2013年2月13日水曜日

犬は「買う」ものなのか「飼う」ものなのか?

ペットショップに行くと犬がたくさん並んでいる、

10万はざらで、20万、30万もいる、あそこで並んでいる犬の気持ちはどうなんだろう?

「おれは20万か、隣の犬は30万だ、みんなが隣の犬の方を注目しているな・・・」

 お客の子供

「お父さんこっちの犬の方が高い!」
  
 お父さん

「でも30万は高いよ、10万の犬が3匹ぶんだぞ!」

「でも10万円だと安すぎる、30万の方が自慢できる!」

「ちゃんと大事にするか?」

「30万の方なら大事にする!でも10万なら自慢できないから大事にしない!」

 というような会話がの前で行われて、隣の30万の犬が買われていく、

 自動的に自分がその店で一番高い金額となり、その次にきた家族に

 「お父さん10万の犬より、こっちの20万の犬の方がよい!」

 と自分が買われていく、 まあ犬の性格なんてわからないから

 見た目とか犬種とかで買っていくのだろうし、犬が好きな人は僕なんかより


 もっと純粋なんだろうけど、逆に沢山の野良犬や

 飼いきれなくなった犬が保健所で殺されているのを見ると、犬を飼うことの意味

 って何なんだろう? と思ってしまう。 血統証つきでないと犬を愛せないとか

 自分には30万の犬がふさわしいなんて思っている人に犬を飼う資格はないと
 
 思う、それは「飼う」のではなくて単に「買う」だよね。

 そういう人は他人の愛情も「買う」ことができると思っているのでは?

 と感じるのは僕の想像が少し行き過ぎているのかな?

 人間にもいつかそういう時代がくるのかな? いまは養子は選べないはずだけど、

 この先は人間に値段がつく時代がくるのかな? 

  僕にはいくらの値段がつくのかな? きっと保健所で処分待ちされる檻にいれられてる

 タイプだろうね・・・  そう思うと一番誇り高き生き物を「飼われる」のでも「買われる」


 のでもなく、身の危険を感じながらでも野良犬として生きていくことだろうね。

  僕はそういう生き方に憧れます。餌は自分で探したい、みつからなければ餓死したい。

  自分に値段が付けられるくらいなら餓死したほうがましな気がします。

  犬の話から話が飛躍しすぎてまとまらなくなってしまってごめんなさい。

秋葉原から考えるグローバル化

 グローバル化と格差社会はつながっている。簡単に言うと
 みんなの買い物の仕方が秋葉原を一日歩き回る探索からインターネットネット検索に変わったこととつながる。
 20年前に僕がCDコンポを買いたかった時は一日中秋葉原を回って一番安いところで一番気に入った物を買っていた、もしかしたらほかに安い店があるのかも知れないけど、情報がチラシと自分の足しかないからそれで満足していた。
 効率化されてなかったので、買う方にも売る方にも多少の無駄があった。
 でも今はネットで検索すればどこが一番安いのかがすぐにわかる。一番安い値段を掲示できるお店に自然に人が集まる。インターネットの世界では2番、3番では相手にされない。
 必然的に一番のが一人勝ちになる。
 
 商品を提供する企業はソニーでもパナソニックでもユニクロでも、ネットで調べて世界で一番安い人件費と土地と税金の国を探してそこに大きな工場を建てて大量生産する。そうすることによってもっとも安い価格を提示できるので、さらにみんながその店に集まる。
 結果的にはその店が一人勝ちになるので、大手企業とそのトップはもうかり格差は広がる
 工場が海外に出てしまったので日本国内に工場は無くなり、今まで中間層だった人たちにお金がいかなくなり、みんなますます大量生産の低価格のものしか買えなくなる。    
 グローバル化が進むとこの現象が加速して世界中でおこる、効率が良くなりすぎて、他よりも一歩先にリードした企業や人の情報がネット検索で広がり、2番目、3番目との差は一日であっという間に広がってしまう。
 世界の富の半分以上を10名より少ないアメリカ人たちが握っている世の中になってしまった。 
ほどほどにしておかないと、取り残された人達の不満がふくらみ、それが個人的に膨らむと犯罪になるし、組織として膨らむとテロと戦争になることは歴史が証明している。
 効率化の次の段階を考え出す時代が来たのだろうね。