2010年6月30日水曜日

シャンプーと言う犬についての話③



 <写真はシャンプーの物真似をする隣のクウィンティル、タソガレ顔が
なんとなく似ています。写真は2008年の10月だから、3歳か4歳でした、
今は小学校に通っているそうです。>


そんな彼女と僕との間に小さなもんだがおこったのは

スパイダーが死んでから一カ月くらいたったある深夜の事でした。

 眠れないのでメールのチェックをリビングでしていた時の事、

外のセンサーライトのオレンジ色の光の中で、

シャンプーが他の二匹の犬と交尾をしているのに気がつきました。

 スパイダーの支配下におかれていた、我が家の敷地の中で、

二匹のたいして品の良くもない雄犬に囲まれて、

交尾しているシャンプーのその遠い眼の先に、

一瞬でもスパイダーの事を思い出してくれているのかな?

 と少し切なくなりました。

 人間としてあまりにも守られた世界に住んでいる僕にとっては

 少しだけショックでした。

 しょせんそんなのは男のエゴだなとわかりながらも、

とても複雑な気持ちで、深夜のその光景を家の中にある

少し大きな肘置きのあるチェアーにもたれながら、

死んだスパイダーの事を思いながら、

 少し複雑な気持ちで眺めていたのを思い出します。

 
 それから三日間ほど、僕はシャンプーと口を利きませんでした。

 お前がスパイダーを待つ気が無いのならば、もう一緒にはいたくない、

もともとお前はうちの犬では無いのだ、

うちの残飯はお前には食べてほしくないし、スパイダー以外の犬を飼うきは俺には無い。
 
 そう思っていました。

 シャンプーは残飯がもらえてももらえなくても6時前後には必ずうちの

キッチンに顔をだして、座っていました。

 三日間たって、餌をあげない僕に腹を立てるでもなく、仕方が無いから

一切れだけあげた肉のかけらの匂いだけをゆっくりと嗅いで、

なぜか口に入れなかったシャンプーの姿をみて、

 「腹が減ってるから来てるわけではないんだな」

 となんと無く自分が間違っていたようなきがしました。

 「スパイダー、お前はどう思っているのか?」

 と彼に聞きたい気持ちでした。

 おそらくスパイダーは

 「そんなことは犬の世界では当たり前、人間てなんでそうなの?

   ウラのほうがおかしいよ!」

 って思っていたかもしれません。

2010年6月26日土曜日

シャンプーという犬についての話②



<写真は我が家のコンクリートの上で涼んでいるシャンプーです、
いつも落ち着いていて、優雅な感じでした。気がついたら我が家に居て、
いつの間にか去っていく、別に食事をねだりに来ている訳ではなく、
くつろぎに来ているようでした。>



スパイダーが事故か、他殺かで行方不明になってから二週間、夕方になるとシャンプーはう

ちにキッチンの入り口にさりげなく座っています。

 僕が肉の破片やシーチキンの空き缶などを目の前に置くと、

ゆっくりと首をもたげて優しく空き缶を舐めます。

 スパイダーが居た時はその空き缶すら彼に取られていましたが、

シャンプー以外の犬が我が家の敷地内に入ることはスパイダーが断じてゆるさなかったので、

うちのキッチンにシャンプーがいるだけでも、

それは十分にスパイダーの彼女として認められていたのでした。

 「今日もスパイダーは帰ってこなかったな、

お前も俺と一緒に彼の帰りを待っているのか、

今日はスパイダーは帰ってこなかったから、晩飯の残飯はお前にあげるよ、

そうしないと夜中に他の犬がうちのごみ箱を荒らすからな、

きれいに食べてから家に戻ってくれ」

 といって彼女に残飯を食べてもらっていました。

「でもお前はジョンの家の犬だし、スパイダーもレイモンドの家の犬だったから、

さすがにお前はうちの犬としては認められないよ、

バヌアツの人にウラは犬泥棒だと言われたくないからね、

食べたらすぐに戻るんだよ」

 そういう僕の気持ちがわかるのかどうかはわからないけど、

シャンプーは僕の晩飯の時間が終わると、気が付いたら姿を消しています。
 
 あとから気がついたんのですが、彼女はそれぞれの家の晩御飯の時間を
把握していて、夕方の4時ごろから、8時くらいにかけて、

それぞれの家を回って食事をもらったり、残飯をあさったりしているようでした。

 雄犬達は自分達の縄張りをきちんと守って生活していますが、

雌犬のシャンプーは縄張りは持たず、したたかにそれぞれの場所を回っては

食事をえているようでした、雄犬達もシャンプーにはそれほど攻撃はせず、

シャンプー自身も他の犬の嫌がるようなことは決してしない犬でした。

 他の犬に自分の食事を横取りされても、おこるそぶりも見せずに、

フラフラと去っていくような犬でした、そのけなげさで、

バヌアツで生き抜いていけるのか?隊員達のあいだでは常に不思議がられていました。

体は大きいのに、犬のくせに猫背で、まっすぐ歩いているのに、

どことなく斜めに進むその姿に、なぜか哀愁を感じるのは僕だけでは無かったと思います。

2010年6月24日木曜日

シャンプーと言う犬についての話 ①



:写真はシャンプーです、僕の部屋をのぞきに来た時です、
決して家の中には入ってきませんでした。
 いつも僕がシャンプーの姿を確認したとわかると、
静かな場所を見つけてくつろいでいました:



  もう一年以上も書かなければならないと思っている犬の人生がある、

名前はシャンプー、僕の愛犬スパイダーの彼女。突然この世を去ったスパイダーの帰りを僕と一緒に待っていた悲しきこの犬の人生を時に僕は深く考えていた。
一年以上たった今、夜の10時まで日の落ちないイギリスで彼女の話を書こうと思います。

 彼女の本名はビニーという、ジョンという高校の先生の飼い犬だった、
 なぜシャンプーと呼ばれているかというと、僕が近所の子供達に

「この犬はなんていう名前なんだ?」

 と聞いたら、子供達はジャンボという犬がビニーと良く似ていたので、僕に一生懸命

「ウラ、この犬はジャンボっていうんだ! ジャンボだよ!」

 と繰り返して教えてくれた、バヌアツにはジャの発音は無いので子供達のジャンボの発音は奥にはシャンポに聞き取れた、僕が変だな?って思いながらも

「シャンポっていうのか?」

「そうだジャンポだ」

「今、お前はシャンプーっていったのか?」

 「そうだウラ、いま、俺はジャンボっていった!」

 「シャンプーって頭を洗うシャンプーか?」

 「ウラが言ってることわからないけど、ジャンボだ、とりあえずジャンボなんだ」

  「そうかシャンプーか」

 という感じで気が付いたらみんなどうでもよくなっていて、

かってに彼女の名前は僕のなかではシャンプーでした。

 ジャンボを僕が聞き間違えてシャンプーになり、元の名前も子供達が

 ジャンボという犬と間違えて、結局ビニーは誰にも本当の名前をよんで

もらえず、そのまま僕が帰国するまでシャンプーでした。

 僕の愛犬スパイダーが愛した犬、だれも犬に餌をやらないバヌアツで、

けなげに生き抜いている彼女の姿は、悲しくもあり美しくもありました。

 
 今日から8回くらシャンプーの話になりますのでよろしくお願いします。

2010年6月22日火曜日

親父は超えれませんね



 <写真は親父の送別会です、親父は死ぬ前に言いました。
 「大阪で葬儀しない代わりに、送別会みたいなことをしてくれ、俺が死んだら
 この5人に連絡してくれ、っていって元の会社の人達の名前を書き残しました、
 そして、その人達が親父の意向をさっして送別会を全て段取りしてくれました。
 とても良いものになりました。親父にはもったいないほどでしたが、
 ありがたかったです。皆様にこの場を借りて改めて、お礼を言いたいと思います。>






息子というものは無条件に親父を尊敬しているものだとおもいます。

 良く「親父超え」

 なんていうけど、おそらく、世の中の親父達はそれほどその言葉を

意識していないし、息子は対してライバルでもないと思っているとおもい

ます。

 そんな僕と親父の人生が初めて交差したのが親父が53歳で会社を

引退した時だったと思います。

 それまでの親父の人生は「ベビーブーム」「高度成長」「団塊世代」とい

う常に多数派であり、人生のレールはひかれていて、そのレールの上を

他人よりいかに早く走るかを競う人生だったと思います。

 どこに行くのか? 何が目的なのか? なぜ急ぐのか?

 は関係なく、日本の全てが早く走ることに何の疑問も持たない時代、

その方向性はとりあえず「成長」すればそれでよし!

ということだったのだと思います。

 どこに行くのかは誰も気にしてなかった。

 でも昭和49年の早生まれの僕が97年に就職する頃、ちょうどバブル

が終わり始めたころから、なんとなく

「早く走るのも良いけど、そろそろ俺達の前を走っている国が世界中の

どこにも無くなってきたぞ、これからは何を目標にどこに追いつくために

頑張ればよいのかな?」

 という疑問が日本の中に出てきた時代だと思います。

 そんななか親父は会社を引退して、出家しようと思ったみたいです。

「お父さん、人生で初めて挫折したね」

 とその時僕が言ったそうですが、僕は覚えていません。でもおそらく

僕が親父に言いたかったのは、挫折ではなくて、

「自分が何を目標にして、どこに向かって走るのかを模索しながら

人生を進めていくことが一人の人間としていかに不安で、難しい物なのか、

初めて気がついたのではな無いかな?」

 ということが言いたかったのだと思います。

親父の人生は常に多数派だったからね。

それは僕が子供の頃からずっと悩んでいて、団塊世代の親父は一度も考え

たことが無い事だと思ったからです。



二人の人生が交差して、親父が自分の息子に本気で興味を持ちだしたのは

その頃からだと思います。

 でも親父の事をいまでも凄いなと思うのは、

団塊世代を走り抜けた親父には、

僕とは比べ物にならないほどの成功体験を持っているということ、だから

出家しても、癌になっても常に自分の成功を信じて、前向きに闘うことで

した。

 良く言えば前向きで純粋、悪く言えばガメツくゴキブリのような生命力

 最後までこのオヤジは超えれないなー!

とあきらめてしまいました。

 そんな親父が最後の半年間、精も根も尽きて、子供のように家族に甘えてこの世を去っていった時なんか少し嬉しかったです。

「人間は最後にはこんなにカッコ悪くなって死んでよいんだ、あれほど偉大だと思っていた親父も、これほど子供に戻って最後を迎えることができるとは、人生とはそれほど悪くは無いものだな」

 と少しだけ安心しました。改めて「えらいぞ親父!」

とおもいました。

皆さんにもお勧めしたいです、最後は頑張らずにカッコ悪く旅立つことは

子供にとっては少し嬉しい事でもあるし、人生の最後は頑張らなくても、

素晴らしいものだ、と感じさせてくれると思います。それが本当の人間

だと感じました。



「親子というのは争う物ではなくて、何か人生を引き継いでいくものなのだな」

 とも感じました。
30を過ぎて自分というものがわかってくると、なぜ自分はこういう風に考えるのかな?自分は何故こういうことにこだわるのかな?

 とかいう疑問がわいてきた時、自分の親父をみれば、なんとなく
「これは俺のせいではなくて、持って生まれた血のせいだ」

 と納得できることがあります。

 自分を知るには親を知ることが大切であり、親の悪いところは真似しないようにすることは大切だと思いました。

 そんな親父が一年前に亡くなってから、25年間勤めた親父の会社の

人達と、個人的にお線香をあげに来てもらった時や、

 親父の生前に何度かあったことのある人達と

一緒にお酒をごちそうになることが何度かありました。

 そこでみんなに言われた事は

「テルヒロ君、僕は君の事は何でも知ってるよ、スポーツしてたことも、

バヌアツにボランティアに言ったことも、お父さんはいつもお酒を飲むと

君の事を自慢していたからね」

 という話をみんなから聞きました。

「なんだヤッパリ僕の事好きだったんだ」

 と周りの人の話から感じることができました。

 葬式はしなかったのだ親父の送別会が開かれた時の挨拶で

「会社の皆さんに癌で死ぬ死ぬと言って8年間もタダ酒を散々飲ませてもらって、

家族にはお父さんは狼少年だから、本当に死んだときには誰も気がついてくれないだろう、

と言っていたのに、今日はこれほどの人に集まっていただいてありがとうございます。

僕が自慢の息子のテルヒロです。」

 と挨拶したらみんな喜んでいました。

 驚いたのは親父の会社では昨年の一年間だけで団塊世代とそれより若い人達が2人も亡くなっていたことです。

 「ゴルフが大好きだった浦さんもあの世に言って、天国にあるパラダイスゴルフクラブでは

今3人で居るはずだ、ゴルフは4人で回るものだけど、どうかまだ俺達を呼ばないで欲しい」

とみんなで言って笑っていました。団塊世代は頼もしいなー、となぜか羨ましかったです。

 あれからちょうど一年が経ちました、そろそろ親父も天国のほうが居心地が良くなってきた

頃だと思います。

2010年6月21日月曜日

イギリスの桶狭間で頑張りました

 人生のなかで募金活動をしたことのある人が何人いるだろうか?
 
僕は自分の人生でそういうシチュエーションになることは無いと思っていた。

 渋谷や梅田の広場で歌を歌い事も無いと思っていたし、

何か人前に見せれるような技術は僕には無い。
 
 でも今それをしている、はっきりいって僕は日本ではする自身が無い。
 
 でも旅の恥はかき捨て、ではないけど、こっちだとできるし、意外と

 みんな喜んでくれる。そして不思議なことにお金をくれる。


 先週はリンカーンという古い町に行った、

丘の上におそらく日本のマンションでいうと

10階建てくらいの高さで奥行きも100メートルくらいある大きな教会があって、

その向かいに石垣があり、お城がある、

おそらく300年とか500年とかのレベルで建っているたてもので、

しかも教会はそれだけ大きな建物の中がワンルームだということが恐ろしい、

イギリスの建築の技術は恐ろしいし、地下にプレートが走ってないから、

地震が起こらないというのは恐ろしい事だと思った。


 でもよく考えたら京都の清水寺は日本人の僕が見ても恐ろしいし、

あっちのほうがさらに古いと思うと、日本もかなり恐ろしい国だ。

 まあ別に恐ろしいという表現はあってるかどうかはわからないけど、

実際に目の前に建ってそれだけ大きな建物が何百年もそびえたっているというのはそれだけで

僕にとっては恐ろしいことなのです。
 


 その下は城下町になっていて、

おそらく昔は商人たちが住んでいたのだろうけど、

今はショッピングセンターが果てしなく続いている。

昔ながらに残っているのは石畳の道くらいのものだ。

 

6人で行ったのだけど、募金活動をするのに駐車場代の300円がもったいない、

ということで、城下町にある教会にいって

「募金活動を一日するので、車停めても良いですか?」

って言って、募金活動をしながら売る200円のマガジン
(僕らの活動とかアフリカの現状なんかが書いてある、自分達で作ったマガジン)
 
を渡して説明すると、

「偉いぞ、頑張れ!」

と言って、ただでおかしれくれる、きちんと話せばきちんと受け入れてくれる、

それがイギリスの面白いところです。

 ちなみに僕らは城下町に車を止めたので、

みんな町の真ん中まで一緒に歩いて行って、そこで解散した。

 1時にここでみんなで昼食、その後4時まで頑張る!
 
ということになった、メンバーはフランス人、ハンガリー、

ブラジルが二人、イタリア、僕の6人。

 みんなは町に降りていったけど、僕は丘の上にあるお城に興味があったので、

とりあえず観光しなきゃと思って丘をひたすら登って行った。

 圧倒的な教会の大きさと、お堀の高さに少し感動していたけど、

頭の半分は募金の事を考えていた。そして気がついてしまった。

 観光客用の駐車場は丘の上にある、みんなそこに車を停めて、お城と

教会を観光してから、細くて急な坂道を下って、

城下町のショッピングセンターに下りていく、

そして昼飯を食べて、また坂を登っていくのがこの町の仕組みだ!

 ということで細くて急な石畳の道の道幅が少し細くなったところで

募金活動をすることにした。
 
「ここがこの町の桶狭間だ!」
(信長が2千人くらいで今川義元の4万人の軍勢に勝利したところです。
ようは道が狭くて4万居ても意味が無かったところです。)
 
しかも僕は立ってする募金は疲れるので椅子とマガジンラックを持ってきて、

道のくぼみに座って

 「ハロー、良い一日を!」
 
を繰り返します。たまに止まってくれる人には僕のバヌアツの頃の写真をみせて

僕は体育を教えにアフリカに行きます。

って伝えます。でもおそらくみんなはバヌアツをアフリカだと思っているので、

「アフリカに戻るんだね!では100円!」

って感じでお金を投げ入れてくれます。募金箱には

 「あなたの一円が笑顔を作ります、サンキュー!」

っていうなんかいい加減なスローガンが、書いてありますが、

みんなポケットに一度手を突っ込めば、一円だけを出すのが逆に面倒になって、

30円くらいは入れてくれます。

 そんな事を2時間くらい繰り返していると千円くらいの小銭がかごにたまりました、

その頃になると、城下町に下りて昼飯食べて戻ってくる人達がまた坂を登りだします。

 「お前まだいたの、お前に言われたとおりに俺達良い一日過ごせたから、ハイ募金!」
 
っていって投げ入れてくれます。 

 それを見た他の人も、

「じゃあ俺も募金!」

立ち止っている人をみて坂を下ってる人達も

「とりあえず募金!」

それをみた回りのお店の人達が、

「じゃあ俺はポテトチップを募金!」(お金じゃないから寄付になるのか)

 通り過ぎた家族から子供だけが戻ってきて、

「はい募金、そして握手!」

 その頃になると僕は楽しくなってきてお金なんてどうでもよくなり、

ひたすらみんなに挨拶するだけで

「はい募金!」

 2時ごろになるとイギリス特有の薄暗かった雲の間から

木漏れ日が僕を照らしてくれて、ちょっと体も暖かくなり、

「神様が応援してくれてる。」

となんとなく感じながら、またみんなに挨拶、

かごに小銭がいっぱいになってきて、

不思議なことにお金が沢山入ってるのを見ると、人は

「自分も入れなくては!」

 と思ってくれるみたいで、

「はい募金!」

坂を下る時に空だったカゴにお金が沢山になっているのをみた帰りがけの人が喜んでくれて
 
「はい募金!」 
 
 そんな感じで時間は4時、坂を下って城下町のみんなに合流、

即効でショッピングセンターのトイレに駆け込みました。 

一人の募金活動は寒いし、トイレに行けないからね。

 他のみんなには

「今日は全く駄目だった」

「みんな私達がアフリカに行くことをしっていたし、既に日本人に募金したって言われた」

 ウラは昼飯にも来ないでどこに居たの?っていわれて

 「桶狭間!」

っておもったけど、言ってもわからないよね。

 みんな平均千五百円くらいなんだけど、

僕はたぶん三千円は言ったはず、って思いながらもそこから2時間かけて

学校に戻りました。

 結局もどってきて全部数えたら60ポンド、

日本円にしたら八千円くらいになっていました。

イギリスは物価が安めだから八千円は結構なお金です。

 まあこんなに上手く行く日は無いと思いますが、

でも僕たちは半年間のイギリス生活で四十五万を集めてそのお金でアフリカに行くので、

本当に助かりました。

 募金してくれたみんなの気持ちを無駄にしないように

頑張ってアフリカに行こうと思います。
 
イギリスの皆様ありがとう!





 

2010年6月19日土曜日

お葬式の段取りの話



 <写真は亡くなる二日前です、入院したことを姉にメールで伝えよう!
  って言って携帯で撮った写真です、子供みたいに笑ってくれました、
  今考えても本当に我慢強い人でした。人生の最後に頑張って作った
  笑顔だと思います。死ぬ寸前にニッコリ笑えたってことは、
  親父の人生はそれだけで大成功だったのだと思いますし、
 きっと姉に元気な顔を見せたかったのだとおもいます。>



 親父は死ぬ前に

 「死んだら大阪でお葬式するなよ、出家した時にお世話になった山口に持って

行って、そこで燃やしてくれ、俺は一応あそこのお寺の坊主だし、

きちんと向こう

には話してあるし、山口の兄ちゃん(僕のおじさん)にも話してあるから

大丈夫だ!
 
 と言っていました。

 
 結局親父が夜中の1時前に死んで、僕は病院に一人だけ、

 遺体を山口で燃やせって言うけど、そんなのできるのかな?

っておじさんに聞いたら、それは難しいと思う。もしそうするなら大阪の

葬儀屋にお願いするのではなくて、山口の葬儀屋にお願いして山口から迎

えにきてもらうことになるから、難しい。

 ってことになって、

 「親父、話と違うじゃん!」

 親父を恨んだけどすでにさっき死んじゃってるから恨みようがない・・・

 時間はすでに夜中の2時、明日の朝には親戚一同が病院に来ます。

 その後にマンションまでみんなで移ってそれから相談するの?

 その間親父の遺体は病院に置いておくのかな?

 そして気がつきました。

 
   決めるのは自分だ!既に親父はこの世に居ないのだ!

 
 そこから夜中に葬儀屋4件くらいに電話して、

どこも金額言わなかったけど、

一番誠実そうなところに決めて、

朝の6時に病院からマンションに親父を連れて行

ってもらうことにしまいた。

 金曜日でゴミの日だったから、7時とか8時にマンションに行くと

みんながゴミ出しに出てきていてあまり良くないと思ったから朝の6時に

してもらいました。

 朝の6時に葬儀屋の人が来てくれました、病院のほうは

 「お会計とかは今は気にしなくてよいです、二週間くらいして落ち着いたら着てください、大変だと思いますが頑張ってください」

 と言われて、葬儀屋の人には

 「あなた一人ですか?」

って言う感じでみられて、親父の車がでた後で、広い駐車場に朝の6時に

たった一台ポツンと停めてあった自分の原付に乗って、家に戻りました。

 親戚には

 「すでに実家のマンションにもどりましたがの、病院には行かないで、

 直接マンションに着てください」

 と連絡して、気が付いたら朝の7時。

 とりあえず親父の葬式代とかを親父の口座が閉じられる前に銀行から

 引き落としとかないと。
 
 と思いながらみんなが来るのを待ちました。

姉が悲しむ姿を見るのだけが唯一気になっていたけど、一緒に来てくれた

 姉の二人の息子達(3歳と5歳)が走り回るので、姉もゆっくりと悲しむ暇

は無かったかもしれません。

 
 それがお葬式のはじまりでした。後は葬儀屋さんが全て仕切ってくれる

から、楽なもんでした。

 面白いのは見積りって家に親父を運んでもらってから行われること。

 もしそこで金額とかがかみ合わなかったらすでに家まで運んでもらって

るし、ちょっと気まずいよね。

 身内は悲しんでるけど、そこらへんのお金の勘定は葬儀屋さんにとって

もこちらにとっても微妙な駆け引きがあるなー!

って感じました。

ウチの場合は親父の主将のお坊さんが来てくれていて、その人が

 「葬儀はお寺でしますので、大阪では単に骨にしてもらうだけで結構で

すので、余計なことはいりません、それが故人の希望でもあります。」

 って言ってくれたので、簡単に済みました。それでも約50万。

 僕は初めての喪主だったけど、特に何もすることはなく、喪服をきてウ

ロウロしてるだけだったです。

 あれから一年が経ちました。

 きちんとブログを書こうと思ったのですが、今日は朝から10時間も

 車を運転したので、お休みさせてもらいます。

 ちなみにイギリスは今夜の9じです。

 ワールドカップのアルジェリア先のために高速道路はガラガラ、

 町も静まり返っていました。 

  

 

2010年6月16日水曜日

ご連絡ありがとうございました。

 先週にアドレスを作ってから一週間ですが、

 皆さんから10件ほどの連絡をいただきました。

 本当にありがとうございます。
 
 一番多かったことは、写真がなんで乗っかってないの? というものでしたが、

 ブログの無料で使える容量が終わってしまって、こっちに持ってきたカードがなぜか今

 使えなくて、もう少し待ってください。 たったの500円くらいで沢山乗っけることが
 
 できます、そしてけっう良い写真を撮ってあるので、できたらすぐに乗っけますね。


  なんでウラはそんな人間になったの? っていう質問もありましたが、それは上手く

言えないけど、たぶんスタートがとても悲しかったからだと思います。

 子供の頃の夢は

 「普通の人間になりたい、みんなみたいに普通になりたい」

 ってなんか妖怪人間ベムみたいなことを考えていたからだと思います。

  大人になって少しだけ気がついたのは、少しくらい変わってるほうが人生は面白いかな?


 って思えた事。 後はスポーツしてたから、色々と物事を深く考えた事があったのかも

しれません。

 たぶん子供の頃にそれほど劣等感みたいなものがなかったら、今の人生で満足してない

 かもしれません。もっと学歴社会とかお金とか地位とか名誉にこだわっていたかもしれない

 けど、なぜか子供のころに漠然と、

  「自分はみんなよりも劣っている、悲しい人間なんだ」

 ってなぜか思っていたから、普通になれた今はそれだけで以外とうれしい物なのです。

 そこが元気の源かな?

  「生きてるだけで丸儲け」、ってサンマがいってました。

 後もう一つ、

 「人生は真っ裸で産まれてきたのだから、

 死ぬときにパンツ一枚でもはいていたら、それだけで大満足」

  というのもあったと思います。

 
 いまはブログ書いていて、一週間で10名ほどの人が連絡くれた事が

 とてもうれしかったです、幼馴染から、協力隊の方、関西、関東のともだち

 そして今週のブログにあった、「とても感謝していること」のK島さん

 など、改めて感謝しています。

  
  なんとなく安心しました、みなさんありがとうございました!

 

2010年6月15日火曜日

日本人と外国人の会話の違い




 <右上から、日本・ケイタ、 イタリア・シルビア、 フランス・セリーヌ、 
       ブラジル・パウロ
  左下、 ブラジル・アルツー、僕です。>


 日本人と外国人の会話の仕方の違いについて少し気がついたことがあります。

 外国人は人の悪口とか嫌いな人の話をしたいとき、いきなり

「俺はあいつが大嫌いだ、お前も嫌いか?どうおもうか?」

 って言います。


 日本人は逆に

「あいつって良い奴だよね、でもたまにこういうところがあるよね」

 っていう会話から始まります。そして少しずつ相手の反応をうかがいな

がら、徐々に相手に自分が相手を嫌いだという方向に会話を持っていきます。

 そして結果的に

「だから私はあの人が嫌いなんだよね!」


 って言う風になります。

 外国人は最初に

「大嫌い!」

 って言っておいてから、少しずつなぜ嫌いなのかを説明して、徐々に

 全体像が見えてきます。
 
 日本人は細部から少しずつ積み上げていって結果的に嫌いだということ

 を表現します。

 スタートは違うけど、結果は同じになります。

今日なんと無くそう感じました。

 模様替えをしたいときでも日本人は最初に、今のこのへやは良いと思う

けど、もしテレビの位置を変えたら夕方でも西日が当たらないかもね?

 みたいなところから攻めていきますが。
 

外国人は相談する前に勝手に変えています。 文句あるなら戻すけど?

 みたいな感じです。

 スピーディーだけど、失敗することもたびたび、逆に日本はスローなだけ

に結局何の変化もしないまま話が流れることも多くあると思います。

 どっちが良いとか悪いとかは特に感じません。

 たぶんどっちも良いのでしょう!

 

2010年6月13日日曜日

とても感謝していること



<写真は K島さんにお願いして、息子さんの育くん(イクくん)と一緒に
銀行の前でとってもらった写真です、姉に見てもらいたかったので撮らせてもらった
写真です、あまり知らない僕に急に抱っこされて、少しビックリしていますが、
本当に可愛くて優しそうな男の子でした。笑顔が素敵なで無邪気な子です。>


 
33年間家族で住んでいた家というのは、とてもものすごい量の物があると、

親父が無くなってから改めて感じました。

 アルバムだけでも30冊以上、親父の本も500冊以上あり、

それは全てブックオフに買い取りに来てもらいました。

 500冊売って1300円とは安いと思ったけど、

親父の本は哲学の本とビジネスの本ばかりだったし、

いろんなところに書き込みがしてあったので、まあ仕方ないかな? って思います。


 親父のゴルフのトロフィーや、学生時代の写真、社会人時代のスーツ、

春夏秋冬で使う、扇風機、ヒーター、乾燥機、古いエアコン。

 捨てるのが大変だったのは、阪神大震災の後に母親がかったスッゴク

重たい金庫、家の権利証とかその他大事な物が入ってるはずだったけど、

結局空けてみたら、4段くらいある引き出しはマダ買った時ビニール袋が巻かれていて、

特に大したものは入っていませんでした。

二人かがりで持ってきてくれた40キロはある金庫を一人で捨てるのは大変でした。
 
 少しだけ笑えたのはハンコ、母親が離婚した時に僕に7本くらいくれました、

「私はもうこのハンコは使わないから!」

 って当たり前だけど、その後に姉が結婚して、また5本くらいを残し、

親父も実印を含めて5本は持っていたし、ハンコって半永久的に使えるし、

「もしかしたら何かの通帳に使ってるかも?」

って絶対にそんなこと無いのに、考えてしまったりします。

 親戚でも「浦」っていう名前を継ぐ人は、僕ともう一人の従兄弟だけで、

ウチの姉も含めて女性が多いので、誰にもあげることげできません。

 ということで沢山捨ててしまいました。



 そして最後に残ったのはマンション、これは親父の人生の最大の買い物、

山口の嫁に行った姉は「残しておいて欲しい」という意見でしたが、

離婚した母親は東京に居るし、僕はこれからイギリスに行くし、

もし残しておいたとしても、

姉が大阪に遊びに来た時には人に貸しているから泊まれるわけではないし。

 ということで、みんなの反対を押し切って、売ることにしました。



 不動産屋さんには僕が3月に学校の仕事が終わって、

4月からイギリスに行けるのか、5月になるのかわからないので、

年が明けてからにしてほしい、と話していました。

 「駅前の団地が建て替えで年金暮らしの人の立ち退きがあるので、

その人達はローンは組めないけど、立ち退き料があるから、良いかもしれません」

 って言われて少し悲しい気分に、このマンションは両親が買う時に、

一階だけど二階の高さにベランダがあって、

まだ小さかった僕と姉が前の公園で遊んでいる声が聞こえて安心だ。

と言って決めたマンションでした。できればまた子供がここで育ってほしいな、

と贅沢な事を考えていました。

「とりあえず年が明けてから売りだします。」

 と伝えてから、意外と早めに

 「浦さん今週末に部屋を見たい人が居ますけど良いですか?」

ということで、急遽部屋を掃除しました。

来てくれたのは団地からの立ち退きの方ではなくて、

3歳の男の子を連れたK島さんというご家族でした。


 ちょうど僕が隣の駅の関大前から千里山に引っ越してきたのも4歳くらいでした、

部屋を見に来て、姉と二人で新品で空っぽだった

バスタブに入って撮った写真がまだ残っています。

 少し緊張していて、なぜ自分が知らない人の家に入ってるのかな?

って不安そうなその子をみながら、 こんな家族がこの家を引き継いでくれたら良いな。

と思っていました。

 でも意外と早くに帰ってしまったし、おそらく家を買うときって、

何件か見比べるだろうから、見に来てくれたご家族と不動産屋さんが帰ってしまって、

いつもよりもきれいにかたずいている我が家に一人残されて、

今ごろは他の家も見て回ってるのかな? なんて考えていました。

 「これから家が売れるまで、いろんな人がこうやって訪れて、

僕ら家族が育った家を、良いとか悪いとか判断されるのは、

少し気持ちが滅入るな、でもやっぱり家を買うというのは一大事だから、

買う人は真剣に考えるのは当たり前だしな、

できれば今日来てくれたみたいな人が引き継いでくれると良いな」

 と考えていました。もともと売ることを嫌がっていた姉にも

「僕らが引っ越してきた時と同じような家族が見に来てくれたよ、

可愛い男の子が居た、あの家族だったら僕はうれしいけど、まだ分からない」

 と伝えました。


 結局不動産屋さんからはそれから一度も見学の依頼はなく、

最初に来てくれた、そのK島さんがそのまま引き継いでくれることになりました。

 マンションの売り買いだし、特別な感情は必要ないとは思いますけど、

やっぱり自分が育った家を気にいってくれて、

買ってくれたK島さんにはとても感謝しています。

 引っ越しの前日までに自分の荷物はすべて母親のところに送って、
 
当日の朝まで寝ていた布団をそのままマンションのゴミ箱にもっていて、

子供の頃から引いてあったベランダの人工芝は備え付けではなくて

母親が張り付けたものだからはがさないといけないと気がついて、

朝からはがしてそれも捨てて全て空っぽにして、

キッチンとガスの取り扱い説明書と


郵便ポストのダイアルの開け方が書いた紙を流しの横にわかるように置いて

すでに家の中は空っぽなので、

朝一番でコンビニで買ってきたおにぎりをほおばりながら、

10時に不動屋さん屋さんが来るのを待っていました。

 
 「銀行にいって契約が終わるって鍵を渡すと、もうこの家に戻ることはできません」

 ということなので何かと緊張しました。

 最後まで使っていた、インターネットのモデムを

KDDIに返す為にあわてて取り外して、最後に玄関を出るとき。

33年間家族が過ごしたこのマンションのカギを最後に閉める瞬間。

 「ありがとうございました、さようなら」

って感じたのを覚えています。

 その後に千里中央の銀行に行って、K島さん、不動産屋さん、

司法書士の方、銀行員のかたと一緒に沢山の書類に署名と印鑑を押して

、お昼前に全て終了、僕にはもうマンションには帰るところは無いので、

そのまま新大阪から東京の母親のところへ。

 新幹線のなかでホッとしたと同時に、少しのさみしさが残りました。

 あれはたしか3月の25日だったと思います。
 
 約二カ月以上が経ち、僕はこちらで生活しています。

 実は先日ブログにコメントが欲しい、というメッセージをだしたら、

K島さんから連絡をいただきました。

 僕も個人的にとても興味があったので、アドレスを交換したり、

ブログの事を伝えたりしていたのです。

 「今はまだリフォーム中なので、住んでいませんが、ブログ拝見させてもらっています」

 といううれしい連絡が、早速このブログを確認してもらって、

もし大丈夫ならアップしたいと思います。

 
 自分の家族の後かたずけは楽しい仕事ではなくとても大変でしたが、

そのなかで唯一僕の気持ちを明るくしてくれたのはK島さんとの出会いでした。

2010年6月11日金曜日

自由、平等、権利

 先生のオーサが言った。

 アンゴラで40度の熱が出て、やっとの思いで病院に言った時、

 午前中は全く治療もしてくれないで、廊下でずっと待たされた。

午後になって私がきちんと保険に入っていて、

私の所属する団体が治療費を払うとわかると、

別室に移されてやっと治療を受けることができた。

 それが途上国です、お金がすべてなのです。

 
 逆に福祉国家のスウェーデンで息子のクリストーブが病気になった

時に、保険証を忘れてしまった私に先生が

 「そんなことは今は関係ない、まず第一に息子さんの治療が優先です」

 と言って治療をしてくれた、それがスウェーデン。

 

 権利と自由の国アメリカでは、病院に緊急で運ばれてきたホームレスが

 保険証もなく住所もないとわかると、そのまま病院の外の道に運んで

死んでしまうまで放置した、という話があるらしい。

 通行人はみんなそれを無視していた。

おそらくアメリカでも相当極端な例だからみんなの記憶に残ってるのだ

ろうと思います。

 死ぬのも自由だし、彼女には保険に入らない権利もあり、医療を受けな

る準備よりも毎日の生活を楽しむ権利があり、その権利を彼女自身が行使

した結果彼女は医療を受けなかった、しかし、他人の権利を侵害しない

限りは人間は自由であるのだから、アメリカではそれは間違っていない。


みんな基本的には平等だから教育を受ける権利だって持っていたはずな

のに、きちんと学校に行かず、知識を得なかったのも彼女の自由である。

 でもあまりにも自由すぎるとこうなっちゃうのかな?

 何事にも表と裏があるとおもいました。

 
 

完璧を求めすぎると・・・


 僕の尊敬する京都大学の監督さんが言っていました。

「人間は完璧を求めすぎると、人として最も大切なものを見失う」

 15年くらい前、学生だったころにその言葉を読んだ時は、

 どういうことだろう? ってあまり気にしていなかったですが、

 こっちに来て日本人として生活しているとたまにおもいます。

 「日本人は真面目だし、良く働く、個人の為ではなくて組織の

為に働こうとする、

(日本にいた頃は気にならな無かったけど、外国に来ると、なぜ日本人は

自分の利益よりも、組織の為に一生懸命はたらけるのか、不思議に感じま

す。もちろん外国の人と比べてだけどね。)

組織の為なら、自分を犠牲にする、部下が自分を犠牲

にすると、上司はもっと犠牲にしなくてはならない、上司がさらに犠牲を

払うと、社長は組織の目的をもっと高いレベルに設定せざるを得ない事

もある、おおらかな社長で、それを上手く受け止めて、部下のおかげで

組織が上手く回ってる

 って言える社長なら良いが、真面目な社長は日本一になったら、次

は世界一!

 と思うことも不思議ではないし、日本人にはそういうところがある。

 実際に経済では世界一だしね。

でも時に組織が大きくなりすぎると、社長もすでに組織に対して、

「これぐらいでやめておこうよ!」

 って言えなくなると、もうカジの聞かないタイタニック号のように、

ただ暴走して、沈むのを待つだけになってしまう。

 
 
 外国の人と一緒に仕事をしていて、日本人は素晴らしい、勤勉、真面目、

 謙虚、これ以上の事は無いと常にプライドを感じます。

  でも時には自分を戒めようと思います。

「人間は完璧を求めすぎると、人として最も大切なものを見失う」

 もちろんイギリスでボランティア活動を参加していたって、別に

完璧なんて求めてないけど、自分達が過去に戦争をしたことがあること、

思いつめると真面目すぎてとことんまでやってしまうことを考えると、

自分がそういう民族であり、そういう考えが

あるってことを時に客観的に考えて行動しようと思います。

2010年6月7日月曜日

人生のベストラップ!


 
 <写真はファミレスの社員だったころ、仕事はパートさんやアルバイトの子
のほうが全然できました。僕はクレームが出た時に謝りに行くかかりでした、
その時だけみんなが社員扱いしてくれました・・・>


ファミレスの社員だったころ、手が空いて求刑室をのぞいてみると、

高校生や大学生のアルバイトの子達が話し合っていました。

 「アー、もう一度小学校5年生くらいからやり直したい、そしたら絶対

にもっと勉強して、今みたいにはなってないはずだ!」

 「俺は中2くらいからで良い、高校受験に向けてもう一度頑張りたい!」

 「僕はもっと小学校時代を楽しみたい、もうあの時代は戻ってこない、

失敗した」

 
 などと二十歳前の若者たちが話し合っていました。

 それを途中から聞いていた僕が

 「お前ら贅沢なこといってはいけないよ、俺は小学校からやり直したっ

て、こんなに上手くはいかないと思ってるよ、今のこの時点で常に人生の

ベストラップを刻んでる気持ちがしてる、なんたって中学校3年生で同級

生が320人いて、俺の順番は300番目、専門学校を視野に入れながら

の高校受験です、って親の前で先生にはっきりと言われたからね、大学だ

って現役、浪人で16校も受けたんだよ、一校三万としたって、受験料だ

けで、一年目の学費がまかなえるよ、しかも結局受かったのは一校だけだ

しね、16分の一だよ。

 こんな素敵な人生は無いのだ!お前ら文句があるならこれから10年一

生懸命働いてみろ、10年後にまた同じセリフで、18歳の時に戻りたい、

って言わないために、今28歳だとおもって、これからやり直せると感じ

れば良いんだよ!」

 ってなんか自分で言っててもかっこ良いセリフが・・・・

それを聞いた一人が

 「さすがウラさん、かっこ良いですね、

なんか少しやる気が出てきましたよ」

 「それもそうだな、説得力あるかも」

 ってなんとなくみんなの意見が僕に賛成しかけた時に一人が

 「もちろん、それはそうだけどさー、ウラさん人生のベストラップきざ

んでて、30歳前でまだファミレスの副店長だぜ、しかも店長は27歳で

ウラさんよりも年下だし、ベストラップで副店長ではなー・・・」

 っていう鋭い突っ込みが、もちろんみんな冗談ってわかってるけどね

 
「ウーン、浦さん深刻ですね・・・・」

 「そうだな、やばいな、俺もそのことに今気がついた」

 
「ヤッパリ俺は中学校2年生に戻りたい」

 「僕も小学校の思いで作り直したい!」

 ということで、僕の人生の教訓はあっさりと却下されて、その日の午後

もバイトのみんなと忙しく働きました。

 あれから約8年が経ちましたが、僕にとってはこの8年間も結構学ぶこ

とが多かったし、それなりに頑張ったつもりなので、もう一度やれ!って

言われたらこんなに上手く行くかは不安です。ヤッパリ僕にとってはいま

でもマズマズの人生だと思っています。

 (決して他人にお勧めの人生では無い事はたしかです。

 求刑って漢字間違えちゃってゴメンナサイ、休憩だよね!)

 

2010年6月5日土曜日

ブログへの連絡先 urablog1974@gmail.com


  
  <写真はイギリスの100キロの一か所くらいの間隔である、ガソリンか?
 石炭か?、電気か?おそらく水工熱の工場です 
 大きさは高さが100メートルくらいあって、近くで見るととても不気味です。
 雨が降って霧が濃い時にみると、霧の白さと煙突からの煙の黒さが低い空の中で
 混じって、さらに不気味になりますが、どことなくカッコ良いです>

 

  このブログへのコメントですが、実はとても欲しいです。

 今まで4件しかもらっていなくて、

でも普通は他人のブログにコメントするのは それがブログにのるのか?

それとも書いてる人が読むだけなのか?とか考えると少し戸惑いますよね。

 僕も知らない人のブログに書きこんだこと無いです。

 でも皆さんの意見をいただいて、少しでもブログに反映できればと思っています。

  もし小さな一言とか「頑張って」でもよいのでコメントいただけるようでしたら


 urablog1974@gmail.com  までメールをください。

  いただいたメールを公開したりすることはありませんので、よろしくです。

 あと匿名でメールいただいてかまわないです。アドレスがこちらに伝わらなくてもよいですのでよろしくお願いいたします。

 (おさななじみのケンくんもとりあえずこちらにメールをください)

 この週末時間のある方、ぜひよろしくお願いいたします!

 

2010年6月4日金曜日

「居るけど少ない」 こと・・・

 日本人とアジア人の女性を称賛したいと思います。


 
 一緒にキッチンで料理していて、それをみんなに振る舞った時、

 みんなが

 「美味しいね、ウラが作ったの?」

 って聞いてくれたときに、こちらが謙遜して

「彼女が頑張って作ったんだ!」

 と西洋の女性の名前を出したときに

 「そう、私が作ってウラはアシスタントだったわ!」

 という女性は日本にも、もちろん 「居るけど少ない」


 
一緒にビラ配りをしていて、こちらが気を使って
 
 「もし疲れたら、俺に気にしないで自分のペースで休んで良いからね」

 っていって、目の前で僕がずっと働いているのに、一時間も何もしないで

 座っている女性は日本にももちろん 「居るけど少ない」

 

2ドアの狭いスポーツカーで4人で4時間ドライブする時、

155センチの西洋の女性が助手席に先に自分の荷物をおいて占領して、

 後から来た180センチの僕に、ウラは後ろに座って!私ろは狭くて嫌

 いだから、といって僕ともう一人の男性を狭い後ろのシートに座らせて

 自分は助手席で4時間寝ている女性は

 日本にも もちろん 「居るけど少ない」

 
僕の身長が伸びたことは事は神様にしかコントロール

できなかったことだが、彼女がものすごく太って居ることは確実に彼女自

身でコントロールできたことだから・・・・


 
 確かにそういう女性は日本にも居る、でもそのパーセンテージは3割く

らいだとおもう、しかしこっちでは6割くらいにアップする、もちろん男

女は平等だから、別に文句は言えない。でもせいぜい5割にしてほしいと

感じるし、やっぱり日本女性、アジアの女性は素晴らしいぞ!

儒教の教えは素晴らしいぞ!

 今週韓国人のミンジーと一緒に働いていて、久しぶりにアジア女性の優しさを感じました。

 

 基本的には自分の情けなさ、ふがいなさを神や習慣のせいにしているだけですが・・・

愛すべきイタリア人達



 写真はイタリア代表のトニーニョ、 憎めない男ですが、あまり風呂に入らないのか

 顔に着いたペンキの後が三日くらいついてる男です。


 イタリアってローマとかフィレンチェとかって名前を聞いただけでも

キザなイメージがあります。

 プライド高いのかな?っておもってましたが、ここに居るイタリア人達は

いたって気さくで、なんか日本人とにています。

 ブラジル人達があるときフランス人の喋り方の物真似をしたあとに、

ハンガリー人の物真似をして、イタリア人の物真似をしていました。

 手を顔の前にもってきて、言葉の最後に必ず手で何かをつまんだみたいに、

手を上にあげて会話が盛り上がるほどドンドン手を上にあげていきます。

 みていたみんなは大笑いしていましたが、

そこにいたイタリア人のフランチェスカとトニーニョは失笑していました。

 日本人、韓国人、中国人もそれぞれ物真似しあったりしますが、

世界中のくにで同じことが行なわれていると思うと何か面白く感じました。

 名前も、トニーニョ、とかジョゼッペとか、なんか日本で言うニックネームみたいな可愛い

名前なので、てっきりニックネームかと思っていたら、

キッチンのローテーションの名札の名前も、そのままだったので、

本名だとしって、おどろきました。

 そんなイタリア人達がコーヒーメーカの前で腕を組んで何か話し合っています。

 「何してるの?」

 「コーヒーができるの待ってるんだよ」

 「ジョゼッペ、それスイッチ入ってないよ」

 「スイッチ切ってるもん」
  
 「なんで?」

 「ウラ、コーヒーと言うのは本当はこんなマシーンで作ってはいけないんだ、

きちんと最初にマメにお湯を与えてから、マメを蒸らす(ふやかす?)

てからゆっくりとお湯を注がないと、本当においしいいっぱいはできないんだ!

だから俺達は一度スイッチを切って待っているんだよ」

 と言いながら、満足げにコーヒーマシーンを眺めていました。

  君達にそんなこだわりがあったとは知らなかった?

 二人とも普段はボロボロのウールのセーターきて、無精ヒゲをはやしてるのに、

 そういうところは子供の頃から身についてるんだなー。って感じました。


  そんなトニーニョと初めてキッチンで50人分くらいの晩飯を作ったときの事。

 7時から晩飯なのに、トニーニョは6時50分になってもパスタを鍋に入れません。

 湯でたてでないとパスタは上手くない! と本人は言ってますが、電気のコイルの

火力の弱い調理機にのったでっかい寸胴で50人分のパスタをゆでるには、

おそらく15分は必要です。
 
 「アルデンテなのか?」

 「そうだ」

 「それは無理だから早くぶち込んでくれ」

 「せっかく美味しいトマトソースを作ったのに、パスタが上手く無ければ台無しだ」

 「でも7時まであと10分だ、運ぶ時間も考えると、絶対に今入れたほうが良い!」

 結局彼は妥協せず、晩飯は7時10分になってもテーブルには並びませんでした。

 まあトニーニョもキッチンで料理するの初日だから仕方ないか? っておもいながら

 食事の後でうまそうに巻煙草を吸っているトニーニョに

 「トニーニョ、初めてこんなに沢山の人の食事をつくってどう感じた?難しかった?」

 って感想を聞いたら、英語が通じなかったのか、二回ほど聞き返した後で満面の笑みで

 「楽しかった、またお前と料理したいよ!」

 と満足げに笑っていました。 イタリア人にとっては20分くらいの遅れよりも、

こだわりのパスタやコーヒーのほうが大事みたいでした、

それが上手いとか、上手く無いとかは関係なく、

あくまでコダワリが大事なのだと思いました。

 
 

2010年6月3日木曜日

実は優しいイギリス人


 
 <写真はイギリスのどこにでもある一般的なパブです、どこも同じような感じで
  歴史を感じます。天井が高くて、ゆったりした感じです、パブによっても違い
  ますが、家族みんなでいける雰囲気があるお店が多いです、おそらくこの写真
  の店は店じまいしているためにドアが釘で打たれています>



頑固でプライドの高いイギリス人というイメージがありますが、

僕が田舎に居るからかもしれませんが、イギリス人はいたって優しく
誠実です。
 いまあるプログラムは、お金の無い国の人でも自分で募金活動をして

 お金をためてアフリカに行くことができます。だかあらみんな働きます。

 貯めるお金は6カ月で45万ほどです。勉強する週、募金をする週、

活動の週(週末に開かれるお祭りの準備や、演劇の練習をしたりする週)

と三つの週が交互にあり、今週は僕は募金の週です。

 とはいっても路上で募金を募って居ても限界があるので、

古着入れのポストみたいなものを、ガソリンスタンドやスーパーの駐車場、

パブといって、イギリスでは家族で昼間からいって、お酒を飲むだけではなく、

みんなでダラダラと時間を過ごすという、アットホームな場所がそれぞれの町にあり、

半分はお酒、半分は公民館みたいな役割をはたしています。

 もちろんそれは政府がやっているわけではなくて、

プライベートでやっているので、古着ポストを置いてくれる可能性は少し高くなります。

 ほとんどの場合は、日本と同じで、役所に聞いてもらわないとここに

ポストを置いて良いかわからない。という返事が返ってきますが。

 僕は今週は古着ポストを置く場所を探しに、イギリスの田舎町を車でいって、

パブやホームセンター、ガーデニングのお店、小さな商店などを回っています。

 日本でいると押し売りのセールスマンといったかんじです。

はっきり言って「うさんくさい」って自分でも思います。

 だって田舎町の人が集まる場所の駐車場などに無料で

幅1メートル、高さ1,5メートルくらいの鉄でできた

重たいボックスをおかしてもらって、もちろん週に一度きて、

ボックスが汚れていたら修理しますし、中にみんなが入れてくれた古着はもってかえりますが、
お店にとって利益は無し、ガストに9年間も副店長をしていた僕なら確実に断ります。


 お客がそこに車をこすったら? 

たとえ1台分でも駐車場を使われるのはお店にとって不利益である。

相手先の(僕の)組織がその活動を辞めたり、もし夜逃げでもしたときに、

その鉄のコンテナは誰が回収しに来るの?

 などと考えたら、たとえ奉仕活動で助けてあげたい気持ちはあっても、

会社に属している以上、認める訳にはいきません。その場で断るか、

本社に問い合わせてください、僕では決めかねます。

といかにも日本人らしい返事をするとおもいます。心の中では「ゴメンネ!」

って思ってますけど。


 イギリスは意外と違います。こわおもてのマネージャーや、

声が酒焼けしたようなパブの女オーナーみたいな人がでてきて、意外とあっさりと

「良い仕事してるね、あの角なら使っても良いわよ!」

などとオーケーしてくれることが結構あります。

逆にこっちが「ほんとに良いの?」って思ってしまうくらいですが、

こちらが誠実に

 「このお金はボランティアへの援助です。直接アフリカに送られるお金ではありませんが、
僕達は集めたお金を使ってアフリカでボランティア活動をしてきます。」

 と説明して、活動のマガジンなどを渡して誠実に対応すれば

「ボックスを置くことは今はむりだけど、私は5つの営業所をもっているので、

その5つにこのビラをファックスして、古着を集めてあげよう、

たまったら連絡するから、連絡先と君の名前は教えてください」

 だったり、マネージャーは今は居ないけど、シフトを確認してくるので
少し待っててください。
 
と言ってわざわざパソコンを開いて、

「金曜日の2時から9時なら居ます
 直接話せば大丈夫だと思うよ!良い仕事してるね。」

 だったり、

「このお店には置けないけど、少し古着があるから今持って行ってくれるとありがたいわ」

 と言ってくれたりします。もちろん

 「ノー!」

 って単に断る人も沢山いますが、こちらの気持ちがへこむほど多くは

なく、ほとんどの場合が断るにしても、こちらのとても気を使ってくれる

のを感じます。

 古着集めのビラを配って居る時も、

「セールス、ビラお断り、あなたの時間を無駄にしないで!」

 という合理的なステッカーが貼ってある家があったので、

玄関の前までいって、そのステッカーをみてから、そのまま立ち去ろうとすると、

中から怖そうな人が走りでてきて(イギリス人は意外と暇みたいです)
 
「お前はセールスしてるのか」

 「これは募金活動です」

 「じゃあなぜ投函しなかった、そのビラを見せてみろ」
 
 「はい、古着のリサイクルです」

 「これはセールスでは無いので、入れても良いビラだ!

しかし私は先週に他のグループに古着をあげてしまったし、

妻と二人で年金暮らしなので、もともと洋服はスリッパ2足と今着ているセーターくらいしか持っていない。

でもよい活動だ、頑張れ! ビラを無駄にしては行けないので、

今回はこのビラは君に返しておく!」

 となんともはっきりしているし、怖いけど、なぜか優しいさを感じることが多いです。

門前払いではなくて、きちんと聞いた結果で、

その場で自分の考えをしっかり言って、クリアーにする。

 たとえ僕の英語がおかしくても笑ったり冷やかされた事は一度もありません、

それよりも圧倒的に

「良い活動だ、できれば協力したいが、こういう理由で今回は断る!」

ときちんと話します。

 一瞬こわいけど、実は優しいのがイギリス人です。

 生活はいたって質素です。お芋を食べてガーデニングで家の芝を刈るのが、

お年寄り達の普通の生活です。

これがかつて世界を制したイギリスなのか?

っておもうと、少し心が安らぎます。

日本の経済はアメリカに次いで2番目くらいだとおもうけど、

イギリスみたいに7番か8番めくらいに落ちてしまえば、

みんなもう一番になりたい、とは思わずに、

心安らかで平和で質素な人間らしいな暮らしが待っているかもしれないと思います。

2010年6月1日火曜日

捕鯨と闘牛



 <写真は学校の庭です、4月は朝露が綺麗でした>
 
 教室で勉強してる時にパソコンをいじっていたルイ―スがいきなり

僕ともう一人の日本人のケイタに質問してきた。

 「日本人は捕鯨の事はどうおもってるのか?」

 最近ネットとか全然みてないから、その問題がどうなったのかは全然

知らないど、僕がこっちに来る前に、何処かの国の人が捕鯨かイルカの

漁を隠し撮りして映画を作って残虐だということで改めて問題になって

いる。とテレビでやっていました。

 とっさに聞かれて戸惑ったけど、

「普通の日本人はあまりクジラは食べないよ。だからなんで捕ってるのか

は良く分からないけど、殺し方が残虐なのは知ってるよ、もし安楽死

みたいな方法があればもっと良いということなのかな?」

 という感じでした。 ルイ―スの意見は

「たとえばオイルとか食料とかどうしてもクジラからでないと取れないも

のがあるのなら仕方ないかもしれないけど、オイルも食料も何もクジラか

らとらなくても良いと思わないか」

 「でも牛は殺しまくってもいけど、クジラは駄目って言うのはおかしいよね?」

 「クジラは頭が良いから駄目なんだっけ、それともホエールウォッチン

グをしてる国が困るからなのかな?」
 
 って言う感じでした。  角度を変えた僕の意見は

「捕鯨が文化だという人が居るし、そういうのは難しいと思う。

日本人が恐れているのは、外国人に言われて今捕鯨をやめてしまうと、

次にまた他の日本に文化について口出しされるのではないか?

というおそれがあるのも確かだと思う。

日本人のなかから辞めようという意見が出れば、それは問題ないのではないかな?」

「たとえば自分の家族の悪口を自分が言うのは許せるよね。

でもそれを聞いた友達が、お前の家族って最低だな!

って言いだしたらやっぱり嫌な気持ちするでしょ、

だからやっぱり日本人の事は身内である日本人が変えるのが一番良いと思うよ」



 なんとなく納得したようなルイ―スでしたが

「ポルトガルの闘牛(英語ではブル・ファイトらしい)を外国人から残酷だから辞めろ!

って言われても辞めたくないのと同じだと思うよ」

 ってちょっと意地悪なこと言ってしまいました。でもルイ―スの偉い

所はそういう時に冷静に判断できる所です。しかも

 「確かにブルファイトには問題がある。

しかも俺のおじいちゃんはブルファイトの時に闘牛士が乗る

特別な馬のブリーダーだったんだ。(馬ではなくて牛って言ったかも?

)だからうちの家族はブルファイトに関しては肯定せざるを得ない、

私自身はもちろん反対だよ」

 という話でした。

「何それ? 前々から思ってたけど、ヤッパリこの人普通の家柄では無いよね?

日本で言ったら、タカ狩りとか鵜飼いみたいな技術だよね?人間国宝級

だよね?」

 って思ってしまいました。
 


 生態系の事を言いだしたルイ―スにケイタが

「でももし海の中に牛の牧場みたいなのを作ってそこでクジラを放し飼い

にして、定期的に食料にするシステムを作ったら、生態系は崩れないから

それなら良いのかな?」

 って言ったら

 「・・・・・・」

って国境を越えてみんなの思考回路がストップしました。

 そして最後に一部の科学者の意見は常にいい加減だ、だって科学者にお

金を渡して研究させてるのは結局は会社だったり国だったりするから、

自分のスポンサーに有利な数字を出さないと

他の科学者と変えられてしまう。

 という意見も出ました。

 おそらく日本ではもっとこの話については煮詰められていると思います

 捕鯨と闘牛、どこまでが文化でどこからがそうでないのか?

って難しいですよね。

人生の椅子取りゲーム


 
 <写真はうちの学校の隣にある畑です教室のすぐ裏の景色です>

人生って椅子取りゲームみたいだな、って思うことあります。

 何かが起こった時、たとえば自分や身内が病気になった時、交通事故に

あった時、リストラされた時、年金が期待できそうにないと思う時、椅子

取りゲームでは音楽が必ず止まるように、おそらくみんなにいつかはおこ

ることなのだけれど、それがいつか分からない為に、常に準備しておかな

ければならない。

 経済力だったり、権力だったり、体力だったり

 9個の椅子を10人でとりあうんだから、座れない確率は10%なのに、

絶対に負けることは許されない世界。みんなが必要以上にプレッシャーを

感じでしまって、意味もなく焦っている状態。
 
 たまに思うことあります、その10人の中で誰か一人くらい、

「このゲームは今の時代にあっていない、僕は次に音楽が止まってもすわ

ないと決めているので、後の9人の人は安心して生活をしてください」

 って言う人でてこないかな?

 そういうこと言ってみたいよね。

 でもそれができないのはヤッパリ家族とか自分の身内に迷惑を

かけることができないからだと思います。

 不景気になると9個だった椅子が8個になってしまうこともあるでしょう。

 でも逆に景気の良い時に椅子が12個あったはずの時期もあったはず?

 みんなが常に一個以上の椅子をキープできていたはずだよね?

 
 こっちにきてから思うのは日本人は常に何かを準備している人生だと

おもいました。

 学費、結婚資金、年金、医療保険、最後には葬式代にいたるまで、みん

なに迷惑をかけないようにみんな準備をしています。結局全てが準備に

終わって、本番が無いままに人生が終わってしまう。

 それもまた人生だとは思いますし、こっちに来て外国の人達があまり

将来を気にしないで、気楽に生きているのを見ると、どっちが良いのかな?

 ともおもいますが。 それはを自分で決めるのも人生の面白いところだ

とおもいます。だから色々な人と会ってみたい気がします。



 

自分探しの人生 ①



  <写真は僕が2年生くらいのものだと思います。
     まだ両親が僕に期待していた頃ですね・・・
             よくオネショしていました>




親が期待してるような人生を自分は進んで居なし、進めないだろうな。

 って気がつく時って誰にでもあると思います。親離れしなければならな

 い時、そしてもっと難しいのは親が子離れしなければならない時。


 最近になって思うけど、親の子離れのほうが難しい、おそらく親は一生

 子離れできない気もします。それが良いか悪いかは個人差があるので

なんとも言えませんが。

 

 でも自分が親の期待していたような人生を歩まないと気がついた時、

 それをどうやって親に伝えるかは難しいと思います。もちろん学生の

うちは親のお金で生活しているから文句は言えませんが、25歳前後で

自分の人生について真面目に考えす人は多いと思います。

 親にしてみたら

「苦労して育てて、仕事を見つけてやっと安心してたのに、自分探しなんて若いうちの恋の病みたいなものだ、そんなの認めない!」

 って頑固に反対すると思います。子供にしてみたら自分のしたい事が

何かはわからないけど、今の自分の人生がこのままの形で進むとすると

私の人生っていったい何なの? 

 って悩むの自然です。でも何がしたいかは分からないし、何が

自分にできるかもわからない。だから親にきつく言われるとなかなか言い

返せない。だって胸をはってこれがしたい!これができる!って言う

ものはなくもちろん実績もない、漠然と今の人生に疑問を持っているだけ

だから。

 うちの兄弟って良くそういうことを話ししました。兄弟って言っても

一つ年上の姉ですが・・・
 

二人で出した答えは

今のままの自分の人生だと生きてる意味が無い、自分が誰なのかもわから

ないし、なぜ毎日生活しているのかもわからない。時には死んでしまいた

くなる。

 たぶんこのまま言ったら本当に死んでしまうだろう、でもどうせ死んで

しまうんだったらその前に親になんて言われても、世の中になんて言われ

ても、自分のやりたいことでもよいし、単に自分探しでもよいから挑戦し

てみたい。 駄目だったら死んじゃっても良い。

どうせこのままでも死にたくなるだけだから。

 なんか暗いけど、そう悩むのが普通の人生なのかも?とも思います。

 

 でも結局は人生を変える勇気もないままにダラダラと不満ばかりがつの

う人生が今日もまた進んでいく。

人生にはそういう季節があると思います。

自分って何のために産まれてきたのかな?。 

 人と同じ人生だったら自分が生きてる必要ってあるのかな?

 なんで他の人ってみんなあんなに幸せそうなのかな?

 
もがいてる時にはいくらももがいても良くならないと思います。

 それは季節みたいなもので、毎日のように

「今日から新しい自分になろう!」

 って思っても、すぐに絶望してしまうことの繰り返しだと思います。

そしてそういう時に限って周りからは

「お前は我儘だ、身勝手だ」

 って言われてしまってますます落ち込みます。誰にも評価されないし、

自分に自信が持てないし、自分の存在自体が社会に迷惑なのかな?

っておもうかもしれないし。逆に

「自分を受け入れてくれない社会だったら壊れてしまえ!」

 っていって破壊的な行動とることも逆に自然なのかもしれません。



 ぼくがそんなことを漠然と考えていたのは20年くらい前の16歳前後

の事でした。

なぜその悩みが無くなったのか?ってきかれたら答えは

「年を取ったから」

 って思います。30代の暴走族が少ないのと同じ感じかな?

 やっぱりああいうことは10代でないとできないよね。

 努力しなくても勝手に気持ちが落ち着いていきました。

 あとは年を取ると勝手に周りが大人扱いしてくれるから、なんとなく

 いちいち反抗しなくても自分の意見が通ったりすることもあると思い

ます。外見もオッサンぽくなるから同じことを言っても説得力が少し

だけますのかな?

 
一緒に悩みを聞いてくれていた姉はどうなったかと言うと、

 0歳、3歳、5歳の子供の三人の男の子のお母さんになって、自分の

人生がどうこうよりも子供の世話で大変です。 子供にぐんぐんと引っ張

られて、自分が何者なのか?なんて考えてる余裕もない感じです。

 「ご飯をゆっくり食べた事が無い」

 「いつでも全てが中途半端で気持ちが焦るし、落ち着かない」

って愚痴ってますが。 でも姉の人生の中では今が一番幸せで

 しかも一番輝いている時期だと誰が見てもわかります。

 本人も気が付いているとおもいます。

 無条件に子供は可愛い!


 
 そして僕に言わせれば今の日本で普通に結婚して、普通に子供を育てて、

 普通の生活することが世界で一番むずかしくて、一番かっこ良いし、羨

ましい事なのかもしれません。


 結局自分なんて見つからないし、目標があって何かを達成したのでは

なくて、タマタマ達成できた目標をあとから

 「俺はあれを目指して努力してきた、そして達成した!」

 って言ってるだけです。

 それが一番幸せな人生の「おち」何だと36歳の今は思っています。

 

自分探しの旅②

  協力隊に一緒に行った仲間のなかでも、自分探しをしてる人が沢山いました。

 参加の年齢が27、28歳くらいなのも、おそらく社会人を少し経験し

 て、その後に何か人生を変えたい、って考えて試験を受けて合格して

参加、と言う人が多いからかな?

 面白い事に今参加してるイギリスのボランティア活動も、そういう人が

結構います、しばらく社会人をしていて、何か自分の人生を変えたい!

 って思って、参加してる人が多いです。

 アルゼンチン人、イタリア人、ポルトガル人など全く自分とは関係の

無かった人たちが、世界のいろんなところで同じこと考えて、同じことを

悩んで、今ここに居ると思うと、なんとなく心強い気がするし、何か

世の中に貢献したいな! って思えます。


 そしてみんなが同じように言うのが、

 親とファミリー(一族)の了解を取ることが難しい。

 っていうことです。もし家族が自分をとても理解してくれていて、

「行ってこい!」

「もし駄目でも私達が日本で待ってるから安心して頑張れ、
本当に駄目だったらいつでも帰ってきて良いよ!お前が選んだ道を進めば良い!」」

 って言ってくれたら、たとえ行った先で辛い事があっても頑張れると

思います。

 でももし、家族が

 「行くな、それよりも安全な人生を歩め、絶対にお前は成功しない!
 身の程を知れ!」

って言って送りだしたら、逆境や辛い状況になったときに頑張れないと

思います。 家族の理解があって初めて、新しい環境でも頑張れるよね。


 辛くなったときに頑張れるのって遠い日本で心配してくれている家族の

応援と支えがあってこそだと思います。

 もし心の奥に

 「お前には無理だって散々言ったのに、お前が言うことを聞かなかった
今後は絶対に親の言うことを聞きなさい」

 って言う家族の顔がちらついたら、頑張れることも頑張れないよね、

 自分の人生はいつまで親に支配されないといけないんだ!と感じると思います。

「お前がベストを尽くしてそれでもだめなら、胸を張って帰ってきて良いよ!」

 って言って送りだされるのでは全く違うと思います。

 「人は現状よりもそのあるべき姿を期待されて、初めてその潜在能力を発揮する」

 昔の哲学者が言ってました!

 次回は僕がどうやって出発したかを書こうと思います。

 

 

自分探しの旅 ③

 協力隊に合格したのは2006年の3月くらいだったと思います。

 事前の研修は2006年の10月からスタートです。

 会社を辞めたのは4月だったのですが、10月まで親父が4回目になる

癌の転移の手術だったので、大阪に帰って一緒に過ごしていました。

 「犬のおまわりさん」

 というブログを書いた頃はちょうどその頃だったと思います。



 最初に舌癌になってから3年後にリンパ、その後一年半で肺に転移、

 5年間で三か所の転移です。しかも転移の間隔は短くなってきている。

 これから研修も含めて2年半の間、親父は頑張ってくれるだろうか?

 でももしここで合格した協力隊をあきらめてしまったら、会社もすでに

辞めているし、32歳で親の看病をしながらバイト暮らしをするのかな?

 って漠然と考えていました。

 親父の手術の前に大阪大学の放射線科の先生のところの親父が僕を

 連れて行ってくれました。 すでに親父は手術が決まっていたので、

 放射線の治療は今回はしませんが、過去の手術の前には放射線を当てて

 癌を小さくしてから手術をするというようなことをした為に、その時も

手術の前に相談に行きました。

 
 その時にうちの親父が先生にうれしそうに

「これがうちの息子です。うちの息子は来年の一月から南太平洋にボラン

ティアに行くんです。今は私の面倒をみるために大阪に戻ってきています。」

 と紹介してくれました。僕が

 「親父の病気の事があるから、少し心配なんです」

 というとその先生は

「心配なのはわかるけど、あなたは行くべきです、お父さんは頑張ります。

 それは僕が一番良く知っている、放射線治療の副作用はきつい、でもお

父さんは良く頑張ってくれた。

だから大丈夫です、家族がやりたいことを

やってくれていたほうが患者さんも頑張れるものです。」

 と親父と僕の前で話してくれました。

 僕は前から

「協力隊に受かって喜んでいる自分を親父はどう思っているのかな?」

 と心配していたのですが、それを親父に直接聞いたことはなくて、

 なんとなくモヤモヤしていたのですが。先生にうれしそうに僕の事を

話している親父と、その先生のアドバイスでなんとなく心が落ち着きました。

 お父さんを癌で亡くした友達にも言われました。

「もし協力隊をあきらめて日本に居ても親の死に目に会えることは

殆どないと思う。たいていは病院で意識が無くなって家族が呼ばれて、

そのまま三日ほどして意識は戻らないままに亡くなることが多い、だから

日本に居て親が無くなるのを待つような人生を送るよりも、自分の好きな

事をして輝いてる自分を親に見せたほうが親も長生きする」
 
 とアドバイスしてくれました。

 2006年の7月に親父は手術を受けて、二週間ほどで退院、僕は10

月から研修で長野に行きました。

 11月頃に親父からメールで電話が欲しいとのこと

長野の研修所は前にある大きな駐車場でしか携帯の電波が入らないので、

薄暗くて寒い中、駐車場から親父に電話しました。

 「せっかく手術したけど、逆の肺にも転移が見つかってしまった。

 体力の回復をまってもう一度手術するかもしれないしもう手術はしない

かもしれない、自分でもどうしたらよいかわからない」

 という事でした。

 研修が始まって一カ月、大阪に帰ったほうが良いかな?と考えていまし

た。協力隊はまたテストを受けて受かればよいか! と考えていました。

 数日後に姉から電話があり、今回の手術は姉と叔母さんの二人で

看病するから、テルはそのまま研修受けてバヌアツ行って大丈夫。
 

という連絡をもらいました。


無事に研修が終わって1月8日に僕は大阪の伊丹空港から成田に向かいました。

見送りにきた友達に気を使いながら、2年後に親父はどうなっているのかな?

 人生で親父を見るのはこれが最後かな?

 もしかしたら今この瞬間は人生の大きな節目なのかもしれない。

と空港のゲートで親父の姿を目に焼き付けようとしていました。

 

 その4ヶ月後


僕は親父に再び会いました。
 
 5回目の手術の日程を2007年の6月と決めた親父は、

手術をして体力が落ちたらバヌアツには行けない。

といって手術の日程をきめてから5月の連休

をつかって、僕の中学校時代の同級生とそのお父さんという3人で

バヌアツにやってきました。

 
僕が子供に体育を教えているのを見て、

「テルはアメフトを引退したけど、次の道を見つけたようだ」

 と満足して帰国して行ったのだと思います。


 その後の6月の手術も無事に終わり、僕が帰るまでの間は必ず生きて待

っている!

という一心で2009年の一月の僕の帰国まで頑張ってくれていました。


 その後6カ月は子供のように僕に甘えて旅立って行きました。

 喧嘩ばかりだったけど、良い親孝行をさせてもらったと本当におもっています。

もし親父が僕がバヌアツに行っている間に、亡くなって居たら、おそらく

親戚みんなから説教されていたと思います。

 本当にできた親父でした。気合いと根性の人でした。


 親離れ、子離れ、自分探しの旅。って言うテーマでしたが。

僕の場合は家族の理解があっていままで頑張ってこれたと思います。