2010年5月10日月曜日

癌の宣告

 出家した親父は

正座のタコが持病の糖尿病のせいで血行が悪くなおらずに、脚の脛が膿んでしまい。

 久しぶりに下界に降りてきたが、すでに血糖のコントロールができなくなっていて、

 ドクターストップ、それでも周りの人達の助けとおそらくそれなりに本人が頑張って

 いた事が認められて、何とか一年間の修行でインチキ坊主としての

資格はいただいたようだった。

 下界に降りてきてすぐに口内炎が治らずに町医者にいったら、その場ですぐに紹介状

を渡されて大学病院で検査。

 出家した時に離婚してたので、その時に埼玉にいた僕と実家の大阪で親父と暮らしてい

姉の三人で癌の宣告を受けた。

  
 「手術、抗がん剤、放射線治療、と言う三つの選択肢プラス何もしないという選択肢も

あります。

 もちろん治療するにあたってはこの三つを状況によってミックスして行います。」

 と言うことだった。

 「もし5年以内に再発すると、そこから3年、2年と再発する間隔が短くなることも

考えられます。癌は命にかかわる病気です、いい加減な気持ちでは治せません。」

 

 病院の帰りに家族三人で南千里で池のある大きな公園で途方にくれて座っていたのを

思いだす。 

 親父は良く言っていた

 「最初に宣告してくれた先生がボカした言い方をしないでキチンと正直に淡々と伝えて

くれたのが俺にとっては本当によかった。たいして貫禄のある先生では無かったし、

まだ30半ばくらいに見えたし最初に見た時は頼りなさそうな人だな、って思ったけど、

人間としての強さと誠実さがあの先生にはあった」

 と話していました。その先生は親父の手術をした後に他の病院に移ってしまったけど

 親父は癌が再発するたびに

「あの先生とももう一度話したいなー、どうすべきた聞きに行こうかなー」

 とつぶやいていました。

修行、大学、病気から学んだこと

 
 癌で修行をあきらめた親父が近所にあった関西大学に3年生から編入して

哲学を勉強して卒業、そのまま大学院にも通っていた、7年間ほど在籍して癌の再発

の為に三回休学した。

 「卒論だけ出したら大学院も終わるけど、そしたらもう大学に行けなくなるから、

 出さんままにしてるねん、別にいまさら卒業証書もらっても何の意味もないからな、

学生達と一緒に入れるのが楽しいだけやからな、

それにしても最近の学生は良く勉強するわ、俺らの頃とは全然違うわ」

 と言っていました。

癌と共に生活した8年間に親父は出家してお寺で修業するのと同じくらいかそれ以上に

人生について考えたのだと思います。

犬のおまわりさん


<写真は親父とは全く関係ないバヌアツの頃の写真です>
 

2006年の春に会社を辞めてから、協力隊の訓練が始まるまでの半年間、

 親父の4回目くらいの癌の転移の手術があったので大阪で一緒にくらしていた。

 癌は転移すると、手術のたびに一番最初に見てもらった先生まださかのぼってお伺い

を立ててから手術するので、今回は肺の手術だけど

最初の舌癌からリンパへの転移をみてくれた病院へ行ってそこの先生の意見を聞かな

ければならない、親父の場合は舌癌を手術してくれた病院では肺がんの手術はできないの

で大阪大学に紹介されてそこで肺がんの手術をすることになっていた。


 毎週のように病院の予約を取って検査を受けて2週間ごに検査の結果を待って、

 過去の病院に話を聞きに行く。 と言うことを繰り返していた。

「こんなことしてるうちにも癌はドンドン進行している、結局は手術できるってきまって

から、今度はまた手術の順番待ちすることになる!」

 転移が見つかってから実際の手術まで2カ月以上かかってしまうのが現状でした。

 その日も11時半の病院の予約が結局2時になって、親父はその間ずっと愚痴。

「お前だったらどうする?」

 を連発するから、心の中では

 「自分だったら死にたいな」 とこっちも言いかえしたいたい気持ちをぐっと抑えて

「ウーン、難しいな」


 と演技していましたが、結局はその演技が親父のイライラをさらに募らせます。

 でもそれが最低であり最高の返事なことは間違いないです、

余計なことを言ってはいけないのです。


 やっと名前をよんでもらって、20分の診察時間のところを親父は40分話こんでいました。

 みんながこうだったら11半の予約が2時になるのも当たり前だな。

 と思いながらも病院の先生達は時間も気にしないで、親父の話がおわるまできちんと

聞いてくれます。

  まあ先生も途中で息抜きしてくれてるんだろうけど、それにしても医者と言うのは忍

耐の居る仕事だなー! と僕はいつも感謝するとともに、関心していました。

  
 その日の帰りに親父の通院の為にかったビッグスクーターの後ろに親父を載せて

二人で病院から帰ってるとき、親父が鼻歌を歌っているのに気が付きました。

 「ニャン ニャン ニャニャーン! ニャン ニャン ニャニャーン!

泣いてばかりいる子猫ちゃん、犬のおまわりさん、困ってしまって

 ワン ワン ワワーン! ワン ワン ワワーン!」

 このフレーズをずっと僕のバイクの後ろでずっと繰り返していました。

 本人は全く無意識だったとおもいます。

 あれはたぶん6月で暖かくて西日の綺麗な病院の帰り道でした。親父は先生に話を

聞いてもらえてことと、診察が終わったことで気持ちが楽になったのか、神経質だった

行きとは全く違う気持ちになっていたのでしょう。

 
 運転しながら親父の鼻歌に気がついてしまった時

 「ふざけんなよー、親父!」
 
 って思って笑ってしまったけど、ヘルメットはフルフェイスなので親父は僕がニヤニヤ

していることを親父は気がつくはずもなく、僕は一人で

 「帰ったらすぐに姉ちゃんに電話して、このことを伝えよう、きっと姉ちゃんも

 お父さんらしいね! って喜ぶだろうな」

 って一人で笑っていました。そしてその通り、その晩に二人で大笑いしました。
 
 それがうちの親父です。笑える人でした。

 

 

毎日僕に会えますよ

 舌癌、リンパ、肺と7年間続いた癌の治療もすでにこれ以上は体を痛めるだけになる

のでできません。とホスピスを紹介された親父は本当に落ち込んでいました。

 そのまま行かないで一カ月が経ち、ついに姉が予約をとってくれて僕と二人で

淀川キリスト教病院に行くことになりました。

 「入院でも良いし、通院でも良いです。」

 と言われて親父は絶対に入院しない。


 と言い張っていました。

 そして通院生活も二カ月が過ぎ、薬の副作用とか食事とか倦怠感、不安などそろそろ

 なにか改善が必要になったときに先生が提案してくれました。

 「二週間ほどホスピスに入院してもらって、薬の調整と体調を整えてから、もう一度

 家に戻る方法もありますよ」

 と言ってくれました。

 親父は入院すると二度と家に戻れないとおもっていたので、散々粘っていましたが、

 僕は既に4カ月以上も自分の時間が無かったし、床ずれによる肩こりとか、オキシコン

チンという痛み止めの副作用の便秘など限界だったので、本当は一度入院してほしい

と思っていました。 僕自身に少し時間が欲しかったです。

親父は先生に

 「入院して何か良い事があるんですか? なんでそんなに進めるんですか」

 と言いわけがましく聞いていましたが。

 先生の答えは

 「ウーン、特別なことは何も無いですけど、しいて言えば通院だと二週間に一度しか

僕に会えませんが、入院してくれれば毎日僕に会えますよ」

  結局その日は親父が粘って、先生もそんなに無理強いしなかったので、

入院はしなかったですが、帰りのタクシーのなかで親父は一言

 「ああやって患者に言えたら、あの先生はホスピスの先生としては一流やな」

 と少し嬉しそうに話していました。

 僕も本当にそう思いました。
 
淀川キリスト教病院の先生と看護師さん達には本当にお世話になったと思っています。

 

薬では治らないこと

 二週間に一度のホスピスの通院で、親父はこの二週間の症状を訴えます。

 痛み、床ずれ、便秘、倦怠感、など親父は家では散々僕にぼやいていますが、

 それを先生に伝えても、新しい薬が増えるだけなので、親父はなるべく症状は軽めに

言います。

 それを後ろで聞きながら、

 「嘘つけ、この二週間毎日のように僕に、ここが痛い、これが嫌だ、どうしようもない」

 って愚痴ってたじゃないか!

 って思いながら、親父は薬が増えるのが嫌なので、言って無い事はわかっていたので、

 後ろで黙って聞いていました。

 先生が

 「浦さん、もし倦怠感とか湯鬱とか恐怖感とかが強くなってきてるのなら、

 安定剤みたいなものがありますよ、それを飲んでもらえれば少しは気持ちが楽になる

 と思いますよ」

 と提案してくれます。

 僕は親父に毎日愚痴られて、しかも言われっぱなしで最後には結局

 「お前にはこの気持ちはわからないだろうな」

 と言われるのはいい加減に嫌だったので、できれば飲んでほしいと思っていましたが、

 そこは親父の意思に任せるべきところなので、黙っていました。でも一度だけ

 あんまり親父がヒツコク
 
 「どうせお前にはお前の気持ちはわからないと思うけど、お前だったらどうする、

  ただ死ぬのを待つだけだ、生きていても意味が無い、お前だったらどうする?」

 となんどもきかれたので、いつもは僕は
 

 「は―!とか、イヤー!」

 とかってぼかしていたけど、その時だけは

 「悪いけど、お父さん、そう言われたってわかるわけ無いじゃん、しかもこっちが何も

言い返せないのわかってて、何回も聞くのは失礼だ、言い返せないのわかってるのに何回

も聞かれると、なんかこっちがいじめられてるみたいな気分になるから辞めて欲しいよ!」

 って言ったことありました。


 ホスピスでの新しい薬の提案を断ることに対しても

 「お父さんは目の前に先生が沢山薬っていう洋服を並べてくれてるし、

着てはどうですか?

 って提案してくれてるのに、それを全く来ようともしないで、ずっと裸で

 寒い! 寒い! って言ってるようなものだよ、寒いんだったら服着れば良いのに

 って僕はいつも思ってるよ。 お前だったらどうする? っていつも聞くけど、

僕だったらとりあえず服を着てみるけど、お父さんは着るの嫌なんでしょ。

だったら僕にどうしたらよい?って聞かないでよ!」

 って言ったこともあります。

 でも僕にもわかっていました7年間の癌の治療の中で、親父は安定剤も試したことが

あるし、それ以外の薬もお医者さんに提案されて色々と試していて、自分のなかで、

 それはあまり効き目が無い事はしっているから飲まないだけなのです。

  
 だから僕があまりそういうことをいって、親父が愚痴を言えないようにしてしまうこ

 ことはあまり良くないとはわかっていました。

 だから僕も毎日は厳しく言わないけど、ときどききちんと話しておかないと、単に

親父が可哀そうだからと思って、ずっと愚痴を聞いていても、お互いに良くないし、

 親父もそれはわかって居るから、たまに僕が厳しく言うのは納得済みでした。

 言われた後は親父も少し安心したような雰囲気があります。

 まあ効き目は三日くらいで、すぐに元にもどるけど、それはそれで良いのです。

 
 病院で先生に安定剤を勧められたときに、親父が僕のほうを振り返って

 「テルヒロはどう思うか?」

 と聞いてきました。

 その時僕は
 
 「親父の愚痴とかボヤキは癌になったからではなく、生まれつきのものなことはみんな

 が知ってるし、安定剤は心の病気には聞くと思うけど、病気ではなくて持って生まれた

 人間性には聞かないとおもうから、飲んでも意味ないかもしれない」

 
 と答えました。

 先生と看護師さんは笑っていました。

 親父も嬉しそうでした。

  「これでまた次回まで二週間は愚痴聞かないといけないな」
 
 って思ったけど、結局親父にとって一番大切なことは家事をしてくれる人よりも
 
 愚痴を聞いてくれる人だということはわかっていたから、自分としても納得できました。

 親父も帰りに
 
 「お前もなかなか上手い事言うな!先生達喜んでたな!」

 と褒めてくれました。 上手い事言ったつもりではなくて、事実を言っただけですが・・

 今はあの時が懐かしくも感じます。