2016年5月6日金曜日

いつもここから②

先日に定時制高校で進路とバヌアツのお話をさせてもらう機会があった。

僕が高校を受験した25年ほど前には定時制というのは、少し訳ありというか高校に行くタイミングを逃した人とか、成績が思わしくない人が行くというイメージがあった、実際に僕も定時制を考えていた。

良く自己紹介などで

「僕は子供のころに全く勉強できませんでした」
というような人がいて、そういう人の経歴をみるとそれなりの大学に通っていたりするのを見ると

「なんだ、自慢したいだけか!勉強できなかった訳ではなくて、しなかっただけでしょ!」

とすこしがっかりさせられる。 自分がそうならない為にはどうしたらよいか?

生徒との距離を話を聞いてくれる生徒との距離を縮めるにはどうしたら良いか?
  
そういえば中学校の頃の成績表が卒業アルバムに挟まっていたな・・・・と思って出したらやっぱりありました。 吹田第一中学校3年2組の僕の成績表一番下を見てもらうと中三の三学期の5教科の成績の合計点が97点それぞれの科目が20点以下でした。 総合の10段階評価が①あり得ないよね。

中三の頃といえば、高校に行けるかどうかもわからなくて、周りの友達は受験勉強して遊んでくれなくて、だからといって自分が受験勉強するかといえば10分机の前に座っていると体がムズムズして続かなくて、自分はそれほど悪い人間ではないのに、なんで勉強ができないというだけで社会の中で居場所が無いのだろう・・・・ と冷静に考える前に漠然とした恐怖とか怒りとか悲しさとかがあって、何で生まれてきたんだろう、どういう意味があるのだろう? と毎日が絶望でした。
長期的な結果よりも目先の小さな面白さにしか目が行きませいでした。忍耐力も正義感も全くありませんでした。

そんな成績表おみんなに見せたら生徒との距離が一気に縮まりました。
というより最近の定時制というのは普通の高校制で驚きました。
普通に制服をきていて、年齢も高校生しかいませんでした。
でもそれから一時間みんな嫌がらずに僕の話を聞いてくれました。

25年前にまさかこの成績表が役に立つとは思っていなかったし、できればもう少し良い成績を取りたかったけど、生徒からの感想文に

「私も自分の居場所がなくってどうして生きてるんだろうと思います」
と書いてあったとき、やっぱりそれなりに僕の中学校時代にも意味があったのかな?
と思うことができました。

しかしそうなるまでに25年間、人生って不思議だなーと改めて感じています。

電車の中で考える正規雇用と非正規雇用

通勤の為に満員電車に乗っていて、正規雇用と非正規雇用は電車と似ていると気が付いたお話。

電車に座っている人は正規雇用、電車がどれだけ混雑しようと、自分から立ち上がらない限り、本を読んだり、居眠りしたり、ある程度は体力を温存しながら、目的地までは安心して到着することができる。


一方、非正規雇用の人は電車の中で立っている人、自ら選択して立っている人と、そうでない人が居ると思う。

たまたま自分の前の人が降りたので、その後に座れるラッキーな人もいるし、忍耐強く待っていてもなかなか座れない人もいる。

同じ空間で同じ目的地を目指しているが、この差は凄く大きい。

立っている人が座りたい時には、他の電車に乗り換えるという選択肢がある。しかし、電車に乗る理由(自分の人生の方向性)は自分の中で行きたい方向があって乗っているわけで、座ることが目的では無かったはず。

でも結婚して家族ができたり、年をとって体力がなくなってきたりして、多少自分の行きたかった方向と違う電車に乗り換えることもありかもしれない。

多少はローカルな方向に進む電車に乗り換えてみた、みんなが競争して席を奪う都会行きの満員電車よりも居心地が良いこともあるかもしれない。

そんなことを考えながら今日もつり革にぶら下がっています。