2010年4月29日木曜日

人としてか?医師としてか②(財前教授の目線から)

 前回の話を違う角度からみてみます。財前教授目線です。 

 前にウチの親父が言ってた話で

「5人の医者を育てることと、一人の名医になること、

どっちが大切か考えることが人生にはある

 たとえばお前が一人の名医だとして、5人の助手がいる。

そこに患者が運ばれてきた、

 常にお前が手術してあげれば、お前の腕も上達するし、患者も良くなる、

 でもお前が死んだり引退したら、お前の助手はいつもお前の手術をみてい

ただけだから、誰も手術ができない。

 でももしお前が自分の助手に順番に手術をさせてあげれば10年後には

 5人の医者が育つ、お前一人が名医になるよりも5倍の患者を助ける

ことができる、でも未熟な助手が手術してもし失敗したら、お前は自分を

責めることになるかもしれない。

 亡くなった患者の家族の悲しむ姿を見て、医師として何故自分が

手術してあげなかったのだろうと思うかもしれないし、

手術を任された助手の苦しみも同時に味わうことになるだろう、

 でも今それを我慢することで10年先に救える命もあるということを

 信じなければならない。

出世して上に行けばそうい選択をしなければならないこともある。

 そして誰かがその役目をしなければならないのだ」

 
 って言うような話を聞いたことがあります、

 たぶんそれプラス大分自分の想像力も入ってしまってますが・・・

 
 それが上に立つ人間の苦しさ、財前教授の苦しさなのかもしれません。

 ドラマの中でも財前教授は最後まで自分の道を進み続けていました。

 信じきっていました。 

 前回のHIVの話に戻ると、

 一夫多妻を認めるか、認めないかは

 どっちの目線からみても正しいということになり、

 答えはありません。 自分の中でも答えは無いです。

  実際に働いていたら、家族とか出世争いとか、お金とかで純粋に人間としての判断を

 するよりも、組織の一員としての判断を下すことになるんだろうとも感じます。

 もっと上手く書きあらわしたかったけど、

 今の自分のレベルではこんな感じになってしまいました・・・

人としてか?医者としてか?①(里見医師として)

 アフリカでのHIVのプログラムについてみんなで話し合ったことがありました。

 一夫多妻制がHIVをさらに広げている、旦那が感染すると一族が総崩れになる。

 旦那は絶対にHIVのテストを受けたがらないだろうし

しかし女性の立場でから言うとコンドームを用意しておくことは難しいし、

一夫多妻なら、何人の子供を持つかによって家族の中での地位も変わってくるだろう。

 実際にそれで旦那さんがHIVとわかったところで、その後にその家族はどうなってしまうのだろう?


 「法律を変えろ」

という意見もありました。でも法律で決められてしまったら、一夫多妻制の人達は

 刑務所に入るってことなのかな?そんなのおかしいよね?

 いずれにせよ


僕がその時に少し感じたのはみんながメチャクチャに自分達のしていることが正しい
 
 と信じきっていることでした。

  僕はの意見は

 「彼らにHIVの知識を説明したあとで、彼らが法律を変えることや、コンドームを使うことや、

 HIVのテストを受けることに対するチョイスはあるのか?」

  という意見でした。

 それに対する現地で活動してきた人の意見は
 
 そういう場合は何年でもその村を訪ねて、納得してもらう。

でした。 確かにそれが一番だと思いました。

 


もちろんHIVは感染するからすすでに感染してる人は

他の人に移さないように気をつけることはとても大切だと思います。

でも僕にも一つの理論があって


  もしタイムマシーンができて100年後の2110年から未来の人がやってきて

 
「日本人は可哀そうだね、平均寿命は85歳なんだ、いまだに癌で死んでしまう人がいるんだ、

 100年後は平均寿命は120歳だよ、僕たちの三分の二しか君達は生きれないんだ、

じゃあ僕達が君たちを救ってあげよう!」


 みたいなことになって、生活習慣とかいまでプライドを持ってきた生き方とか

 強制的にしかも絶対的な正義感を持って変えられて行ったらどう感じるだろう

 「自然に任せて死ぬ権利さえ奪われるのか?」

 って感じるかも知れないよね。

 
 
  山崎豊子さんの「白い巨塔」のなかで出世頭だった財前教授が

 「大学病院は高度な医学をそろえているので治療の必要の患者の為にある、

だから末期で既に

 治療のできない患者には小さい病院に移ってもらって、

高度な医療で治るかも知れない患者の為にベッドを空けるべきだ」

 と言った時に、里見医師が

 「僕にとってはみんな同じ患者だから

今いる患者に出ていってくださいとは人間として絶対に言えない

病院は患者を選んではいけないのだ」


 と言うようなことを言っていました。財前教授は

 「そういう君の人間性は医者としては必要ないし、逆に患者を傷つける」

 言われた里見先生は

 「僕は迷うことで医者であり続けたい」

 と言っていました。

 僕も医者としては財前教授に賛成だし、HIVに関して言えば、癌とまったく違うことは

 感染すること、ほっておけば必ず新しい患者が産まれてしまうというところは全く癌と

 違います。だから法律を変えてでも守るべき命があることには賛成です。

 でもたとえそうであっても心の深い所に、

 「迷うことで医者であり続けたい」

 と言っていた里見教授の意見も覚えておかないといけないと思います。

 それがわかっていて法律を変えてしまうのと単に

 「我々は正義なのだ!エイズは悪なのだ!だから絶対的に君たちは我々に従いなさい!」

 というのでは意味が違ってくると思います。やることは一緒なら

 そんなセンチメンタリズムで自分を傷つけることに意味があるのか?

  って思うかもしれないけどね。 まあ難しいね、あくまでも提案としての意見です。 

  次回は財前教授目線で書いてみます、全く逆目線だからぜひ読んでくださいね!


 

2010年4月28日水曜日

マイノリティーとマジョリティー

 こっちにきて思ったけど、40歳までに5年か10年で仕事を変えたり、

自分が今してる仕事の知識がもっと必要だと感じて、

2年くらい大学院に戻ったりしてまた同じ分野に戻ったり、

 今僕が来ているボランティアのプログラムに参加したりしながら歳をとっていくのって、

 
  世界の人の中では結構普通なことみたいです。

 結婚したり子供育てたりすることもその中の一部みたいな感覚の人もいると思います。

 なんで外国ってそれで食べていけるのかは少し不思議なんだけどね?

 
 
  こっちにきてみんなが言うのは 「終身雇用」っていう制度は日本独特だね。

 っていうことです。 
 
 会社はファミリーでロイヤリティーがあって、ボスがみんなを面倒みてるんでしょ。

 って言ってました。それが良いとか悪いとかは何とも思ってないみたいですが。

  
  だから最近思ったのは日本では終身雇用は多数派(マジョリティー)だけど、世界の中で

 は終身雇用は少数派(マイノリティー) ってことです。

 だから僕が外国に居る間は僕は多数派になって、人生を有意義に過ごしてるって評価される

 けど、日本に戻ると少数派になって「お前はいい年して恥ずかしくないのか?」

って怒られます。

 あんまりそれをシツコク言われると酒がまずくなりこともあります。

 特に年配の人に言われるとね、高度成長の時代とバブルがはじけた今の時代では違うもの

 って言いたくもなります。 

 だからって言って日本のなかで立派に終身雇用で

 勤めあげた人に文句が言えるわけもなく、ただ単にへらへら笑って耐えるだけになります。

 


 そして最後にヤッパリ僕は日本人なんだから、世界基準がどうとか持ち出して、

  今の自分に行き方が間違ってないって言いたいのなら、

  それが言いわけに聞こえないように、

  きちんと結果もだしていかないといけないと思います。

  だって僕は日本人だからね。

  
  今の日本で同じように悩んでる人は結構いると思います。

 

ミスチルが歌ってました。

 「ふがいない自分に銃口を突き付けろ、当たり障りない道を選ぶくらいなら」

  協力隊に行く前に9年間社会人だった頃に心に響きました。この歌詞にも凄く賛成しますが

 「人はつじつまをあわすように形にはまっていく」

  この歌詞もうなずけます、それも仕方ないかなって・・・

 そして最後に
 
 「嘘や矛盾を両手に抱えて、それも人だって悟れるの?」

 これが結果だとおもいます、人生の最後にこう思えるのかな?

 もう少し深く考えようと思うけど

 「難しく考え出すと結局全てがいやになって、そっと逃げ出したくなるけど」

 って言う歌詞もあったなー! って思いだしました。

 今日のところはこれ以上考えないようにします!

 
 と言うことで明日も頑張ります! ブログ書いたらスッキリした!

 

 
 
 

 

 

ランゲージ・バリア

 日本では言葉の壁っていうけど、言葉が邪魔して宗教、習慣、文化などをが

 わかりあえないことを

 「ランゲージ・バリア」

 って言うらしいです。 

 「ミスアンダスタンディング」

 よりもバリアのほうが適してるよね。
 
 お互いにお互いを守ろうとして無意識のうちにバリアを張ってるって感じ良く分かります。

 それがあるからなかなか世界が一つになれない。

 っていってました。

 なるほどね「壁」ではなくって「バリア」なんだ。

 一つ勉強になりました!

2010年4月26日月曜日

親父の最後の時(ブログにしては少し長いです)

 親父がホスピスに入院して三日目、仕事が終わって6時にバイクでホスピスに行った時

 「テルヒロ今日は大変だったんだ、お父さんは死ぬかと思った」

 って言われて、

 「へーそうなんだ!」

 って言いながらも、今日はこの先何時に家に戻れるのかな? って思っていました。

 その時に看護婦さんから呼ばれて外に出て、そこで待っていた主治医のお医者さんに

 「昼間に様態が悪くなってしまって、もしかしたら一、二カ月といこともあるかもしれ

 ません。 
  
 という話でした。今まで親父は

 「この冬は越せないだろう」        と一月に発言し
 
 「二月が山場だ」             と言いながら何も起こらず

 「3月いっぱいだから仕事に着かないでくれ」 と言いながら四月まで頑張り

 「ゴールデンウィークまで持つかな?」    と言いいながら連休を楽しんで
 
僕に

 「親父は狼少年だから、死んだって誰も信じてくれないよ!」

 って言われて苦笑いしていた親父が、本当に最後を迎えているのか、と思うと、

どんな顔をして病室に戻って良いのか少し戸惑ったけど、親父自身は

 「すでに8年も癌と闘ってきたから、いまさら死ぬことは怖くはない、ただ唯一心配なのは、死ぬ瞬間に苦しむことと、逆に

死ねずに何カ月も寝たきりになって、お前に迷惑をかけることだ!」

 って言っていたので、それなりに覚悟はできていました。

 「親父はそのことを知ってるのかな?」

 っておもったけど、 部屋に戻っていつもどうりに振る舞えるかな? って思いながら部屋に戻りました。

 部屋に戻ると親父は僕の事を横眼で見ながら少し安心した顔をしました、首を動かしてまで僕を見る

のが大変みたいでした。

 いつもは親父のベッドの隣に椅子を置いて、そこで座ってすっかり細くなった腕などをさすって

 あげていたけど、その時はベッドの横に座って

 「昼間大変だったんだね、大丈夫?」

 って聞いてあげました。

 親父は小さくうなずきました、一分ぐらいして親父が急に右手で僕を払いながら

「熱い、どけ!」

 って言いました、 その時なんとなく安心しました、

自分に最後が近付いているって相変わらず気がついてないな!

 って思いました。 ウチの親父はそういう親父です自分のことに常に必死で

家族とか他人の気持ちは考えない親父なのです。良いときも悪い時も・・・


「この調子ならまだしばらくは大丈夫だ」

 と思いながらしばらくは部屋に座っていました。

 二人でしばらく居ましたが8時ごろに看護婦さんが見に来てくれました。

 親父に声をかけると親父はおもむろに目をさまして、

 「口をゆすぎたい」

 と言っていました。親父は舌癌もしていたし、入れ歯も入ってるから、

口の中のコンディションは常に気になるみたいです。

 大丈夫なんかな? って思ったけど、看護婦さんんがコップに水を用意

しましょうか? っと言うのをことわって、自分でする! って言っていました。

 その時に親父は一度ベッドに座って、自分の両手の平をゆっくりと見ながら

「テル、なんかいつもと違う感じだ、なんか変なんだよなー」

 って言って気まいた、

それは変だろうなと思いながらも僕もなんて言ってよいのかわからずに

 「あっそう!」

 って答えました。 

 ここまで読んでると、なんて冷たい息子なんだ! 

って思う人もいるかもしれませんが、これが僕と親父のスタイルです、

親父は少しだけアマノジャクなところがあって、人に気を使われたり、

何かしてもらうことは大嫌いなのです、

そして本人も一切他人には気を使いません。そういう面では筋は通って

いる男なのですが、逆にこちらがなにも同情しないで、

死にそうな親父に対しても普通の態度をとって居ると、

親父にとってはそれが一番安心するみたいなのです。

 こちらが悲しそうな顔をして

「お父さん大丈夫? 頑張ってね! 死んじゃ嫌だよ! 癌はきっと治るよ!」

などと言うと、お前に何がわかるんだ! と怒りだします、

そういう形式的な同情はいらないみたいです

 逆にこっちが

 「死ぬのは順番だからねー、何も恐れることはないんだよ、その時がきたら飛び込んでいけば案外

あっちの世界も素敵だと思うよ!」

 などと言っていいると、意外と安心したように

 「お前には他人事だからな!」

などといいながらもまんざら嫌な気分ではないみたいです、

(他人事って身内に使ってよいのかな?っていま素朴な疑問がわきました・・・・)

 

そしてその後には

 「お前は本当に良い息子だなー」

 などと言ってきます。

 優しい言葉をかけないで、しかも良い息子といわれるなら、

優しくない方がよいよね、

しかもちょっと前に優しくしてあげようと思ってベッドに座ってみたら

 「熱い、どけ!」

 って死にそうなくせに全身の力を振り絞って僕を払いのけたしね・・・・



  9時になりました

 看護婦さんが

 「息子さん、もう一度良いですか」

 って言われて、部屋から出ました、

隣には主治医の先生というかその日の夜の宿直の大柄な先生が

おられました。

 「先ほど一、二カ月と申しましたが、今の脈の状況などから考えますと、

もしかしたら2,3週間かもしれません、身内の方で連絡しておく方が居れば、

今からでも連絡しておいたほうが良いかもしれません」

 「オ! ついにこの時が来たのか」

 となんとなく思いました、親父と僕はこの半年間ずっと二人っきりだったし、

親戚や友達とも親父は最後は連絡を取りたがらずに、

週末などにみんなが最後に顔を見たいと言ってくれたり、電話してきても、 

 「なぜこんなに疲れている俺の気持ちがわかってくれないのか?

 向こうは良いと思ってしてくれることでも、

こっちは本当に電話で話したくもないし、会いたくもないのに、

シツコク連絡してきやがる」

 と激怒していました、それだけ怒る元気あるなら会えるんじゃないかな? 

って思ってたけど、お医者さんにそう言われて初めて、

マンツーマンだった僕と親父だけど、、もう一度周りの人に連絡

しても良いんだな。 っていう気持ちになりました。


 姉と親父の兄弟の長男さんと長女さんに連絡しました、

(親父の兄弟で残っているのはこの三人です)

みんなに僕が伝えた事は

 「2,3週間あるから、あわててこないで欲しい、親父もまだ意識があるし、

きっと面倒くさがると思います、しかも今週にあってもらって、

その後に2,3週間後に亡くなった場合にまた来てもらうよりも、

僕がずっと病院に居るので何か様態が変わったらすぐに連絡しますので、

その時に飛んできてもらえば良いです。」

 とつたえました、三人とも山口県なので、大阪まで来てもらうことは大変なのです。


 僕が連絡した理由はあくまでも状況報告であって、

  今すぐという気持ちではなかったです。
 


 一通り電話が終わって10時になりました。

 
 電話していた部屋から個室の病室にもどると、看護婦さんが


 「また様子が変わりました。

  2,3日から1週間の可能性もあります、最後に会わせたい

  人が居るのなら、きてもらってください」

 ということでした、一番に姉に電話して、

 「きたほうがよさそうだ、明日の朝で良いよ」

 と伝えました、伯父さん、叔母さんにもそのように伝えました。

 

 電話が終わって11時、病室に戻ると看護婦さんが部屋の前で待っていて

 「様態がまた変わりました、今夜かもしれませんので、

明日に来てもらっても間に合わないかもしれません。

耳は聞こえますので、もし最後に話してもらいたい人がいるのなら、

携帯で電話してあげてください」


 ということでした、

 姉の動揺する顔が一瞬うかんだけど、時間がないのならすぐに電話するしかありません。
 
そのまま隣の部屋から携帯で姉に電話して、事情を説明して、

すぐに親父のベッドに行きました。

 「お父さん、お姉だよ、お話してあげて」

 すでに瞳孔が開いたようになっていた親父でしたが、携帯から姉の声が聞こえると、

急に 一生懸命頭を持ち上げて、声にならない声で話そうとしていました。
 
 ちなみにウチの家は母親が離婚して出て行ったあと、

僕は関東に居たので、姉と親父は二人で5年

 近く暮らしていました、姉はとても優しい性格で、

姉が結婚する前には親父と二人で海外旅行に行くような仲の良い親子です。

 親父もなんだかんだ言って姉の事は絶対的に大事にしています。

 「お父さん、大丈夫、明日の朝に行くからね、頑張ってね、

 ありがとうね 良く頑張ったね」

 親父も一生懸命答えていましたが声にはならないので僕が

 「お姉、お父さん聞こえてるよ、一所懸命話してるよ、

  お姉の言ってることわかってるからね」

 って伝えました。

 姉もなんて言っていいのか言葉が見つからず、

親父が何を言いたいのかは誰も聞きとることができず

ただ単に、家族の魂みたいなものがその場で伝わりながら時が流れていく感じでした、

 一分ぐらいして

 姉は絶対に電話を切りたくないだろうし、親父もそうだろうから、

僕が提案するしかないと気がついて、

「お姉、お父さん疲れるといけないから、また明日の朝に話してあげてね」

 と話して電話を切りました。

 「お父さん、お姉と話せて本当に良かったね、僕らは本当に良い親子だったね、

お父さんも良く頑張ったね、ありがとう」

 と20分ほど話しかけていましたが、親父も疲れただろうし、

  ゆっくり休みたいかな?って気がついて

 「お父さん疲れたでしょ、ゆっくり休んでね、

 僕はずっと一緒にここに居るから、安心して休んでいて良いよ、

 ここに居るから大丈夫だからね」


と伝えました、看護婦さんは20分に一度ぐらいのペースで

 「大丈夫ですか?」

 と優しく声をかけてくれました、脈拍や機会に着いた数字を静かにチェックしてから

 「ここは家族の時間ですから邪魔はしません、一緒に居てあげてください、

 何かあればすぐにナースコールで読んでください」

 と言ってくれました。

  僕が親父の死にたいして後悔が無い一つの理由はこの時の看護婦さんの

 気づかいで、

  親父との最後の時間を気を使わずに過ごせてことも大きな理由の一つです。


 時間は既に11時半を回っていました。 

 親父は僕に「ゆっくり休んでね」と言われたのがわかったの

かどうかはわかりませんが、そこから少し眠っているようにも見えました。

 僕も安心して見ていましたが、12時を回ったくらいから呼吸が浅くなってきました。

 10秒に一回くらいだったのが、20秒に一回になり、

 30秒間しなかったかと思うと、急にまた息を

吹き返したりしました。 

 見に来てくれたお医者さんと看護婦さんが

 「もし苦しいのなら体をよじったり、眉間にしわが寄ったりします。

 でも浦さんは全くそういうのがありません、

 とても安心してリラックスできているようです、痛みは感じていないですよ」

 と話してくれました。

 その一言がその時の僕にはとてもうれしかったです。 

 特に親父が苦しんでいるかどうか意識していたわけではないけど、

 お医者さんのその一言が僕の気がつかないうちに張り詰めていた気持ちを落ち着

 かせてくれました。

 今でもとても感謝しています。


 その後20分間ほど、親父の呼吸は30秒以止まったり、

 また戻ったりしていましたが、親父の顔はとてもリラックスしているように見えて、

 横に居ても安心できました。

 最後まで見守って居てあげるから安心しててね。

 って思いながら隣に座っていました。

 30秒に一回ほどの呼吸と首のあたりに脈が打っていることだけど、

 親父の生命の証でした。

 親父のおでこに手を当てながらその時を待っていました。

 最後の呼吸が終わって一分が過ぎました。

 でもまだ脈が打っていたので、ナースコールは押さないでいました。

 脈が終わるまで待っていてあげよう。

 とおもっていました。
 
 二分ぐらいして目に見えていた脈も確認できなくなりました。

 静かなかな、聞こえていたのは自分の少しだけ荒くなった呼吸だけでした。

ゆっくりと自分の呼吸を整えました。

 時間は24時22分、

「お父さん長い間ありがとう、良く頑張ったね」

 最後の別れを言って、ナースコールを押しました。 

 看護婦さんになんて言ってよいかわからなかったので

 「たぶん、最後だったと思います」

 と看護婦さんに伝えました。

 今まで二人の人間んがいた部屋が、親父が亡くなって僕一人になっていたので、

 部屋の温度が急に5度くらい低くなったような気がしていました。

 宿直のお医者さんが来てくれて、死亡確認が24時40分。

 
 最愛の息子に甘えながら静かに去って行って親父は幸せだったと思います。

 僕の人生の中でも何かが少し変わった時だと思いました。


 これが2009年に起こった最も大きな出来事です、ちなみに日にちは6月19日

 2年は覚悟していた親父の介護が始まって、中学校に勤めだして、一学期がようやく

 終わろうとしていたときでした。

 61歳でした、マダマダ若いのに・・・

 って思ってくれる人もいるかもしれませんが、親父の人生はみんな甘えて、

 色々な充実感もあって、やりたいことも沢山やって、最後は息子に甘えて

 最高の人生だったと思います。

   少し長くなりましたが、これから親父の笑える話も書いていきますので
 
 よろしくお願いしますね!

みんなが少しづつ持ってる劣等感




  自分の国自慢を一品ずつ展示して、みんなに紹介するというイベントがあった。

 僕は手ぬぐいを紹介した。
 
  「バンダナ、スカーフ、包帯、時には鼻もかめるよ、便利でしょ!って紹介したけど、

   みんなは手ぬぐいに書かれている日本のデザインが好きみたいだった、僕には古臭い

   感じがして、それほど良いとは思っていなかったけど、自分達がそれほど意識して

   いない文化ほど、よその国の人は尊敬すると感じた。

 
  アンブレアというブラジル人が出てきて、先に石の着いたペンダントにキスしながら

 「これはみんなに展示しなかったし、国自慢ではないけど、僕のおばあさんからもらった物

  だ、だからとても大事にしている、常に体から離さないで持っているので、展示するテー
 
  ブルにおかなかったけどゴメンナサイ。」

 
 ということだった、なんかかっこ良いと思った。

 

 その後にアルバニア人のドーランドが世界地図を広げた。

 「これは世界地図です!」
  
 って言ったらみんなが

  「なんでそれが国自慢なの?」

 って言った、そしたらドーランドは

 「僕にとっては地球が僕の国なのです、だからこれは僕の国自慢です」

  みんながいっせいに拍手と口笛を吹いた。かっこよかった。

 
 ドーランドは最初に会った時に僕に行った

  「僕はアルバニアから来た、きっと君はアルバニアが世界地図のどこに

 あるか知らないし、そういう国があることも知らないかもしれない
 
 いつか写真を見せるよ、とてもきれいなところだから」


 といっていた、それから一度も写真は見せてもらってないけど、どこの国の人も

 自分の国を愛してるし、少しの劣等感もあるとおもう。

 
  日本人はみんなラップトップを使いこなせるが、英語が苦手だ、

 でもここにきて初めてパソコンを使う人にとってみれば日本人は凄いと感じるとおもう、

 だってパソコン使いこなせるから、自分達は意識してなくてもよその国の人からみれば

 凄い事みたいだ。

 
  また日本人は外国の人に会う時に、ジャパンと言えばみんなすぐにわかってくれるけど、

 自分の国がどこにあるのかの説明から始めなければいけない人もいる。

 
 ハンガリー、ルーマニアの人は日本人以上に英語に慣れていない、

そして日本人のように控え目だ。



 リトアニアからきたバレラに独立したときどうだった?

ってきいたら、

よその国の人はいつもみんなその話を聞くけど、

あんなの一部の人が勝手に盛り上がってやってただけで、僕もみんなと同

じようにテレビでみてただけだから、何を聞かれても分かんないよ!

聞かれるのもううんざりだ! って開き直っていた。

 アフリカの人は西洋文明の真似をしなければ自分の国で出世できないことが嫌だけど、

 そうするしかないように思う、努力している姿をみて、本当にそれを望んでるのかな?

 っておもって、なぜか悲しげにみえることがある。

 
  自分の国が完璧だと思っている人はここにはいない気がする、昔に世界中に植民地を

 つくったポルトガル人でさえ、

 自分達のしたことが良かったとは思っていないみたいだった。

 日本人でなくてもみんな自分の国にそういう気持ちあるんだな、って感じると気持ちが楽

 になる、みんなボランティアだからなのかな? 

 お金絡むとまた違ってくるかな?

 ここはそういうところ、国籍よりも個人の人柄や行動によってその人の評価が決まるとても

 平等なところだと思う。

  だから明日も頑張ります!

 

2010年4月25日日曜日

もしかして神様にレポートしてる?


 前回に引き続きまた書きます。

 昨年僕と一緒に居てくれたダウン症の男の子ですが、彼もヤッパリ叱られたり、

苦手な人が来たりすると悲しそうにします。
 
 いつもニコニコしてるから、そういうときはこちらも余計に悲しい気持ちになります。

 でも基本的にはいつもニコニコしていて、とても周りに気を使っていて、

みんなを和ましてくれます、

時にはこちらが相手をしてもらっているような気になるときもありますし、

 実際に気をつかって僕とのテニスにイヤイヤ付き合ってくれていると感じた事もあります。

 

特に冬の寒いときなどは、手袋もなく、

冬の寒い中をラケットを振り回すのは嫌なのだけど、僕が張り切って

 「テニス行こう!」

 っていうとイヤイヤながらもついて来てくれます。

 
 そしてからはお母さんが大好きです

 どんなに悲しそうな時でもお母さんの話をするとすぐに笑顔に戻ってくれます。

 
 

  彼はこの春に卒業して地元の支援学級に進学して行きましたが、

  「春になったら心配だから進学先をのぞいてみようか?」

 って言う話をしていたら、

 「中学校に来た時に小学校の先生が心配してみにきたけど、その時は凄く嫌がって

 いた、おそらく彼はもう中学校に進学したんだから、自分は一人で頑張っていきたい、

って思っていたのだと思う、そういうところの心の強さは素晴らしい物があるから

 僕たちが心配して見に行っても、よろこんでくれないだろう」

 ということでした。
 
 

 そのときふっと思いました、ダウンシンドロームの子はきっと全てわかってるんだって

 おそらく彼らの役目は神様に誰が正しい人間か、

  悪い人間かを伝える役割のような気がしました。

 そのぐらい人を平等に、純粋にみる力があり、自分の事もキッチリとわかっています。

 

 きっと週にいっぺんくらい報告してるはずです。

 「今週、ウラはサボっていたからマイナス1点」

    とか、

 「先生達は今週隠れてバームクーヘンを食べていた」

  とか、神様に報告するのが役目でそれによって

 僕らは天国に行くか地獄に行くかがジャッジされているような気がします。

 
 バヌアツから帰国して一年間、親父の事、バヌアツの事

色々な新しい生き方を知って価値観が定まらなかった僕に、

人間としての優しさや純粋さ、

強さなどの基本的な価値観の大切さを再確認させてくれたのは彼だったと思います。

 
 写真は卒業式です、「ありがとう!」といって涙も流さずさわやかに旅立って行きました。

 彼なら何処にいってもみんなから愛されることでしょう。

 僕の人生に大きく影響を及ぼした一人に違いありません!

 

一回だけ泣いた時の話


 

 昨年一年間僕は地元大阪で中学校の昔で言う養護学級(今は支援学級といいます)

 で働いていました。

 火曜日は親父のホスピスの通院があったし、親父は三食自分で飯の準備はしないから、

 午前中だけ週4日、地元の教育委員会に泣きついて、何とか入れてもらいました。

 本当に感謝しています。

 そこにダウン症の中学校三年生の男の子がいて、僕は一年間そのこと一緒に毎日テニスを
 
 していました。

  ダウン症の子はとても穏やかで癒されます。
 
 親父が死んだ後に唯一僕が泣いたのは葬式が終わって初めて学校に行った時にいつものよう

 に彼とテニスをしていて

 テニスと言っても、彼がバドミントンのラケットをブンブン

 と振り回していて、そこに僕が上手くボールを投げて、彼がそれを打ち返すとともに2メー

トルくらいの至近距離に立っている僕にボールをぶつけるというものです。

 ボールが僕の顔面や体に当たると

 「イエイ!」

 と言って喜んでくれます。

 今思えば昨年初めて学校という現場に僕が入って、色々な先生達から仲良くしていただいた

 最初のきっかけは僕が彼と毎日外でテニスをしているのをみてくれた先生達が

 「あいつは毎日午前中しか来てないけど、まんざら悪い奴でもなさそうだ」

 と思ってくれたところから始まった気がします。
 
 

 話はもどって彼は僕の投げたボールが上手くラケットに当たらなくて、

 何回か空振りすると、

 「駄目!駄目!」

 と言って怒りだします。
 
 親父が死んで初めてのその日、少しだけ集中力を失った僕が上手くボールを

 投げれなかったときに駄目!駄目!と 彼が怒りだしたとき

 「そうは言ってもこっちは親父が死んで葬式とかあって大変だったんだから

  ちょっとくらいボーとしても良いじゃん!そこらへん気を使ってよね!」


 って思った時、そんなことは全く知らずにいつもの

 ように怒ってくれる彼の前で初めて涙がこぼれました。

 君だけはいつも平等に接してくれるからこちらも素直になれるんだな、って思うとともに

  涙って期待されると流れないものだと気がつきました。


  なんかそういうものですよね?

 次回も彼の話です。

  ちなみに写真は卒業式の時のものです、だから僕はスーツ来てます。

 卒業式が終わったとに彼が

  「ウラ、テニス!」

 って言っていつものようにラケットを振るジェスチャーをしながらニンマリ
 
 笑ってくれたので、スーツのまま最後のテニスをしました。

  この時は僕ら二人に涙は無かったですが、僕ら二人を一年間見守ってくれていた

 ベテランの先生や介助師さん達は僕ら二人をみて涙をこらえてくれていました。

 本当にお世話になった一年間でした。

 
 

大人と子供の違いはなにか?

 って漠然と聞かれてなんて答えますか?

 何だろうって思ったけど、一つの答えは

 子供は自分の価値観がしっかりと定まってないから、人とすぐに比べる、

 ・人より学歴が良いから自分のほうが良い!

 ・人より大きな家に住んでるから自分のほうが良い!
 
 ・人より綺麗な彼女が居るから自分のほうが良い!

 ・人よりお金を持ってるから自分のほうが良い!

  
 それが子供の典型だそうです。

 
  大人はというと、自分の価値観がしっかりと決まってるから

 自分が好きなものが身近にあればそれで良い。他人の評価は関係ない、

 なぜなら自分にとって大切なものが何か分かっているから。

  
 そういう価値観がしっかりとしているのが大人だそうです。

 
 旅行に行くと良く分かるかもね、みんなが良いって言ってる観光地を

 一通り回って全ての前で記念撮影して

 「私は全て回った!有名なところは全て制覇した!」

 っていってクタクタになりながら満足する人か


 
 もしくは誰も気にかけない町でも、素敵だと思えばそこで自分の好きな

 人と時間を気にしないで一日ゆっくり過ごすことのほうが価値があると思うのかだよね

 イギリス人は頑固だけど結構そういう「自分」って言う価値観持ってる気がします。

 そういうところ素敵だと思って観察してる毎日です。

2010年4月22日木曜日

人生の終電に乗り遅れた時



  写真は今住んでる部屋です、ちょっと汚いですけどゴメンナサイ。
 
 逆サイドのコーナーにはジョゼというポルトガル人が住んでいます。


・36歳の男がまだ独身という心境を正直に書くと

 それはズバリ、

「飲み屋で飲んでいて終電をあきらめた時の心境」

 35歳までは、今年に何とか結婚できれば滑り込みセーフで俗に言う「人並み」の人生に

 戻れるかもしれないって思ってた。

 今ここであわてて人生の清算(要は居酒屋のお会計)をしてJRまで終電を目指す人達と一

緒に小走りで走れば、何とかなるだろうっておもってた


 もし子供ができて20歳になってもまだ60歳前だから何んとなかるだろう。

 親戚にも「やっと結婚したか」

などとなんとなくこれで一人前みたいな扱いをされるかもしれない

 
銀行にも何とか家のローンを組ましてもらえるかもしれないし
 
 
生命保険もそんなにリスクの高いお客とは思われないかもしれない

 
 要は35歳までに結婚するってことは人生の終電に乗り遅れなかったということになる

 家に帰っても6時間ぐらは眠れて、次の日も何事もなかったのように普通の人生に戻ることが

 できる。

 
 でも僕はその終電に乗り遅れてしまった、

 ズバリ今の心境は? ときかれると

 「まんざら悪いものでもない、どうせもう終電には乗れないんだ、

   焦ったりイライラしてお酒を飲む

   必要がなくなったのだ、朝までここに居るしかないんだ

   もう一杯飲みなおせるし、なんならもう一軒行ってもよいよ!」

 
 っていうかんじで、今まで終電を意識して焦って飲んでいた酒がまたおいしく感じる瞬間

  それが36歳の今の心境。


 その先の事はわからないし今考えてもどうしようもない。

 
  ついでに書くと、36歳で初婚よりはバツイチのほうが社会と女性からの評価は高いと

 聞きました。ちゃんと苦労して人生勉強もしてるな!

って前むきに考えてくれるみたいです。

初婚だと、「この人何かあるんじゃないか?」

って思われるみたいです。 別に何もないつもりだけど、自分に何かあるのかな?

 いずれにせよ今はもう終電に乗り遅れて一軒飲みなおすつもりでイギリス来ちゃってるから

 なんとなく気が楽です。今が輝いていれば未来も輝くことでしょう!
 

2010年4月21日水曜日

初日に思ったこと


 ロンドンのヒースロー空港について、そこから乗り換えてマンチェスター空港、

その後電車で

2時間かけてHULLというこれから半年研修を受ける所までやってきました。

 イギリスの知識は僕は全くなしです、よくここまでたどり着いたなー! 

って思います。

 電車に二時間ゆられているとき、イギリスの家はみんなレンガなんだなー!

ピーターラビットの絵本

みたいだし、

なんかディズニーランドの入ってすぐのお見上げ物屋さんみたいだなー、

あんな家に住んでる人はどんな人なんだろう? 

ってボーッと電車の中から創造していました。

 その二時間後、今回の研修所について、連れて行かれたドミトリーがこの建物です。

まさか自分がピーターラビットになるなんて! なんとなく自分達のドミトリーだけは

普通の建物が待っている、って思っていました。

でもよく考えたらそんな建物一軒も無かったものね。

 
その後に昼間に車で走って気がつきました、

新築の家も同じようにレンガで立ててあるってことを。

 伝統を大事にするイギリスって偉いなー、って思いました、

新しい物よりも古い物に価値がある、

日本人も同じ感覚持っているけど、今の日本人は忘れかけているかもねって思いました。

 単に地震がないっていうこことだけではないんだね。

 このドミトリーもすでに100年以上は建ってるみたいです。 かっこいいよね!

結婚とトルストイについて



 写真はイギリスのたばこや?みたいなかんじかな?パブなのかな?


 人種差別や植民地の事だとおもうけど、昔トルストイって人が支配する側に

立って言った言葉で

 「わたしはとてもあなた達を助けたい、そのためならどんなことでもする、

でも唯一できないことは、今現在乗っかっているあなた達の背中から私が

下りることだ、それだけは絶対にしたくない、

それ以外なら何でもする、私は本当にあなた達を救いたいのだ」


 だそうです、なんて身勝手な偽善的な発想だろうって思っていたけど、

その時に一緒に居た他の人が言っていました。

 トルストイの発言はまだましだ、彼は他人の背中に乗っかって、

人に苦痛を味あわせながら今の自分の生活があることを理解している、

しかし最も罪深い人達は、自分達の生活が他人の背中にの

かって居ることで成り立っていることにいまだに気がついていない人達だ。

 って言っていました。

 植民地時代って誰が誰を支配しているかって明確だけど、

現代ってもう植民地なんて古いものね。

 だから経済的に強い国が途上国や弱い国から吸い上げているって

  ことになるから、今現在他人の背中に乗っかっていて、

しかもそのことにすら気がついていない人達ってきっと日本とアメリカだと

 思いました。

経済っていう合法的な方法で弱い人達から搾取したものは自分達の努力の結晶なのだか

ら恥ずかしいお金ではない。

もちろんそれはそうだけど、最近はそれが進みすぎてしまっていると思います、

しかも日本に関して言えば、吸い上げている側の日本人も結局はお金に支配されていて、

自分達が幸せとは思って無いものね、そうなると、誰が本当に幸せなのか?

 と思ってしまうよね。

 
もうひとつの見方も提案します、

日本と並んでもう一つの無意識な迷惑国のアメリカ人が言っていました

 「ウラは国際協力とかボランティアとか言ってるけど、

そんな目先なことよりも、幸せな結婚をして、

 正義感のあることどもを育てることが結局は世界平和につながる近道だと思わないのか?」

 それは最もな話だと思うんだけど、そこでまた最初のトルストイの話にもどってしまいます
 
 「背中に乗って居ることすら気がつかない人達が最も悪なのだ」

 今の日本で普通に結婚して普通に日本で子供を育てることって

 結局は弱い国の背中に乗ってしまうことになるんだよね。

 しかも今日本で普通に子供を産んで、普通に高校まで卒業させて、

 何なら大学行かせて、マンションのローンも払い終えて、

 老後の蓄えもあって、っていう普通の生活を維持することって相当

難しいよね。

っていうか僕の能力ではってことですけど・・・

 まあ結局は自分が結婚できてないこととか、

 社会に対応しきれてない言いわけにトルストイに登場し

てきてもらって大げさに言いわけしただけの気がしてきました。

そろそろ結婚と子育てっていう人生の「王道」にチャレンジすべきなのかな? 

でもできるかなー!
 

とりあえずは自分より賢い女性を探すことぐらいしか人生の大逆転は無いかもね。

でもおそらく僕の事を選んだ時点でその女性はすでに賢くないということになるだろう

ね・・・ この問題は国際協力よりも難しいと思います

ヘリコプターでチョモランマ!




 写真は集めた古着をみんなでパッキングしてるところです。
 
 イタリアからきたアンドリューとブラジル人のアルツーです。 働きながらだと言葉も意外と早く覚えられます。 僕の場合は教室では覚えられないみたいです。


 バブルのころに起こったことって登山に例えると、

チョモランマの頂上にヘリコプターで行って、

頂上に自分の旗を立てて、俺はチョモランマの頂上に立ったんだぞ!

 って言ってるようなもんだったよね。


 そこまで歩いて登ったから旗を立てる資格があるのに、

ヘリコプターで行って登ってもあんまり意味がないよね。

 同じように登って同じ空気を吸うけど、ヤッパリその意味は違うと思います。

ふつうならプライド持てないよね。

 でもお金儲けは決して悪い事ではないとも思います。

 じゃあどこまで現代の科学に頼ってチョモランマに登れば良いのかってはなしにもなるよ

 一番平等なのはみんな裸で海からスタートして頂上を目指せばシンプルだけど、

 それは不可能だし、

 5合目というのがチョモランマにあるのかはわからないけど、

  そこまでなら車使ってもOKとか

 スノーモービルは7合目までならOKだよとかってなってくるよね。

 オリンピックみたいにドーピング問題とかも出てくるかもね。

  だって自分の人生を縮めたって良いからチョモランマの頂上に行ってみたい! 

 点滴で酸素とエネルギーを補充しながらでも登頂したいって

 思う人もいるだろうしね。

 そんなこと考えること自体が神聖なる登山を侮辱してますね、ゴメンナサイ。

 でもヤッパリチョモランマをヘリコプターで登るような人生はしたくないよね。

2010年4月20日火曜日

どこ基準で辛いんだ!?


   写真は今研修してるイギリスのHULLっていう田舎まちです。
 
 ゴッホの絵みたいな風景が広がっていて、のんびりした住みやすい町です。
 
 11月まで半年間ここで研修があります。



 ジョゼとイタリア人が朝食の時に今のイギリスが寒いのか寒くないのか?

 アフリカ人からしたら寒いし、スウェーデン人からしたら暖かいっていう話を朝一から

 激論した次の日の夕食でアルバニアから来てるドーランドが言った。

 「今日のスープは辛いな」

 すかさずジョセが

 「辛いっていうのは、どこの誰の基準で辛いんだ?」

 ってまた言いだしました。 めんどくさいテーブルで飯食っちゃったなって思ったけど

 時すでに遅しでした。


 「ヨーロピアンは辛いのに慣れてないんだよ」

 ドーランドが言いました。 ジョゼが

 「インド人は毎日カレー食べてるからこんなの辛くないはずだ、韓国人もそうだ!

  ところでウラは今日のスープは辛いとおもうのか?」

 「まあちょっと辛いね」

 「なんでお前はこのスープが辛いと言えるんだ?」

 とこっちにまでとばっちりが、だったら聞かなきゃよいのにね。
 
 まあその後はジョゼとドーランドが僕の知らない言葉で何か話しだして、嬉しそうに笑って

 いたから問題は無かったみたいですが、結局はそうやって言い争って遊んでるだけみたい

 だからイチイチこちらが気を使う必要はないのかな?って思いました。

 

2010年4月10日土曜日

朝一の会話



写真はジョゼです、ポルトガル人、天気が良いとこうやって日光浴をしてます。
 フランシスコ・ザビエルに会ったことはないけど、きっとこんな顔してたんだろうな?
って思います。




朝飯を食べていたら隣に座っていたジョセが言った、
「ウラ知ってるか、ありがとうって言う言葉はポルトガル語なんだぞ、ポルトガル語でアリガトウっていうのはこんにちはっていう意味なんだ」

 だから昔にポルトガル人が日本に来た時に 「アリガトウ」 って挨拶したら、日本人は警戒心を解いたんだぞ! って言ってきました。
 
 ってことは別にありがとうはポルトガルから来たわけではなくて、タマタマ同じ発音が友好的な意味だったから何とかなった
 ってことだろう? って思ったけど、それを聞いていた向かいに座っていたイタリアの親父が

 カンガルーって言う言葉はオーストラリアの先住民の言葉で、わからないって言う意味らしいぞ、イギリス人が来たときに
「あれはなんだ?」

 って聞かれて現地の先住民達がわからない? って言おうとして「カンガルー」って言ったのをイギリス人が、あれはカンガルーっていう動物だって勘違いしたみたいだ。それがイギリス人達のやり方だったんだ!

 って言っていました。僕のつたない英語力と少し異常な想像力で理解するとおそらくそういう内容のはずです。

 ちなみに昔いたバヌアツでは海の事はオーシャンでもシーでもなく、ソルトウォーターって言います。

 簡単にイメージできるよね、バヌアツ人が海を見てこれはなんていうの? って聞いたときにタマタマ海水はショッパイって思っていた侵略者達が、「塩水」ってこたえたのか、それとも湖と比較して答えたのははわからないけど、そのままいまでもソルトウォーターになっています。

 
 話は戻ってイタリア人の親父が「それがイギリスもしくは侵略者達のやりかたなんだ、だから世の中には真実では無い言葉が沢山ある」

 みたいなことを行っちゃったからジョセが

 「俺の話は本当だ、日本語のありがとうはポルトガル語だ!」

 って言い張ったから、朝飯でテンションの低かった僕には少し面倒な会話になってきました。

  ジョセが

 「よし、今日の気温は10度だとしよう、これを寒いというか、厚いというかどっちだ? そう考えると世の中に正当な意見など
無いし、真実なんてないんだ、だからありがとうはポルトガル語であるはずなんだ!」

 みたいなことになってきました

 よせばいいのに隣のテーブルにいたスウェーデンのおっさんが

 「俺はスウェーデンからきたから10度は温かいとおもうけど、もしアフリカから来てから10度は寒いだろうな」

 って言ったから、話は益々混乱しだしました。

 イタリア人の親父はテーブルにあったナイフを横にして、人さし指でバランスをとりながら、 結局はこのバランスが必要だ

 このナイフで言えばここが妥協点なんだ。だからここがグローバルスタンダードだ! ここが10度だとするとそれ以下は寒いということにして、それ以上は熱いということにとりあえずはしているんだ。
 
 僕の意見は

 「真実はそれぞれの心の中にしまっておくべきだ、みんなが自分が真実だと思ってるなら、それを尊重して、何も自分があってる
って朝の一番から他人に強要するのは人生にとってもマイナスだし、だいたい相手にとっての尊敬の念が無い、その前に面倒くさい」

って思っていました。 でもその自分に意見ををきちんと話さないのも尊敬の念がないのかな?って思いながらの、自分の英語力と朝一番の平和的な気持ちで、この会話に飛び込んで行ってもろくなことは無いと思ったので、聞き役にってっしていました。

 その後に隣のテーブルのスウェーデン人の親父が、その会話から上手くフェードアウトして朝飯のお替わりを取りにいったので、

 自分としてもなんとなくこの場を離れて二人で話し合ってもらったほうが良いかな? って思って、席を立ちました。

 
 その後に食器をかたずけていると、今度は2メートルぐらいある人が

 「俺の名前はナニナニだ(ゴメン忘れてしまった)」

 ってあいさつしてきたので、僕はウラです日本から来ました。っていったら

 「それは凄いな、お前みたいにデカイ人はみた事は無い!」

 って言われたので、二メートルに言われたくない!って思ったけど、まあ日本人にしてはデカイって言う意味だろうな。

 って思いました。

 それが今日の朝の出来事です。  みんなお話好きなんだな!って思いました。

親父


 イギリス編とは関係ないけど、昨年の6月19日に親父が亡くなりました。

 協力隊からテルヒロが帰ってくるまでは頑張る!と言って、昨年の秋からは

 前向きな治療は体を痛めるだけになる、ということで癌への治療も終わってしまい

 自らホスピスへ行くのをためらって、僕が戻ってくる1月まで必死に痛みをこらえていた

 ようです。

 今まで8年間、4箇所の転移に6回の手術を乗り越えて

 「前向きに戦えば克服できないものは世の中にない」

 という気合いの元で頑張ってきたのだと思います。

 だから癌の治療が終わってしまってホスピスしか行くところが無くなっても

 ホスピスという前向きでない治療に自ら進むこともできず、とりあえず僕の帰りを

 待っていてくれた親父は流石だと思います。
 
 だから僕が帰国して

 「今まで良く頑張ったんだから頼むからホスピスに行ってくれ」

 って言われてほっとしたのかもしれません。自分で決めたわけではないからね

 姉の勧めもあって、強引にホスピスへ連れて行ったのは2月になってからだと思います。

 そこから半年、「壮絶な」と言いたい所ですが、親父と息子のいい加減な闘病記は決して

 真面目に癌と戦っている方々にはおみせできない内容になってしまいました。

 今日からイギリス編としてブログを書きだすなかで、親父の話も結構入れていこうと

 思っています。 イギリスの話じゃ無いじゃん! って思うことも多いと思いますが

 許してくださいね!

 

ここからイギリス編です


 一年ぶりにブログを書きます、前回の最後は2009年の一月の末だったかな?
 
 早速ですが昨日イギリスに到着、今回はイギリス人のやってるボランティアへの参加です。
半年研修して、その後の半年マラウイに行きます。

 研修が正式に始まるのは5月からなんだけど、早めに来ても良いよ! ってことなので

 4月の8日に来てみました、たぶん20名くらいで研修が始まると思いますが、今のところ

 来ているメンバーは

 リトアニア人

 フランス人
 
 ブラジル人

 日本人 自分も含めて 二人

 カメルーン人

 って言う感じです、最終的には20名くらいになる予定です。

 きっと後半に来るのは韓国人とかの先進国の人だと思います。(フランス、イタリアもそうだけど)

 とりあえずそんな感じで始めます。のでこれからもよろしくです!