2013年11月17日日曜日

気候は性格に影響するのか? その②






 昨日にとてもよく勉強している高校生に聞かれました。


 「浦さん、気候は人柄に影響すると思いますか?」

  僕の答えはするです。

  寒い国の人は常に食べ物が少ないし、寒さから身を守ることを考えなければ

   いけない。

  南に国の人は常に短パンとTシャツがあって太陽に当たって波の音を聞いていれば

   結構幸せなことは事実だと思います。

  では日本人にはどういう風に影響しているかというと、僕の持論では

   日本人は一人の人間が年間4回のシーズンを感じることができる、だからその人は

   一年間で4個の人格になる。 だってそうでしょ

    夏には情熱的になるし、冬には深く人生を考えるし、春はウキウキするし

   秋はセンチメンタルになるし。

   一人の人間の人格が3カ月くらいでどんどん変わっていくのだよね。

    それが木の年輪のように年齢とともに深まっていく。

    ずっと夏の気候と夏の気温で生きている人や、ずっと冬で気温15度以下の国のひと

    よりも感情や考え方が豊かになるのは当たり前だと思います。

    でもこの考え方今まで誰にいっても納得してくれなかったんだよね。

     でも昨日の高校生達はみんな納得してくれました。

    とてもうれしかったです。

気候は性格に影響するか?その①

 ポーランドに協力隊に行っていた友人が言うには
ポーランド人は自殺者が多いそうで、その理由は気温が低くて日照時間が短いと
 人は憂鬱になりバランスを崩すからだということでした。

 一緒にいた人が

 「でもそれって日本から一時的に行った人が対応できないだけで子供のころから
  ずっとポーランドで育った人には当てはまらないでしょ 」

 と言いました。 でもそれは違うらしくて昔からポーランドに住んでいるひとも
 自殺しやすいということでした。 人間の適応力は追い付いていない見たいです。

  その時に僕が思ったのは

  もし人間の適応力が日照時間の短さや気温の低さに適応して自殺者が少なくなるなら

   とても陽気なハワイの人や僕の居たバヌアツの人も日照時間の長さや温かさ、
  
  常夏でなことにいつしか環境に適応して陽気ではなくなり「普通?」になるはずだと

  おもいました。 でもその場合の「普通な人格」 というのはどこかな?

  それはどのレベルなんだ?

  とおもうと不思議になりました。 まあ自殺するのは生き物の中で人間くらいだろうし

  そちらはバランスを失っているとは思うけど、ハワイの人が環境に適応して

   陽気でなくなる必要はないと思います。 そうだよね?




 写真はデンマークにあるレゴランド、ちなみにデンマーク人は北欧だけど幸福度指数は高いです。 レゴはデンマークでできたそうです。 首都はコペンハーゲン、アンデルセン童話で有名
なアンデルセンさんの家が今でもあります。



 

2013年9月9日月曜日

スポーツのおける移籍について

実業団に居た頃に助っ人外人だったレジーがよく文句を言っていた

 「日本のチームはシステムに選手をはめ込みすぎる、

  あれでは楽しくプレーできないしミーティングも長くなる」

 「じゃあアメリカならどうするの?」

 「その動きができる選手を移籍で取ってくる、そのほうが早い」

   さすがアメリカだと思いました。 そういえばアメリカはシーズン中でも選手の

  移籍とかあたり前だものね。 

  しかしハワイ大学のアメフト選手が全く違うことを言っていたのを思い出した。

 「ハワイのフットボールは昔から厳しい練習で有名だ、理由は簡単、体の大きい選手は

  ドラフトで本土に行く、だってハワイの大学を出てもハワイに就職は無いからね、

  ハワイは今でもアメリカの植民地だ、本土から来た会社がハワイの現地の人を

  雇って儲けるだけ、そして年寄りの白人達が老後を過ごすためにハワイはある。

  ハワイにある会社はドールのパイナップル畑と不動産、観光業だけ、
 
  だからハワイの大学をでたってホテルのプールの監視員とか駐車場の

  受付、レンタカー会社、レストランの店員、観光バスの運転手になるしかない。

  就職を考えたら本土の大学に行くべきだ。

   逆にフットボール選手で本土の選手がハワイに来るのは物好きだけ、

  だから伝統的にハワイの練習は厳しい」

   なるほどと思ったけど、そういった理由以外にハワイの練習が厳しいのは

   ハワイ人が伝統的に自分達を鍛えること、向上することに対する気持ちが
   
    強く、正義感が強く卑怯なことをしないことなどがあげられると思います。

   島国は大陸に比べてそういう文化が育ちやすい気がします。

   日本でも常勝するチームは伝統的に良い選手が入ってきます。

   選手を育てる事も大切ですがもともとの素材がよければ、入ってきた時点で
  
   高いレベルのことから教えることができるからね。

    
    実業団に居たときに言われたことがあります。

   「どうしても日本一になりたいのなら、今のチームにいるより

   日本一になれるチームに移籍したほうが早い、

   現役で居られるのは数年しかない。日本一になる事が目的なら

    そのほうが早いし確実だ」

    でもそれでなった日本一に意味があるのかな?

   と思うこともあるし、逆に日本一になれないまま引退するのも嫌だなーと

   思っていた事もありました。

    
   スポーツの目的を「勝つこと」にするのか、「教育」とするのかによって考え方も

   変わると思うし、プロとアマでも考え方も変わるし答えは無いのだろうけど

   移籍についてはいつも考えがまとまりません。

   
  

2013年7月30日火曜日

柔道、人としての一流と選手としての一流

1984年のロサンゼルスオリンピックの柔道で金メダルを取った山下は
 エジプトのラシュアンと決勝で戦った。

 山下は右足を怪我していて、ラシュアンはその右足を責めずに結果的に

 銀メダルだったということで、 国際フェアプレー賞をもらっている。

 本当はラシュアンは右足も責めていたらしいが、基本的には責めなかったという解釈。

  先日に大学のセミナーで25名くらいの学生を対象にラシュアンの行動について           
賛成か反対かを聞いてみた。

  柔道のオリンピック決勝で相手の選手が片足を引きずっていた場合にその足を

   ●当然責める 
   ●仕方なく責める
   ●特にそちらだけ攻めるようなことはしない 
   ●そちらへの攻撃は避ける

  という4択だった。

  10名程の学生が 当然責めるだった、1名が避ける、後はその間。

  よく考えてみたら今の20歳くらいの学生は柔道の山下の金メダルは
 
  知らない世代だった。

   「実はこれは実際に84年おオリンピックであった話で、

  エジプトのラシュアンは山下の負傷した右足を責めずに、結局負けてしまった」

  という事実を伝えたらみんな驚いていた。 学生から出た意見は
 
  ・情けをかけられて勝っても相手は嬉しくない

  ・オリンピック代表になるには国の代表なのだから金メダルを取ることは当たり前、
  もしラシュアンがエジプト人ではなく中国やソビエト連邦の選手なら絶対に責めたはず

  ・怪我をしないことも競技の重要な要素なので、怪我した山下の自己管理が悪いので責める

  ・本当に痛いなら棄権することだってできるのだから責めても構わない

  ・相手の弱いところを責めることは卑怯である、
   それで勝つと柔道家としては一流だが、人としては二流だ
 
  ・ラシュアンの心の中に怪我したほうを責めなくても自分は勝ってみせるという自信があった
 
  ・オリンピックはプロではない、勝つこと以上に大切なものがありそれを失ってはいけない
  
  ・ボクシングだったら相手の弱っているところを責め続けるのは当たり前
 
 
   というような意見でした。 あとは柔道は基本的には個人スポーツであることもラシュアンに

   山下の右足を責めさせなかった理由の一つかもしれません。 もしこの柔道が5人の対抗戦で

   日本、エジプトが2勝ー2敗での大将戦だったら全く考え方が違うとおもいます。

   その大将戦で自分の国の大将が相手の弱いところを責めずに負けたら、自分はその人を

   一生責めると思うものね。  「痛み無くして、得るもの無し」が競技スポーツの基本です。

    このレベルだとみんなどこか痛いものね。

    
   オリンピックで医療チームも待機しているのだから、死ぬことなんて絶対に無いし、

  対抗戦になると背負っているものが全く違ってくると思います。

     学生からはイロイロな意見が出てきて面白かったです。答えは無いけど事実としては

   山下は金、ラシュアンは銀でした。学生の反応は事実とは逆でなかなか面白かったです。



 



2013年7月10日水曜日

「天下取り大会」

 日本人の性格についてずっと考えているのだけど、最近自分のなかで一つの考えが深まってきたのでまとめるために書いてみます。

 それは日本人が「天下を取る」というスポーツ競技のようなものを作って天皇陛下に審判をしてもらって、国民全員参加でやってきたとてもユニークな国なのではないのか?という仮説です。

  だってヨーロッパを中心に世界で何千年と行われてきた戦争の基本は侵略だよね。 領地を拡大し植民地をつくることが主な理由だと思います。
 
 でも島国日本で江戸時代まで行われてきた戦争って、基本的には誰が天下を取るか? というプライドをかけて国全体でやってきた大規模な国民参加型のスポーツみたいなものだと思います。 

 だって島国だし、それ以上拡大できないから今いる中で一番決めるだけで良いものね。

 だってすでに「日本」という国は「天皇」のもとにまとまっているからね。

 ルールといえば

 例えば負ける方は白旗を振って降伏したり、

 その前に女子供は先に敵に渡したり実家に帰らしたり、

 大将が切腹するからあとの家来は許してもらったり、

 フェアープレイに徹するためのルールみたいなものがあって、

 そして競技の前提として

 「大義名分」というその試合が始まるための理由も必要で

 最終目的はあくまで

 天下を取って天皇陛下に「あんたが大将!」という金メダルをもらうために

 お家というチーム対抗で必死になって戦争ごっこをする。

 という面白い国民性だったのかも知れません。

  ヨーロッパの国が世界中に領土を広げて植民地を作って、自分の国を大きくしようと闘ってきた500年くらいの間に、日本だけそれを競技として「天下取り」というスポーツをしてきたのだろうね。

  ・戦が始まると自分の名前をきちんと名乗ってから討ち合ったり

  ・源義経がサムライだけでなく、戦の船を漕いでいる船頭さんをも戦闘員として

 みなして攻撃したりして、それがと当時は反則ギリギリだけど新しい戦法として認められたり

 ・小田信長の鉄砲三列戦法は少し助っ人外人的というかドーピング的というか、

  「鉄砲使っちゃったら競技の本質が変わってきちゃうじゃん!」

 という風にとられてしまって、一瞬微妙な雰囲気もあったが勝てば官軍ということばで何とかOKが出てしまったり。

  みんなでそうやって天下取りというスポーツ競技を楽しんできた気がします。

  西洋の戦争が「欲の為」だったとすれば日本の戦争は「プライドの為」だったのかもねだって目的は日本を平和にするということよりもとりあえず天下を取るという自己実現だものね。

 そうやってもともと国民参加型のスポーツを国全体で行ってきたから人一倍フェアー精神とかモラルとか、ルールを守ることなどは徹底されてきたのだと思います。

 宗教がないのに何故モラルが高いのか?神がいないなら生きる目的は何なのだ?
 
  と西洋人から不思議がられるかもしれないけど、我々は「天下取りごっこ」を生甲斐としながらお互いに技を磨いてやってきたユニークな国民なんだ。 と思います。

 

 

2013年7月9日火曜日

「今でしょ!」的人生論


    先日あすならラボという番組で 「今でしょ!」の林先生がヤンキーに授業をしていた。

  林先生が 「努力は裏切らない」という言葉は不正確だ
   
 「正しい場所で」 「正しい方向で」

  「十分な了なされた努力」は裏切らないが正しい。
 
 どういうことかというと 僕がジャニーズになろうとして努力することに意味があるか?

  と言っていた。 完璧なたとえだなー と驚かされた。 自分の考えを

   相手にどうやって理解してもらうかを常に考えているから出てくる例だと思った。


  「 好きなことは趣味でやればいい、 仕事というのはお金をもらってやることだから

  相手に対して責任をとらなければならない。」

   とも言っていた。 

  自分のやりたいことと、自分が得意でできることは違う場合もあるのだなと改めて実感した。

 そして予備校の先生が人生を語り、学校の先生が人生を語りにくくなった日本の教育は

  これからどうなっていくのかと感じる。

  

 


忍耐力とは?

昔に椎名誠さんが書いた「岳物語」という本を読んだことがある。

 まだ僕が中学くらいだったから25年くらい前かもしれない。

 そうとうあやふやだけど

椎名さんの息子の岳くんが学校に適応できないと面談で言われる話だった

 「学校には遅刻する、授業中は落ち着きがなくじっと机に座っていられない」

 と、担任の女教師に椎名さんが相談されるというものだった。

 しかし休みの日に大好きな釣りに連れていくと、朝は起こされるよりも早く起きて

 釣りの間はたとえも2時間でも3時間でもじっと獲物を待っているそうだ。

  それを見ていた椎名さんは岳くんはけっして朝起きれない訳でもなく、忍耐がない
 
  わけでもなく、単に日本の学校が向いていないと思ったそうだ。

    型にはめる学校ではなくて、自分の能力を伸ばす為の学校があれば

   良いのにと感じる。少しずつ変わっていかないとこれからグローバル化が進むと

  日本人は外国人に負けてしまう気がするな。 

   知識を入れることと考えて発言することは同時にやるから相乗効果が生まれるのだと

  思います。 日本はとりあえず大学まで入れることしかしないから急に大人になって

  発言しろといわれてもできないのだろうね・・・・ 少しずつ変わっていけば

  よいと思います。

 


2013年5月15日水曜日

三人兄弟の真ん中と人間の先天性について

 僕は昔から三人兄弟の真ん中の人が好きという特殊な友人関係を持っています。

 そして青年海外協力隊のボランティアには三人の真ん中が多いのだよね。

 三人の真ん中って家族の期待は長男に行き、いつも気にかけてもらえるのは三番目で
 
 真ん中で成長するって、教えられることよりも肌で感じて学ぶという環境で生きてきている

 から、独立心があるし。しかし自分自身は子供のころからいつも寂しい気持があるから

 目立たないけど、思いやりがあって、海外にボランティア行こうと思ったりする人が多いのだと

 思います。 あとは三人いれば一人くらい海外に出ても親はあまり反対しないというのも

 少なからずあるかもね。だって一人っ子がアフリカに行くって言ったら

 結構な確率で両親は止めると思うのだよね・・・

  ということで僕は三人兄弟の真ん中の人が好きです。

 その時にいつも思うのが、人間の性格の先天性と後天性です。だって三人兄弟の真ん中の

 人は生まれてきたときには100%の確率で末っ子のはずだよね。

 次男や次女であっても真中であることはあり得ないよね。(双子、三つ子は除くけど・・・)

 生まれてきたときにまだ二人兄弟になるのか、今後に三人になるのかは全くわからない

 でも三年以内くらいに弟が生まれた時に初めて真ん中の子供になるのだと思います。

 そして家族の空気を読むようになり、我慢強くなって、物わかりが良くなって、

 結果的に我が侭な僕の面倒をみてくれて親友になるという流れだと思います。

 そう思うと数人いる三人兄弟の真ん中で人格者な僕の友人達は生まれながら人各者

 なのではなくて、生まれて数年経って自分より下の子どもが生まれてから人間的に

 完成されていくという、その環境が彼らを人格者にしていくという後天的要因がとても

 大きいということになります。だから僕にだって三歳くらいの時に弟か妹が生まれていたら

 もう少し辛抱強い大人になっていたかもしれません。

 やはり育ってきた環境は大切だと思います。 

頭が良いということ①

 僕は長いことブログを書いているし、考え方がおかしいと自分でもよく思う、でもなぜおかしくなったのか? と真面目に考えると頭が悪くて勉強ができなかったから、子供のころから自分の人生について言い訳を常に考えていないと生きていけなかったからだと思う

例えば九九がいつまでたっても覚えられないとか、昨日に覚えたはずの漢字が今日すでに思い出せないとか、記憶力があり、頭の良い人なら起こらないはずの事件が僕には毎日起こる、そして周りから怒られる。

 「努力しないから、頭が悪いから」

となる、それでも生きていかなければならない時に人はいろいろと言い訳を考えるのだと思う。

要は自分を肯定するために社会を否定するようになるのだ

 たとえば

・学歴社会が間違っている、人はみんな医者や弁護士を目指さなくても大工や農家や蕎麦屋になっても良いはずだ。

・やりたいことのない人間は大学に行って勉強すればよい、自分にはやりたいことがあるから早く社会にでて自由に働きたい、学歴になんの意味がある?

 とかまあそういう感じ。 これが何故言い訳なの? 言ってることあってるかもよ?

と思う人もいるだろうけど、東京大学に行ってこの台詞を言えば、それは言い訳にはならないけど、あやうく中卒になりかけた人間が言った場合は明らかに現実逃避の言い訳で 僕はまさにそのタイプだった。

 

頭が良いということ②

 それでは頭の良い人はどうかというと、子供のころから普通の人以上に

 何でもできるから、言い訳することは少ないのではないかとおもう。

 合法でなんでもこなせるから逆に考え方がシンプルで素直に育ってしまう。

  受験だって、今まで3時間勉強していたのを5時間に増やして頑張ろう

 になるだろうし、英語が必要な会社に入社すれば

 朝早起きして毎朝30分英語の勉強をしてから仕事に行ったりして、3年くらいで

 英語が喋れたりするのだとおもう。

  しかしこちらはそれができない、したがってできない自分にイライラし、夜にお酒を

 飲んで憂さを晴らし、人生の言い訳をしてしまうので、二日酔いで早起きなんてできるわけも

 なく、英語の勉強はまさしく三日坊主で終わってしまう。

  そしてますますひねくれた人間になって、青年海外協力隊に行ったり
 
 こんな風にブログを書いたりするのだと思う。 (かなり意見が偏ってきてが・・・・)

  

頭が良いということ③

 「天才」は普通に記憶力と物わかりが良い人で、「秀才」がなにかの才能に恵まれた

 人だとすると、僕の周りにはその両方がいる、そして天才の人は普通の人よりも

 努力すれば何でもできてしまうので、人生に挫折が少なく、スイスイと進んでいく、

 しかし人生には寄り道も結構大切で、そういうひととお酒をのんでも意外と面白く
 
 なかったりする、やはりいろいろなところで挫折を味わってきた人は、話もそれなりに
 
  面白い。

 そして「秀才」のひと、少し芸術肌の人は自分を見失うことが多い

  「サヤのない名刀 」 というのだっけ?

 人間の器という刀をカバーするものがなく、「才能」という刀がむき出しなので

  凡人には理解されず、周りも自分自身も傷つけてしまう。

 レースに使うF-1の車の運転席に素人が座って運転してしまう

 ようなもので、少しアクセルを踏めばすぐに100キロもスピードがでるので

 器の全く完成されていない人間だと、結局その才能を持て余して

 事故ばかり起こし、 自分の持って生まれた才能と人間としての

 「器」がバランスよく育っていないと、結局は身を滅ぼすのだとおもう。

 よくスポーツ選手で高卒ルーキーがいきなり活躍しても、結局は周りの大人に

 利用されて自分を見失ったりするのと同じだと思う。

  そう思うと松井は若いころからF-1カーを操れるだけの「器」と「才能」の

 両方が備わっていたので、野球を引退しても人としては一流なのだとおもう。


 

頭が良いということ④

 昔に人間的に完成されたフットボール選手が引退する時にその友人が言っていたことばで

 「彼は偉大なフットボール選手なのではなく、偉大な人間なのだ、たまたまその
 
 偉大な人間が人生の何年間かヘルメットをかぶってフットボールをやっていたにすぎない

 だから彼の偉大さは引退しても全く変わらない」

 というようなことを言っていた、最近国民栄誉賞をとった松井はまさにそういうひとなのだと

 思う。

 昔に山下達郎が言っていた
 
 「僕は普通の人と同じようにディスニーランドに行ったりするしスーパーで買い物もする、
 
 だって普通の人と同じ生活をしていないと、普通の人の気持ちが歌えなくなるから」

 村上春樹も先日に同じようなことを言っていたと思う。

   このことについては先日に才能に対するプレゼンテーションを見て驚いたのだど

 昔の人はそういった才能というものは人が持っているのではなくて、ほかの所に

 普段はいて、たまに特定の人のところに降りてきて、作曲をさせたり詞を書かせたり

 するのだと考えていた。 ジーニアスとかダイモン(デーモン) という言葉はその降りてくる

 才能のことを意味していて、それを書いた人間とは関係のないものだと考えられていて

 だから偉大な芸術家たちも謙虚でいれたし、逆にスランプにもならなかった。

  といっていた。

 そういう考えができれば偉大な人達ももっと楽に生きれるのかな? と思う。

頭が良いということ⑤

 僕の知り合いで素朴な沖縄の女性が

 「もし私がIQ200あったらアメリカのライス国防長官のようになるのが夢だ」
 
  と言っていたことがあった、しかしその人には素敵な恋人がいて、誰もが認める

 微笑ましいカップルだった。

 だから僕は言った

 「もしあなたがIQ200になっても、今の旦那さんと同じように生活してくれたら

 それはとても幸せなことだとおもう、でももしそのIQを使って国防長官になって

 しまったら、それは逆に普通の事になってしまって、あまり意味がないと思う

  今の旦那さんは素敵な人だからIQが上がっても今と同じ生活をしてくれたら

  それがもっとも幸せな人生だと思う。」

 

 100億もっているひとが100億の生活をするより、それだけ持っていても

 周りの人と同じ生活をしていることの方が僕には幸せに感じる。

 頭も良いに越したことは無いけど、逆に自分らしさを見失しなうこともあるのだと思う。

 結局僕は頭が良くないから想像するだでそういうひとの気持は一生わからないのだけどね・・・・

  また人生の言い訳をブログに書いてしまいました・・・・・

2013年4月24日水曜日

持続可能な社会の創造

 アフリカで子供が毎日一時間かけて水汲みをしている、だから学校に行けない

 井戸を掘ればその現状を変えられるのではないか?

  
 援助をもらって一年をかけて井戸を掘ってみんな大喜び、

 これで学校に通える子供が増える と思って一年後にその村に行くと

 なぜか子供が学校に行っていない。

  井戸を管理する村長が村人から水汲み一回100円ずつ取っていた

から・・・

 村長いわく


 「
村で電気があるのはウチだけだから電動ポンプの井戸を家の庭に掘ったが

 電気代まで援助してくれないし、
村人は協同で水場を使うことに慣れていない

 ので、家の前は常に汚れっぱなし、水溜りができて不潔だ、
電気代はかかるし
 
 仕事が増えたのだからお金をもらうのは当たり前だ」

   
 結局村人はお金が必要になり、
子どもは働かなくてはいけなくなってしまった。

 こんなことなら村人みんなで遠くまで水を汲みに行っていた頃のほ
うが

  みんなが平等で楽しかった・・・・

  
 もしも電気ポンプではなくて手動のポンプにしていたら、
電気は必要ないから

 村長の家の前に設置する必要も無かったし、

 村から50メートルくらい離れた誰の土地でもない

 ところに設置して、村人みんなで管理することを同時に教えたら

 みんなきれいに使ったかもしれない。


 

  医療を発達させ生活環境をよくすると人口が増えます。

  今まで10人の子供を産んでも5人しか成人にならなかった国でも

  9人が成人まで生きられるような平和な世の中になります。

  しかし人口が増えれば当然食料の奪い合いになります。 土地も仕事も

 奪い合いになります。 全然平和ではないよね。 

 若者の人口が多い国は戦争に走りやすいという事実は歴史が証明し
ています。

  医療を発達させるなら子供は5人生めば十分だという知識も先に


 伝えなければなりません。

 

 5年先10年先のビジョンではなくて50年先、 100年先のビジョンを考えないと

 いけません。

 何万年もかかって作られた石炭やガソリンなどの

 化石燃料を産業革命からの

 200年で使い果たしてしまってはいけないのです。 

堀尽くした時には原子力に頼るしかなくなるかもしれません。


 ちょうど9人の子供が健康に成人になれるようになった国が

 その後に戦争に走るのと同じです。 

 神様が居るとしたら戦争で人口を減らそうとしているのかも知れま
せん。

 人間は学ばないと思われているかもしれません

 
 必要なのは持続可能なビジョンだと思います。

 山の真ん中に住んでいるとします。 

  冬に寒くなって家の周りから薪を集めます。


  春になってストーブにくべる薪は必要なくなります。

  春、夏、秋で木は成長します。 

  また冬になったらその一年で育った木を集めて家を暖めます。

  それなら持続可能な世の中です。

 もっと暖かくしたいとおもって、薪を使い過ぎると、

 1キロ先、2キロ先まで薪を集めに行くことになります。

 気がついたら薪を集めるだけでものすごい労働力になります。


 環境も破壊されます。となりの家と薪の奪い合いになります。 

 持続可能ではなく破綻した生活になります。

 持続可能な世の中の創造って日本人が一番得意分野だと思います。

  江戸時代だって270年続いたしね。

 徳川家康が考えたビジョンを今の我々が考えられない訳はないよね


 日本人が本気で考えれば絶対に創造できると僕は思っています。

 

 

2013年4月5日金曜日

名言で振り返る2年間(長くなってスイマセン)

 協力隊のボランティアの哲学は

「魚を与えて一日を養うのではなく、漁法を伝えて一生を養う」

  相手の国の自立を助けるというものです。

 僕の要請の体育に例えると

 僕が2年間現地の生徒に体育の授業を直接するだけでは、


  2年後僕が帰国する

  
 時には新しく日本からボランティアが来なければならないという

  「甘やかしの援助」 になってしまう。からならず2年間で現地の先生達

  から体育の指導をできる人を育てて、将来的には援助がなくても自立


  できるようにすることであった。

  
  ボランティアとして僕の心にいつもあったのは

 東京都庁で働いていた方の言葉で


 「正しいと言うことは正しいという理由だけで実現されるものではない

  それをいかに実現するかを考えることが我々の仕事である」

  だった。


  今後バヌアツ共和国が先進国に近づいていく為には

 「規律」 「ルールを守る」「チームワーク」
 
 「正しい生活習慣 (運動⇒栄養⇒休養のトライアングル)」

  などが必要になるだろうし、

  学校でそれを学ぶには体育はもってこいだと僕は思っていた。


  僕の中には「正義感」が燃えさかっていたのだ。
  
  現地の先生にいくら嫌がられても逃げられても、

  根気よく諭して諦めないでアプローチし続ける。


   同時に生徒たちへの巡回指導で自分が実践してみせる。


  「して見せて、やらせて見せて、褒めてやらねば人は育たず」 

   山本 五十六 


  例えみんなに理解してもらえなくても自分の中には

   「正義感」と「使命感」」がみなぎっていた。

  先生達に馬鹿にされたり、失礼な行動をとられても妥協はゆるさず
  
  「やらない理由は自分が決める」

  「ボランティアだからと行って自分の気分が乗らないから

  辞めてしまうようでは結局は日本からの現実逃避になる」


  「お金の為に働いているのではない」
 
  「持続する情熱」

  と思って頑張ってやってきた。

  

   誰にも理解されなくても

   ・ローマ時代のイエスキリストも

   ・死んでから認められたゴッホも

   ・「それでも地球は回っている」 のガリレオ・ガリレイも

   ・アテネの政府に死刑にされたソクラテスだって

   みんなパイオニアは周りに理解されずに、孤独に死を迎えるものなのだ、


   だから自分も妥協せずに

   「耐えざるを耐え、忍びざるを忍び」

   自分の信じる「正義」を突き進むのだ!


   バヌアツの人達もいつか気がつくはずだ、

   たとえそれが僕の帰国後であっても・・・・


  
    「強者はひとり孤独に耐える」

    はじめの8ヶ月は島に1人しか日本人が居なかったし、まさしく孤独でした。

   

    しかし一年が過ぎたあたりで体調がおかしくなってきた、

  朝起きれなかったり、起きても授業に対する


  イマジネーションとモチベーションが全く沸かなかったり・・・・


   引きこもり状態になってしまった。

    しかしそこでも引き下がれない、

    だってフットボール選手だったころも毎日そうだった

 
    疲れが溜まりぎて朝起きれない。モチベーションが上がらないのは

     現役の頃は当たり前でした。


   「NO PAIN  NO GAIN」 (痛み無くして得るものなし)


   「志あれば、そこに道あり」

 
   「負けたから終わったのではなく、諦めたから終わったのだ」

   「人生には一度妥協すると二度と戻れない道があるのだ!」

    

    
   しかし一年が過ぎて自分の中にも変化が出てきました。

   
   ・「働きすぎるな」と会うたびにアドバイスしてくれる老人達

   ・僕の体を気遣ってくれるお母さん達

   ・僕がバイクで走っていると飛び跳ねてあいさつしてくれる子供達

   ・バイクが壊れて連絡手段も無く授業をサボってしまった僕を

   責めるどころか「大変だったね」とやさしくし声をかけてくれる校長先生   

   ・病気になって死が迫っているのに穏やかに死を待つ老人


   ・笑顔と鼻水が常に全快な子供達

  
     「足るを知る」 

     「幸せは 自分の心が決める」


   南の島の幸せな国の人達はすでに

   人生に必要なもの全て持っているようでした。


   「日本ではどうして昨日と今日が同じことの繰り返しではいけないの?」

   と言われて、日本では


   「向上心の無い人間はバカである」

   「現状維持では下降と同じ」

   という言葉を胸に抱きながらも、

   自分の中での「正義」の意味がぐらつき始めました。


  
   「途上国の人は困っている」

   という勝手な思い込みでここまできてしまった自分のなかの

     「正義」と「使命感」にすがりつく毎日。   
  
  
   「初心忘れるべからず」

   
 という言葉を胸に何とかたまたま読んでいた本の中で見つけた言葉
 

   「お前達の愛するというのは神が人間を愛するような、

   金持ちの奥様が自分の犬を愛するようなそういう愛である、

   なにもしれくれるな、我々はただほっておいて欲しいのだ」
 
    (殺される側の理論 本田勝一)
 
  
   先生達にしてみれば

  「本気で体育を広めたいというのなら、何故2年間で帰国するのだ、


   協力隊の2年間が終わっても日本から戻ってきて、

  10年、20年我々と一緒に働いてくれれば

  こっちだって本気になるかもしれないが、


  2年間での本気には付き合えない、残される我々の事も考えて欲しい

   お前にとっては経験でもこちらにとっては現実なのだ」

   実際に言われたわけではないけど


  みんなはそう思っているのではないか?


   と感じるようになりました。



   自分が信じていた「正義」とか「使命感」は間違っていたのか? 
 
  
    「過去の成功体験が足を引っ張ることもある」
 
  たいした成功体験もないけれど方向転換してもよいのかな?

   と考えるようになりました。 

      
  
  そして結果的には相手の気持ちをとことん考えて

   僕の考える「正義」の押し付けは辞めることにしました

   

   そのとき考えて自分なりの「言い訳」は

    もしもタイムマシーンがあって100年先の人がやってきて

  「日本人はかわいそうだね。平均寿命が85歳なんだ、

   癌も糖尿病もエイズも治せないなんて・・・・

   100年後の平均寿命は120歳だよ癌は治る病気だし、


   HIVはすでに撲滅したよ


   僕達が君達の生活を改善してあげよう」

   といって彼らの「正義」と「使命感」によって

  僕のこれまでの人生が否定され、


  惨めなものだと決め付けられプライドを失っていくくらいだったら、

  このまま胸をはって自分の人生を歩みたい。

  平均寿命が85歳で何が悪い? とおもったこと


 それと同じことを今自分がバヌアツで行っていて


 勝手に行き詰っているのだ、  と気がついたからです。   


    
  そこまで来るのに大分と苦しんだから

  答えが出てからは気持ちは楽になりました。

  
    甘やかしの援助でもいいから先生達へのアプローチはもうしない。
  
   一番最初の言葉  

  「正しいと言うことは正しいという理由だけで実現されるものではない

  それをいかに実現するかを考えることが我々の仕事である」


  バヌアツで体育を広めることは「正しい」ことであり、

 いかに実現するのかを一生懸命考えていた自分の中の


   「正しさ」の意味が変わってしまったのだと思います。


  それに気がつけたのが自分の偉かったところかもしれませんし、


  自分の弱さに助けられたのかもしれません。

  僕がもっと強い人間だったり、強くて大きな組織を持っていたら


  方向転換できずに

 
   植民地支配だったり、ヒトラーだったり、

  日本の第2次世界大戦への開戦を実行していたかもしれないしね。

 
  
 「正しい」「正義」「使命感」という言葉に自分が酔っていたのかもしれないし、
 
   34歳でそれに気がついたのかもしれません。

   僕の立場がボランティアで、

  離島で1人で頑張っていたから僕1人が方向性を変えても


  誰にも迷惑がかからなかった事もよかったのだと思います。
 
  ボランティアだったから数字的な結果よりも正しいことを突き進んで
 
  良かったのだと思います。仕事だったらそうはいかないよね。


   あのまま頑張っていたら結局は

   自分が一番不幸になっていたのだと思います。


   「正義を疑え」 

   「人間は完璧を求めすぎるともっとも大切なものを失うことになる」
  
   あの2年間で多くのことを学びました。 

   こうやって大人になっていくのかな?


   自分の限界を知った2年間でした。 

   僕が体育の教員を育てられなかったことに対して

  現地の人が最後に言った言葉は


  「最初から体育なんてどうでもよかった、

  ただ日本人の友達が欲しかっただけなんだ

 
  だからお前は最高のボランティアだった、

   胸を張って日本に戻って欲しい」


   という言葉でした。

  
  帰国後にJICA職員からのアドバイスは
 
   国際協力の為に協力隊に行って、

   結果的に2年後に国際交流になってしまっても


  それはしかたの無いこと

  10年後にあなたの教え子が教員になったとき


   初めてあなたの活動が花開くかもしれません。
 
   もちろん2年間で結果を出す人い居る、

  しかし援助とはそれほど簡単でないことは職員はみんな理解している。


       「2年間本当にお疲れ様でした。」


   

   もう一度同じ気持ちで挑むことはできないし、

  答えが見えなかったから常に全力で頑張れたのだと思います。 


   これからの人生も沢山悩んで


   自分の正義と正しさを常に考えながら成長したいと思います。 


    やばいね・・・  またここで「成長」という言葉を使ってしまった・・・


   現状維持でも良いと学んできたはずなのに、 

 
   でもやっぱり自分は日本人だから「人生の道」というのを考えたいです。

   効率化とか経済成長ではなくて「人としての成長」


    これは全世界共通ですよね。  (長くなってスイマセン・・・・)


     


   

   

  

  
 

2013年3月24日日曜日

人も国も年を重ねます

 先日に団塊世代の人(65歳くらい)と話していたときに
 「日本は内向きになって良くない、中国や韓国に負けてしまう、
 経済成長しなくてはならない」

 というような話を熱心にされていました。その人は3年ほど海外に出ていて
 数ヵ月前に帰国したからなのかもしれないけど、僕はその意見には疑問を持ちました。
 経済成長も大切だと思いますが、それが「唯一」の豊かさへの道だという考え方は
 少しずつ改めていくべきだと思っているからです。
 
 「失われた20年 」という言葉をよく聞くけど、第2次ベビーブームに産まれて
 今39歳の僕は何も失てはいないしね。おそらく何かを失ったと思っている人達は 
 団塊世代の男性に多いのだと思います。 
女性の価値観は団塊世代でも今の若い世代でも男性ほどは変わらないと思います。

  国を人間に例えるとこれからの日本は勢いだけで突き進んだ20代、30代ではなく
 40代にはいってきたのだと思います。
 若いことのようになんでも挑戦できるわけではなくて、
 人生の方向性のようなものが必要になってきている時期です。
  中国、韓国は今まさに20代、伸び盛りです。勢いがあります。
 アメリカはいつまでたっても大人になれないまま40歳になってしまった感じです。
彼らは勢いのある20代が人生で一番輝いていると勝手に勘違いしていて、
若さにしがみつこうとしているように見えます。
 強くて、頼りになるヒーローでいたいのです。
寛容さが無くライバルはすべて倒さないと自分たちの価値が下がると勝手に
思い込んでいる感じです。
 ヨーロッパはすでに60代、自分のスタイルがほぼ固まってやや保守的ですが
 もう無理はしない成熟した国に見えます。 
 アフリカは10代です、みんなで見守っていく必要があります。
 今後に悪い道に進むのか、正しい大人になってくれるのかは
 周りの大人たちが与える環境しだいで変わっていくと思います。

 日本は40代はどうなるのかな? 20代の若者と張り合うようなまねはしないで、
「成熟した国」になるための意識改革が必要だと思います。
「失われた20年」という期間は次の段階になるための大切な20年であったと思います。
 日本はさらなる「豊かさ」を手に入れるために日々進歩している国であると思います。
 

2013年3月5日火曜日

男はうんこで繋がっている②


 その後アンゴラに居たとき、毎日トウモロコシを水で溶いたものと煮た豆をご飯もしくはご飯のように炊いたパスタで食べるという炭水化物100%の食事を数ヶ月していた、全寮制の学校で体育を教えていたので他に選択肢がなかった。

これはある意味人体実験のようなもので、食べることへの興味は無くなり、楽しみは食後に飲むコーヒーだけになってしまう。しかし体調はすこぶるよくウンコには全く空気が入らない、粘土のようになってしまうのだ。

空気が入らなくきめの細かい粘土のようでとても長くなる。

そして僕の住んでいた寮は水洗用便器を毎回バケツの水で流すというスタイルであったので、そのように長くて力強いウンコは流れてくれない。しかもトイレットペーパーの質が悪く、みんなには「紙は流していけない」といわれていたが、何処に紙を処理するのかは誰も教えてくれないので、そのまま流していた、そうするとトイレが詰まる。

いつか流れるだろうと思ったり、木の枝を切ってきて、それで10分くらいグルグルとかき回してみたがアンゴラは赤道より下のはずだから水の流れは右回りか左回りか分からず、両方の方向に10回ずつかき回したていた。

でも詰まっているのは便器の奥で、縦方向にS字になっていて、簡単にはとどかないのだ。
おしるこを満タンにためた洋式トイレの前に椅子を置いて、自分の便意と戦いながら夕方におしるこを永遠とかき混ぜていたことを思い出す。(実際に豆しか食べてない・・・)

結局は水は一ミリも減らず、寮の隣にすんでいたケイタの便所を内緒で使わせてもらった、ケイタにはいつでも使って下さい。とは言われていたのだがへんな意地があって借りないでいたのだ。

自分の便所はすでに三日ほど詰まっていたので、したがって自分自身も三日分詰まっていた。だからケイタの便所でもにんじんというよりも大根といったほうが良い物が出てきた。
自分で汲んできたバケツの水で流そうと思ったが、大根がなかなか折れてくれたいので、流れていかない、結局バケツで水をもう一度汲みに行って水が弾くことを気にしないで思い切り入れたが、水かさが増しただけで何も変化がなかった。 
それからケイタの便所の前で汗びっしょりでかき混ぜたが水は全く引かない。 あまりの焦りと暑さとやり切れなさで「いっそのこと腕を突っ込んで詰まってるものを引っこ抜いてしまおうか」

と思ったが、その場合は肩くらいまではおしるこに埋まるだろう・・・・
と予想され、辛うじて思いとどまった・・・・

ケイタが帰ってくる前になんとか流したくてしなりそうな木の枝をとってきて、何度も突っ込んでみたがついに流れなかった。
 
そしてついにケイタが帰って着てしまった。仕方なく白状すると
「僕は丁度ベンキの角度に合った棒を持っています」
といってどこかに行ったかと思うと、一分くらいすると使えなくなったほうきのとってが程よく曲がった棒をもってきて、すぐに詰まったベンキを直してしまった。そのまま僕の前を通って僕の部屋の便所に入ると、
 「こちらも治りました」 
と1分で出てきた。
その棒を普段何処に隠しているのかはよく分からなかったが、先が微妙に曲がった
70センチくらいのその棒を持ってさっそうと歩くケイタの姿は、それまでイギリス、アフリカと一緒に旅してきたなかで一番カッコよく見えた。 
三日ぶりに空になった自分の便器をみて、本当に嬉しかった。

その後にケイタとふたりで、アンゴラでのウンコについてとウンコ棒の曲がりの角度などについて2時間ほど白熱した議論が行われた。 

男はなぜかウンコにロマンを感じるものなのだと今でも思っている。 おしまい
  
 

2013年3月2日土曜日

男はうんこで繋がっている①

 知り合いが旅行に行ったので、我が家に一日犬がきた
 仕方ないから僕は犬の朝晩犬の散歩に行くことになった。
 犬が野グソをした、でも今の時代は持ち帰らないといけないらしい
 仕方が無いから家にもどってビニール袋を持ってきて、
強く握らないように
 やわらかくソフトに握りながら家にウンコを持ち帰った、

ちなみに僕が子供の頃に
 そらった大阪ではウンコではなくてウンチというのが子供達の間で
は主流だった
 ビニール袋一枚でウンコと僕の指は触れ合っているのだが、
子供の頃に
 「ウンコ爆弾」というのが流行った、
カラカラに乾いたウンコを拾って、友達に投げつけ
 るのだ、
何故男はあのようなおろかな行為を一緒にすることによって友情
 を深めあうのだろう? ウンコに爆竹を指してまさしくウンコ爆弾にしてたりもした。

 そのビニールに入ったウンコを家の水洗便所に流す。
ウンコの下に少しだけ
 石が突き刺さっていたけどそれを取り除く勇気は無いのでそのまま
流してしまった。
 小型犬のウンコはヒラヒラと回りながら水洗便所に吸い込まれてい
った。
 その時にまた記憶が蘇った。 子供の頃には毎回ウンコが流れていくときに
 「ウンコさんさようならー」 と手を振っていた。
  思わず心の中で「さようならー」と思ってしまった。

 バヌアツの頃に一緒に生活していたスパイダーという犬は、
僕がよその村に
 行くときは僕を守らなければいといけないと思っているようで、
常に僕の15メートル先
 まで全力で走り、
そこで振り返り僕が歩いているのを必死に見ていた。
 僕が彼に追いつくともう一度15メートル先まで全力疾走をすると
いうことを繰り返す
 犬だった。時にはいったん僕の後ろまで周り、
その後にまた15メートル先に戻ったりする
 というとても忠誠心のある犬だった。 その彼が急に30メートル先まで全力疾走する
 ことがある、ウンコのときだ、彼は僕の歩調を考えて、
僕が彼に追いつく距離を計算し
 その間にウンコを済ませようとするのだ、彼がウンコをする時間、
それが僕が30メートル
 を彼に追いつくまでに歩く時間だと彼なりに計算しているようだっ
た。
 30メートル先で始まった彼のウンコは丁度僕が彼に追いついた時
には終わるように計算
 されており、その間の彼の必死な形相にはいつも笑わされた、
 肛門をこちらに向けているのが少し気になってはいたが、
僕が近づいてくるのを振り返りながら
 必死で気張る彼の顔には危機迫るものがあり、
ついつい小走りをして、もっと追い詰めてやろうか?
 という意地悪な気持ちになったこともあった。
 だいたいは僕が追いついた瞬間に彼のウンコも終わり、
何事も無かったかのようにまた
 僕の15メートル先まで全力疾走してくれる。 
 その30メートルの間の彼の表情には飼い主を守るミッションと、
自分自身生理的欲求を満たす
 ミッションの二つのミッションのハザマで限界の勝負をしてるとい
うめんでは同じ男として
 尊敬に値する一面があった。

 その頃にロカタイ小学校に居たテツヤはカバというバヌアツ人が夕
方に好んで飲む
 木の根っこを煎じて飲むのみものと、彼の学校が長期休暇に入り、
水を止めてしまったので
 畑で使う井戸水を飲んでいたことも会って、常に腹を壊していた。
井戸の近くに豚が
 飼われていたので、
そおらく相当ヤバイ水を飲んでいたのだと思う。
  一日に何回ウンコに行ったかを報告してくれるテツヤはその顔色の
悪さに反して、
 生き生きとしているように感じた。

 テツヤの次にバヌアツにきたヒロもそうとう下痢に悩んでいた。 
 今思えばあの島は火山島だったので、地中に入った水には火山灰から入る
  カルシウム分の多い水になっていたのだと思う。ペットボトルに水をためるとふちに白い
 カルシウムのかたまりのようなものがたまっていた。
 そういう自分も一人で島に入った時には下痢に悩まされ、朝一番の体育の授業などで
 逆立ちをすると下痢のための脱水症状なのかめまいがすごくて星が回ることが
 よくあった。 一か月も下痢が続くとすでに治すことをあきらめてしまって、せめて出口くらいは
 清潔にしておきたいとおもって、出口の毛をバリカンで剃ってしまったこともあったなー
 あの頃おれたちは食べる話と出す話で友情を高めあっていたのだとおもう・・・・


 パート②に続く・・・・
 

2013年2月17日日曜日

豚とソクラテス

「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。 同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。 そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである」 ジョン・スチュアート・ミル『功利主義』第二章
この言葉を最近知ったのだけど、前半部分の満足なブタであるより、不満足な人間、満足な人間であるよりも不満足なソクラテスという部分が面白いなー、と思います。

僕がボランティアとして2年間生活していたバヌアツの人達は
昨日と今日、今日と明日、同じ生活が60年から70年続いて人生が終わるのが一番良い人生だと思っている、どうして日本では昨日と今日が同じじゃいけないの?
 
 という素朴な疑問を持っていた。 しかも面白いことに僕のいたバヌアツは1980年までイギリスとフランスに植民地にされていて、
一度は自分たちのスローライフを否定され、島にはココナッツの畑ができたり、食品を加工する缶詰め工場ができたりしていたのだ。 今でも年配の人の中には若いことにイギリスに行って勉強したことがある人がいて、普通に英語を話す。

 彼らは一度そういう生活を経験して、でもやっぱり自分たちには争いも格差もないスローライフが向いていると判断しているところがすばらしいと思う。

 バヌアツの「毎日が同じことの繰り返しがいけないことなの?」の対極にある言葉で僕がよく紹介するのが夏目漱石が「心」のなかで言った
 「向上心の無いものは馬鹿だ」
 である
 
話の流れ的にはこの言葉は悪だと思うかもしれないけど、そうではなくって、僕はこの言葉も大好きです。

 せっかく人間として生まれてきたのから、自分の心と体が持っている能力をフルに発揮して、死ぬまで自分を限界まで高めながら生きていくことが人間として尊い生き方であると思ってしまう。 二つの道があったら困難なを選んでこそ人生は面白くなるのだと思う。

 だからこの二つの言葉で僕はいつも迷ってしまうのだけど、
最近思うことは「向上する方向性」が大切なのかな? 
 と思います。

 自分の心と体の向上を自分だけの為、有名になるため、お金持ちになるために使う「向上」なら必要ないと思うし、逆に世の為、人の為、家族の為(家族の為にひたすら金をぐというわけではなくて、愛情を捧げるという意味で)
 向上するという哲学があればそれでよいのかな?
 なんて思います。
 そういう方向に僕たちが行かなかったのは
 
 ・なんでも一番早く、一番大きく、一番強くというアメリカが近く    にいた
 ・第次、第2次 ベビーブーム右肩上がりの経済成長とと    もにもともと日本人が持っていて素晴らしい価値観を忘れ   て「道徳なき競争」に踊らされてしまったこと
  ・無意味な戦争をして、それに負けてしまったという反省と劣  等感

  などがあると思います。

大人と子供の違いは、大人は自分の価値が定まっているから人より高級だから良い、人より高学歴だから良い、人より都会に住んでいるから良い、などという価値観にとらわれず、自分の愛する人と、自分の好きな場所で、自分のペースで生きるという「足るを知る」人のことで、子供は単に他人との比較によって自分の価値を評価する人のことだ聞きました。

 満足した豚になるのか、不満足なソクラテスになるのかは難しいけど、僕は「満足した凡人」くらいが自分らしいかな? と思っています。

                   

2013年2月13日水曜日

犬は「買う」ものなのか「飼う」ものなのか?

ペットショップに行くと犬がたくさん並んでいる、

10万はざらで、20万、30万もいる、あそこで並んでいる犬の気持ちはどうなんだろう?

「おれは20万か、隣の犬は30万だ、みんなが隣の犬の方を注目しているな・・・」

 お客の子供

「お父さんこっちの犬の方が高い!」
  
 お父さん

「でも30万は高いよ、10万の犬が3匹ぶんだぞ!」

「でも10万円だと安すぎる、30万の方が自慢できる!」

「ちゃんと大事にするか?」

「30万の方なら大事にする!でも10万なら自慢できないから大事にしない!」

 というような会話がの前で行われて、隣の30万の犬が買われていく、

 自動的に自分がその店で一番高い金額となり、その次にきた家族に

 「お父さん10万の犬より、こっちの20万の犬の方がよい!」

 と自分が買われていく、 まあ犬の性格なんてわからないから

 見た目とか犬種とかで買っていくのだろうし、犬が好きな人は僕なんかより


 もっと純粋なんだろうけど、逆に沢山の野良犬や

 飼いきれなくなった犬が保健所で殺されているのを見ると、犬を飼うことの意味

 って何なんだろう? と思ってしまう。 血統証つきでないと犬を愛せないとか

 自分には30万の犬がふさわしいなんて思っている人に犬を飼う資格はないと
 
 思う、それは「飼う」のではなくて単に「買う」だよね。

 そういう人は他人の愛情も「買う」ことができると思っているのでは?

 と感じるのは僕の想像が少し行き過ぎているのかな?

 人間にもいつかそういう時代がくるのかな? いまは養子は選べないはずだけど、

 この先は人間に値段がつく時代がくるのかな? 

  僕にはいくらの値段がつくのかな? きっと保健所で処分待ちされる檻にいれられてる

 タイプだろうね・・・  そう思うと一番誇り高き生き物を「飼われる」のでも「買われる」


 のでもなく、身の危険を感じながらでも野良犬として生きていくことだろうね。

  僕はそういう生き方に憧れます。餌は自分で探したい、みつからなければ餓死したい。

  自分に値段が付けられるくらいなら餓死したほうがましな気がします。

  犬の話から話が飛躍しすぎてまとまらなくなってしまってごめんなさい。

秋葉原から考えるグローバル化

 グローバル化と格差社会はつながっている。簡単に言うと
 みんなの買い物の仕方が秋葉原を一日歩き回る探索からインターネットネット検索に変わったこととつながる。
 20年前に僕がCDコンポを買いたかった時は一日中秋葉原を回って一番安いところで一番気に入った物を買っていた、もしかしたらほかに安い店があるのかも知れないけど、情報がチラシと自分の足しかないからそれで満足していた。
 効率化されてなかったので、買う方にも売る方にも多少の無駄があった。
 でも今はネットで検索すればどこが一番安いのかがすぐにわかる。一番安い値段を掲示できるお店に自然に人が集まる。インターネットの世界では2番、3番では相手にされない。
 必然的に一番のが一人勝ちになる。
 
 商品を提供する企業はソニーでもパナソニックでもユニクロでも、ネットで調べて世界で一番安い人件費と土地と税金の国を探してそこに大きな工場を建てて大量生産する。そうすることによってもっとも安い価格を提示できるので、さらにみんながその店に集まる。
 結果的にはその店が一人勝ちになるので、大手企業とそのトップはもうかり格差は広がる
 工場が海外に出てしまったので日本国内に工場は無くなり、今まで中間層だった人たちにお金がいかなくなり、みんなますます大量生産の低価格のものしか買えなくなる。    
 グローバル化が進むとこの現象が加速して世界中でおこる、効率が良くなりすぎて、他よりも一歩先にリードした企業や人の情報がネット検索で広がり、2番目、3番目との差は一日であっという間に広がってしまう。
 世界の富の半分以上を10名より少ないアメリカ人たちが握っている世の中になってしまった。 
ほどほどにしておかないと、取り残された人達の不満がふくらみ、それが個人的に膨らむと犯罪になるし、組織として膨らむとテロと戦争になることは歴史が証明している。
 効率化の次の段階を考え出す時代が来たのだろうね。  
 

2013年2月8日金曜日

バスは停車する前に立ってはだめか?

  先日バスに乗っていたら二人席で僕の窓側に座っている中年の女性が

バス停に泊まるたびにカバンの中に手を入れるので、お財布をだして降りるのだろうとおもって。

こちらが立とうとすると、結局下りない。それが八王子の駅からずっと続いた。 
 
バス停にとまるたびにカバンの中に隠してある何かを触っている。

  よくみるとその中には小さな紙が入っていて、運転手さんがキチンとバス停の案内をしている
か、安全運転の確認をしているか、「次停まります」とアナウンスしているかなどをチェックしているのだ。
  
   八王子のバスで圧倒的に運転手さんが注意していることは、


 「バスがバス停に停車する前に席を立たない」
                                                
しかしこれはとても難しいことだと思う特に自分だけしか降りないようなバス停では         

前もってバスの 前の方で準備しておいたほうが他の人にも迷惑にならないと思うし、         バスの遅れの防止に協力できるような気がする、 またバスが込んでいるときは、        人ごみを掻き分けている間にバスが発車してしまうという恐怖感もあるよね。
  
でも八王子のバスは老人が多いので、バスの停止のボタンを押して、
バス停までの間に席を立たれると停まるときに踏んだブレーキで転ぶ人がいることは         簡単に想像できるよね。
  それを防止するためだと思うのだけど、バスの中で                          

バスが停車する前に席を立たないで下さい!」

とマイクでアナウンスすると、その人に個人的に言っているようで、

バスの中の雰囲気がとても悪くなる。その人が支払いをする時に運転手さんも              「ご乗車ありがとうございました」とは言いにくくなってしまうのではないか?」
 と思うのは僕があまりにも考えすぎなのだろうか? 
  
逆にバスが止まってから一番後ろに座っていたお年寄りがゆっくりと前まで歩いてきて、
 バスから降りて行った場合運転手はイライラしないのだろうか? とも考えてしまう。         結局それでバスの運行時間に間に合わなくなれば次のバス停までの                    運転は荒くならざるを得ないのだ。
  
「お客さんの安全」 と 「規則正しい運行」 という大きな矛盾とプレッシャーに悩まされながら
  運転手さんは毎日頑張っているのだ。                                  

それを抜き打ちでチェックしているバス会社に雇われたおばさんの隣に座ってしまった僕は人生の厳しさについて改めて考えてしまった。
                                                           ほとんどの運転手さんが真面目にやっているなか一部の運転手が偶然に起こしてしまった事故の為にそれを防ぐ対策が立てられ、

バスが停車するまで席を立たないで下さい」

を徹底しようということになったのだと思うけど、

それによって運転手さんはますます窮屈になってしまっているのではないかと思う。
  
 ひとつのことを徹底しすぎるとほかの何かが犠牲にされるのだと思うのだよね。
 
   僕はイギリスのど田舎にいたけどバスは2階建てで、運転はきわめてあらく、
しかも2階の揺れは半端ではない。
  
そして暗黙のルールとしては自分が下りるバス停に停まったときには運転手の隣の降り口で待っていなければならない。 
 停まってからノロノロと2階から降りてきたら、みんなから
他人のことを考えない人間だ」という無言のプレッシャーを受ける。

だからと年寄りでも誰でもバスがまだ走っているのに2階から降りてくる、
田舎の道は車も少なくバスも結構なスピードで走っているし、ひとつのバス亭で降りる人は1人か2人ずつという感じなので、自分の為にバスの運行を遅らすわけには行かないという意識もあるのだとおもう。 みんな必死で下りてくる。
特に太ったおばあさんは相当辛そうだった。 一階に座っていれば良いとおもうかも知れないけど、1階は車椅子の人ベビーカーの人、杖をついている人の為に使うのが一般的で、

そこに健康な人が座ることはなんとなく避ける傾向があるからだ。
 おそらくイギリスのバスの運転手が
 
「バスが停車するまで席を立たないで下さい」
 
とアナウンスしたら逆に乗客から

「子供扱いするな!」
 と怒られてしまう気がする。 
 
どちらを選ぶかはその国によって違って良いのだと思うけど、比べると面白いよね・・・・   
   
 

2013年2月4日月曜日

何故その情報がそこにあるのか?

イギリス人のコラムみたいなのを読んでいたら(もちろん日本語)
 イギリス人がとても嫌っていることの一つに、無意識のうちに他人に操られていること
 だと感じました。 町を歩いていてみる広告、TVのコマーシャルなどをみて
 自分に必要の無いものなのに、なぜかそれが今の生活に必要だと思い込まされて
 いらないものばかり買ってしまう。 

 自分達がそういう広告に無意識のうちにどれくらいコントロールされていると思うか? 
 というような議論がイギリス人は好きみたいです。

 最近の僕が感じたのは、 電子レンジで圧力がかけられるカラフルなお鍋?

 中に食べ物を入れてレンジすると効率良く料理ができるみたいなのだけど、おそらく興味本位で

  2、3回使ったら僕なら使わなくなるなー と思ってしまいました。そもそも電子レンジってい「電子」という

 言葉で料理されたものが晩御飯のメインデュッシュになることになんとなく抵抗を感じるのは僕が頑固な

 だけなのかな? 
 
  電車に乗っていると「一日で何千万円稼げる方法」「婚活必勝法」みたいな本の広告を見るけど、よく見ると
 
  アイパットみたいなタブレットでダウンロードして読めるみたいです、もちろん本屋に行かなくて良いし

  紙の無駄にもならないからエコなのかもしれないけど、「活字」を追うのに電気はいらない気がします。

  本という形で読むからロマンがあるのであって、ダウンロードした活字を追うのだったらいっそのことコンピューターに
 
  音読してもらって、ウォークマンで聞いても同じだと思うし、そうなると情報の入り方が目から追うのではなくて、
 
  耳で聞き流してしまうので、本の理解の仕方が今までと全く変わってしまうと思います。

  婚活とかお金儲けという内容だって、今の日本に大量にいる第2次ベビーブームの人たちに向けた

  情報で、そこ人たちをターゲットにするのが一番儲かるから流されている情報だと思ってしまうのだよね。
  
   ユニクロだって、フリースが必需品だと宣伝していたら、その次はヒートテック、今年は暖パン、ウルトラライトダウン

 そのキャッチコピーと低下価格で情けないことに僕も買ってしまったけど・・・・

  話をもとに戻すと、イギリス人はそういうのをとても嫌がります。

 まずはじめに 「何故その情報がそこにあるのかを考えろ!」
 
 と言っていました。情報を流した人は何故その情報を流したのか?そこを読まなくては

 いけない。そうやって流されて必要のないものを買うことはいけないことだ!
 
  と強く思っているみたいです。
 
 日本人はそういうところ全く意識してないのだよね、でもそれを意識して生活して
 いるとイロイロなことが分かってきました。

 逆に言ったら人数の少ない今の20代くらいの人に対する情報とか商品とかって

 意外と少ない気がします。だからあの世代の人たちは情報に踊らされることがなく

 僕ら世代(第2次ベビーブーム)よりも堅実に人生を歩んでいるのかな?

 とおもうこともあります。 

2013年1月24日木曜日

日本が援助をやめられない理由


 僕は世界は南太平洋の平和な国、 早急な援助はそれほど要らないバヌアツという国に

 青年海外協力隊として行っていたのだけど、なぜバヌアツへの援助は続けたほうが良いか?

 という理由の一つに

 「日本が援助をやめてしまうと、他の国が援助をする、その国が人間を
 
 育てるような援助をするかどうかを考えると、日本人の援助のほうがまだまし」

 というものがあります。

 例えばアンゴラ、資源の豊富なアンゴラは中国と協定を結んで技術をもらう変わりに資源を渡す

 というようなことをやっていますが、僕が見た限りでは何処にいっても中国人はポルトガル語を

 話さず、自分達が大勢でやってきて、やりたいように資源を持っていくだけ。

  アンゴラの政治家は国のことより自分の事しか考えてないので

 自分の政治家の地位が安泰で、そこそこのお金が入ってくれば、アンゴラの資源が減っていこうが

 気にしていないと思います。

  アンゴラ人は資源を取られて、しかも貧乏な人には全くそういう情報もお金も全くいかなくって、

 政治家と一般の人の格差が広がるばかり、それを手助けしているのは中国の

 「援助」 なのです。

 そうおもうと日本が援助をやめてしまうと、多くの途上国が他の援助国を求めて

  相手国を探した結果中国に頼ることになると思います。それなら日本が援助を続けていたほうが良いと

 思います。 もちろん日本の援助だって悪いところはあると思いますが。

 先日学生に日本の話をしたときに僕が

 「世界にバヌアツ一国しかないのであれば彼らの生活は全く問題ないのかもしれない」

 と話したら多くの生徒が共感してくれました。 グローバル化がなんてなにもカッコよい

 言葉じゃないのだと思います。

やりたいことが見つからない人へ

「自分探し」とかいう言葉があって、人間には神様がそれぞれ役割を与えているのだ。
なんていう人いるけど、アレはハッキリいって、そういう本を書いている人とか商売をやって
 いる人とかが煽っているののが大きいと思います。 だって人間は動物なんだから、やりたいことなくても生きてて良いと思うものね。
 そして最近気がついたのだけど、自分のやりたいことがないと20代くらいで悩んでいる人の
 多くが、結婚した後にとても素敵な親になっているということです。変に自分のやりたいこと
 とか必死でやって、自分の成功を求めている人は子供にもそれを求めてしまったり、仕事が
忙しかったりして、良い親になる確率はそうでない人より低いと思います。
 でもやりたいことが見つからなくて、なんとなく仕事していて、結婚した人に子供ができると 
 子育てが本当に生きがいみたいになって、本当によい親になっている人を僕は多く知って
 います。 だから自分のやりたいことが見つからない人も焦らずに普通に仕事して
 結婚して子供を作れば、気がついたら毎日がとても充実したものになると思います。
 とても簡単なことだけどなかなか気がつかないことなのかなー? なんて思います。

100円のグラスと10000円のグラス

 100円のグラスに入った酒の味と10000円グラスに入った酒の味は違うのか?

どうなんだろうね? でも違う角度から見ると、一人で寂しく飲む酒よりも仲の良い
 
友達と飲む酒のほうが絶対上手いし。一日ダラダラしていて、やることがないから

飲みだしたお酒よりも、一日一生懸命働いて疲れた体で飲み干す酒の味の

ほうが圧倒的においしいと思います。
 
 「このグラスは10000円するのよ。」 

 といわれて飲む酒は多分あんまりおいしくないだろうね。

 実家には高級なコーヒーカップがあって、それは普段は使わないようにして
 
 茶だんすの奥に入っているけど、孫ぐらいしか遊びに来ないのに
 
 いつ使うのだろうね?

 引き出物でもらった高級なお皿はしまってあって、山崎パンのシールを集めて

 もらったお皿で朝ごはんを食べている日本人をみると、「節約」の意味を

 履き違えてると思うのだよね。



  ここまで書いて気がついたのだけど
 
 100円のグラスか10000円のグラスかはあまり関係なくって

 その中に入っているお酒の質のほうが大切なのだよ! となりますね・・・

 
 しかしここでもう一つ問題があるのだよね。本当に10000円大吟醸は1000円の

 紙パックの酒より上手いかどうか? ということ

 だって正月に人が来たときの為に! といってとってある

高級なお酒は対しておいしいと思わないものね。やっぱりいつも飲み慣れたもの、

 食べなれたものを気の合う仲間と食べるのがおいしいのだと思います。

 今は1月末だけど、何処の家の冷蔵庫にも正月に空けた「高級」といわれる食べ物が
 
 その後に手を着けられることもなく、賞味期限が迫っていると思います。

 俺は何回飲んでも100円の器で1000円の普通の酒のほうが上手いと思うのだよね。
 
そして一緒に飲むのはもちろん、その価値を分かち合える人。
 
 10000円のグラスに10000円の酒を入れて世間で言う一流の人達と酒を飲む
 
ことが良いとあこがれている人は、逆にそういった世界の馬鹿馬鹿しさに
 
を知らない人なのだとおもいます。

 人間の価値観ってそういうものだと思うのだよね。

 もちろん本当に良くて自分に必要なものなら百万円出してもよいとは思うけどね。

お金の使い方は人それぞれだと思うけど、普通に考えればお金はなくても幸せには
 
 なれると思います。