2011年3月10日木曜日

異文化理解と国際貢献


異文化理解と国際貢献

この二つの言葉が違う意味を持つのかどうかはわからないけど、

日本の中では西洋ほど使い分けができていないと思います。

 異文化理解というのは別に途上国とか先進国とか関係なく、

自分と違う文化の人達と交わって、勉強することによって、自分の

今まで育ってきた文化の良いところ、良くないところを改めて

 確認することができて、今後の人生に生かすことができるもの

だと思います。だから特に途上国に行く必要もないよね。



 国際貢献は少なからず相手の国に対して何か利益というか

「貢献」するのが目的だから、提案でも改善でも良いので、

 なにか残すことができればよいのだとおもいます。

 そうなると途上国のほうがそういった問題点は見つけやすいのかも

しれません。ここで難しいのは、単に資本主義社会側からみて

「問題点」であって、人生何が正しいのかは本当は誰も知らないの

だけどね。まあここでは一応「基本的人権」というような観点から

みた「正しさ」です。それ自体も先進国が決めたルールだけどね。

簡単に言えば基本的人権って

「なるべくみんなが笑顔になりましょう」

という風に理解してれば良いのかな?と個人的には思います。

 そして日本人は「異文化理解」という言葉が苦手なのだと思います。

 協力隊みたいに海外に2年間もいて、相手を理解して、

自分の人生観を変える?

そんな理由でリスクの大きい途上国に税金を使って行くことは許されない。

だったらその2年間は机に向かって勉強して学歴付けなさい。

 というほうがなんとなく日本社会的だよね。

 だから協力隊も「異文化理解」の要素が大きいけど、表向きは

「国際貢献」という感じになっているのだと思います。

 でもアメリカのボランティアもヨーロッパのボランティアも

それほど国際貢献とは思っていなくて、

「自分の人生観を変えたい、空っぽな人生に刺激が欲しい」

 というようなことを普通にみんな話しています。

 最初から異文化理解をしに着ているんだよね。

  募金活動をしている僕に対するイギリス人の励ましの言葉は

「良い経験してきてね」 

 であって、決して

 「途上国の人を助けてきてね」

 では無かった気がします。みんなわかってるんだよね。僕みたいな

 若者が(自分で若者って言ってしまった・・・)アフリカに半年間行っ

たって何も変えられない、

変わるのはせいぜい自分自身くらいだってことを・・・・

 協力隊に話をもどすとそのバランスはとても難しくて、

本当にスキルがあって言葉も話せて、

そして2年間という長い時間があれば

「国際貢献」してしまう人も結構いるのだと思います。

 そして最初から「異文化理解」といって人を集めたら、

2年間税金を使って遊ぶ人もたくさんいると思います。

だから「国際貢献」ということで志の高い人達に集まってもらって、

その人達が現場で一緒に働きながら、色々と経験してもらって、

2年後に帰国したときに得たものは結果的に50%は「

異文化理解」で50%は「国際貢献」であった。

というバランスが日本的なのかも知れません。


 ちなみに今回の僕のアンゴラでの半年は「異文化理解」だと

自分では思っています。日本の税金ではなくてイギリス人の

「良心」からくる募金できているから胸張ってそういえます。

 だから生徒と一緒に泥臭く働いて、生徒が歴史の勉強をしていれば、

その隣でポルトガル語の勉強を一緒に座って自習して。

 時には一緒に海に言ったり、料理したり、同じもの食べて。

日本人だってアンゴラ人と同じ生活できるし.

日本人がみんな算数ができて、車が作れてパソコンいじれるという

彼らの勘違いを正そうと思います。そういう僕の100%

「異文化理解」的行動が、彼らの心の中に

「日本人には泥臭い奴もいるし、俺達と変わらない」

ということをしってもらって、

10年後20年後にそういう彼らの気持ちが結果的には

「国際貢献」になっていた。ということになればメデタシ!メデタシ!

なのかな?っておもいます。
 
 先日学校の用事で町にコピーをとりに行ったのだけど、

メチャクチャ待たされたのにおとなしく嫌な顔もしないで座っていたら、

お会計のときにアンゴラ人の店長に

「もしかして日本人なの?」

って聞かれました。そうだよ!ってこたえたら。

「そうだと思った、僕は昔日本人と働いたことがあってね。
  あなたも日本人だと思った。僕は日本人大好きだよ、
    アンゴラに来てくれてありがとう」
 
って言われました。

 その人が日本人の方とどこで何をしていたのかはわからないけど、

そういうすばらしい日本人がいて、アンゴラの人が今でも

良いイメージを持ってくれているということは僕にはとても

 うれしかったです僕の生徒が将来日本人と働くことになったときに

 良いイメージを持ってくれたらとてもうれしいな。

 と僕は感じていますし。もし僕が日本で働いているアンゴラ人に

 あったら同じように

「日本に来てくれてありがとう」

 って言いたいと思います。それが異文化理解だと思います。


 

若いときに学んだこと


 <写真は日曜日に寮でオズワルドの髪を切るザカリアス、
  一緒に生活しているとこういう私生活も見れて楽しい
  です。ザカリアスの落ち着いた表情と見事な出ベソが
  印象的です。日本では出ベソの人少なくなったけど
  アンゴラではいまでもみんな立派に出ベソです>

昔の話なのでドンドン大げさになっていますので、

実際はこの3分の1くらいしか頑張ってません。

 フットボール現役時代、週に三回はきちんとウエイトトレーニングを

して体を作る、それが勝つために自分がすべきことである。

 春に練習が始まってから、、練習と仕事の合間を縫って、

ジムに通ってウエイトをします。

 2ヶ月も過ぎると、慢性疲労がたまって、

朝に起きれなくなってきます。

友達からもらったアリナミンを寝る前に飲んだりして、

何とかおきるように頑張ります。

 朝の8時から18時までファミレスで立ち仕事して、
その後に何か少し食べて20時ごろにはジムに行きます、

ウォーミングアップで20分エアロバイクをこいで、ストレッチして、

ウエイトの器具に座りますが、疲れて踏ん張れません。
 
「とりあえず神経だけでも興奮すれば疲れた体はついてくるものだ」

とおもって、カフェインの強めのコーヒーを飲みます。

朝専用のカフェインの多いコーヒーをトレーニング前に

よく飲んでいました。

 ジワット汗が出てきて、ウエイトトレーニングがはかどります。

そんなふうにして自分をだましてトレーニングを続けていると、

体の抵抗力が弱っているし、胃袋にも良くないので、

風気を引いたり腹を壊したりしやすくなります。
 
「風邪なのかな?それとも慢性疲労なのかな?」

でも

「やらない理由は自分が決める」

「妥協の数だけ自分が弱くなる」

 と思って、無理にウエイトしますが、体に力が入りません。

 今日はプールとジャグジーで休養しよう。

 と思って、プールに入って休みますが、

 案の定その日の夜には熱が出ます。
  
 でも次の日は仕事、朝おきて7度5分以下なら大丈夫。

ファミレスで朝一番に社員が出社できないことはありえないので、

行きにコンビニでユンケル飲んで頑張ります。

 8時から1時まで働いて、少し落ち着いたら

メニューにある雑炊を食べて30分ほど車で寝ます。
 
腰とか太腿の筋肉が痛いけど、とりあえず水をたくさん飲んで、

午後も頑張って、働いてクタクタで帰宅。

 二週間ほどジムは休むことにしますが、

その間でも仕事と週に三回の練習は休めません。

常にだるい体とウエイトをしてないことの罪悪感。

毎日生活に追われている感じ。

フットボールの練習ですら休みたくなります。

 そんな状態がシーズン中に一ヶ月くらい続くと、

この状態が一生続くような気がして。

人生がとても辛いことのように感じてきます。

練習中も良いプレーができなくて、自分に腹がたちます。

 不注意からくる練習中の小さな怪我も多くなります。

 食欲がないからいっぱいだけと思って飲んだビールが

いつの間にか焼酎に変わって、ついついのみずぎて、

二日酔いで朝ごはんが食べれなくて、朝はコーヒーだけ、

10時ごろに蕎麦をやっと食べる。

というような典型的な駄目な食生活になって行きます。

 シーズン後半には膝と腰痛の痛み止めの副作用でさらに胃袋が弱って、

体重も減ります。

「ウエイトしなさい」

ってコーチに言われるだけで腹が立ち。

前向きでない自分に気がつきます。

 気がついたらあまり人と話さなくなって、

必要最低限のこと以外には何もしなくなってるんだよね。
 
部屋の中は腰が痛いので、床においたものをとるのが面倒になり。

汚れ放題になります。仕事と練習に遅刻しないで行くことがやっとです。

(大分大げさなので実際はこれの3分の1くらいの辛さだったことをここで改めて書いておきますね)

 でもここまでやけくそになるから試合中でも怪我なんて怖がらず、

良いプレーができるし、

ここまでやったんだからどんなことをしてでも勝つ。

という気持ちになれるのだと思います。

 チームやコーチも最終的に勝つのはメンタルだ。

とわかっているので選手にプレッシャーを与えてきます。

こちらもコーチができることはすべてやってくれている。

選手のすべきことは自分を追い込んで、

試合の土壇場でも妥協しなような自分をつくることだ。

と理解しているからできるんだよね。

 それくらいチームとコーチを信頼していました。

 チームとコーチが何もしていなくて、

勝てないのはお前達気持ちが弱いからだ!
 
って言ってるチームもあるかもしれないけど。

それは間違っているとお思います。

気持ちというのは勝つための一つの要素であって、それ以外に、

戦術、トレーニング、医療、栄養、休養、練習環境、道具

などの要素の中の一つでしかないと思います。

大切なのはバランスだよね。
 
そのビジョンを持っているコーチの下でプレーできたことは

僕にとってとても幸せなことでした。

 今なら体が疲れてきたら素直に休めます。

 あの頃休まずに自分を追い込めたのは

「若さ」だったのだと思います。
 
だからシーズンが長いことを考えずに、その日の自己満足と罪悪感で

トレーニングしていたのだとおもいます。 

そういう潔癖なところが僕にはあったのだと思います。
 
大人になるともう少し長期的に物事を考えることができるよね。

 でも若いときにそうやって自分の限界と弱さを学べたことはとても

良いことだったのだと思います。

 アンゴラで20歳くらいの生徒達と一緒にいると不意にあの頃の自分

を思い出して、生徒達に対して尊敬というか、応援したくなる気持ちが

湧き上がることがあります。

若さって「純粋さ」であって決して「不器用さ」ではないのだと思います。

 大きな気持ちで見守ってあげるべきものだとだと感じます。