2013年7月30日火曜日

柔道、人としての一流と選手としての一流

1984年のロサンゼルスオリンピックの柔道で金メダルを取った山下は
 エジプトのラシュアンと決勝で戦った。

 山下は右足を怪我していて、ラシュアンはその右足を責めずに結果的に

 銀メダルだったということで、 国際フェアプレー賞をもらっている。

 本当はラシュアンは右足も責めていたらしいが、基本的には責めなかったという解釈。

  先日に大学のセミナーで25名くらいの学生を対象にラシュアンの行動について           
賛成か反対かを聞いてみた。

  柔道のオリンピック決勝で相手の選手が片足を引きずっていた場合にその足を

   ●当然責める 
   ●仕方なく責める
   ●特にそちらだけ攻めるようなことはしない 
   ●そちらへの攻撃は避ける

  という4択だった。

  10名程の学生が 当然責めるだった、1名が避ける、後はその間。

  よく考えてみたら今の20歳くらいの学生は柔道の山下の金メダルは
 
  知らない世代だった。

   「実はこれは実際に84年おオリンピックであった話で、

  エジプトのラシュアンは山下の負傷した右足を責めずに、結局負けてしまった」

  という事実を伝えたらみんな驚いていた。 学生から出た意見は
 
  ・情けをかけられて勝っても相手は嬉しくない

  ・オリンピック代表になるには国の代表なのだから金メダルを取ることは当たり前、
  もしラシュアンがエジプト人ではなく中国やソビエト連邦の選手なら絶対に責めたはず

  ・怪我をしないことも競技の重要な要素なので、怪我した山下の自己管理が悪いので責める

  ・本当に痛いなら棄権することだってできるのだから責めても構わない

  ・相手の弱いところを責めることは卑怯である、
   それで勝つと柔道家としては一流だが、人としては二流だ
 
  ・ラシュアンの心の中に怪我したほうを責めなくても自分は勝ってみせるという自信があった
 
  ・オリンピックはプロではない、勝つこと以上に大切なものがありそれを失ってはいけない
  
  ・ボクシングだったら相手の弱っているところを責め続けるのは当たり前
 
 
   というような意見でした。 あとは柔道は基本的には個人スポーツであることもラシュアンに

   山下の右足を責めさせなかった理由の一つかもしれません。 もしこの柔道が5人の対抗戦で

   日本、エジプトが2勝ー2敗での大将戦だったら全く考え方が違うとおもいます。

   その大将戦で自分の国の大将が相手の弱いところを責めずに負けたら、自分はその人を

   一生責めると思うものね。  「痛み無くして、得るもの無し」が競技スポーツの基本です。

    このレベルだとみんなどこか痛いものね。

    
   オリンピックで医療チームも待機しているのだから、死ぬことなんて絶対に無いし、

  対抗戦になると背負っているものが全く違ってくると思います。

     学生からはイロイロな意見が出てきて面白かったです。答えは無いけど事実としては

   山下は金、ラシュアンは銀でした。学生の反応は事実とは逆でなかなか面白かったです。



 



2013年7月10日水曜日

「天下取り大会」

 日本人の性格についてずっと考えているのだけど、最近自分のなかで一つの考えが深まってきたのでまとめるために書いてみます。

 それは日本人が「天下を取る」というスポーツ競技のようなものを作って天皇陛下に審判をしてもらって、国民全員参加でやってきたとてもユニークな国なのではないのか?という仮説です。

  だってヨーロッパを中心に世界で何千年と行われてきた戦争の基本は侵略だよね。 領地を拡大し植民地をつくることが主な理由だと思います。
 
 でも島国日本で江戸時代まで行われてきた戦争って、基本的には誰が天下を取るか? というプライドをかけて国全体でやってきた大規模な国民参加型のスポーツみたいなものだと思います。 

 だって島国だし、それ以上拡大できないから今いる中で一番決めるだけで良いものね。

 だってすでに「日本」という国は「天皇」のもとにまとまっているからね。

 ルールといえば

 例えば負ける方は白旗を振って降伏したり、

 その前に女子供は先に敵に渡したり実家に帰らしたり、

 大将が切腹するからあとの家来は許してもらったり、

 フェアープレイに徹するためのルールみたいなものがあって、

 そして競技の前提として

 「大義名分」というその試合が始まるための理由も必要で

 最終目的はあくまで

 天下を取って天皇陛下に「あんたが大将!」という金メダルをもらうために

 お家というチーム対抗で必死になって戦争ごっこをする。

 という面白い国民性だったのかも知れません。

  ヨーロッパの国が世界中に領土を広げて植民地を作って、自分の国を大きくしようと闘ってきた500年くらいの間に、日本だけそれを競技として「天下取り」というスポーツをしてきたのだろうね。

  ・戦が始まると自分の名前をきちんと名乗ってから討ち合ったり

  ・源義経がサムライだけでなく、戦の船を漕いでいる船頭さんをも戦闘員として

 みなして攻撃したりして、それがと当時は反則ギリギリだけど新しい戦法として認められたり

 ・小田信長の鉄砲三列戦法は少し助っ人外人的というかドーピング的というか、

  「鉄砲使っちゃったら競技の本質が変わってきちゃうじゃん!」

 という風にとられてしまって、一瞬微妙な雰囲気もあったが勝てば官軍ということばで何とかOKが出てしまったり。

  みんなでそうやって天下取りというスポーツ競技を楽しんできた気がします。

  西洋の戦争が「欲の為」だったとすれば日本の戦争は「プライドの為」だったのかもねだって目的は日本を平和にするということよりもとりあえず天下を取るという自己実現だものね。

 そうやってもともと国民参加型のスポーツを国全体で行ってきたから人一倍フェアー精神とかモラルとか、ルールを守ることなどは徹底されてきたのだと思います。

 宗教がないのに何故モラルが高いのか?神がいないなら生きる目的は何なのだ?
 
  と西洋人から不思議がられるかもしれないけど、我々は「天下取りごっこ」を生甲斐としながらお互いに技を磨いてやってきたユニークな国民なんだ。 と思います。

 

 

2013年7月9日火曜日

「今でしょ!」的人生論


    先日あすならラボという番組で 「今でしょ!」の林先生がヤンキーに授業をしていた。

  林先生が 「努力は裏切らない」という言葉は不正確だ
   
 「正しい場所で」 「正しい方向で」

  「十分な了なされた努力」は裏切らないが正しい。
 
 どういうことかというと 僕がジャニーズになろうとして努力することに意味があるか?

  と言っていた。 完璧なたとえだなー と驚かされた。 自分の考えを

   相手にどうやって理解してもらうかを常に考えているから出てくる例だと思った。


  「 好きなことは趣味でやればいい、 仕事というのはお金をもらってやることだから

  相手に対して責任をとらなければならない。」

   とも言っていた。 

  自分のやりたいことと、自分が得意でできることは違う場合もあるのだなと改めて実感した。

 そして予備校の先生が人生を語り、学校の先生が人生を語りにくくなった日本の教育は

  これからどうなっていくのかと感じる。

  

 


忍耐力とは?

昔に椎名誠さんが書いた「岳物語」という本を読んだことがある。

 まだ僕が中学くらいだったから25年くらい前かもしれない。

 そうとうあやふやだけど

椎名さんの息子の岳くんが学校に適応できないと面談で言われる話だった

 「学校には遅刻する、授業中は落ち着きがなくじっと机に座っていられない」

 と、担任の女教師に椎名さんが相談されるというものだった。

 しかし休みの日に大好きな釣りに連れていくと、朝は起こされるよりも早く起きて

 釣りの間はたとえも2時間でも3時間でもじっと獲物を待っているそうだ。

  それを見ていた椎名さんは岳くんはけっして朝起きれない訳でもなく、忍耐がない
 
  わけでもなく、単に日本の学校が向いていないと思ったそうだ。

    型にはめる学校ではなくて、自分の能力を伸ばす為の学校があれば

   良いのにと感じる。少しずつ変わっていかないとこれからグローバル化が進むと

  日本人は外国人に負けてしまう気がするな。 

   知識を入れることと考えて発言することは同時にやるから相乗効果が生まれるのだと

  思います。 日本はとりあえず大学まで入れることしかしないから急に大人になって

  発言しろといわれてもできないのだろうね・・・・ 少しずつ変わっていけば

  よいと思います。