2010年4月26日月曜日

親父の最後の時(ブログにしては少し長いです)

 親父がホスピスに入院して三日目、仕事が終わって6時にバイクでホスピスに行った時

 「テルヒロ今日は大変だったんだ、お父さんは死ぬかと思った」

 って言われて、

 「へーそうなんだ!」

 って言いながらも、今日はこの先何時に家に戻れるのかな? って思っていました。

 その時に看護婦さんから呼ばれて外に出て、そこで待っていた主治医のお医者さんに

 「昼間に様態が悪くなってしまって、もしかしたら一、二カ月といこともあるかもしれ

 ません。 
  
 という話でした。今まで親父は

 「この冬は越せないだろう」        と一月に発言し
 
 「二月が山場だ」             と言いながら何も起こらず

 「3月いっぱいだから仕事に着かないでくれ」 と言いながら四月まで頑張り

 「ゴールデンウィークまで持つかな?」    と言いいながら連休を楽しんで
 
僕に

 「親父は狼少年だから、死んだって誰も信じてくれないよ!」

 って言われて苦笑いしていた親父が、本当に最後を迎えているのか、と思うと、

どんな顔をして病室に戻って良いのか少し戸惑ったけど、親父自身は

 「すでに8年も癌と闘ってきたから、いまさら死ぬことは怖くはない、ただ唯一心配なのは、死ぬ瞬間に苦しむことと、逆に

死ねずに何カ月も寝たきりになって、お前に迷惑をかけることだ!」

 って言っていたので、それなりに覚悟はできていました。

 「親父はそのことを知ってるのかな?」

 っておもったけど、 部屋に戻っていつもどうりに振る舞えるかな? って思いながら部屋に戻りました。

 部屋に戻ると親父は僕の事を横眼で見ながら少し安心した顔をしました、首を動かしてまで僕を見る

のが大変みたいでした。

 いつもは親父のベッドの隣に椅子を置いて、そこで座ってすっかり細くなった腕などをさすって

 あげていたけど、その時はベッドの横に座って

 「昼間大変だったんだね、大丈夫?」

 って聞いてあげました。

 親父は小さくうなずきました、一分ぐらいして親父が急に右手で僕を払いながら

「熱い、どけ!」

 って言いました、 その時なんとなく安心しました、

自分に最後が近付いているって相変わらず気がついてないな!

 って思いました。 ウチの親父はそういう親父です自分のことに常に必死で

家族とか他人の気持ちは考えない親父なのです。良いときも悪い時も・・・


「この調子ならまだしばらくは大丈夫だ」

 と思いながらしばらくは部屋に座っていました。

 二人でしばらく居ましたが8時ごろに看護婦さんが見に来てくれました。

 親父に声をかけると親父はおもむろに目をさまして、

 「口をゆすぎたい」

 と言っていました。親父は舌癌もしていたし、入れ歯も入ってるから、

口の中のコンディションは常に気になるみたいです。

 大丈夫なんかな? って思ったけど、看護婦さんんがコップに水を用意

しましょうか? っと言うのをことわって、自分でする! って言っていました。

 その時に親父は一度ベッドに座って、自分の両手の平をゆっくりと見ながら

「テル、なんかいつもと違う感じだ、なんか変なんだよなー」

 って言って気まいた、

それは変だろうなと思いながらも僕もなんて言ってよいのかわからずに

 「あっそう!」

 って答えました。 

 ここまで読んでると、なんて冷たい息子なんだ! 

って思う人もいるかもしれませんが、これが僕と親父のスタイルです、

親父は少しだけアマノジャクなところがあって、人に気を使われたり、

何かしてもらうことは大嫌いなのです、

そして本人も一切他人には気を使いません。そういう面では筋は通って

いる男なのですが、逆にこちらがなにも同情しないで、

死にそうな親父に対しても普通の態度をとって居ると、

親父にとってはそれが一番安心するみたいなのです。

 こちらが悲しそうな顔をして

「お父さん大丈夫? 頑張ってね! 死んじゃ嫌だよ! 癌はきっと治るよ!」

などと言うと、お前に何がわかるんだ! と怒りだします、

そういう形式的な同情はいらないみたいです

 逆にこっちが

 「死ぬのは順番だからねー、何も恐れることはないんだよ、その時がきたら飛び込んでいけば案外

あっちの世界も素敵だと思うよ!」

 などと言っていいると、意外と安心したように

 「お前には他人事だからな!」

などといいながらもまんざら嫌な気分ではないみたいです、

(他人事って身内に使ってよいのかな?っていま素朴な疑問がわきました・・・・)

 

そしてその後には

 「お前は本当に良い息子だなー」

 などと言ってきます。

 優しい言葉をかけないで、しかも良い息子といわれるなら、

優しくない方がよいよね、

しかもちょっと前に優しくしてあげようと思ってベッドに座ってみたら

 「熱い、どけ!」

 って死にそうなくせに全身の力を振り絞って僕を払いのけたしね・・・・



  9時になりました

 看護婦さんが

 「息子さん、もう一度良いですか」

 って言われて、部屋から出ました、

隣には主治医の先生というかその日の夜の宿直の大柄な先生が

おられました。

 「先ほど一、二カ月と申しましたが、今の脈の状況などから考えますと、

もしかしたら2,3週間かもしれません、身内の方で連絡しておく方が居れば、

今からでも連絡しておいたほうが良いかもしれません」

 「オ! ついにこの時が来たのか」

 となんとなく思いました、親父と僕はこの半年間ずっと二人っきりだったし、

親戚や友達とも親父は最後は連絡を取りたがらずに、

週末などにみんなが最後に顔を見たいと言ってくれたり、電話してきても、 

 「なぜこんなに疲れている俺の気持ちがわかってくれないのか?

 向こうは良いと思ってしてくれることでも、

こっちは本当に電話で話したくもないし、会いたくもないのに、

シツコク連絡してきやがる」

 と激怒していました、それだけ怒る元気あるなら会えるんじゃないかな? 

って思ってたけど、お医者さんにそう言われて初めて、

マンツーマンだった僕と親父だけど、、もう一度周りの人に連絡

しても良いんだな。 っていう気持ちになりました。


 姉と親父の兄弟の長男さんと長女さんに連絡しました、

(親父の兄弟で残っているのはこの三人です)

みんなに僕が伝えた事は

 「2,3週間あるから、あわててこないで欲しい、親父もまだ意識があるし、

きっと面倒くさがると思います、しかも今週にあってもらって、

その後に2,3週間後に亡くなった場合にまた来てもらうよりも、

僕がずっと病院に居るので何か様態が変わったらすぐに連絡しますので、

その時に飛んできてもらえば良いです。」

 とつたえました、三人とも山口県なので、大阪まで来てもらうことは大変なのです。


 僕が連絡した理由はあくまでも状況報告であって、

  今すぐという気持ちではなかったです。
 


 一通り電話が終わって10時になりました。

 
 電話していた部屋から個室の病室にもどると、看護婦さんが


 「また様子が変わりました。

  2,3日から1週間の可能性もあります、最後に会わせたい

  人が居るのなら、きてもらってください」

 ということでした、一番に姉に電話して、

 「きたほうがよさそうだ、明日の朝で良いよ」

 と伝えました、伯父さん、叔母さんにもそのように伝えました。

 

 電話が終わって11時、病室に戻ると看護婦さんが部屋の前で待っていて

 「様態がまた変わりました、今夜かもしれませんので、

明日に来てもらっても間に合わないかもしれません。

耳は聞こえますので、もし最後に話してもらいたい人がいるのなら、

携帯で電話してあげてください」


 ということでした、

 姉の動揺する顔が一瞬うかんだけど、時間がないのならすぐに電話するしかありません。
 
そのまま隣の部屋から携帯で姉に電話して、事情を説明して、

すぐに親父のベッドに行きました。

 「お父さん、お姉だよ、お話してあげて」

 すでに瞳孔が開いたようになっていた親父でしたが、携帯から姉の声が聞こえると、

急に 一生懸命頭を持ち上げて、声にならない声で話そうとしていました。
 
 ちなみにウチの家は母親が離婚して出て行ったあと、

僕は関東に居たので、姉と親父は二人で5年

 近く暮らしていました、姉はとても優しい性格で、

姉が結婚する前には親父と二人で海外旅行に行くような仲の良い親子です。

 親父もなんだかんだ言って姉の事は絶対的に大事にしています。

 「お父さん、大丈夫、明日の朝に行くからね、頑張ってね、

 ありがとうね 良く頑張ったね」

 親父も一生懸命答えていましたが声にはならないので僕が

 「お姉、お父さん聞こえてるよ、一所懸命話してるよ、

  お姉の言ってることわかってるからね」

 って伝えました。

 姉もなんて言っていいのか言葉が見つからず、

親父が何を言いたいのかは誰も聞きとることができず

ただ単に、家族の魂みたいなものがその場で伝わりながら時が流れていく感じでした、

 一分ぐらいして

 姉は絶対に電話を切りたくないだろうし、親父もそうだろうから、

僕が提案するしかないと気がついて、

「お姉、お父さん疲れるといけないから、また明日の朝に話してあげてね」

 と話して電話を切りました。

 「お父さん、お姉と話せて本当に良かったね、僕らは本当に良い親子だったね、

お父さんも良く頑張ったね、ありがとう」

 と20分ほど話しかけていましたが、親父も疲れただろうし、

  ゆっくり休みたいかな?って気がついて

 「お父さん疲れたでしょ、ゆっくり休んでね、

 僕はずっと一緒にここに居るから、安心して休んでいて良いよ、

 ここに居るから大丈夫だからね」


と伝えました、看護婦さんは20分に一度ぐらいのペースで

 「大丈夫ですか?」

 と優しく声をかけてくれました、脈拍や機会に着いた数字を静かにチェックしてから

 「ここは家族の時間ですから邪魔はしません、一緒に居てあげてください、

 何かあればすぐにナースコールで読んでください」

 と言ってくれました。

  僕が親父の死にたいして後悔が無い一つの理由はこの時の看護婦さんの

 気づかいで、

  親父との最後の時間を気を使わずに過ごせてことも大きな理由の一つです。


 時間は既に11時半を回っていました。 

 親父は僕に「ゆっくり休んでね」と言われたのがわかったの

かどうかはわかりませんが、そこから少し眠っているようにも見えました。

 僕も安心して見ていましたが、12時を回ったくらいから呼吸が浅くなってきました。

 10秒に一回くらいだったのが、20秒に一回になり、

 30秒間しなかったかと思うと、急にまた息を

吹き返したりしました。 

 見に来てくれたお医者さんと看護婦さんが

 「もし苦しいのなら体をよじったり、眉間にしわが寄ったりします。

 でも浦さんは全くそういうのがありません、

 とても安心してリラックスできているようです、痛みは感じていないですよ」

 と話してくれました。

 その一言がその時の僕にはとてもうれしかったです。 

 特に親父が苦しんでいるかどうか意識していたわけではないけど、

 お医者さんのその一言が僕の気がつかないうちに張り詰めていた気持ちを落ち着

 かせてくれました。

 今でもとても感謝しています。


 その後20分間ほど、親父の呼吸は30秒以止まったり、

 また戻ったりしていましたが、親父の顔はとてもリラックスしているように見えて、

 横に居ても安心できました。

 最後まで見守って居てあげるから安心しててね。

 って思いながら隣に座っていました。

 30秒に一回ほどの呼吸と首のあたりに脈が打っていることだけど、

 親父の生命の証でした。

 親父のおでこに手を当てながらその時を待っていました。

 最後の呼吸が終わって一分が過ぎました。

 でもまだ脈が打っていたので、ナースコールは押さないでいました。

 脈が終わるまで待っていてあげよう。

 とおもっていました。
 
 二分ぐらいして目に見えていた脈も確認できなくなりました。

 静かなかな、聞こえていたのは自分の少しだけ荒くなった呼吸だけでした。

ゆっくりと自分の呼吸を整えました。

 時間は24時22分、

「お父さん長い間ありがとう、良く頑張ったね」

 最後の別れを言って、ナースコールを押しました。 

 看護婦さんになんて言ってよいかわからなかったので

 「たぶん、最後だったと思います」

 と看護婦さんに伝えました。

 今まで二人の人間んがいた部屋が、親父が亡くなって僕一人になっていたので、

 部屋の温度が急に5度くらい低くなったような気がしていました。

 宿直のお医者さんが来てくれて、死亡確認が24時40分。

 
 最愛の息子に甘えながら静かに去って行って親父は幸せだったと思います。

 僕の人生の中でも何かが少し変わった時だと思いました。


 これが2009年に起こった最も大きな出来事です、ちなみに日にちは6月19日

 2年は覚悟していた親父の介護が始まって、中学校に勤めだして、一学期がようやく

 終わろうとしていたときでした。

 61歳でした、マダマダ若いのに・・・

 って思ってくれる人もいるかもしれませんが、親父の人生はみんな甘えて、

 色々な充実感もあって、やりたいことも沢山やって、最後は息子に甘えて

 最高の人生だったと思います。

   少し長くなりましたが、これから親父の笑える話も書いていきますので
 
 よろしくお願いしますね!

みんなが少しづつ持ってる劣等感




  自分の国自慢を一品ずつ展示して、みんなに紹介するというイベントがあった。

 僕は手ぬぐいを紹介した。
 
  「バンダナ、スカーフ、包帯、時には鼻もかめるよ、便利でしょ!って紹介したけど、

   みんなは手ぬぐいに書かれている日本のデザインが好きみたいだった、僕には古臭い

   感じがして、それほど良いとは思っていなかったけど、自分達がそれほど意識して

   いない文化ほど、よその国の人は尊敬すると感じた。

 
  アンブレアというブラジル人が出てきて、先に石の着いたペンダントにキスしながら

 「これはみんなに展示しなかったし、国自慢ではないけど、僕のおばあさんからもらった物

  だ、だからとても大事にしている、常に体から離さないで持っているので、展示するテー
 
  ブルにおかなかったけどゴメンナサイ。」

 
 ということだった、なんかかっこ良いと思った。

 

 その後にアルバニア人のドーランドが世界地図を広げた。

 「これは世界地図です!」
  
 って言ったらみんなが

  「なんでそれが国自慢なの?」

 って言った、そしたらドーランドは

 「僕にとっては地球が僕の国なのです、だからこれは僕の国自慢です」

  みんながいっせいに拍手と口笛を吹いた。かっこよかった。

 
 ドーランドは最初に会った時に僕に行った

  「僕はアルバニアから来た、きっと君はアルバニアが世界地図のどこに

 あるか知らないし、そういう国があることも知らないかもしれない
 
 いつか写真を見せるよ、とてもきれいなところだから」


 といっていた、それから一度も写真は見せてもらってないけど、どこの国の人も

 自分の国を愛してるし、少しの劣等感もあるとおもう。

 
  日本人はみんなラップトップを使いこなせるが、英語が苦手だ、

 でもここにきて初めてパソコンを使う人にとってみれば日本人は凄いと感じるとおもう、

 だってパソコン使いこなせるから、自分達は意識してなくてもよその国の人からみれば

 凄い事みたいだ。

 
  また日本人は外国の人に会う時に、ジャパンと言えばみんなすぐにわかってくれるけど、

 自分の国がどこにあるのかの説明から始めなければいけない人もいる。

 
 ハンガリー、ルーマニアの人は日本人以上に英語に慣れていない、

そして日本人のように控え目だ。



 リトアニアからきたバレラに独立したときどうだった?

ってきいたら、

よその国の人はいつもみんなその話を聞くけど、

あんなの一部の人が勝手に盛り上がってやってただけで、僕もみんなと同

じようにテレビでみてただけだから、何を聞かれても分かんないよ!

聞かれるのもううんざりだ! って開き直っていた。

 アフリカの人は西洋文明の真似をしなければ自分の国で出世できないことが嫌だけど、

 そうするしかないように思う、努力している姿をみて、本当にそれを望んでるのかな?

 っておもって、なぜか悲しげにみえることがある。

 
  自分の国が完璧だと思っている人はここにはいない気がする、昔に世界中に植民地を

 つくったポルトガル人でさえ、

 自分達のしたことが良かったとは思っていないみたいだった。

 日本人でなくてもみんな自分の国にそういう気持ちあるんだな、って感じると気持ちが楽

 になる、みんなボランティアだからなのかな? 

 お金絡むとまた違ってくるかな?

 ここはそういうところ、国籍よりも個人の人柄や行動によってその人の評価が決まるとても

 平等なところだと思う。

  だから明日も頑張ります!