君の愛情に時に複雑になります。でもいつも一緒に居てくれてありがとう!これからもよろしくね!

 スパイダーとは犬の名前です

離島の恋③


君を尋ねて行っては駄目なんだ、これ以上君に甘えては駄目なんだ!と自分で思えば思うほど君に会いたい気持ちは高まってしまう。
 忙しい日々を君と語り合うことで僕の心からは言葉があふれ出してくる。
 「テツヤ!」
 先月に赴任してきた離島に僕と居る唯一の日本人!
 僕達はバヌアツ人を愛するためにこんな地球の果てまできたというのに、バヌアツ人と一緒に居ないで、君と一緒にここに居てはいけないことは僕だってわかっている。
 でも会わずにはいられない。
 君と心置きなく日本語を話すと、この一週間の辛い出来事もバヌアツ人に理解されない僕の細やかな感情もすべて説明できる!話すだけで僕の心はスッキリする!頼ってはいけないと思いながらも君に会いたい気持ちは今日も高まってしまう。
 でもこれ以上は君に甘えるわけにはいかないからなるべく我慢します。でも週に一度は日本語話したいから会いに行かしてね!

 ちなみにこの「離島の恋」編は4部作になってるんだけど、一応徹也に確認とってからアップしようと思って、メールで徹也にこの文章を送りました。 でもたぶん徹也は4部作になってることを知らないでこのブログだけを見たから、相当戸惑ったと思います・・・・

離島の恋② (両思い編)


やっぱり君って最高です。
 その熱い視線で見つめられると僕の疲れも吹き飛びます。
 一年中小麦色のその肌も、少し強めの天然パーマも、満面の笑顔と一緒にキラッと濁って光るその鼻水も最高にホットです!
 手を繋ぐたびに愛情を感じます。君達の笑顔で今日も一日僕は頑張れるよ!
 君達と手を繋いでサークルを作る瞬間、
 「今日はどんな楽しいゲームを教えてくるの?」
 っていう期待の目が
 今日も僕の能力を120%まで引き上げてくれます。 
 君達って最高、その愛にこたえることができるように今日の授業も僕は精一杯頑張ります!

離島の恋① (片想い編)


僕だって恋します、もちろんバヌアツ人に、でも片思いです。
 片思いって辛いよね。相手への気持ちが大きければ大きいほど辛いものです。
 こっちが相手のことを100考えたとしても相手はこちらのことを1考えてくれてるかどうかすらわからない。
 気持ちを伝えようにも伝える手段さえ見つからない、言葉も国も超えて僕のこの気持ちを伝えたい!
 この気持ちどうやって伝えたら良いの?
 最近は僕が伝えようとすればするほど相手の気持ちは僕から離れていってしまう気がする・・・・
 でもいくら空回りしても相手を愛することをやめられない。だって僕はあなた達を愛すためにバヌアツまで来た  
 のだから。
 早く気がついてほしいすべての先生達に、体育を一緒に広めたい僕の気持ちに・・・・
 僕はあと一年しか君達を愛せないよ、何時になったらあなた達は僕の気持ちをわかってくれるの?
 今日も僕は眠れずに君たちの事を考えてるよ・・・・

ムカデその後の一日


失神する瞬間に思ったことは。「死に方はムカデに噛まれたっていうカッコ悪い理由だけど、自分の人生そのものは良いものだったなー!」って考えていて。とりあえずベッドに行ってから死にたいけど、今はベッドまでは歩く自信が無いからとりあえず目をつぶってしまおう。
 
 って感じでした。おそらく失神は一分くらいだったのかな?
 記憶の中で薄っすらとベッドに移動した記憶があるけどそのときには脂汗がベットリで意識はウツロ、それをみた先生が天井についている固定のファンを回してくれたんだけど、汗はベットリでも寒気が凄いので一生懸命にそれを回す必要は無い。って訴えたんだけど、結局は弱めただけで止めてはくれなくて、そのまま深い眠りに落ちました。
 次に起きたときにはテツヤが隣に座っていて、
 「とりあえず首都のジャイカ事務所には連絡してあるので安心してください」
 って言ってくれて、一安心
 「悪かったね」
 って言ったら
 「全然!」
 って言ってくれて、テツヤになにか伝えておかないこと無いかな?って思ったけど、特に思い浮かばず、俺の荷物のこととかその他のことは任せます。ってお願いして。なにか話したかったんだけど、まだ意識がおかしくって、
 それをみたテツヤが
「暗くなる前に一度家に戻ってきます」
 っていって出て行ったので返事をして時計を見たらまだ4時40分、噛まれてから今まで一時間しか経ってなかった。
 
 熟睡して6時前に起きて周りを見渡すと、11個あるベッドの半分くらいに人が寝ていて誰が患者で誰が見舞かもわからないけど、一人の女の子が俺のことをずっと見てるから誰かかな?って思ったら教え子で
 「やばい、ムカデに噛まれたことをみんなに言われるなー、しかも大騒ぎして病院まできたし・・・」
 
 なんて思っていたら足の甲の痛みはまだ強くって、さすがにもう一度さっきの残りの注射を打ってほしいともいえないので、とりあえず飲み薬の痛み止めをもらいました。
 気がついたら喉もカラカラでお腹も少し減っていたのでお水をおかりしてもう一杯のんだら、また汗が噴出してきて、さっきの扇風機の風がまた寒く感じたのでシーツを少しまくって足にかけたら、それを見た先生がシーツをもう一枚掛け布団用に持ってきてくれました。
 帰れる?ってきかれたけど、不安だったから、まだちょっとここで様子をみたい。
 って言ったら、じゃあ泊まっていけばいいよ。今日はここでゆっくり寝るのがいいよ。
 っていってくれました。ムカデで入院か・・・って思ったけど、バヌアツに来て早10ヶ月、いつの間にか体裁にこだわるより、時には病院やテツヤに甘えるのもなんか気持ちよいな。って思えました。
 
 6時半ごろにテツヤが戻ってきてくれて、なんと晩御飯とクッキーとバファリンと胃腸薬を持ってきてくれました。
その頃には痛みも落ち着いたんだけど、テツヤいわく、今夜関節が腫れるかも知れないから気をつけてください。
 ってことでした。そして二人でイロイロと話し合った結果、おそらくムカデは砂浜とリーフばかりの海に生息しているはずは無く、僕の持ってきたスノーケルの中かかばんの中に最初から入ってきて、僕が自分の足元にそれを置いて着替えているときに中から出てきて噛んだのだろう。ということで話がまとまりました。
 その夜もやはり傷口は腫れなかったんだけど、やはりそれは噛まれたその場でテツヤが毒を吸い出してくれたからだと思います。首都に居るスタッフも先日噛まれたらしいのですが。夜中にスッゴク腫れたと言うことでした。
 改めてあの場でためらわずに行動してくれたテツヤに感謝しながらとても長く感じた一日を振って思ったとは
 「ブログに書かんとあかんな・・・」
 別にわざと面白おかしく生活してるわけではないし、ブログのためにムカデに噛まれたわけでもないけど、そう思えたってことは冷静さが戻ってきたのかな?とも思いました。
 
 その後テツヤが帰って食事も済み7時半頃に先生が巡回に来て初めて患者は僕も入れて
6人だけで後の15人ほどのあいてるベッドに座っている人はただの見舞だということがわかりました。
 患者の方は自分の症状を先生に聞かれているときには、恥ずかしそうにモジモジ話すんですが
 そのときにトイレに行ってその場にいなかったほかの患者はどうだったかと先生が聞くと、まだ頭痛がしていて吐き気もあるとか、疲れているけど眠れてないみたいだ、などと他人の事は自信たっぷりにペラペラと話すのでおかしかったです。
 
 8時過ぎに一人急患が入ってきて、先頭に先生が歩いてきてその後ろに患者を車椅子に乗せて入ってきて、その後に患者の親が心配そうに来て、その次に子供が二人、最後に犬が一匹一緒に入ってきたので驚いたけど、犬も少し心配そうにしてたからまあ許せました。
 犬も自分が早く動くと追い出されることを知っているみたいで犬なりに意識してゆっくりと動きながらベッドとベッドの間をクンクンとにおいをかいで歩いて回っていました。
 
 僕が病院に入ってからずっと感じていたことは患者達は友達や家族が見舞いに来るたびに、
 「ウラがムカデに噛まれて入院している」
 と説明しているようで、それはバヌアツの言葉であるビシュラマ語ではなく、村語で喋っているので僕には理解できないけど、ムカデを意味するニールバットというのは村語には無いみたいなので、その言葉が頻繁に耳に入ってきたのと、僕が寝返りを打つたびに会話が少し途切れたり、止まったりするのでそれがわかりました。
 そして入り口に一番近いベッドに寝ている僕にみんなは興味心身なので見舞の人が帰るたびに僕はこちからか
 「ムカデにここを噛まれたんだよ」
 って傷口を見せてあげました。
 みんなは僕がムカデに噛まれたことを知ってるくせに少し驚いた顔をしてくれるのがバヌアツ人らしかったです。
 
 たかがムカデくらいでって思う人も多いと思うし、僕もそう思うんだけど、バヌアツって人が頻繁に亡くなるし、みんなそれを当然のことのように受け入れています。「長寿の国日本」より死って身近です。
 先日もテツヤの学校の6年生の女の子が無くなりました。ナゴウという子だったんだけど、なぜ僕がそのこを覚えていたかというと、普段はおとなしいのにドッチボールがスッゴク上手で、キャッチするセンスが凄いので、ナゴウがキャッチするたびにみんなが彼女の名前を呼んでいたから覚えていました。
 お腹が痛いといって一週間ほど寝ていたらしいんだけど、両親はほかの島に出稼ぎに行っていて、おじいちゃん、おばあちゃんと住んでいたらしいです。だから言い出しにくくて病院に行くのも遅れたのかも。気がついたら亡くなって居たそうです。
 家の裏にある幼稚園の校長(40歳くらいの男の人)も先日地元に戻ってカバを飲んで寝たらそのまま死んでしまったということでした。
 病院に行くっていう感覚があまり無いみたいで、葉っぱを煎じて飲んだりするカスタムメディシンが主流なので死因もわからないことが多いです。
 近所の家に遊びに行ったときに感じたことは、一人の老人がもう寝たきりになっているんだけど、家族はその老人の周りにみんなで集まって団扇で扇いであげたり、汗を拭いてあげたりして一日中その部屋でお話しているんだよね。それが凄く自然な感じで病人も申し訳ないような感じはないし、周りの人も病人の周りでみんなで座ってお話することを楽しんでいるみたいだし。そうすることが当たり前という感じでした。みんな特にしないといけない仕事があるわけではないしね。病院で見てもらって肝臓が悪い事はわかっているんだけど、わかっていてもそれに対する治療をするという感覚はないみたいです。
 死ぬことを素直に受け入れることができるって人として最高に贅沢なことなのかも知れないと感じました。バヌアツ人はそういうところは凄く自然に受け入れています。お金持ちの人だけが高度な医療を受けたりして死ぬ瞬間まで格差がある日本で100歳まで生きることと、みんなと一緒に過ごしながら自然に死を受け入れて50歳で死ぬ人とはどちらが幸せなのかは人の価値観だから僕にはわからないけど、バヌアツスタイルも悪くないなー、って思います。 
 でもムカデに噛まれて死んだ日本人がいたって聞いたらさすがのバヌアツ人も「ソーリー・・・・」って言うだろうな、元気になってよかったです。
 ということでこれが今週に事件でした。このブログが心配性の母親に目に入らないことを祈っています。
 
 写真は僕が帰るときにお願いして撮らしてもらった写真です。右側に座っている女の子が教え子でそのこ以外は全員お見舞です。笑いが絶えない病室でした。

ムカデ最初に一時間


新隊員のテツヤと二人で夕方からスノーケリング、場所はタンナのウエストコースト、時間は4時前、気温は高いし、今からサンセットを見ながらスノーケリングは最高だな!って思いながらシャツを脱いでサンダルを脱ごうとした瞬間、なにかが左足に刺さった感じ、何かな?って思って足を少しだけ動かしたら異常な痛さが全身を襲ったので思わず足を引いたら、特に何も無し、でも次の瞬間に長さ20センチ、幅1センチほどもある大きなムカデがリーフの中に歩いていくのが見えて、まさか?って思ったときにはもう遅かった。
 
 傷口を早く探そうと思って足を一生懸命見たけどすでに足の甲全体に熱湯をかけたみたいな痛みが走っていて何処を噛まれたのかがわからない、必死に探して岩に腰をかけたらすでにふくらはぎの筋肉が硬くなって痛み出していて、回るの早いな!って思ったら30秒後には股関節のリンパの下がすでに固くなって動けない。
 
 噛まれた瞬間にテツヤが
「毒を吸いましょうか?」
 って言ったくれたんだけど、足の薬指だし、サンダルでここまで来て指の間には砂が入ってるし
 「大丈夫だよ」
 って言ったけど、1分もしないうちに左足全体まで広がった毒のスピードに驚いて
 「やっぱりお願いします」
 といいました、今思えば僕が噛まれたって言った瞬間迷わずに毒吸いましょうか?って言ってくれたテツヤはなんか凄いと思う。
 
 とりあえず海水で足を洗ってテツヤが10回くらい足の指から血をすってくれて海に吐き出してくれました。
 その間も自分で一生懸命に毒が登らないようにふくらはぎから傷口に向かって血を押し出すようにさすりました。
 
 テツヤが病院に行ったほうが良いか近くにいたバヌアツ人に聞きに行ってくれて、バヌアツ人が3人くらい着てくれました。彼らは病院は土曜日もやってるけど海にはムカデは居るはず無いからきっとほかの何かに刺されたんだ。と言いい、とりあえずテツヤの家まで戻ろうと二人で歩き出したんだけど、途中でテツヤがあまり歩くのは良くないから僕が車を呼んできます。
 と言ってくれて先に道路に走っていってくれました。
 歩いていたら内腿の痛みが大きくなってきたので、これはまずいと思って慌てて持っていたタオルで太腿を縛りつけると少し歩くのが楽になったので少しペースをあげて歩いていたら前からテツヤと車が来ました
 「浦さんの荷物やお金は後で持っていくので、とりあえず先に病院に行っててください」
 といってくれたので、そのまま車の荷台に飛び乗りました。
 リゾートホテルの車だったので荷台の上に立派なシートがついている通称
 「優勝パレードトラック」
 だったのでその上で痛みをこらえながら状況がわからずに僕に手を振ってくれるバヌアツ人達にはにかんだ笑顔で答えながら丘を登って何とか病院までつきました。
 その頃にはすでに左足の甲は腫れて血管が見えなくなっていました。
 
 土曜日で受付も薬局も閉まっていたので、入院ベッドのある棟に歩いていったけど誰も僕が医者を探していることを気がつかないので、少し大げさに足を引きずって歩いて見ると、知り合いの学校の先生のケンジー(バヌアツ人)が僕を見つけてくれてどうしたんだ? って聞いてくれたので、
 ムカデに噛まれた!相当痛い!って言いました。
 その後看護婦さんがきて、ドクターを呼びにいったんだけど、その間にも野次馬が沢山きてみんな心配そうに見ているので、
 「ムカデに噛まれた」
 と3人くらいに説明して、そしたらみんながそれを一斉に回りに伝えてくれて、
 「ウラがムカデに噛まれたみたい」
 と言いふらしてくれたので、野次馬が減ったと思ったら4人目が来てのんきに
 「痛いの?」
 ってきくから
 「メッチャ痛い、でも噛んだのは絶対にムカデだから痛いだけだと思う」
 「どうしたいの?」
 ってきかれて初めてこの人は野次馬じゃなくってドクターだ!って気がつきました。
 名札もつけずに短パンはいてサンダルで紺のポロシャツ着てるだけだから、仕方ないよね。
 
 とりあえず痛み止めが欲しい
 って行ったらなんか小さいビンを出してきて注射器に移し変えだしたから
 「なんだ、ちゃんとできるんじゃん!」
 ってちょっと安心したけどその間も痛さは尋常ではなく、僕は過去に骨折も脱臼も経験したけど、そういうのと違ってムカデってたぶん相手が痛がるようにわざとそういう成分の入った毒を刺してるから骨折より全然痛い。
 熱湯をずっと足の甲にかけられてるみたいな痛みでした。
 
 「薬のアレルギーある?」
 ってきかれたけど僕はないし痛み止めの注射は昔にスポーツしてるときに何度か打ったことがあったから
 「大丈夫ないよ!」
 って自信満々で言いました。とりあえず何とかいまの状況を変えたい一身でした。
 スッゴク太い注射針で薬を移し変えてまずは足の薬指の上から刺してくれて、それで甲の痛みが少し和らいだので、嬉しくなって
 「凄く効いてるからもっと打って」
 って言ったら、一度抜いた注射器を次は根元にも打ってくれて、その頃にはふくらはぎの筋肉の痛みも和らいで、次は指の裏側から打ったらうそみたいにいたくなくなってきて、これって毒を殺すのではなくてただの痛み止めの麻酔なんだなー!やっぱり病院に来て良かったー
 って思った瞬間に心臓が急にバクバク言い出したから、4箇所目を探している先生に
ちょっと待って、少し気分悪くなってきたから休憩したい!って言ったけど、先生はまだ沢山薬が注射器に残っていたので打ちたそうにしていたから、もう一度
 「待って!待って!少し気分が悪い!」
 って言ったけど言葉にならず、めまいで気を失いそうになって
 スズメバチに刺されてショックで死ぬこともあるらしいし、外国で注射打つときは必ず確認してからって言っていたのにしなかったからかな?目眩って英語でフェイントだったっけ?とりあえず気を失いそうなことを伝えないと、急に沢山打ちすぎたからちょっと待って・・・・ 少し横になりたいっていうか眠りたい、待って待って・・・・・ まずい気を失う、首ぶつけないように手で押さえないと・・・・こうやって人って死んじゅあうのかな?
 次に起きたらオーストラリアに緊急輸送されてるか、天国かどっちかだな・・・・・そして僕は椅子に座ったまま左手は胸を抱きしめるように押さえて、右腕は枕みたいに自分の頭を押さえてそのまま意識がなくなりました。

 次回に続く・・・・・
 

植える木間違えたかな?


僕が島に来て体育委員会に集まってもらって最初に言った言葉は
 「バヌアツの体育が10年後、20年後に花開くように、僕達で一つの種を植えよう、僕は自分で実が取れるまで育てることはできないけど、小さな種を一つ植えることくらいならできると思っています」
 
 と話したんだよね。おそらく木の絵を描いて説明したから僕の言葉が足りてなくてもメンバー8人は理解したと思います。
 
 でも結局は今年は種さえ植えれませんでした。体育委員会として毎年行ってきた体育大会すら開けなかった。現状維持すらできなかったってことです。
 理由はいろいろあるんだけど、今になって思ってることは
 
 一つの種を植えようという僕の考えは間違っていなかったけど、植える木を間違えていたのかな?ということです。
 僕は日本人だから気がつかないうちに「桜」を植えようとしていたのかも、桜って年に一度しか咲かないし、それ以外の時は枝は黒くて気持ちが悪いし、まっすぐに育たないから材木には使いにくい、虫は良くつくし、綺麗な花が咲くまで10年はかかってしまうよね。 
 日本人にとっては一年に一度だけ綺麗に咲いてパッと散っていく桜に人生のはかなさを感じるし、すでに文化になっているけど、それは何百年も桜と付き合ってきたからであって、それをほかの国の人が理解するのって難しい。
 もちろん体育委員会に対して桜の木を植えるほど難しいことを要求したわけではなく、2週間に一度のミーティングにちゃんと全員がきて年に一度の体育大会を行うことだけです。
 でも結果的にそれすらできなかったということは僕は「桜」を植えようとしていたということだと思います。
 
 もし「竹」だったらどうだったのかな?3ヶ月くらいで大きく育つし管理も簡単だし、細く切って編めばココナッツよりは丈夫な籠が編めるし簡単な家具だって作れる。バヌアツの土は凄く栄養があるからもしかしたら日本の三倍くらい大きな竹が育つかもしれなよね。
 花は咲かないけど「竹」を植えてそのよさを広めることなら僕の残りの一年でできるのかなー?
 とりあえずバヌアツの体育としての「竹」って何にあたるのかを一生懸命考えないとね!
 
 写真は体育のワークショップ公開授業での一コマ、子供が上手くピラミッドを作れないのにイライラして自分達がやりたいと言ってできた先生達です。
 授業を受けていた子供達が逆に拍手してました。この後の縄跳びでも先生たちは大ハッスル!
 「憎めないよねー!」

最近こんなこと考えてます


前にも書いたかも知れないけどバヌアツ人は話すの大好きで理想とか自分のビジョ

ンみたいなのスッゴク語るんだよね。だからこっちも本気にして。でも結局実際に行

動に移しだすと、なんか話がずれてきて結局はまじめに受け止めすぎたこっちが気が

利いてなかった、ということになりかねないんだよね。相手は日本人に一生懸命自分

の考えを聞いて欲しかっただけということけっこうあります。
 
 もちろんスッゴクまじめで行動力のある人も実際は居るからいい加減な気持ちで話

を聞いてはいけないとは思うけど、その見分けってまだ難しい。

 そういうことを何度か経験して、逆にこちらが一つのビジョンを

持ってグイグイ引っ張っていくしかないと二年間てすぐに終わってしまうと思って何から何まで面倒みてしまう

と、今度は他人任せで協力してくれない。

 ミーティングで何かこちらが提案しても、日本人の僕の意見に反対なときはそのと

きには黙っていて、二週間に一度のミーティングにこなくなる、
 
 二回続けて休まれると一ヶ月以上あいてしまうので、結局僕の提案は話し合う機会

も持たずに流れてしまって、そこで初めてこちらは
 
 「あの人は僕の意見に反対だったんだなー」
 
 って気がつかされる。
 
 島国の狭い社会で生きてるから他人の意見に面と向かって反対することは

 タブーみたいです。まあ国民性ですねー!
 
 他人の意見にその場で反対して話し合いをすることに慣れてない

 のもあるけど、そういうのって彼らに言わせれば
 
 「相手の話はウンウンて聞いてあげるのが大切でその場で否定したり反対意見を出すのは
  下品だ」 
 
 という風に思っているみたいです。だからその場では否定せずに実際に行動に移さなければ
 
 相手はいつか忘れてしまう。相手は話したいだけで行動に移さないと思っているみたいです。
 
 でも僕は教育省のオフィサーだからやっぱり何か形に残る仕事をしたいって思ってしまって

 「その場で自分の意見を言わないで次のミーティングから来なくなるのは嘘つきと同じだよ!」
 
と思ってしまうこともあります。やっぱり仕事だからね。もちろんそんなことは思ってるだけで言った事はないよ。
 
 もちろん僕の人間としての魅力の無さが彼らに意見を言わせ

ていないのかもとも思います。
 
 ミーティングの前日に用意した僕の片言の現地語で必死に提案されたって、提案の

内容はわかるけど、その中にある、ビジョンとかなぜそれが今のバヌアツに必要なの

かとかハートの部分で訴えていかないと人って動かないものね。そういった配慮がで

きるまでの言葉が今の僕には足りてないのかもね。

 
 
 
  「危機感の無い人間に危機感を持たせることほど難しいことは無い」
 
 という言葉があるけど、体調が良くって疲れてないときは
 
 「それじゃあ、持たしてやろうじゃないか!」

  って思えるけど、先日はバイクでコケて傷口が膿んでリンパ腺はれてるし。バイクに乗っているときに
 
 目の中に入ったゴミが一週間もゴロゴロしている今の自分は
 
 「もう駄目!バヌアツ嫌い!日本大好き!」

  って考えちゃいます。
 
 ボランティアって基本的に自分が何かを相手にしてあげたいから働くという「自発

的」な行動によって働くのが基本だと思うけど、だからといって自分が何かをして

あげたくなくなった時に「働かなくて良い」という理論は成り立たない。

  疲れていたって、情熱と健康が弱まっていたって
 
 「私はボランティアですから・・・・」
 
 ということでお休みしてたらそんな人間はおそらくお金をもらって日本で働い

ていてもたいした仕事はできないよね。

 逆にそういう逆境に立ったときにこそ、
 
 「お金のために働いているのではない!」
 
 というプライドを自分の中に奮い立たせることができないとね。

  とりあえず今の僕は体調を治すことからはじめないとね。

 
 
 もう一つの自分に対して思ってることを書くと、
 
  2月から7月まで巡回指導を5校回って、その後さらに12月まで5校回って

 三学期が終わるまでに10校の小学校を半年ずつ回ることになります。

  教えた子供が1000人は超えます。そして子供は体育大好きで前に

ブログに書いたように、自分がこんなに多くの人に期待されて良いのかな?

 と恥ずかしがらずに思えます。何処にいっても子供が嬉しそうに
 
 「ミスターウラがいる!」
 
 って呼んでくれます。
 
 教室から子供が体育の授業のために飛び出してくる姿を見るたびに疲れていた気持

ちが吹き飛び
 
 「このこたちのために何とか楽しい授業を!」

 っていう気持ちが沸き起こります。
 
 協力隊一年目の仕事の内容としてはそれができていれば問題ないような気もします。
 
 でも自分の中で、巡回指導が上手く行ってるなら、体育委員会も成功させたい!って

いう欲が出ているのかもしれないとも思います。
 
 もし仮に体育委員会が上手く行っていたらもっと困難な目標を見つけてきて

 自分が駄目だとまたブログに書いているかも知れません、そして相変わらず

 「危機感の無い人間に危機感を持たすことほど難しいことは無い!」
 
 と自分が勝手に仕事を難しくしておいて愚痴るのかも知れないです。
 
 自分の能力をもっと把握しないといけないのかもね・・・・
 
 
 写真はティンティナ、エタ、ヨーヨー、ネエサンの4人です。
 
 僕が音楽聴きながらベランダで木を削っていたらいつの間にかこんなことになっていました。
 
 でもこんな笑顔が毎日見れてるだけでも僕は幸せなのかもね!がんばろうっと!
 
 

カイサン編

先週は一週間首都に上がってワークショップと書きましたが、その大きな目的は今回新隊員としてバヌアツに来たダイキに現在僕がやっているバヌアツでの体育の授業を見てもらうことと、この10ヶ月間の僕の失敗、駄目さ加減を真面目に説明することでした。
 活動はそれぞれ個人の物なので自由にやってもらって良いと思いますが、僕の失敗を先に教えておけば新隊員が僕と同じ間違いを起こさないことによって僕よりももう一つ上の次元で悩んでもらえたらという気持ちがあり、事務所もそのことを受け入れてくれて今回のワークショップとなりました。
 具体的に伝えた内容は、巡回先の小学校には午前中ですべての授業が終わるように時間割を組んでもらわないとこちらの体力が持たないことや、低学年から授業を始めるのではなく、高学年からはじめたほうが効果的であること。女の子はカスタムでズボンをはきたがらないので、今のところ僕はスカートでの授業参加については認めていること、巡回先の学校にはこちらからお願いして体育巡回の授業をやらせてもらっているという形になるので、指導先の学校の先生をどうやって授業に引き込んでいくのかが難しいことなどを話しました。
 
 ミーティングは月曜日でした。ダイキと僕、後は首都の大学でこれから先生になっていく学生に体育の授業の進め方を教えている隊員、カイさんの三人で始めての体育部会として話し合いました。
 今までは体育隊員は二人だったし、カイさんは大学、僕は離島の小学校だったので、お互いの活動を具体的に話し合ったのは、前回8月にアンブリムで行われたワークショップが始めてで、僕も着たばっかりで何もわからなかったし、お互いに活動の話をする機会は少ないのが現状でした。島が違うしね。
 そこに今回マレクラ島に僕と同じように島全体の体育の普及ということでダイキが派遣されるので三人でじっくり話し合う機会を設けたいということと、ダイキと僕がそれぞれの島で自分の体育の授業を作り上げてしまって、その後にカイさんと三人でバヌアツ全土を統一してと思っても、例えば教科書一つ作るのでもやり方が違うと苦労するので、一度授業を見てもらいたかったからです。
 
 カイさんはそのまとめ役といった感じです。
 僕の好きな日本でたとえると、僕は四国の体育の普及、ダイキは北海道の体育の普及、カイさんは東京の大学での教授という感じです。
 
 ワークショップは水曜と木曜日に行われましたが、今回書きたいのはそのことではなくて、火曜日と金曜日にカイさんの大学の授業に参加させてもらったことです。
 カイさんはバヌアツに二つくらいしかない大学のひとつティーチャーズカレッジに居ますが、そこで学生に体育の授業とな何か?を授業して欲しいということで派遣されていますが、教科書もカリキュラムもまったく無し、そして一コマ1時間半もある授業を現地語や英語などで授業することって僕だったら絶対できないと思います。
 教員の隊員どうしって自分が休みの時には相手も休みなのでお互いの授業を見れることは少ないので、今回はそのチャンスと思い。火曜日と金曜日にカイさんの授業を見に行きました。
 
 カイさんからよく聞いていた話は、
 「体育の授業っていっても何の教科書もあるわけではないし、日本での教員生活(たぶん10年以上)の経験を買われてバヌアツにきたとしてもそれを一時間半も講義することは難しい、でも日本と同じように保健体育とするならば、保健の授業なら結構題材あるので私はそれを活用している」
 という話を聞いていたので、実際はどんな感じかなー!
 って思って行って見たんだけど、火曜日はアルコールについて、そして金曜日はタバコについての授業でしたがはっきり行って凄かったです。
 最初に資料とパワーポイントとプロジェクターを使っての講義、資料の中に空白があってそれをパワーポイントを見ながら書き込んでいく形になっていて、学生もそれを一生懸命書いていました。
 現地語もゆっくりでわかりやすい、わかりにくそうなところは無理して自分で話そうとせず理解した生徒がほかの生徒に説明する形をとっているから生徒もみんな一生懸命だしそこら辺の技術はさすがベテランと言った感じでした。
 
 資料に書き込む授業は約45分でその後バヌアツのNGO団体の作ったお酒の作用についてのドラマ仕立てのビデオを約30分みてその後まとめをして終わります。
  約一時間半だったんですが、パワーポイントの中に日本語が入っていたので、カイさんもしかしてこれって自分で作ったんですか?
 ってきいたら、
 「その通り」
 という答えでした。一時間半の授業を作るのに8時間の準備が必要だということです。
 パワーポイントと生徒達が書き込む為の資料作りなど一から自分で行うって凄いです。
 
 それを聞いて感じたことは
 「ここまで来るまでにカイさんは自分の活動に対して相当悩んで、そしてそこから逃げずに努力して今のこの授業が成り立ってるんだなー
 結構悩んで、その後凄い努力したんだなー!」としみじみ感じました。それくらい完成度高かったです。 

 そして僕は思わず、
 「この授業を来年ウチの島でやりたい、ここまで完成度高い授業をカイさんの帰国後(来年三月)終わらしてしまうのはもったいない」
 と感じたので、来年タンナ島の高校生くらいを対象にカイさんの授業を盗ませてもらうことを考えています。
 週に5日の巡回指導は体力的に辛いと感じていたし、毎週水曜日あたりにこの授業をすれば体も休まるし、小学校以外のところで教えるこ 
 とは大切だとも感じたので。 
 
 それにしてもやっぱり協力隊にはなかなか凄い人居るもんだなー、人の授業って見に行くもんだなーと感じました。
 
 写真はカイさんと新隊員のダイキ。
 体育部会の権力図を写真にしてみた感じです。男性の権力の強いバヌアツ人がこの写真を撮っている僕らをみて喜んでました!

カヌーとタコ


先日バイクでこけて今は膝と肘に擦り傷あってハエにたかられてるんだけど、さす

がにまじめに直そうと思ってガーゼ張ってたんだよね。
 でも毎日膿が出て朝張ったガーゼも授業が終わって家に帰るとすでに膿で張り付い

ててはがすのスッゴク痛いんだよね。しかも張り付いてる面積が半端じゃなく大きい

からはがしてる途中で妥協してしまいそうで、ランチ食べてからずっとどうしようか

迷ってたんだよね。しかも外はすでに30度超えて暑いし、水は夕方まで出ないしやること無い、

昼ねしたいけどガーゼが気になってできないし・・・・
 1時になって思いついたのは海で泳ぐのに集中すればガーゼのはがれる痛さなんて

気にならないだろう。ということになり、ひとりで海に泳ぎに行くことにしました、

子供を誘わなかった理由は子供と行くと海まで20分は歩かないといけないし、この

気温の中20分歩くのはちょっと無理なこと、一人ならバイクで5分、泳いで疲れて

も帰りも5分だからです。
 
 一人で海に行ったら誰も居なくてこれは良い!っておもって沖にあるブイまでとり

あえず泳ぎました。
 膝のガーゼはすぐにはがれ落ちたんだけど、肘はもともと傷口が大きいのでなかな

かはがれない、
 10分以上泳いでもまだはがれないんだよね、仕方ないから自力でふやけたガーゼ

を半分はがしてわざとクロールしてたらやっとはがれました。、
 海水で綺麗に膿も落ちた頃、寒くなったから水着が乾くまで砂浜に座ってたら近所

の子供がきて海に浮かんでる石から海に向かってバク転をはじめました。
 なかなか上手だから自分も参加しようかな?って思ったけど、子供達が上っている

石はリーフだから僕が立ったらすぐに足を切ってしまうので、仕方なく見てるだけに

してました。
 そのうち5人くらいの子供達は石の上でオシクラマンジュウをはじめてみんなで落

としあいを始めました。それもまた参加したかったけど、もし子供が僕の肘を掴んだ

ら、せっかく乾いてきた傷口からまた流血するとおもい見ているとなんと沖からカ
ヌーが来ました。
 子供達が
 「ウラ!ケヌー!ケヌー!」
 と大喜びでした
 
 最初はまぶしくて誰が良くわからなかったけど、よく見ると隣のパトリックとその

隣のロワワの二人が木をくりぬいて作ったカヌーでこっちに向かって着ました。
 
 ビックリして
 「俺が海に行くって知ってたの?」
 って聞いたら
 「知らなかったけど着てみたらバイクがあったから探してたんだよ」
 ということで早速三人でカヌーに乗って沖に出発しました。
 
 さっき僕が泳いでたブイまで行って、ブイにカヌーを繋いでそこからさっき我慢し

てたバク転を何回もして海に飛び込みました。
 海の深さはたぶん5メートルくらいだけど、100%透き通ってるので下にある珊

瑚も綺麗に見えてまったく怖くないし、気持ちよくって何回も飛び込みました。

 寒くなってきたので、今度はカヌーで少し沖へ出ました。左右バランスよく漕がな

いと、なかなかまっすぐ進まないし、カヌーといっても人が乗る本体ともう一つそれ

に平行してバランスをとる為に自転車でいう補助輪みたいに着いてる木とが繋がれて

いてバランスをとる感じです。
 定員3名、でも2名がベストかな?三人は重いかも。
  
 とりあえずパイレーツオブカリビアンごっこ(僕が船長のジャック・スパローでロワワとパトリックがヘイホー!ヘイホー!っと叫びながらカヌーを漕ぐだけ。)をして、その後タイタニックごっこをしました。(僕が不安定なカヌーの先で両手を広げて立つだけね!)
 
 
 その後にロワワがタコをしとめたんだど、色が紫の部分と茶色い部分と黄色とか赤とか珊瑚

と同じように混ざっていてゆでたら赤くなるけど生だと気持ちわるくて食べる気がし

なかったんだけど、ソトという子がナイフで体の部分を切ってお腹をひっくり返した

ら、なんとなく色も落ち着いてきたので、足を切って海水に浸けて皮をはごうとした

ら、今度は手では上手くはがれないのでイライラして、歯で噛み切ってはがそうと思ったら、吸盤

が邪魔だし、噛み切ろうと思って噛んだらすでにタコ独特のおいしい風味が口の中に広がったので、
その誘惑に勝つことができずに皮もそのまま食べてしまいました。
 
バヌアツはタコを魚釣りの餌としか使わないのか、それとも生では食べないの
か、子供は少し引いてました・・・・お前達の方がワイルドだろ!って思いながらね!(前回のブログ参照!)

 たくさん泳いでお腹減ってたし、おいしかったからムシャムシャ食べました。
 体の部分は沖で焚き火をして焼きました。
 半生のスルメみたいでメッチャおいしかった。
 ロワワがサザエもいっぱい取ってきてくれてそれも沢山食べました。
 最高でした。 
 久々に海の幸食べれた!ハゼみたいなさかなも食べたよ。
 海最高です。
 

ワイルドな子供達


ウチにベランダには裸電球の街灯があるんだけど、そこには大きな蛾がよくたかっています。
 先日久々にでかいのが居るなって思っていたら、クウィンテルとエタ、ナッシー、ジョシュア、ティンティナのご近所三件の子供が瞬く間に集まってきてその蛾を素手で捕まえて、何をするのかと思ったら蛾の羽についてる粉をお互いの顔に塗りあってペインティングをはじめました。 
 そして
 「ヒョー!ヒョー!」
 とみんなで叫びながらジャンプしだしたので、やっぱりワイルド!って思いながらも気持ち悪いと思ってみていたら、僕が寂しがっていると勘違いしたみたいで
 「ウラにもしてあげよう!」
 と話がまとまったみたいでみんなで新しい蛾を必死に取り出したので慌てて家の中に逃げ込みました。
 
 「怖いのか?」
 
 って聞いてくるので
 「怖い!」
 と素直に答えたら大喜びでした。
 そしてわざと僕の近くに顔を近づけてきました。
 
 授業中にポケットから大きな芋虫が落ちたときに僕に見つからないように慌てて拾っている子もいました。
 やっぱり食べるのかなー?
 
 極めつけは幅一センチ長さ10センチ以上あるムカデが居たときです。
 首をバッサリと切り落とすと、残りの体の部分を自分の腕に乗っけて歩かして喜んでいました。
 ムカデの生命力にも驚きましたが、それ以上に子供達のワイルドな姿には驚きます、ちょっと刺激がきつい内容になってしまってゴメンナサイでもこのワイルドさ誰かに伝えたかったので・・・・
 
 写真の手前で思いっきりカメラにメンチを切っているのはエドウィリーくん若干3歳!警察官の息子です。
 凄い貫禄やっぱりワイルド!

僕の仕事


先週は首都に上がって体育のワークショップというか公開授業を二つやって戻ってきました。
 そして首都のインターネットで始めて自分のブログを見ました、離島ではメールの送受信が精一杯で見たこと無かったです。
 そしてブログを見たという母親から
「くだらないことばかり書いてないで仕事のことを書きなさい、読んでる人はお前が何のためにそこに居るのかわからないよ、もう一つは心配だからもう風邪は引かないでね!」
 
 と指摘されました。
 だから仕事の事書きますね!
 
 僕の仕事はイギリスのシンクタンクに「世界一幸せな国」と認定されたバヌアツ人達に
 
 「あの日本人の方が俺達より幸せそうだった!」
 
 と二年間で言わせることです。
 この調子だと来年には達成されます!
 
 と、ここで終わるとまた母親からメールが来るので本当の事を書くと
 
 バヌアツの「タフェア州における小学校体育の全体的な向上」
 です。
  
 日本にたとえると
 四国全土での小学校体育の全体的な向上です。高知、香川、愛媛、徳島です。
 こっちも結構壮大なプロジェクトです。そして基本的には僕一人で、
 僕の任地のタンナ島は人口4万人くらいだと思います。
 小学校は約65校、僕は州の教育省の配属でそのすべての学校で将来的に体育の授業が現地の教師達によって行われるようにして欲しい。ということです。
 
 教育省の年間予算は700万円、そのほとんどが人件費なので体育に関する予算は無し!もちろん算数も理科もすべて無しだから文句は言えません。
 じゃあどうするかというと、体育大会を開いたりワークショップをしたりするたびにユニセフやバヌアツ政府、時にはジャイカにレターを出して予算をお願いするという感じです。
  だから何か一つするにもスッゴク大変、ミーティングを開始すると同時に予算のレターをそれぞれに送って返事待ち、たとえば10万必要ならば3万3000ずつを三つのドナーにお願いします。その理由は三つにシェアしないと、何でウチだけに聞くの?ほかの二つにも聞いてるの?ってことになるからです。二つがOKなら残り33000が足りなくなるのでそれをいろんなところに掛け合ってお願いします。33000円なら自腹切りたい!
って思うこともあったけど、それはしないことに決めました。
 みんな勘違いするし、自分達の力でできないなら継続不可能だから今の時点ではまだする力が無いという判断をしています。(でもキャンセル続きで一年間で一つもできないくらいなら、そのくらいのお金なら何とかしたい!って思うこともあります。)
 もし二つのドナーが駄目なら今回はキャンセルしましょう!ということになって、OKしてくれていたドナーに謝りに行きます。ミーティングもそこで終わり、残念だったね!で終わらすのがバヌアツ流です。
 もう一つの問題はさっき書いたように僕の配属先は四国のようなところ、高知、香川、徳島、愛媛があり、そして日本と違ってその4つの県はそれぞれ言葉が違うんです。 
 もちろん共通語であるビシュラマ語というのがありますが、それは学校に入ってきてから習うもので、やはり言語が違えば文化が違いカスタムも違います。
 
 たとえば一つの県だけで体育大会を行うならその県のチーフ5人くらいにお願いして、現金は難しいにしても食事の用意や予算を作るための露店を大会中に出してもらったり、地域のお母さん達のお手伝いもお願いできるし開会式にはカスタムダンスを踊ってもらったり、豚や芋などを現物支給の「ミツギモノ」としてお願いできるんですが、4つの県合同となると、それぞれの県は自分達の県は独立しているという意識が高いので政府が勝手に決めた四国という単位では自分達は積極的に参加する気は無いということになります。
 だからそれぞれの県の先生達と頑張ります。でも電話がないし、ミーティングの会場まで来てもらうだけでも遠いところだと歩くと5時間もかかるので、それも大変、だからといってミーティングに来ないことを認めてしまったら組織は成り立たないのでやはり来てもらわないと困るし・・・・
 
 だから島全体で大会を行う時には日本人である僕の存在は大切です。僕がというよりその存在が大切なのです。
 一つの県の人たちが四国全体をまとめて大会をするとなれば周りの県は協力しないけど、「ボランティアの日本人が言っている!」
 という風に宣伝すればなんとなくまとまる。
 でも逆に組織力がなくってキャンセルするときも、すべて僕の責任
 「日本人がキャンセルしたみたい」
 ということになってしまいます。
 基本的にはそういったことをまとめるのが教育省に居る僕の仕事です。でも僕はそういった流れがわかってきたのも任地にきて10ヶ月たった最近になってからで最初は結構戸惑いました。
 
 あとは上司の出張の多さにも参ります。
 頻繁に首都(日本で言うと東京だね)からの呼び出しが会ってミーティングに行ってしまいます。
 教育省はスタッフ5人なのでトップがいないと仕事が停滞します、まあ今も僕にはあまり影響は無いですが・・・・
 だから何もかもがスロースローなのです。
 だから僕は教育省のオフィサーとしては何もできてないのが現状です。でも居るだけでも現地の人は嬉しいみたい。
 ちょっと悲しいけど居るだけで良いなら頑張って居るよ! 
 
 
 でもそれだけ2年間やっていてもおそらく何の変化も無いので、僕が積極的にやっているのは体育の巡回指導です。
 週に5校、午前中にまとめて8クラス分をやって戻ってきます。2学年ずつくっつけて45分を4コマです。
 2年間で何処まで回れるかわからないけど、遠回りのようでこれが一番効果的みたいです。
 効率よく組織を作って、って思ったこともあったけど今の僕の実力ではそれは無理、やっぱり地道な巡回指導が確実です!
 
 体育って大切なんだよ、って宣伝することが今は大切だと思っています。
 
 仕事のこと書き出すと長くなるので今日はこの辺で終わります。
 「ウラさんブログ長い!」
  って首都で散々言われたので・・・・
 
  写真は小学校ではなくて中学校の体育大会のミーティングの風景です。
  中学校はボランティア無しで自分達で二回も大会開きました。僕の担当の小学校は0回・・・・
  僕もアドバイザーとして参加さしてもらいましたが、赴任3ヶ月だったので言葉もわからずこれもやっぱり居るだけ、それでも喜んでくれるから
  頑張って居ました。  中学校は島に6校ほどしかないから60校ある小学校よりはまとまるのかな?
  僕も頑張ります!

悩んだらルーキー達に会え


今週は離島を離れて首都に居ます。
 新しく来た体育隊員と一緒に首都の学校で体育のワークショップ(公開授業)をするためです。
 僕の仕事は離島における小学校の体育授業の向上ですが、今回新隊員としてもう一人同じ職種で違う島に行くダイキ、現在首都の大学で今後バヌアツで先生達になっていく現地の学生達に体育授業を指導しているカイサンと三人で首都にある小学校で体育の授業を行うことによって今後のバヌアツにおける体育の授業の方向性を統一していきたい、というのが目的です。
 
 ということで今週は首都にあるジャイカドミトリーで生活しましたが、ダイキの同期は6名、現在バヌアツで約一ヶ月の現地訓練をしています。
 
 そこに僕が一人離島から来たので7名になってとても楽しかったです。
 新隊員は10ヶ月前に僕がバヌアツにはじめてきたときに感じていた、期待や不安、着任当初に悩まされる人も多い健康管理、(日焼けとか、下痢とかね!)などをすべて持ち合わしていて、でもそういった気持ちをすべて超越する情熱!を持っています。
  
 自分もこうだったなー、って思う事を沢山あって、この10ヶ月間の離島暮らしの間に少しずつ忘れかけていた情熱や大切な初心みたいなものを一週間の共同生活で沢山思い出しました。
 
 離島で胸が騒ぐときって学校の授業の最初に、生徒達が全力疾走で教室からグランドに居る僕のところに走ってくるときですが、今回はそれとはまた違う感覚を感じることができてよかったです。
 天気にも恵まれてワークショップも大成功! 
 首都の学校で算数隊員をしているセイコさんに
 「普段は生意気に見える子供達が、体育の授業をしている姿をみてやっぱり可愛いなーって思えた!」
 とお褒めの言葉をいただき、
 それぞれの学校の先生達もメモを取ってくれたり、縄跳びの授業に参加してくれたりでとても盛り上がりました。
 なんといっても現在バヌアツの小学校で体育の授業を定期的に行っている学校はほとんど無いので何をやってもウケル事は当たり前なんです   
 けどね。 
 
 ルーキー達の情熱と首都でのワークショップで気がつかないうちに溜まっていた心のアカみたいなのがきれいにはがれて心も体も充電完了です!来週は離島に戻って今回のワークショップでカイサン、ダイキに教わった新しい運動を取り入れて自分の生徒達を驚かしてやりたいです! 
 
 「悩んだらルーキー達に会え!」
 
 ベテランに悩みを聞いてもらうことも良いけど、時にルーキー達は自分の情熱を呼び覚ましてくれるかも知れないですよ!
 
 写真は新隊員たち、今週から続々とそれぞれの島や職場に旅立って行きます。今後の彼らの活躍を期待しています!

偉大な先輩隊員


派遣当事、タンナ島には僕ともう一人、小学校教諭(算数指導)隊員の先輩がいましたが、現職参加の教員だったので、1年8ヶ月の任期で帰国されました。
帰国前、首都に上がってしまうということで、二人で最後の晩餐しました。
先輩は昨年末にバヌアツの子供たちを日本のテレビ番組「30人31脚」に同行した隊員で、村人とも溶け込み、活動もとても順調、ビシュラマ語も良く話せて、僕から見れば偉大ですばらしい隊員でした。
最後の日、二人で、カバというお酒みたいなのを飲みに行って、その後二人で先輩の家の前で焚き火をしました。
二年間の活動を振り返って、最初の三ヶ月が本当に辛かったと話してくれました。
「言葉も話せず居場所も無く、授業も見てるだけで自分ではできなかった。俺は本当にダメだった・・・」
と語ってくれました。今の姿を見ると想像出来ない感じです。
「自分の前任者の方が偉大すぎて、俺は本当に辛かった・・・今でも村人に前任の人と名前を間違われると残念に思う・・・」
と冗談まじりに話してくれました。
前任者の方が帰国前に感謝の気持ちをこめて、最後だからとプリンターを使って村人みんなに写真を現像して渡していったらしく、自分が赴任したての頃は「日本人は写真を作れるんだろ」と言われ、「たかられてるのはわかっていたけど、居場所の無かった自分はそれでしかみんなとコミニケーションをとることが出来ずに、ひたすら写真をプリントし村人に配ることしか出来なかった。」

「物をあげることでしか村人とコミニケーションが取れないのであれば、プリンターだけあれば自分はいらないということに思え、自分が情けなく、本当に辛い時期だった」
としみじみと語ってくれました。でも今となっては全てが先輩にとっては良い思い出だったみたいです。
 
先日、自分も似たような経験をしました。

パソコン室みたいなところを過去に外国の援助で10台ほどのパソコンがあるのですが、いつも調子が悪く、その日もメールが送れずに待っていると、近所の子供たちがゲームをするためにそこにきており、僕の周りに集まってきました、僕はどうせインターネットつなげないしとおもい、パソコンに入っている写真を見せてあげました。
子供は喜ぶと思ったのですが、あまりにも違う日本の世界と、バヌアツとはまったく違うネクタイをしてる僕の姿をみて みんな黙ってしまって真剣な顔で見てました。

そのときなんとなく自分が良くないことしたなって思いました。バヌアツに溶け込もうとしてるのに、写真を自慢げにみせるなんてきっと気が付かないうちに自分に自信が無くなっていたのかも知れません。

でも後から考えると、僕にしても先輩にしても言葉でコミニケーションが取れない以上、最初は物で接していくしかないと思います。(手品が出来れば最高なんですが・・・)
なんとかコミニケーションをとりたくて、でも言葉では伝えられないから、物に頼る。
最初はそれでもよいと思いました。
いけないのは自分の語学の力の無さを棚に上げて、現地の人の生活水準がひくいとか、意識が低いからダメだ。などと自分ではなくて相手を攻めることだと思います。
あとはまだ現地で何もできない自分自身を攻めることも駄目です。
僕ら二人はそうは思わなかっただけ前向きだったと思います。
(僕はまだ必死ですが・・・)

 先輩の家と我が家は歩いて一時間はかかるので、その日は先輩の家に泊まり、次の日の朝に大量のジャイカのグッズ(防犯や工具、無線など)を引き継いで、二人で硬い握手を交わして別れました。

男同士だし特に何も語りませんでしたが、先輩も1年8ヶ月間一人で離島で暮らししてきたし、それ以降僕も今月末まで一人の離島になりましたす。

二年間活動したもののみに与えられる何かを先輩は持っている気がしました。
自分も二年後無事に活動終えて、その何を得られるのかどうかはまだわからないけど、帰りの道でなんとなく身が引き締まる思いがしました。
 
ちなみにバヌアツ人はなぜかデジカメ持ってる人結構いますが、うちの島にはカメラ屋はないので、みんなデジカメに写真が満杯になると、どうすの? ってきいてきます。
プリントして写真にしたら、消すんだよ。と言っても、プリントするところ無いから、みんな困っています。
「お前はどうしてるのか」
ときかれたら、パソコンに溜めてるから大丈夫と答えます。
ちなみに首都の島に現像しにいっても、一枚100円と結構高いので、現金収入のない村人は写真作れないと思います。現状はみんなデジカメが満杯になったら一番いらない写真を一枚消して、一枚撮るといった感じです。
実は、僕はその先輩からプリンターもらったんですけど、内緒にしてます。
まだプリンターに人気を持っていかれては困るので・・・・

写真はウチから歩いて一分のところにあるツリーハウスです。朝日に輝いて綺麗でしょ!
学校の敷地にあり特に誰かが住んでるわけではないです。タンナ島にはツリーハウスに泊まれるバンガローがあるらしいですが、そこには電話がないので予約不要?というか予約不可らしいです。
役に立たない情報でごめんなさい。
 
今タンナ島で一番ホットなミュージックはオゾンの「恋のマイアヒ」です。みんなノリノリでかわいいです!
 

真面目にマラリアのこと


授業中に子供にもらって食べたマンゴーで口の周りがかぶれました。枝の付いているほうと逆の方から食べないとかぶれるそうです。「マンゴーを食べたらマンゴーに食べられたんだ」と言ってバヌアツ人は大笑いしてました。
 
そして先週も書いたブッシュロープのツルです。やはり縄跳び代わりに使っていたブッシュロープはこれもまた漆科みたいで、握っていた手の親指とその周りがきれいにかぶれました。痒いです。寝てるときも痒いです。しかもかゆみ止めの飲み薬飲むと眠くなって仕事できません。だから朝は飲めないです。
毎朝口の周りと、手の周りにかゆみ止めを塗ってます。

足に小さな傷があると、そこにハエがたかってボイラーという病気になります。アフリカなどで、子供の足にハエがたかって膿んでるのを見ると思いますが、あんな感じです。(あそこまでではないけど・・・)
靴擦れで肌が荒れてるときにサンダルはいて外に出ると、一気にハエが寄ってきて攻撃します。だから少しの傷でもすぐにバンドエイドしておかないと、膿んでしまいます。
最初は乾燥させたほうが良いと思ってなるべくバンドエイドしないで置いたけど、やはりしないとボイラーになるので最近ちゃんと張ってます。

タンナにきて三週間、活動が運よく順調に行ってるとおもって喜んでたら、やはりそれなりの落とし穴がありました。三週間で二度目の風邪が待ってました。ちなみにバヌアツきて二ヶ月では三度目。
月曜日の午後になんとなく体がだるいなって思ってたんだけど、きっとかゆみ止めの薬のせいだと思って、水シャワー(水しかない)かぶって寝てました。
火曜日の朝も体だるかったけど、週に一度しかそれぞれの学校に巡回できないので、一週休むと、二週間あいてしまうことになり。薬飲んで何とか頑張っていきました。
午前中は涼しく曇っていたので何とか授業できましたが、午後はカンカン照りで、大声出すとめまいがしました。腰や間接も痛くて、耳の奥も膜が張ったみたいなって、自分の声が変な感じで聞こえてきたりして、フラフラしながら帰りました。
でもやっぱり自分で体育の授業をさせて欲しいと校長先生に頼んでやらしてもらってる以上は、休むのは気が引けるので頑張ってすべての授業を終わらせました。
 
返ってからはシャワーも浴びずに汗とホコリまみれの体のままとりあえず寝ました。
夕方おきても食事作る元気もなく、薬を飲みたいけど胃があれるのが嫌だったので、とりあえずビスケットを水で流し込むように食べて薬のみました。熱は7,5度だったので、まだ大丈夫だと思ってたら、夜の9時ごろには8度になってました。
「久々の8度だな」って思ってたら11時ごろには9度になってました。そのとき初めてマラリアかも。っておもいました。しかもそのときには相当頭がボーとしてて、体温を計りながら忘れて寝てしまい。次に起きて服を着替えようとしたら、脇の下に体温計が挟まってる状態でした。凄い汗で服をすべて着替えました。
その次におきたのは真夜中、今度はメチャクチャ寒くてしかも汗びっしょり。悪寒とはこのことだな、って思いながら、また洋服を全部着替えて、慌てて毛布に包まり、その外から真冬用の寝袋に入ってチャックを首まで閉めて、顔も寝袋に入れて寝ました。息苦しさより寒さの方が耐えられずそのまま眠りました。
 
朝方に起きて水を大量に飲みました。熱は8度に下がっていて気分も9度の時よりはましかな?って感じでした。ジャイカからもらった健康対策マニュアルみたいなのを見たら、高熱が出て、悪寒がして節々が痛くて、気分爽快になる。それが数日繰り返すのがマラリアです。って書いてあって、もしかして、今はその爽快期なのかな?っておもいました。
 
結局その日は仕事には行けませんでした。バヌアツで困るのは電話がないために、病気で仕事やすむと連絡なしで休んだことになるため、先生や校長に迷惑がかかることです。
「こんなに風邪引くんだったらもう少しゆっくりなペースで仕事すればよかったのかな? 結局みんなに迷惑かけてるな・・・信頼失うなー・・・」と思いながら反省しました。
 
でもその時点でもまだ8度の熱があり、お粥食べて薬飲んで様子見ました。でも熱は下がらず、めまいも凄いので、やはりこれはマラリアかもと思い、思い切って病院にいくことにしました。
そこで考えたのはもしマラリアなら、家に戻ってこれないかも知れない。ただでさえ靴や洋服、デジカメなどは盗まれることがあると聞いていたので、電気製品とお金を家のいたるところに隠して、もしこのまま入院しても大丈夫なように家のなかを整理しました。
お金は壊れたガスコンロの中に入れました。デジカメとパソコンは使ってない納戸のような部屋の押入れの一番上に下からは見えないような角度で隠しました。
洋服はバヌアツに来たときに入れてきた一番大きなかばんに知れて屋根裏に投げ込みました。
高熱で寒気とめまいと戦いながら家の中に物を隠すのはとても嫌な作業でした・・・
もうこの家には戻ってこれないような気持ちさえ起こりました。
病院にいって受付を済まして、1000円払って待っていると、先生が二週間以内にどこか旅行したか?とか最近蚊に噛まれたか?などと質問して。
その後血液検査をしました。中指の先に針を刺して、少しだけ血を採ってガラスの板に延ばして顕微鏡で見るみたいでした。
 
血を採って廊下で待っていると、隣に老人と孫がいました。
椅子などないので、みんなコンクリートの廊下に地べたに座っていますが、
「どうしたの?」
ってきいてくれたので、
「マラリアの検査して結果待ちです」
っと答えたら、孫もそうなんだよ。って教えてくれました。
しばらくして一人のお医者さんが戻ってきて、孫をゆびさして。
「彼、マラリア!」
と言って 三人は去って行きました。

廊下には僕が一人だけ残されました。
一人になると急に寂しい気分になりました。
もし自分もマラリアなら首都に戻るのかな?それともここで入院かな?って考えました。
やっと活動も順調になってきたのに、とりあえず一ヶ月は家には帰れないのかな?
誰も頼る人いないし、首都にどうやって連絡しようかな・・・・
自分は惨めなのかな?もし他の人だったらどう思うのかな?
などど考えていたら急に逆のことを思いました。
 
 「もし僕以外の日本人がタンナに来いてその人が僕の代わりに病気になって今の僕と同じ思いをして僕の代わりにここに座ってるとしたらそれは相当気の毒だな。だったらここにいるのが今自分でよかったな。」
「まあ別の人ならきっと病気にもならなかったかもしれないけど、それにしてもなんとなく人の役にはたててるような気がするな。」
 
「ウーン!こんな風に考えれてる僕は相当ポジティブだな!」
 
「この際マラリアになってたほうがもっと役に立ってる気がするかもな!」
などと馬鹿なことを考えました。 オメデタイ人間でしょ!
そう思うとなんとなく気持ちも落ち着き、二年間もあれば一度くらいはマラリアもなるだろう!と変な勇気がわいてきました。

そしてさっきのお医者さんが戻ってきて何か紙を渡しました。そこには何か汚い字で書いてあったけど、よくわかりませんでした。
マラリアなのかどうなのか教えてよっておもったけど、これをもって先生のところに行けというので持って行きました。
読もうとしたけど、僕の名前がテルヒロ ウラなのに、テルが名前でヒロが苗字になっていることくらいしかわかりませんでした。
 
でも先生が言うのは結果はネガティブでマラリアでは無いよ。ということでした。よく見たら英語でNEGAとかいてありました。でも血液中の何か(聞き取れなかった)が多くなってしまっているので、アンモキシ
ン?とかいう薬をもらって五日間飲みなさいということでした。抗生物質かな?
血液といえば 赤血球とか白血球とかしかないよな?なんて思いながら、ホッとして家に戻ってきました。なんとなく気が軽くなって、気持ちが落ち着きました。
家に戻っていろんな所に隠したお金やデジカメなどを苦労してもう一度もとの場所にもどしながらなんとなく良かったなー!って思いました。
 
「病気するのも活動のなかの一つだな」
などど綺麗ににまとめながら、この長いブログを読んでくれた皆様に感謝したいとおもいます。
おそらく同じ内容を日本の家族や友達に送ったら、みんな凄く心配するだろうし、何でそんな思いしてまで外国行くのか?って言われることでしょう。
特に母親は 「それ見たことか!」
と言うかも知れません。

でも病気しても、苦労しても、毎日活動終わって疲れて帰ってきてから水をかぶって体を洗ってスッキリした気分で「今日も暑いなかよく働いたなー」と一人でボーッとしてるとなんとも言えない充実間があります。日本で人と競争しながら仕事してたときには決して思えなかった気持ちかも知れません。
日本には無意識のうちに良いことしかメールしないような気がします。
ブログに書いたら同じだけどね・・・・
ごめんねお母さん親不孝で・・・・・
この先ほんとにマラリアになるかもしれないけど、覚悟しておこうと思います。
 
ちなみにマラリアが怖いとみんな良く言うけど、僕がきてからあった先輩隊員の話だと過去二年間バヌアツ関係者でマラリアになった人は居ません。それ以前は情報が無いのでわかりませんがもちろん亡くなった人も居ないです。もちろんジャイカと隊員達のきちんとした予防があっての結果だとは思いますが、なにも知らない日本で僕らが過剰に恐れているようなことは絶対に無いです。
バヌアツ人でもマラリアで死ぬ人はめったに聞きません。

写真は恥ずかしながら我が家です。古くて大きな家ですが殺人現場みたいとも言われています。
散らかってるのは病気の後だからではなく、だらしが無いからですゴメンナサイ。
ありのままを書くのがブログだもんね! ではではこの辺で・・・・

まじめにマラリアのこと

授業中に子供にもらって食べたマンゴーで口の周りがかぶれました。枝の付いているほうと逆の方から食べないとかぶれるそうです。「マンゴーを食べたらマンゴーに食べられたんだ」と言ってバヌアツ人は大笑いしてました。

そして先週も書いたブッシュロープのツルです。やはり縄跳び代わりに使っていたブッシュロープはこれもまた漆科みたいで、握っていた手の親指とその周りがきれいにかぶれました。痒いです。寝てるときも痒いです。しかもかゆみ止めの飲み薬飲むと眠くなって仕事できません。だから朝は飲めないです。
毎朝口の周りと、手の周りにかゆみ止めを塗ってます。

足に小さな傷があると、そこにハエがたかってボイラーという病気になります。アフリカなどで、子供の足にハエがたかって膿んでるのを見ると思いますが、あんな感じです。(あそこまでではないけど・・・)
靴擦れで肌が荒れてるときにサンダルはいて外に出ると、一気にハエが寄ってきて攻撃します。だから少しの傷でもすぐにバンドエイドしておかないと、膿んでしまいます。
最初は乾燥させたほうが良いと思ってなるべくバンドエイドしないで置いたけど、やはりしないとボイラーになるので最近ちゃんと張ってます。

タンナにきて三週間、活動が運よく順調に行ってるとおもって喜んでたら、やはりそれなりの落とし穴がありました。三週間で二度目の風邪が待ってました。ちなみにバヌアツきて二ヶ月では三度目。
月曜日の午後になんとなく体がだるいなって思ってたんだけど、きっとかゆみ止めの薬のせいだと思って、水シャワー(水しかない)かぶって寝てました。
火曜日の朝も体だるかったけど、週に一度しかそれぞれの学校に巡回できないので、一週休むと、二週間あいてしまうことになり。薬飲んで何とか頑張っていきました。
午前中は涼しく曇っていたので何とか授業できましたが、午後はカンカン照りで、大声出すとめまいがしました。腰や間接も痛くて、耳の奥も膜が張ったみたいなって、自分の声が変な感じで聞こえてきたりして、フラフラしながら帰りました。
でもやっぱり自分で体育の授業をさせて欲しいと校長先生に頼んでやらしてもらってる以上は、休むのは気が引けるので頑張ってすべての授業を終わらせました。

返ってからはシャワーも浴びずに汗とホコリまみれの体のままとりあえず寝ました。
夕方おきても食事作る元気もなく、薬を飲みたいけど胃があれるのが嫌だったので、とりあえずビスケットを水で流し込むように食べて薬のみました。熱は7,5度だったので、まだ大丈夫だと思ってたら、夜の9時ごろには8度になってました。
「久々の8度だな」って思ってたら11時ごろには9度になってました。そのとき初めてマラリアかも。っておもいました。しかもそのときには相当頭がボーとしてて、体温を計りながら忘れて寝てしまい。次に起きて服を着替えようとしたら、脇の下に体温計が挟まってる状態でした。凄い汗で服をすべて着替えました。
その次におきたのは真夜中、今度はメチャクチャ寒くてしかも汗びっしょり。悪寒とはこのことだな、って思いながら、また洋服を全部着替えて、慌てて毛布に包まり、その外から真冬用の寝袋に入ってチャックを首まで閉めて、顔も寝袋に入れて寝ました。息苦しさより寒さの方が耐えられずそのまま眠りました。

朝方に起きて水を大量に飲みました。熱は8度に下がっていて気分も9度の時よりはましかな?って感じでした。ジャイカからもらった健康対策マニュアルみたいなのを見たら、高熱が出て、悪寒がして節々が痛くて、気分爽快になる。それが数日繰り返すのがマラリアです。って書いてあって、もしかして、今はその爽快期なのかな?っておもいました。

結局その日は仕事には行けませんでした。バヌアツで困るのは電話がないために、病気で仕事やすむと連絡なしで休んだことになるため、先生や校長に迷惑がかかることです。
「こんなに風邪引くんだったらもう少しゆっくりなペースで仕事すればよかったのかな? 結局みんなに迷惑かけてるな・・・信頼失うなー・・・」と思いながら反省しました。

でもその時点でもまだ8度の熱があり、お粥食べて薬飲んで様子見ました。でも熱は下がらず、めまいも凄いので、やはりこれはマラリアかもと思い、思い切って病院にいくことにしました。
そこで考えたのはもしマラリアなら、家に戻ってこれないかも知れない。ただでさえ靴や洋服、デジカメなどは盗まれることがあると聞いていたので、電気製品とお金を家のいたるところに隠して、もしこのまま入院しても大丈夫なように家のなかを整理しました。
お金は壊れたガスコンロの中に入れました。デジカメとパソコンは使ってない納戸のような部屋の押入れの一番上に下からは見えないような角度で隠しました。
洋服はバヌアツに来たときに入れてきた一番大きなかばんに知れて屋根裏に投げ込みました。
高熱で寒気とめまいと戦いながら家の中に物を隠すのはとても嫌な作業でした・・・
もうこの家には戻ってこれないような気持ちさえ起こりました。
病院にいって受付を済まして、1000円払って待っていると、先生が二週間以内にどこか旅行したか?とか最近蚊に噛まれたか?などと質問して。
その後血液検査をしました。中指の先に針を刺して、少しだけ血を採ってガラスの板に延ばして顕微鏡で見るみたいでした。

血を採って廊下で待っていると、隣に老人と孫がいました。
椅子などないので、みんなコンクリートの廊下に地べたに座っていますが、
「どうしたの?」
ってきいてくれたので、
「マラリアの検査して結果待ちです」
っと答えたら、孫もそうなんだよ。って教えてくれました。
しばらくして一人のお医者さんが戻ってきて、孫をゆびさして。
「彼、マラリア!」
と言って 三人は去って行きました。

廊下には僕が一人だけ残されました。
一人になると急に寂しい気分になりました。
もし自分もマラリアなら首都に戻るのかな?それともここで入院かな?って考えました。
やっと活動も順調になってきたのに、とりあえず一ヶ月は家には帰れないのかな?
誰も頼る人いないし、首都にどうやって連絡しようかな・・・・
自分は惨めなのかな?もし他の人だったらどう思うのかな?
などど考えていたら急に逆のことを思いました。

「もし僕以外の日本人がタンナに来いてその人が僕の代わりに病気になって今の僕と同じ思いをして僕の代わりにここに座ってるとしたらそれは相当気の毒だな。だったらここにいるのが今自分でよかったな。」
「まあ別の人ならきっと病気にもならなかったかもしれないけど、それにしてもなんとなく人の役にはたててるような気がするな。」

「ウーン!こんな風に考えれてる僕は相当ポジティブだな!」

「この際マラリアになってたほうがもっと役に立ってる気がするかもな!」
などと馬鹿なことを考えました。 オメデタイ人間でしょ!
そう思うとなんとなく気持ちも落ち着き、二年間もあれば一度くらいはマラリアもなるだろう!と変な勇気がわいてきました。

そしてさっきのお医者さんが戻ってきて何か紙を渡しました。そこには何か汚い字で書いてあったけど、よくわかりませんでした。
マラリアなのかどうなのか教えてよっておもったけど、これをもって先生のところに行けというので持って行きました。
読もうとしたけど、僕の名前がテルヒロ ウラなのに、テルが名前でヒロが苗字になっていることくらいしかわかりませんでした。

でも先生が言うのは結果はネガティブでマラリアでは無いよ。ということでした。よく見たら英語でNEGAとかいてありました。でも血液中の何か(聞き取れなかった)が多くなってしまっているので、アンモキシ
ン?とかいう薬をもらって五日間飲みなさいということでした。抗生物質かな?
血液といえば 赤血球とか白血球とかしかないよな?なんて思いながら、ホッとして家に戻ってきました。なんとなく気が軽くなって、気持ちが落ち着きました。
家に戻っていろんな所に隠したお金やデジカメなどを苦労してもう一度もとの場所にもどしながらなんとなく良かったなー!って思いました。

「病気するのも活動のなかの一つだな」
などど綺麗ににまとめながら、この長いブログを読んでくれた皆様に感謝したいとおもいます。
おそらく同じ内容を日本の家族や友達に送ったら、みんな凄く心配するだろうし、何でそんな思いしてまで外国行くのか?って言われることでしょう。
特に母親は 「それ見たことか!」
と言うかも知れません。

でも病気しても、苦労しても、毎日活動終わって疲れて帰ってきてから水をかぶって体を洗ってスッキリした気分で「今日も暑いなかよく働いたなー」と一人でボーッとしてるとなんとも言えない充実間があります。日本で人と競争しながら仕事してたときには決して思えなかった気持ちかも知れません。
日本には無意識のうちに良いことしかメールしないような気がします。
ブログに書いたら同じだけどね・・・・
ごめんねお母さん親不孝で・・・・・
この先ほんとにマラリアになるかもしれないけど、覚悟しておこうと思います。

ちなみにマラリアが怖いとみんな良く言うけど、僕がきてからあった先輩隊員の話だと過去二年間バヌアツ関係者でマラリアになった人は居ません。それ以前は情報が無いのでわかりませんがもちろん亡くなった人も居ないです。もちろんジャイカと隊員達のきちんとした予防があっての結果だとは思いますが、なにも知らない日本で僕らが過剰に恐れているようなことは絶対に無いです。
バヌアツ人でもマラリアで死ぬ人はめったに聞きません。

写真は恥ずかしながら我が家です。古くて大きな家ですが殺人現場みたいとも言われています。
散らかってるのは病気の後だからではなく、だらしが無いからですゴメンナサイ。
ありのままを書くのがブログだもんね! ではではこの辺で・・・

衣装と道具編


最近いろんな国に派遣された友達の話を聞いて 民族衣装ってうらやましいと思います。だってバヌアツはただ脱ぐだけだからね・・・ 生まれたままに戻るだけで、とくに衣装というようなファッショナブルなものはありません。山に入ればおじいちゃんたちは腰に布を巻いたスカートをはいてます。
 「風呂上りかよ!」って感じです。
 
 そしてみんなブッシュナイフを持ってます。子供も大人もナイフ持ってて、木の 根っこに座って、暇つぶしに何かを削ってます。
 時には50センチほどもあるブッシュナイフで足のつめを削っている人までいて、 間違えて足の指まで切り落とさないかと見ていてヒヤヒヤします。
 
 しかもそのナイフでパパイヤやマンゴ、ココナッツなどをカットしてくれて、
「食べろ!食べろ!」
 と満面の笑みで勧めてくれるので、切り口がちょっとしょっぱい気がするけど、あまり観察すると失礼なので、なるべく見ないようにしてエイッと口に掘り込みます。
 (少し塩分がきいてる気がするかも・・・最近は多少の虫は有機野菜だから仕方な
いと思えるようになって来ました・・・)
 
 ジャングルの奥に行けば行くほどみんな原始的で、しかも食べ物も沢山あります。
 木の根っこに座って話をしていると、たまに上から大きなパパイヤやココナッツな どが風に吹かれて落ちてくるので、結構危険です。
 
 季節ごとに食べれる木の実が変わってくるから一年中飽きないんだ!って嬉しそうに説明してくれます。でもココナッツは一年間常に落ちてきます。
 良い香りのする木とか、タバコに出来る木とか、いろいろな木があって面白いで す。
 
 小さい子供はみんな素っ裸なので、かわいいです。
 
 今週で活動は二週目を終わりました。一週目は走ってばかりで自分も笛を吹くのが 疲れたので、今週は縄とびに変えました。子供の食いつきも良いです。
 しかし、縄跳びは学校にあるわけではなく、休み時間に子供に頼んで
「ブッシュロープをとって来い!」
 っていうと、5人くらいでジャングルに入っていって、簡単に10メートルくらい の木のツルを取ってきます。
 (今書いてて思ったけど、今週手首がずっとカブレ続けたのはもしかしてこのブッシュロープにカブレたのかも・・・・)
 汗をかくと手首が痒いです。

 バヌアツは月曜日と金曜日にマーケットがあって、そこでお肉が買えるのですが、朝に殺してそのまま小屋にブラ下げてカットしながら売ってるので、買ったときはま だ牛の体温が残っており、ビニール袋が暖かいです。(おそらく冬になったら湯気が 立ってそうです)
 二週連続でお昼には売り切れていたので、今週はどうしても欲しくて朝一番で買いました。久々に食べた牛肉は美味しかったです。
 
 まあ今週はこんな感じでした。来週は縄跳びしたらカブレるから他の事考えないといけないと気がつき、筆が進まなくなりました。
 
 来週はエッサッサだな・・・・
 
 ちなみに写真はお肉屋さんです。