2011年2月25日金曜日
久米宏的教員と筑紫哲也的教員
<写真は毎日僕達が食べている豆を料理しているところです>
親父に言われたことがある、この二人の違いはなにか?
久米宏はアナウンサーのプロである、だから話すことは上手だし。
表現力も豊かである。視聴者が求めているものが何かを見極めて
それに答えるべくニュースを作ってサービスのように届ける。
筑紫哲也はもともとアナウンサーではなく、新聞社で働いていた。
だから社会人としての経験がとても長く、世の中の「現実」や汚い
部分もたくさん学んできたことになる。
だから時に番組の中でコメントに詰まって
「うーん、難しい問題ですね」
とかいって、何か考えているような時がある。
きっと過去の自分の経験から肯定も否定もできないニュースが世の中
には多いことを良く知っているからだとおもう。
話すプロとしてのアナウンサーとしては駄目なのかもしれないけど
「アー」とか「ウー」とかうなるだけでも何か僕には訴えるもの
があったような気がする、人柄からうかがえる何かがあの人にはあった
と思う。
そして自分の意見をまとめて番組の最後に話すコーナーもあった、
きっと記者の経験が長かったので、自分の意見は一度文章にしてから
読んだほうがやりやすかったのかも知れない。
と僕がなぜ今僕がこの二人のことを考えているかというと、
学校で教員として働いている中でこの二人のことをよく思い出すからです。
たとえば教員一本でいた人は久米宏的要素が大きいと思います。
常に臨機応変に生徒の意見に対応して、その場でことをまとめなけれ
ばいけない、子供の意見は勉強したくなかったり、ルールを守れなかったときの言い訳であることが多いので、とっさに正論をいえなくてはいけないのだと思います。
でも僕は自分は学生の頃はずっと勉強できなくって、落ちこぼれで
「言い訳番長」だったし、ファミレス、フットボール、協力隊と色々な
組織や、国、ものの見方を学んできて、とっさに正論を言うのをためらってしまうというか、言ってる自分に自信が持てなくなるときがあります。
もちろん正論を振りかざすことは気持ちよいけどね。
だからどちらかといえば筑紫哲也的なのだとおもいます。
正論を振りかざすことにためらいます。だからとっさに
「あー」とか「うー」とか言っちゃうんだよね。
それで困った顔になると、生徒のほうも察してくれて
「アー、ウラ、別に良いよ、ウラの言うこと聞いてあげるよ!」
みたいなことになることが5割よりもちょっと多くて6割くらいです。でも6割なら良いかな?
後の4割は子供に押し切られます。
「言ったもの勝ち」
になって、口の上手い生徒がいつも得するようでは駄目だな。
と思いながらも、生徒達の「良心」に助けられて、今日も頑張っています。
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