2010年6月1日火曜日

捕鯨と闘牛



 <写真は学校の庭です、4月は朝露が綺麗でした>
 
 教室で勉強してる時にパソコンをいじっていたルイ―スがいきなり

僕ともう一人の日本人のケイタに質問してきた。

 「日本人は捕鯨の事はどうおもってるのか?」

 最近ネットとか全然みてないから、その問題がどうなったのかは全然

知らないど、僕がこっちに来る前に、何処かの国の人が捕鯨かイルカの

漁を隠し撮りして映画を作って残虐だということで改めて問題になって

いる。とテレビでやっていました。

 とっさに聞かれて戸惑ったけど、

「普通の日本人はあまりクジラは食べないよ。だからなんで捕ってるのか

は良く分からないけど、殺し方が残虐なのは知ってるよ、もし安楽死

みたいな方法があればもっと良いということなのかな?」

 という感じでした。 ルイ―スの意見は

「たとえばオイルとか食料とかどうしてもクジラからでないと取れないも

のがあるのなら仕方ないかもしれないけど、オイルも食料も何もクジラか

らとらなくても良いと思わないか」

 「でも牛は殺しまくってもいけど、クジラは駄目って言うのはおかしいよね?」

 「クジラは頭が良いから駄目なんだっけ、それともホエールウォッチン

グをしてる国が困るからなのかな?」
 
 って言う感じでした。  角度を変えた僕の意見は

「捕鯨が文化だという人が居るし、そういうのは難しいと思う。

日本人が恐れているのは、外国人に言われて今捕鯨をやめてしまうと、

次にまた他の日本に文化について口出しされるのではないか?

というおそれがあるのも確かだと思う。

日本人のなかから辞めようという意見が出れば、それは問題ないのではないかな?」

「たとえば自分の家族の悪口を自分が言うのは許せるよね。

でもそれを聞いた友達が、お前の家族って最低だな!

って言いだしたらやっぱり嫌な気持ちするでしょ、

だからやっぱり日本人の事は身内である日本人が変えるのが一番良いと思うよ」



 なんとなく納得したようなルイ―スでしたが

「ポルトガルの闘牛(英語ではブル・ファイトらしい)を外国人から残酷だから辞めろ!

って言われても辞めたくないのと同じだと思うよ」

 ってちょっと意地悪なこと言ってしまいました。でもルイ―スの偉い

所はそういう時に冷静に判断できる所です。しかも

 「確かにブルファイトには問題がある。

しかも俺のおじいちゃんはブルファイトの時に闘牛士が乗る

特別な馬のブリーダーだったんだ。(馬ではなくて牛って言ったかも?

)だからうちの家族はブルファイトに関しては肯定せざるを得ない、

私自身はもちろん反対だよ」

 という話でした。

「何それ? 前々から思ってたけど、ヤッパリこの人普通の家柄では無いよね?

日本で言ったら、タカ狩りとか鵜飼いみたいな技術だよね?人間国宝級

だよね?」

 って思ってしまいました。
 


 生態系の事を言いだしたルイ―スにケイタが

「でももし海の中に牛の牧場みたいなのを作ってそこでクジラを放し飼い

にして、定期的に食料にするシステムを作ったら、生態系は崩れないから

それなら良いのかな?」

 って言ったら

 「・・・・・・」

って国境を越えてみんなの思考回路がストップしました。

 そして最後に一部の科学者の意見は常にいい加減だ、だって科学者にお

金を渡して研究させてるのは結局は会社だったり国だったりするから、

自分のスポンサーに有利な数字を出さないと

他の科学者と変えられてしまう。

 という意見も出ました。

 おそらく日本ではもっとこの話については煮詰められていると思います

 捕鯨と闘牛、どこまでが文化でどこからがそうでないのか?

って難しいですよね。

人生の椅子取りゲーム


 
 <写真はうちの学校の隣にある畑です教室のすぐ裏の景色です>

人生って椅子取りゲームみたいだな、って思うことあります。

 何かが起こった時、たとえば自分や身内が病気になった時、交通事故に

あった時、リストラされた時、年金が期待できそうにないと思う時、椅子

取りゲームでは音楽が必ず止まるように、おそらくみんなにいつかはおこ

ることなのだけれど、それがいつか分からない為に、常に準備しておかな

ければならない。

 経済力だったり、権力だったり、体力だったり

 9個の椅子を10人でとりあうんだから、座れない確率は10%なのに、

絶対に負けることは許されない世界。みんなが必要以上にプレッシャーを

感じでしまって、意味もなく焦っている状態。
 
 たまに思うことあります、その10人の中で誰か一人くらい、

「このゲームは今の時代にあっていない、僕は次に音楽が止まってもすわ

ないと決めているので、後の9人の人は安心して生活をしてください」

 って言う人でてこないかな?

 そういうこと言ってみたいよね。

 でもそれができないのはヤッパリ家族とか自分の身内に迷惑を

かけることができないからだと思います。

 不景気になると9個だった椅子が8個になってしまうこともあるでしょう。

 でも逆に景気の良い時に椅子が12個あったはずの時期もあったはず?

 みんなが常に一個以上の椅子をキープできていたはずだよね?

 
 こっちにきてから思うのは日本人は常に何かを準備している人生だと

おもいました。

 学費、結婚資金、年金、医療保険、最後には葬式代にいたるまで、みん

なに迷惑をかけないようにみんな準備をしています。結局全てが準備に

終わって、本番が無いままに人生が終わってしまう。

 それもまた人生だとは思いますし、こっちに来て外国の人達があまり

将来を気にしないで、気楽に生きているのを見ると、どっちが良いのかな?

 ともおもいますが。 それはを自分で決めるのも人生の面白いところだ

とおもいます。だから色々な人と会ってみたい気がします。



 

自分探しの人生 ①



  <写真は僕が2年生くらいのものだと思います。
     まだ両親が僕に期待していた頃ですね・・・
             よくオネショしていました>




親が期待してるような人生を自分は進んで居なし、進めないだろうな。

 って気がつく時って誰にでもあると思います。親離れしなければならな

 い時、そしてもっと難しいのは親が子離れしなければならない時。


 最近になって思うけど、親の子離れのほうが難しい、おそらく親は一生

 子離れできない気もします。それが良いか悪いかは個人差があるので

なんとも言えませんが。

 

 でも自分が親の期待していたような人生を歩まないと気がついた時、

 それをどうやって親に伝えるかは難しいと思います。もちろん学生の

うちは親のお金で生活しているから文句は言えませんが、25歳前後で

自分の人生について真面目に考えす人は多いと思います。

 親にしてみたら

「苦労して育てて、仕事を見つけてやっと安心してたのに、自分探しなんて若いうちの恋の病みたいなものだ、そんなの認めない!」

 って頑固に反対すると思います。子供にしてみたら自分のしたい事が

何かはわからないけど、今の自分の人生がこのままの形で進むとすると

私の人生っていったい何なの? 

 って悩むの自然です。でも何がしたいかは分からないし、何が

自分にできるかもわからない。だから親にきつく言われるとなかなか言い

返せない。だって胸をはってこれがしたい!これができる!って言う

ものはなくもちろん実績もない、漠然と今の人生に疑問を持っているだけ

だから。

 うちの兄弟って良くそういうことを話ししました。兄弟って言っても

一つ年上の姉ですが・・・
 

二人で出した答えは

今のままの自分の人生だと生きてる意味が無い、自分が誰なのかもわから

ないし、なぜ毎日生活しているのかもわからない。時には死んでしまいた

くなる。

 たぶんこのまま言ったら本当に死んでしまうだろう、でもどうせ死んで

しまうんだったらその前に親になんて言われても、世の中になんて言われ

ても、自分のやりたいことでもよいし、単に自分探しでもよいから挑戦し

てみたい。 駄目だったら死んじゃっても良い。

どうせこのままでも死にたくなるだけだから。

 なんか暗いけど、そう悩むのが普通の人生なのかも?とも思います。

 

 でも結局は人生を変える勇気もないままにダラダラと不満ばかりがつの

う人生が今日もまた進んでいく。

人生にはそういう季節があると思います。

自分って何のために産まれてきたのかな?。 

 人と同じ人生だったら自分が生きてる必要ってあるのかな?

 なんで他の人ってみんなあんなに幸せそうなのかな?

 
もがいてる時にはいくらももがいても良くならないと思います。

 それは季節みたいなもので、毎日のように

「今日から新しい自分になろう!」

 って思っても、すぐに絶望してしまうことの繰り返しだと思います。

そしてそういう時に限って周りからは

「お前は我儘だ、身勝手だ」

 って言われてしまってますます落ち込みます。誰にも評価されないし、

自分に自信が持てないし、自分の存在自体が社会に迷惑なのかな?

っておもうかもしれないし。逆に

「自分を受け入れてくれない社会だったら壊れてしまえ!」

 っていって破壊的な行動とることも逆に自然なのかもしれません。



 ぼくがそんなことを漠然と考えていたのは20年くらい前の16歳前後

の事でした。

なぜその悩みが無くなったのか?ってきかれたら答えは

「年を取ったから」

 って思います。30代の暴走族が少ないのと同じ感じかな?

 やっぱりああいうことは10代でないとできないよね。

 努力しなくても勝手に気持ちが落ち着いていきました。

 あとは年を取ると勝手に周りが大人扱いしてくれるから、なんとなく

 いちいち反抗しなくても自分の意見が通ったりすることもあると思い

ます。外見もオッサンぽくなるから同じことを言っても説得力が少し

だけますのかな?

 
一緒に悩みを聞いてくれていた姉はどうなったかと言うと、

 0歳、3歳、5歳の子供の三人の男の子のお母さんになって、自分の

人生がどうこうよりも子供の世話で大変です。 子供にぐんぐんと引っ張

られて、自分が何者なのか?なんて考えてる余裕もない感じです。

 「ご飯をゆっくり食べた事が無い」

 「いつでも全てが中途半端で気持ちが焦るし、落ち着かない」

って愚痴ってますが。 でも姉の人生の中では今が一番幸せで

 しかも一番輝いている時期だと誰が見てもわかります。

 本人も気が付いているとおもいます。

 無条件に子供は可愛い!


 
 そして僕に言わせれば今の日本で普通に結婚して、普通に子供を育てて、

 普通の生活することが世界で一番むずかしくて、一番かっこ良いし、羨

ましい事なのかもしれません。


 結局自分なんて見つからないし、目標があって何かを達成したのでは

なくて、タマタマ達成できた目標をあとから

 「俺はあれを目指して努力してきた、そして達成した!」

 って言ってるだけです。

 それが一番幸せな人生の「おち」何だと36歳の今は思っています。

 

自分探しの旅②

  協力隊に一緒に行った仲間のなかでも、自分探しをしてる人が沢山いました。

 参加の年齢が27、28歳くらいなのも、おそらく社会人を少し経験し

 て、その後に何か人生を変えたい、って考えて試験を受けて合格して

参加、と言う人が多いからかな?

 面白い事に今参加してるイギリスのボランティア活動も、そういう人が

結構います、しばらく社会人をしていて、何か自分の人生を変えたい!

 って思って、参加してる人が多いです。

 アルゼンチン人、イタリア人、ポルトガル人など全く自分とは関係の

無かった人たちが、世界のいろんなところで同じこと考えて、同じことを

悩んで、今ここに居ると思うと、なんとなく心強い気がするし、何か

世の中に貢献したいな! って思えます。


 そしてみんなが同じように言うのが、

 親とファミリー(一族)の了解を取ることが難しい。

 っていうことです。もし家族が自分をとても理解してくれていて、

「行ってこい!」

「もし駄目でも私達が日本で待ってるから安心して頑張れ、
本当に駄目だったらいつでも帰ってきて良いよ!お前が選んだ道を進めば良い!」」

 って言ってくれたら、たとえ行った先で辛い事があっても頑張れると

思います。

 でももし、家族が

 「行くな、それよりも安全な人生を歩め、絶対にお前は成功しない!
 身の程を知れ!」

って言って送りだしたら、逆境や辛い状況になったときに頑張れないと

思います。 家族の理解があって初めて、新しい環境でも頑張れるよね。


 辛くなったときに頑張れるのって遠い日本で心配してくれている家族の

応援と支えがあってこそだと思います。

 もし心の奥に

 「お前には無理だって散々言ったのに、お前が言うことを聞かなかった
今後は絶対に親の言うことを聞きなさい」

 って言う家族の顔がちらついたら、頑張れることも頑張れないよね、

 自分の人生はいつまで親に支配されないといけないんだ!と感じると思います。

「お前がベストを尽くしてそれでもだめなら、胸を張って帰ってきて良いよ!」

 って言って送りだされるのでは全く違うと思います。

 「人は現状よりもそのあるべき姿を期待されて、初めてその潜在能力を発揮する」

 昔の哲学者が言ってました!

 次回は僕がどうやって出発したかを書こうと思います。

 

 

自分探しの旅 ③

 協力隊に合格したのは2006年の3月くらいだったと思います。

 事前の研修は2006年の10月からスタートです。

 会社を辞めたのは4月だったのですが、10月まで親父が4回目になる

癌の転移の手術だったので、大阪に帰って一緒に過ごしていました。

 「犬のおまわりさん」

 というブログを書いた頃はちょうどその頃だったと思います。



 最初に舌癌になってから3年後にリンパ、その後一年半で肺に転移、

 5年間で三か所の転移です。しかも転移の間隔は短くなってきている。

 これから研修も含めて2年半の間、親父は頑張ってくれるだろうか?

 でももしここで合格した協力隊をあきらめてしまったら、会社もすでに

辞めているし、32歳で親の看病をしながらバイト暮らしをするのかな?

 って漠然と考えていました。

 親父の手術の前に大阪大学の放射線科の先生のところの親父が僕を

 連れて行ってくれました。 すでに親父は手術が決まっていたので、

 放射線の治療は今回はしませんが、過去の手術の前には放射線を当てて

 癌を小さくしてから手術をするというようなことをした為に、その時も

手術の前に相談に行きました。

 
 その時にうちの親父が先生にうれしそうに

「これがうちの息子です。うちの息子は来年の一月から南太平洋にボラン

ティアに行くんです。今は私の面倒をみるために大阪に戻ってきています。」

 と紹介してくれました。僕が

 「親父の病気の事があるから、少し心配なんです」

 というとその先生は

「心配なのはわかるけど、あなたは行くべきです、お父さんは頑張ります。

 それは僕が一番良く知っている、放射線治療の副作用はきつい、でもお

父さんは良く頑張ってくれた。

だから大丈夫です、家族がやりたいことを

やってくれていたほうが患者さんも頑張れるものです。」

 と親父と僕の前で話してくれました。

 僕は前から

「協力隊に受かって喜んでいる自分を親父はどう思っているのかな?」

 と心配していたのですが、それを親父に直接聞いたことはなくて、

 なんとなくモヤモヤしていたのですが。先生にうれしそうに僕の事を

話している親父と、その先生のアドバイスでなんとなく心が落ち着きました。

 お父さんを癌で亡くした友達にも言われました。

「もし協力隊をあきらめて日本に居ても親の死に目に会えることは

殆どないと思う。たいていは病院で意識が無くなって家族が呼ばれて、

そのまま三日ほどして意識は戻らないままに亡くなることが多い、だから

日本に居て親が無くなるのを待つような人生を送るよりも、自分の好きな

事をして輝いてる自分を親に見せたほうが親も長生きする」
 
 とアドバイスしてくれました。

 2006年の7月に親父は手術を受けて、二週間ほどで退院、僕は10

月から研修で長野に行きました。

 11月頃に親父からメールで電話が欲しいとのこと

長野の研修所は前にある大きな駐車場でしか携帯の電波が入らないので、

薄暗くて寒い中、駐車場から親父に電話しました。

 「せっかく手術したけど、逆の肺にも転移が見つかってしまった。

 体力の回復をまってもう一度手術するかもしれないしもう手術はしない

かもしれない、自分でもどうしたらよいかわからない」

 という事でした。

 研修が始まって一カ月、大阪に帰ったほうが良いかな?と考えていまし

た。協力隊はまたテストを受けて受かればよいか! と考えていました。

 数日後に姉から電話があり、今回の手術は姉と叔母さんの二人で

看病するから、テルはそのまま研修受けてバヌアツ行って大丈夫。
 

という連絡をもらいました。


無事に研修が終わって1月8日に僕は大阪の伊丹空港から成田に向かいました。

見送りにきた友達に気を使いながら、2年後に親父はどうなっているのかな?

 人生で親父を見るのはこれが最後かな?

 もしかしたら今この瞬間は人生の大きな節目なのかもしれない。

と空港のゲートで親父の姿を目に焼き付けようとしていました。

 

 その4ヶ月後


僕は親父に再び会いました。
 
 5回目の手術の日程を2007年の6月と決めた親父は、

手術をして体力が落ちたらバヌアツには行けない。

といって手術の日程をきめてから5月の連休

をつかって、僕の中学校時代の同級生とそのお父さんという3人で

バヌアツにやってきました。

 
僕が子供に体育を教えているのを見て、

「テルはアメフトを引退したけど、次の道を見つけたようだ」

 と満足して帰国して行ったのだと思います。


 その後の6月の手術も無事に終わり、僕が帰るまでの間は必ず生きて待

っている!

という一心で2009年の一月の僕の帰国まで頑張ってくれていました。


 その後6カ月は子供のように僕に甘えて旅立って行きました。

 喧嘩ばかりだったけど、良い親孝行をさせてもらったと本当におもっています。

もし親父が僕がバヌアツに行っている間に、亡くなって居たら、おそらく

親戚みんなから説教されていたと思います。

 本当にできた親父でした。気合いと根性の人でした。


 親離れ、子離れ、自分探しの旅。って言うテーマでしたが。

僕の場合は家族の理解があっていままで頑張ってこれたと思います。