2010年5月27日木曜日

組織と個人

 個人と組織 日本

 大企業でバリバリ働いている人がいる、大企業はそれだけ多くの人を管理しないと

いけなくなるので、出勤時間、退社、残業からはじまって、領収証、上司への相談、

根回し、その他もろもろで仕事がなかなか前進しない。

何かトラブルが起こるたびに対策委員会みたいなものができて、

再びおこらないように対策を練る、対策を練る人は練ったことが大切なのであって、

次に再びその問題がおこったときに責任を取らされたくないので、

あまり現場向きではなくて、強引にきめてしまう。

現場で使えるルールかどうかは関係ない、

自分の出世の為には現場でそのルールが守られようが、そうでなかろうが関係ないのだ、

守られなかった場合には、守らなかった現場のせいにしてしまえ!

って言うことになる。

 フェミレスで働いていた頃に肉類は20分以上常温放置してはいけない、

っていう規則があった、それを全国に1000店以上ある

ファミレスで統一することは難しい、夏にできたであろうそのルールは

冬になっても全国で守られている。バイトの人に言われた
 
 「ウラさん冬になったら冷蔵庫は5度だけどキッチンの朝一番は0度以下ですよ、

冷蔵庫の中のほうが暖かいです、それでも20分のルール守るのが社員の仕事ですか?」

 たぶんそれを守ると会社の中では一流になれたかもしれないけど、

人間としては三流になっていただろうと思う。

何か新しい規則ができるたびにまたあたらしい抜け道を誰かが考え出し、

結局はその規則を守るための規則がまたできていく、実力があって、

自分で何でも判断できる自信のある人にしてみれば、

歯がゆい事が多くなって独立したり、多少小さい会社でも、

もっとクリエイティブに仕事ができて、上司にイチイチ相談しなくても

自分に決定権がある職場に移りたくなることもあるだろうし、移る人もいると思う。
 
 「事件は会議室でおこってるのではない、現場でおこってるんだ!」

 って名セリフだと思います。

 しかし移った先では自由が利くが、予算の管理がずさんだったり、

自分を評価して引き抜いてくれた社長が意外とワンマンで合理的よりも

自分の機嫌で物事を判断するから、常にご機嫌を取らなければならずに、

個性的で独創性のある引き抜かれた従業員と、

保守的で気分屋の社長が5年ぐらい経つとお互いにぶつかり合うことは良くあると思う。


 逆に自分で独立して会社を立ち上げて、それが上手く軌道に乗ると、

今度は自分が人を管理しなければならなくなり、

会社が成功して大きくなればなるほど、

もともと自分が大企業に居たころに悩まされたくだらない

規則や管理を自分自身でまた作らなければならず、

昔の自分のような独創性があって、

多少は組織にはなじまないが一匹狼でと結果を出すような

社員が少し面倒くさくなることもあるかもしれない。

 管理について昔読んだ本に

「管理するとは5匹のトラをトラのまま自分の支配下に置くことであって、

5匹のトラを羊に変えて支配下に置くことではない」 
 
って書いてました。

 巨人の監督の難しいところはそこなんだろうなー、って思います。

せっかく良いトラと契約しても、それをトラのまま巨人で使うことって難しいよね。

 そこで大切なのは巨人軍としての誇というかロイヤリティーみたいな、

トラ達が本来持っているはずの忠誠心みたいなものを上手く監督が表現して、

しかも監督自信が謙虚で献身的であることだろうね。 

原監督ってそういうところ上手だな。と思います。

 松井はジャイアンツむきだし、シンジョーは向かないだろうし。

イチローに関しては自分を客観視する能力が凄すぎるから、

おそらく巨人軍にもしはいっていたらそれに

あった選手像に自ら変化していくかもしれないね。

 まあみんな偉大すぎて、凡人では想像できませんが。
 
 ということで次回は続編で海外と日本編を書こうと思います。

日本と海外 (個人と組織の続編です)


 
  <小学校6年生、僕も同じレベルでした>




組織と個人 海外編

 別に海外の組織と個人では無いのですが、それに似た状況を書くと

日本の管理社会やくだらないルールは大嫌い、

海外みたいにもっと合理的で自分の意見をズバズバ言える環境の

ほうが自分にはあっているし、自分の能力を発揮できる!

 と思って海外に飛び出す人は居ると思います。

でも気をつけないといけないのは

日本では自分だけがズバズバ発言してヒンシュクを買って

浮いていたかもしれないけど、海外ではみんながズバズバ言うから、

一向に結論にはたどり着かずに話せば話すほど問題は大きくなります。

みんな自分の意見を通そうと、元のスタートとは全く次元の違う例えとか方向性に

話を持って行ってしまうからです。



 結局3時間話しても次の日には何も解決されないまま同じ

スタートラインから論争が始まるだけです。 いつもそんな感じです。

 それに比べると日本はキッチリとしています。

今ある問題の枠の中だけで話すからね、

とんでもなく大きな例題と比較したりすると、みんなから馬鹿にされたり失笑されるからね。

そしてお互いに相手の話をきちんと聞いてから次の人が話し出すから、

相手の話と自分の話が被らないから言い争いにもなりにくいと思います。

 朝まで生テレビはそういう面では海外の人のやり方を日本人がまねている気がします。

ショーとしては面白いけど、あの場ではあまり物事は決まらないと思います。

 テレビとしては面白いけど、昼間にやらないのはそうゆう理由もあるのかな?

 単にタイトルのせいかな? 「夜まで生テレビ」だと普通になっちゃうもんね!


 3年前にバヌアツに行く前に感じていた日本社会の堅苦しさ、

そしてバヌアツに行ってから感じた、不平等感といい加減さ、

どれほど日本が良いかと思ったことか。

 しかし昨年日本の学校で働いていて感じた公務員の難しさ、

税金を使っているから説明責任がある、

人間として正しい事をしようとすると、組織としては認められないこともある。

他の先生との足並みをそろえなければいけないし、

でる杭は打たれるし、でない杭は腐っていく、

そのジレンマのなかで毎日夜の8時、9時まで職員室に残って仕事をしている先生達。

 必ずしも生徒に人気のある先生が公務員として高い評価を得ている訳では無い、

という現実があることも確かだと思います。
 
それでもみんな頑張って居るのはヤッパリその中でも

子供の成長を感じる瞬間があるからだと思います。

日本の学校の先生は本当に素晴らしいと思いました。



 じゃあ何故今自分はここに居るのかというと、それは難しいけど、

一つの理由としては2,3年頑張るだろうと思っていた親父が、

あっけなく一学期で亡くなったこと、

2,3年も大阪で先生をしていれば、

そのまま大阪で教員を続けることになるだろうとなんと

なく思っていました。 実家のマンションもあるしね。

 でもその親父が一学期で亡くなって、姉は山口、母親は離婚して東京、

しかも自分自身は大学からすでに15年以上も大阪を離れていたし、

しかも所属していたフットボールのチームも関東だったことを考えると、

誰も家族の居ない大阪でこの先55歳まで20年近く教員をする

ことを少し戸惑ったこと。

 後は日本と同じように古い物とか

、伝統、文化を尊重するヨーロッパに何かこの先の日本の

目指すべき答えのようなものがあるのではないか? 

と感じた事もあります。

 
なんでも合理的で新しい物好きなアメリカ式に少し疲れていたのかもね。

その答えを探して納得するとともに、

教育界にこれだけ遅れて入れてもらえるとしたら、

後5年ほど遅れても許されるだろう。なんて甘い事を考えてしまったこともあります。

 でも日本で良い教育者になるためには

自分をもう少し鍛えてからのほうが良いとも思っています。


 もう一つはまだ国際協力にたいして未練があったこと、

日本で仕事するよりももっと自分の個性を生かせる仕事があるかもしれない、

と考えました。大人になったら自分のやりたいことが見つかるだろう、

って思っていた10代の頃から全く何も変わっていません。

おそらく一生何がしたいか探しているうちに人生が終わってしまうの

かもしれません。 


「振り返ってみれば結果的にはまんざら悪くもない人生になっていた」


となることを期待しています。 「人生後付け論」 なのです。

 すいません、自分の事ばかり書いて脱線しました。

 何か言いたかったというと、

「組織と個人」「日本と海外」どっちも素晴らしいということです。
 
 そして、その両方を行ききしている自分は結局こらえ性が無いだけなのだ、

ともいえます。

 日本に居る時には海外のほうが良いと思い、海外に出ると日本が素敵!

と言っているからね。

結局は自分が変わらないといつまでたっても大人にはなれませんよ!

と言いたかったのでした。 
 

 

2010年5月23日日曜日

一体あなたは誰ですか?」

 ポルトガルからきたルイ―スとソフィアの二人は良く働くし人生経験も凄く豊富、

そして品があって、食事中もナイフとフォークを上手に使って、

 メロンやオレンジまで完璧にカットして食べます。
 
 僕も挑戦したけど、二日であきらめてしまいました。

 このプログラムに参加したきっかけは何か新しいチャレンジをしたかった。

 ということみたいです。

 すでに一緒に生活しだして一カ月近くが経ちましたが、たまに思う事があります。

 「あなたは一体何者ですか?」 って

 先日にネットでみせてもらったのはルイ―スの家のエンブレムっていうか

 家紋っていうか紋章っていうので、1000年以上前から使われているそうです。

 ポルトガルの1000年前って映画になってるような人達だよね?

 それでさらに子供のころから家には召使がいて、

テーブルマナーをきちんと習うまでは親と一緒に食事はさせてもらえなかった。

 って言ってました。 家は三階建てでトイレもベッドルームも沢山あって、

 三人兄弟の長男だけど、私はあまり家系の事に興味は無かったので、

自分の好きな道を歩んできた。 と言っていました。

  おそらく本物の貴族何だと思います。

日本語でいう貴族とはまた違ったヨーロッパならではの独特な階級の人みたいです。

 彼の面白いところは、自分は平民とは違う家系で育ったということを

きちんと学んでいて、その中で自分がどういうふうに人をまとめたり、

一緒に働いたりすべきなのかを子供のころからきちんと学んで居ることだと感じます。

 そしてこれもまた面白いのは一生懸命働くことにプライドを持っていて、

自分の基準がきちんとあり、楽しようとしないところです。

 先週は100人以上の人のピザを奥さんと二人で前日の夜からこねて、

20段くらい入るオーブンで一気に焼いて、みんなに振る舞ってくれました。
 
 ピザ回しのコンテストみたいに、ピザをほおり投げて空中で回転させていました。
 
  今の僕のクラスは14人いて、国籍も年齢もバラバラです。
 
 しかも意外とみんなたいして人生経験もないのに、

自己主張することはしっかりと学んでいます。

だからなかなかまとまらない。 ルイ―スはそういう自分とは次元の違う「平民」

 の人達と上手くやっていく事を真剣に考えているし、

きちんと自分のレベルと立場をキープしながらみんなをどうやって

導いていくかを考えています。おそらく貴族としての教育が彼を

 そういう風にさせているのだと思います。
 
  日本的に言うと「貴族道」 っていうのかな? 
 
 そういうのをきちんと知っているのが彼だとおもいます。

日本ではなかなか会えない人だしもしあっても僕と一緒に働いてくれることは

無いと思います。

 「あなたは人生経験が豊富だからみんなよりも常に一歩先をみている、

みんなにそれを伝えようと思っても、若いみんなはそれを理解するのは難しい、

それが大変そうですね?」

 って言ったら、満足げにうなずいていました。

  なかなか日本には居ないタイプです。

 昔にビートたけしがテレビで言っていたことですが、たけしが大橋きょせんに

 「キョセンさんは本当に偉そうですね、なんでそんなに偉そうなんですか?」

 って聞いたら、キョセンが

 「いいか、たけし、俺は偉そうなんではなくて、本当に偉いんだ、

沢山のキャッチコピーを作って会社を儲けさせたし、沢山のテレビも成功させた、

今までの経歴を考えたら、俺は本当に偉いんだ、

 偉そうなのではなくて、本当に偉いからこういう態度でいいのだ!」

 って言っていたそうです。

 まああの二人はどっちも偉すぎるから何とも言えませんが・・・・

 
  ちなみに来週にルイ―スとソフィアの今の新しいチャレンジをポルトガルの

新聞なのかニュースなのかは知らないけど、取材にくるらしいです。

 本当に誰なんだろうね? って思ってしまいます。

2010年5月18日火曜日

 世界のシステム

  今日の朝のミーティングの議題はガーナのダイアモンドとか金を

採掘するところに白人の若者がいって、一日体験入学みたいなのをして

「辛い!」

 って愚痴る番組を15分くらい見て、それについてどう思うか?

 という話でした。

 「先進国の人達がアクセサリーを買うのがいけないんだ!」

 「それを商品化して売ってる会社が悪い」

 「買う消費者がわるい」
 
 「でもやめたらガーナの人達の仕事が無くなる」

 「もともと彼らは自分達だけで幸せに暮らしていたのに、植民地

 支配をして違う価値観を植え付けた我々が悪い」

 
 ブラジルのアルツーが少し興奮気味に

 「ヨーロッパの人達がそう言った価値観を植え付けた、我々ブラジルは

 とても貧乏だ」

 カメルーンのアーネスティーンがアルツーに耳打ちした後アルツーが

 「アーネスティーンはイギリスに来て初めてバナナを食べた、でも

 今俺達が毎日ここで食べているバナナはカメルーンから来ている、

 なぜ自分達の国で食べるものを自分達で作らないのか?」

 
 すかさずポルトガルのルイ―スは

 「アルツーはブラジルは貧乏でヨーロッパの人達は金持ちだって言う

 けど、我が国ポルトガルは近年ヨーロッパでもっとも貧乏な国だった

 だから俺は知っている、貧困の苦しさを」

  
 スウェーデン人のオーサは

 「私達スウェーデン人は福祉国家で私はずっと年金で生活できると思っていた、しかし近年になってヨーロッパがヨーロッパユニオンとして統合して、
私達の国の税金はポルトガルなどの貧乏な国に流れて行ってしまって、
今は私達の年金制度は崩壊してしまった、私は個人的に年金に入らないといけなくなってしまった。」

 
 なんか怪しい雰囲気になってきました・・・

 アルツーが

「例をあげると先週の金曜日にオーサはアイスクリームとケーキを買って
いた、ブラジルでアイスクリームを買えるひとは金持ちの人だけだ、だからあなたたちは年金制度がどうだとか言うけど、その前に金持ちだと思う」

 オーサ
「金持ちの定義をブラジルと比べられては困る、スウェーデンでは私は決して金持ちでは無いし、私は途上国を見てきたから、今はこうやってイギリスに住んで途上国の為の仕事をしているし、私はシングルマザーだから
誰も助けてくれない、おまけに年金制度はUKユニオンのせいで崩壊してしまった、私は決して金持ちでは無い!」

 ルイ―スは

「結局はガーナの人達も一生懸命働いているけど、あれは自分の為ではなくて、自分の子供たちに教育を受けさせるためなんだ、彼らは自分達が貧乏なのは教育を受ける機会が無かったからだ、子供達にはそういう思いをさせたくない、だから子供の為に自分達は犠牲になってでもお金の為に働く、そう信じて働いているんだ」

 「結局はバナナにしても、ダイアモンドにしても、安い人件費を使ってお金儲けをしている奴らが悪いんだ、ガーナの人達は決して正当な給料をもらっているとは思えない」

 「社会のシステムが悪い、でも誰もこれを変えることはできない、でも我々はあきらめないからここに居るのだ!」

 でもアルツーはずっと言っていました

「結局あなたたちは金持ちだからそういうことが言えるんだ、本当の貧困を知らないのだ」

 初めて僕の意見

 「言いにくいけど、その悪い社会のシステムを使ってお金を沢山吸い上げてのし上がったのは僕達日本人だと思う、中間に入ってお金を吸い上げるの上手だからね、でも仕方なかったんだよ、僕たちも第二次世界大戦に負けて、早く先進国に追いつかないといけないって思って必死だったんだ、そして世界一の経済大国になった日本人たちは、何の為の人生なのか思い悩んで自殺者が凄い数だ、そして僕たちはエコノミックアニマルなんて呼ばれて、人生を楽しむことよりもお金の事を優先する、人間ではなくて動物だと言われている、僕にしてみたらブラジルの人はお金もちではないけど、サンバとか踊ってみんな情熱的だし日本人よりもよっぽど人生を楽しんでいると思うよ」

 すかさずオーサが

「そうだ!そうだ!」

 アルツーは

「ウラの意見は面白い、ブラジル人の俺がアフリカに行ったときに、アフリカの人はお金無いのに、何でみんなこんなに幸せそうなんだろう?って思ったもの、それと同じことをウラは俺に思ったってことだろ」


 「結局は誰も勝者は居ないのかな?」

 「この社会のシステムが悪い!」

 「でも作ったのは我々だ」

 「ブラジル人とか日本人、ポルトガル、スウェーデンとかは関係ない

結局は人間がやったんだ、価値観とか国ではなくて全ては人間の問題なん

だ」

 
 ということでなんとなくここでおしまい。

 先生のオーサが

「この問題はエンドレスです、だから今日はここまでね!」

って言って終わりました。朝一番からみんな鼻息が荒かったです。

  

飛行機事故の死亡率

 朝一のミーティングでの議題は飛行機事故で100人以上の

 人が亡くなったのに、子供だけが助かることがある。

 それはなぜか?

  幸運か? それとも体のサイズとか柔らかさの問題か?

 という話でした。

 ポルトガル人のルイ―スは

 「親がとっさに子供を抱くからだと思う」

 ブラジル人のアルツーは
 
 「神が誰が生き残るべきか決めているからだと思う」

 すかさず先生のオーサ(スウェーデン人)は

 「それは無い、この場合に限っては神は居ない、なぜなら車の事故では圧倒的に

 子供が犠牲になっている、もし神様が決めているのなら、車の事故

 でも同じ結果が出ているはずだ。」

  誰かが言った
 
 「子供は車を運転しないから、車から飛び出してしまって、犠牲に

 なる、飛行機は基本的にはパイロット以外は運転しないからみんな平等

 な立場になる、だから神がいるかも」

 その時に僕がボンヤリと考えていたのは

 
 「ルイ―スは親が子供を抱き締めるからだ、っていうけど、抱きしめる

 ってことはシートベルトをはずすってことかな? 
 
 隣に座ってれば頭は抱けるけど、どうなのかな?」

 って思っていました、言わなかった理由は、もしそれを言った時に

 「何故日本人は数分後に死ぬかもしれないときに、人間としての

 行動ではなくて、規則を守ろうとするのか? どうせ死ぬなら子供

 を守るろうとするのが人間ではないか?」

 って言われるかな? そこらへんの取り違えが怖かったのと、朝一番

 であんまり、発言する気が無かったからです。

 でもきっと自分だったらシートベルトを最後まで締めると思います。

 やっぱりそういうところ日本人だよね。

  ソフィアは

 「子供は死ぬことをあまり恐れてないから、体がリラックスしている

 からではないかな?大人は死ぬのを怖がるから、パニックを起こしたり

 体に力が入りすぎるのがいけないのではないかな」

 という意見でした。

  司会をしていたオージリアが僕が真面目に聞いているふりして彼女の顔を

一生懸命みていたから、急に

 「ウラはどう思うのか?」

 って振られました。 ヤバい、実はあまり考えてなかった?

 でもこういうときにきちんと発言しないと

 「日本人の男は馬鹿だ、自分の意見が無いんだ!」

 ってなるのが怖いのとっさに

 「僕もソフィアの子供はリラックスしてるからだという意見に似てるよ、

おそらく子供の気持ちとしては、親と一緒に飛行機に乗って居れば

 親が守ってくれると思ってるし、安心してるから、体に力が入らないの

ではないかな?もちろん実際に親がかばってくれることもあると思うし

でももし10歳くらいの子供が一人で飛行機に乗っていたとしたら、

不安で大人と同じようにパニックになると思う

死ぬ前にもう一度だけでも親に会いたい!って願うだろうしね」

 それに対するみんなの答えは
 
「・・・・・・・・・」

 何それ? 英語が伝わってないのか、それとも根本的に何か違うセンス

だったのか? それともなんとなくみんなけっこう喋ったからもう気が

すんでたのかな?

 なんとなくしらけた感じでその後は先生のオーサがまとめて

 朝のミーティングは終わりました。

 たぶん英語が伝わらなかったのが50%でそれ以外が50%で沈黙

 になったんだと思うけど、どうだったのかな?って思ってます。

 

2010年5月15日土曜日

多国籍なキッチン


 
 <真はマーケットです、毎週水曜日の朝の7時に行って、野菜とフルーツを買う
 っていうか「仕入れ」ます。いつも空気がひんやりと冷たくて、なんとなく緊張感
 があって僕は好きです。>


住んでる寮とか教室を綺麗にしたり、キッチンで料理を作ったり、毎日の

 食事の準備とか掃除とか、ここではみんなが仕事をしないといけません。

 
 そういう共同生活を色々な国の人と学ぶことが大事だ!

 という建前と、経費を浮かすという両方の意味がありますが。

 僕はそういう実践的な仕事を色々な国の人とするのが楽しいので、結構楽しんで

やっています。 学校みたいに「ごっご」ではあまり真剣になれません。

 
 一番大変なのがキッチン、みんなは勝手に食べ物持って行ってしまうし、

 予算を決めて、次の週に何人の人が居るのかを火曜日にカウントして、一人につき一日3ポンド(たぶん400円くらい)の予算を決めて、先生に相談。

 水曜日の朝にお金をもらって週に20万近くの買い物をスーパーでします。

 大体平均50人くらいの人がここにはいます。

 
 キッチンの仕事はみんなから文句言われるし、たいして感謝されないし、大変な

仕事。
 
 というとで、ファミレスに9年いた僕はなんとなくそこになってしまいました。

 本当は芝刈りの仕事したかったんだけどね・・・

一人でできるしね、あのカートみたいなやつに乗って芝かるのかっこ良いものね!

ということでキッチンメンバーは最強メンバーにしないといけない!

 ということで、立候補者を募りました。


メキシコ代表エリック、ブラジル代表アルツー、ポルトガル代表ソフィア、

 イタリア代表シルビア、日本代表の僕です。

 

 ちなみにイタリア人はリゾット作れるけど、白米は炊けません。

 日本人はみんなが朝に食べてる玄米といろんな種がまじってるみたいな

お粥みたいな味のない食べ物作り方も知らないし、作ったとしてもそれが上手く

できてるのか、それとも失敗なのかもわかりません。

 メキシコ・エリックはパソコン使えるし、ミーティングしきれるけど、

料理はあんまり。ポルトガル・ソフィアは英語が駄目だけど料理は相当な腕、

そして彼女が唯一UK(ヨーロッパ)の免許をもっているので8人乗りのシート

の車を運転できます。それは保険の問題。

 日本人、南アメリカ人は8人乗りの車は運転できません。

 でもサイズはでかいのでもなんでもOKです、

ただ人数が多いと駄目みたいです。



 みんで今日からミーティング


 メニュー、買い物、朝飯、昼飯、晩飯、ベジタリアン、皿洗いのローテーション、洗剤とかスポンジ、オーブンの使い方、どうやって50人分の米を炊くのか?

冷凍食品の解凍は何時間前からか?


基本的には英語で話そうね!って言うとだけど途中でみんなが

 「プロセスってポルトガル語では何?」

 「スティルって盗むってこと?」

 「この場合のスティルはのマダの意味!」

 
「ミーンってどういう意味?意地悪じゃないよね?」

 「この場合のミーンはポルトガル語では(+*‘<@¥)だし英語なら

 たぶんコンセプトに近いよいみだよ」


 みたいな会話が永遠続いて、結局誰も100%理解しないまま、3時間みんなが

自分の言いたいことを話し合いました。


 おそらく他からみたら喧嘩してるみたいだったけど、本人たちはそういうつもり

は無かったです、みんな純粋に

 「本当に良くしたいなら自分の意見を言うべきだ」

 と思ってる感じでした。

 結局みんなで何が居るかのリストを作ろう!ということになり、

 みんなでパソコンを持ってキッチンに行きました。

 長ネギをもって
 
 「ウラこれはなんていうんだ?」

 「日本ではネギだけど、たぶん英語はチャイニーズオニオンだと思う」
   (辞書の答えは long green onion でした)

 「でも細いのと太いのがあるよ?」

 「とりあえずビッグとスモールって書いとけば?」

 「まって!それはポルトガル語では断固として ‘@+*:*¥・だ!だから
  そうかいてくれないと私はわからない」

 「今の英語で話した?それともポルトガル語?」

  「今のはウラに話したのではなくてアルツーに話したから気にしないで」

  「ウラこれは何?」
 
  「それは日本ではブロッコリー」
 
  「そうなんだ、私の国では ブロッコリー って言うのよ!」
   
  「だから今僕もブロッコリーって言ったつもりだけど・・・・」

  「あら、私には他の発音に聞こえたけど・・・」

 
 「ところでこの野菜はイタリアではつかったこと無いから、

  なんて名前かもイメージできない」

  「俺も知らない」
 
  「みんな知らない・・・・」

  そんな会話を一時間くらい続けながら
 
  パソコンの早いエリックがエクセルに手早く打ちこんで作業終了!

 もう十時だから今日はここまで! っていってみんなでキッチンから出てきました。

みんなけっこう疲れてたとおもいます。

 ちなみに前にキッチンを仕切っていたフランチェスカはイタリア人で、彼女から

 もらったリストは難しいところはイタリア語なので、僕らにはわかりません。

  この先この仕事は確実に2カ月はしないといけないけど、なんか面白そう

 です、頑張りますね!




 

 
 

2010年5月14日金曜日

喪中ハガキって・・・



 <写真は今から25年くらい前だと思います、僕が小学校高学年で、家族で
 志賀高原にスキーに行った時のものです、僕は親父が29歳の時に産まれている
 から、親父はちょうど今も僕よりも2歳くらい年上なのだと思います。
 そう思うと自分は何やってるんだか?って思います・・・>



親父が死んで喪中です。

って言う手紙をみんなに出すときになって気がついた。

 僕はすでに10年近く殆ど年賀状だしてないし、過去の2年間は

バヌアツだったし、その後はもといた住所でもないし、この5年間で

 会社を辞めて、東京、大阪、バヌアツ、大阪と色々と住所が変わって居るので、

 だれも僕には年賀状をくれません。 親友だけはくれますが・・・

 でも親父は会社員のころから毎年100枚以上の年賀状を出していたので、

 喪中のハガキだすのも大変です。

 
  ってここまで書いて気がついてくれた人いるかな?

 死んだ人って喪中ハガキは出さないってことを? だっておかしいよね。

 死んだ人から
 
 「今年は私は喪中ですから、年賀状いりません。もしくは天国に送ってください」

 ってありえないよね。

  そんなこと気がつかないで、僕は50枚ほどハガキを買ってきてせっせと

 親父の為に喪中ハガキを作っていました。

 そして途中で気がつきました。

 「なんか変だぞ!僕の友達に親父が死んだから喪中です、って言うハガキは

 ありえるけど、死んだ人から死にましたから喪中です。って言うのは変だな」

 
 そして何人かに確認したら

 「それは必要なくって、親父の死を伝えきれてなくて、年賀状をくれた人には

 1月15日を過ぎてから寒中見舞いとしてハガキを出すものです」


 ということになりました。だから結局50枚のはがきは大切に保存して

少しずつ郵便局で手紙を送るときなどに現金として使ってます。

 
 6月19日に死んだ親父への年賀状は15枚ほど来ました。

 
 その中に一つに


 「年末に癌の手術と転移を繰り返しても、まだ10年以上も頑張ってる人の

 テレビをNHKでやっていました。浦さんに伝えようと思って、あわてて電話

したけど、繋がりませんでした。電話番号変えたのですか?

 浦さん今年も頑張ってくださいね!」

 という内容でした。

 親父の携帯は66月に亡くなってから2カ月ほどそのままにしていましたが、

 誰からも連絡が来なくなったので、解約してしまいました。

 面白かったのは僕が親父の電話に出るとみんなが100%親父だと思って

 話し出すことです。自分では思っていなかったけど、声の出し方とか話し方

 は凄く似てるみたいです。


 みんな親父が癌になってから8年間ずっと見守ってくれていて、それが今年

も続くと願っていてくれたんだな。と思うと、寒中見舞いを書くのは少し辛い

 作業でしたが、誇らしくもありました。 親父は幸せ者だったと思います。

2010年5月13日木曜日

120%では駄目ですね・・・


  お腹のすいているアフリカの人達を助けたい。

 でもアフリカって電気とか水とか無いでしょ、ネット繋がらなかったらどうしよう?

 マラリアにかかったらどうしよう。

 戦争が始まったらどうしよう? デジカメ盗まれるかな?アイポットは大丈夫かな?

  って心配する人沢山いると思います。

   正論としてはこうです。

 「自分の保身ばかり考えてる人に、

   今にも死にそうな人を助けることはできないから行かないほうが良いよ」
 
 こうやって言うのは簡単だけど、僕はそうでもないと思います。

  自己犠牲とか、献身的なことはもちろん素敵だし、正論は口にするのは

 気持ち良いけど、最近思うことは

 そうやって無理して120%の自分で全力疾走してしまって2年くらいで息切れして

 、挫折感を味わうよりも、80%くらいで走って10年つづけたほうが

 結果的には良いと思うし。基本的には80%も途上国の人に何かしてあげなくても

 20%くらいの気持ちでなんとなく世の中には困っている人もいるんだな、

 ってことを意識しな人生を生きるほうが、結果的には自分にも世界にも良いと思います。

 
自分が幸せでない人は人を幸せにはできないだろうし、

自分に体力と経済力が無ければ人には優しくできないしね。

 日本人は桜みたいに一時パッと咲いて、

 後は散ってしまうような人生が美学の中にあるけど、

 それは武士のはなしであって普通の農民は自然を相手にしながら、

 コツコツと毎日8割くらいの気持ちで働けばそれが幸せなのだと思います。

 それが人生! 国際協力もそういうものだと思います。

 日本人がそんなに自分犠牲にして燃え尽きるほど頑張らなければならないほど、

 アフリカの人達は馬鹿でもないし、弱くもないです。

 もちろん助けは必要だけどね。

 どちらかと言えばパートナーとしての助けが必要だと思います。

身を削っての人助けは間違ってると思います。

自分を削って人を助けたら、

 削った自分の体をまた他の人に治してもらわないといけなくなるからね。

 
 バランスが大切だよね。そういうバランス感覚を身につけようと思っています。

2010年5月12日水曜日

お金と援助の問題

5月10日は赤十字の日

 ということでジュネーブの赤十字で2年間働いていて今はこのボランティア活動

 (CICD)に参加している

 ドーランドが赤十字の歴史についてプレゼンテーションしてくれました。

 ちなみに英語では その旗のとうり 「レッド・クロス」 が赤十字です。

 ちなみに今僕が参加しているボランティア活動は半年の間に自分でプレゼンテーションを

したり、僕だったらみんなに体育を教えたりして、点数稼がないとアフリカに行かせてもらえ

ません。 だから毎週土曜日には誰かのプレゼンがあり、それが結構熱いものになります。

 こないだはブラジル人のアランがブラジルの歴史のプレゼンをしましたが、

 「ポルトガル人が我々の国に攻め込んできた。」

 「彼らは僕たちを人間とは思っていなかったので、最初は殺しまくった」

 「途中で人間だと気がついて、キリスト教を広めだし、そして結果的には成功した」

 という内容でしたが、そこにポルトガル人のジョゼが居たから僕は結構緊張しました。

 ジョゼいわく

 「我々の国っていうけど、俺達が行かなかったら今のブラジルの発展もなかったし、

 お前だって産まれて無かったんだぞ」

 「ポルトガル人からの視点でブラジルへの植民地支配で俺達がどれだけの苦労と犠牲を

  払ったかをプレゼンテーションさせてもらったら、全く違う無いようになると思う。」

 と話していました。 まだその機会はないけどね。

 でもいつも思うけど、外国の人って違うなって思うのは、その場では相当ストレートな表現

するけど、その場だけで終わることです。 良く言えばさわやか、悪く言えば単純!

 でもその時に思ったのは、そういう話をお互いに面等向かってできることって偉いな。

 って思いました。

 今このプログラムには、中国人、韓国人、日本人といるけど、お互いにネガティブな問題

は話したことはないです。一つの理由にはそういったデリケートな問題をお互いにつたない

 英語で話し合おうとすると、時には誤解が産まれて、それを正そうと必死に違う言葉で表現

しようとすればするほど、さらにそれが新しい誤解をまねくこともあるというのも理由の

一つだと思います。


 ポルトガル人で40歳くらいのルイ―スが言っていたけど、

 我々より昔の年代のポルトガル人は人達は、

自分達のした植民地支配について恥じていたから、あまり海外

に出たがらなかった、そして我々の年代は少しずつ海外に興味を持ちだした。

 でも今の若いポルトガル人は我々よりもっと前向きに海外にでて、自分達のした過ちをとり

 かえそうとしてくれている。それが今のポルトガルだとおもう。とても頼もしい。

 と話していました。

 自分も見習わないとな!って思いました。


  話は戻ってドーランドの赤十字の話。

 スイスから始まった赤十字は

 国境も関係なく、

 宗教も関係なく、

 人種も関係なく

 政治的に動くこともなく

 みんなを平等に助け、誰でも参加できる。

 「完全に独立した」組織だそうです。

 というような内容でした。

 だからそのシンボルである旗も月のマークだったり、十字の赤だったり、

 なるべくどの宗教でも受け入れらしいように4、5のシンボルマークがあって、

 どれを使っても自由になっているということでした。

 
  歴史や今までの活動など一時間ほど話してくれました。質問コーナーになって

  旗のデザインとかドーランドはジュネーブで何をしていたか?
 
 とかみんなが聞きました。

 ちなみにドーランドはジュネーブで家庭に問題のある子供なんかの面倒をみるプロジェクト

 に2年間たずさわっていたようです。

  最後にルイースが聞きました。

 「完全に独立して政治的に走ることは無い、って言うことだけど、僕が気になるのは

 お金はどこから出ているの?おそらくUKユニオンとかスイスとか、

 ユニセフみたいにアメリカとかから出てると

 思うけど、そういうのが活動に影響したりしないのかな?

 イラク兵とアメリカ兵を平等に扱うのかな?」

 っていう鋭い質問がでました。

  みんなもその意見には興味があるようでした。 誰かがすかさず

 「まさか赤十字が俺たちみたいに古着を集めたり、活動のマガジン売って

 ファンドレイジング(募金活動)したりしないよね・・・」

 と言ったので笑いましたが、それは一瞬でやみました。
 
 ドーランドも
 
 「それは我々の永遠のテーマです、その矛盾があることは誰もが知っている」

 誰も答えが見つからないまま質問したルイースが

 「難しい問題だと思うから、今日はこのくらいにしよう」

 と提案したので、とりあえず終わりましたが、その場にいた50人くらいの人達の中には

疑問が残りました。

 でもそのうちの20人くらいは僕と同じように英語が完璧では無いので、ポイントをつかみ

切れてない人もいたと思います。 
 
 それでも発言する人もあれば僕みたいにブログに書く人もいるでしょう。

 青年海外協力隊でバヌアツでお世話になったOVの方から

 「ブルーセーター」

 という本にそこらへんの答えがつかめる部分がある。

 という話を聞きました。 ゴメンナサイ、普通ブログってそいう言うのすぐにクリック

できるように横に宣伝が張り付けてあるはずなんですけど、まだそういうスキルないから

 書きっぱなしです。 

 募金とか良心に頼って活動するのではなくて、きちんとビジネスパートナーとして途上国

 をみてく、お互いに利益がないとこの活動は続かない。

  というような内容だと思いますがまだ読んでないのでわかりません。

 お金と援助の問題は永遠のテーマだと思います。

2010年5月10日月曜日

癌の宣告

 出家した親父は

正座のタコが持病の糖尿病のせいで血行が悪くなおらずに、脚の脛が膿んでしまい。

 久しぶりに下界に降りてきたが、すでに血糖のコントロールができなくなっていて、

 ドクターストップ、それでも周りの人達の助けとおそらくそれなりに本人が頑張って

 いた事が認められて、何とか一年間の修行でインチキ坊主としての

資格はいただいたようだった。

 下界に降りてきてすぐに口内炎が治らずに町医者にいったら、その場ですぐに紹介状

を渡されて大学病院で検査。

 出家した時に離婚してたので、その時に埼玉にいた僕と実家の大阪で親父と暮らしてい

姉の三人で癌の宣告を受けた。

  
 「手術、抗がん剤、放射線治療、と言う三つの選択肢プラス何もしないという選択肢も

あります。

 もちろん治療するにあたってはこの三つを状況によってミックスして行います。」

 と言うことだった。

 「もし5年以内に再発すると、そこから3年、2年と再発する間隔が短くなることも

考えられます。癌は命にかかわる病気です、いい加減な気持ちでは治せません。」

 

 病院の帰りに家族三人で南千里で池のある大きな公園で途方にくれて座っていたのを

思いだす。 

 親父は良く言っていた

 「最初に宣告してくれた先生がボカした言い方をしないでキチンと正直に淡々と伝えて

くれたのが俺にとっては本当によかった。たいして貫禄のある先生では無かったし、

まだ30半ばくらいに見えたし最初に見た時は頼りなさそうな人だな、って思ったけど、

人間としての強さと誠実さがあの先生にはあった」

 と話していました。その先生は親父の手術をした後に他の病院に移ってしまったけど

 親父は癌が再発するたびに

「あの先生とももう一度話したいなー、どうすべきた聞きに行こうかなー」

 とつぶやいていました。

修行、大学、病気から学んだこと

 
 癌で修行をあきらめた親父が近所にあった関西大学に3年生から編入して

哲学を勉強して卒業、そのまま大学院にも通っていた、7年間ほど在籍して癌の再発

の為に三回休学した。

 「卒論だけ出したら大学院も終わるけど、そしたらもう大学に行けなくなるから、

 出さんままにしてるねん、別にいまさら卒業証書もらっても何の意味もないからな、

学生達と一緒に入れるのが楽しいだけやからな、

それにしても最近の学生は良く勉強するわ、俺らの頃とは全然違うわ」

 と言っていました。

癌と共に生活した8年間に親父は出家してお寺で修業するのと同じくらいかそれ以上に

人生について考えたのだと思います。

犬のおまわりさん


<写真は親父とは全く関係ないバヌアツの頃の写真です>
 

2006年の春に会社を辞めてから、協力隊の訓練が始まるまでの半年間、

 親父の4回目くらいの癌の転移の手術があったので大阪で一緒にくらしていた。

 癌は転移すると、手術のたびに一番最初に見てもらった先生まださかのぼってお伺い

を立ててから手術するので、今回は肺の手術だけど

最初の舌癌からリンパへの転移をみてくれた病院へ行ってそこの先生の意見を聞かな

ければならない、親父の場合は舌癌を手術してくれた病院では肺がんの手術はできないの

で大阪大学に紹介されてそこで肺がんの手術をすることになっていた。


 毎週のように病院の予約を取って検査を受けて2週間ごに検査の結果を待って、

 過去の病院に話を聞きに行く。 と言うことを繰り返していた。

「こんなことしてるうちにも癌はドンドン進行している、結局は手術できるってきまって

から、今度はまた手術の順番待ちすることになる!」

 転移が見つかってから実際の手術まで2カ月以上かかってしまうのが現状でした。

 その日も11時半の病院の予約が結局2時になって、親父はその間ずっと愚痴。

「お前だったらどうする?」

 を連発するから、心の中では

 「自分だったら死にたいな」 とこっちも言いかえしたいたい気持ちをぐっと抑えて

「ウーン、難しいな」


 と演技していましたが、結局はその演技が親父のイライラをさらに募らせます。

 でもそれが最低であり最高の返事なことは間違いないです、

余計なことを言ってはいけないのです。


 やっと名前をよんでもらって、20分の診察時間のところを親父は40分話こんでいました。

 みんながこうだったら11半の予約が2時になるのも当たり前だな。

 と思いながらも病院の先生達は時間も気にしないで、親父の話がおわるまできちんと

聞いてくれます。

  まあ先生も途中で息抜きしてくれてるんだろうけど、それにしても医者と言うのは忍

耐の居る仕事だなー! と僕はいつも感謝するとともに、関心していました。

  
 その日の帰りに親父の通院の為にかったビッグスクーターの後ろに親父を載せて

二人で病院から帰ってるとき、親父が鼻歌を歌っているのに気が付きました。

 「ニャン ニャン ニャニャーン! ニャン ニャン ニャニャーン!

泣いてばかりいる子猫ちゃん、犬のおまわりさん、困ってしまって

 ワン ワン ワワーン! ワン ワン ワワーン!」

 このフレーズをずっと僕のバイクの後ろでずっと繰り返していました。

 本人は全く無意識だったとおもいます。

 あれはたぶん6月で暖かくて西日の綺麗な病院の帰り道でした。親父は先生に話を

聞いてもらえてことと、診察が終わったことで気持ちが楽になったのか、神経質だった

行きとは全く違う気持ちになっていたのでしょう。

 
 運転しながら親父の鼻歌に気がついてしまった時

 「ふざけんなよー、親父!」
 
 って思って笑ってしまったけど、ヘルメットはフルフェイスなので親父は僕がニヤニヤ

していることを親父は気がつくはずもなく、僕は一人で

 「帰ったらすぐに姉ちゃんに電話して、このことを伝えよう、きっと姉ちゃんも

 お父さんらしいね! って喜ぶだろうな」

 って一人で笑っていました。そしてその通り、その晩に二人で大笑いしました。
 
 それがうちの親父です。笑える人でした。

 

 

毎日僕に会えますよ

 舌癌、リンパ、肺と7年間続いた癌の治療もすでにこれ以上は体を痛めるだけになる

のでできません。とホスピスを紹介された親父は本当に落ち込んでいました。

 そのまま行かないで一カ月が経ち、ついに姉が予約をとってくれて僕と二人で

淀川キリスト教病院に行くことになりました。

 「入院でも良いし、通院でも良いです。」

 と言われて親父は絶対に入院しない。


 と言い張っていました。

 そして通院生活も二カ月が過ぎ、薬の副作用とか食事とか倦怠感、不安などそろそろ

 なにか改善が必要になったときに先生が提案してくれました。

 「二週間ほどホスピスに入院してもらって、薬の調整と体調を整えてから、もう一度

 家に戻る方法もありますよ」

 と言ってくれました。

 親父は入院すると二度と家に戻れないとおもっていたので、散々粘っていましたが、

 僕は既に4カ月以上も自分の時間が無かったし、床ずれによる肩こりとか、オキシコン

チンという痛み止めの副作用の便秘など限界だったので、本当は一度入院してほしい

と思っていました。 僕自身に少し時間が欲しかったです。

親父は先生に

 「入院して何か良い事があるんですか? なんでそんなに進めるんですか」

 と言いわけがましく聞いていましたが。

 先生の答えは

 「ウーン、特別なことは何も無いですけど、しいて言えば通院だと二週間に一度しか

僕に会えませんが、入院してくれれば毎日僕に会えますよ」

  結局その日は親父が粘って、先生もそんなに無理強いしなかったので、

入院はしなかったですが、帰りのタクシーのなかで親父は一言

 「ああやって患者に言えたら、あの先生はホスピスの先生としては一流やな」

 と少し嬉しそうに話していました。

 僕も本当にそう思いました。
 
淀川キリスト教病院の先生と看護師さん達には本当にお世話になったと思っています。

 

薬では治らないこと

 二週間に一度のホスピスの通院で、親父はこの二週間の症状を訴えます。

 痛み、床ずれ、便秘、倦怠感、など親父は家では散々僕にぼやいていますが、

 それを先生に伝えても、新しい薬が増えるだけなので、親父はなるべく症状は軽めに

言います。

 それを後ろで聞きながら、

 「嘘つけ、この二週間毎日のように僕に、ここが痛い、これが嫌だ、どうしようもない」

 って愚痴ってたじゃないか!

 って思いながら、親父は薬が増えるのが嫌なので、言って無い事はわかっていたので、

 後ろで黙って聞いていました。

 先生が

 「浦さん、もし倦怠感とか湯鬱とか恐怖感とかが強くなってきてるのなら、

 安定剤みたいなものがありますよ、それを飲んでもらえれば少しは気持ちが楽になる

 と思いますよ」

 と提案してくれます。

 僕は親父に毎日愚痴られて、しかも言われっぱなしで最後には結局

 「お前にはこの気持ちはわからないだろうな」

 と言われるのはいい加減に嫌だったので、できれば飲んでほしいと思っていましたが、

 そこは親父の意思に任せるべきところなので、黙っていました。でも一度だけ

 あんまり親父がヒツコク
 
 「どうせお前にはお前の気持ちはわからないと思うけど、お前だったらどうする、

  ただ死ぬのを待つだけだ、生きていても意味が無い、お前だったらどうする?」

 となんどもきかれたので、いつもは僕は
 

 「は―!とか、イヤー!」

 とかってぼかしていたけど、その時だけは

 「悪いけど、お父さん、そう言われたってわかるわけ無いじゃん、しかもこっちが何も

言い返せないのわかってて、何回も聞くのは失礼だ、言い返せないのわかってるのに何回

も聞かれると、なんかこっちがいじめられてるみたいな気分になるから辞めて欲しいよ!」

 って言ったことありました。


 ホスピスでの新しい薬の提案を断ることに対しても

 「お父さんは目の前に先生が沢山薬っていう洋服を並べてくれてるし、

着てはどうですか?

 って提案してくれてるのに、それを全く来ようともしないで、ずっと裸で

 寒い! 寒い! って言ってるようなものだよ、寒いんだったら服着れば良いのに

 って僕はいつも思ってるよ。 お前だったらどうする? っていつも聞くけど、

僕だったらとりあえず服を着てみるけど、お父さんは着るの嫌なんでしょ。

だったら僕にどうしたらよい?って聞かないでよ!」

 って言ったこともあります。

 でも僕にもわかっていました7年間の癌の治療の中で、親父は安定剤も試したことが

あるし、それ以外の薬もお医者さんに提案されて色々と試していて、自分のなかで、

 それはあまり効き目が無い事はしっているから飲まないだけなのです。

  
 だから僕があまりそういうことをいって、親父が愚痴を言えないようにしてしまうこ

 ことはあまり良くないとはわかっていました。

 だから僕も毎日は厳しく言わないけど、ときどききちんと話しておかないと、単に

親父が可哀そうだからと思って、ずっと愚痴を聞いていても、お互いに良くないし、

 親父もそれはわかって居るから、たまに僕が厳しく言うのは納得済みでした。

 言われた後は親父も少し安心したような雰囲気があります。

 まあ効き目は三日くらいで、すぐに元にもどるけど、それはそれで良いのです。

 
 病院で先生に安定剤を勧められたときに、親父が僕のほうを振り返って

 「テルヒロはどう思うか?」

 と聞いてきました。

 その時僕は
 
 「親父の愚痴とかボヤキは癌になったからではなく、生まれつきのものなことはみんな

 が知ってるし、安定剤は心の病気には聞くと思うけど、病気ではなくて持って生まれた

 人間性には聞かないとおもうから、飲んでも意味ないかもしれない」

 
 と答えました。

 先生と看護師さんは笑っていました。

 親父も嬉しそうでした。

  「これでまた次回まで二週間は愚痴聞かないといけないな」
 
 って思ったけど、結局親父にとって一番大切なことは家事をしてくれる人よりも
 
 愚痴を聞いてくれる人だということはわかっていたから、自分としても納得できました。

 親父も帰りに
 
 「お前もなかなか上手い事言うな!先生達喜んでたな!」

 と褒めてくれました。 上手い事言ったつもりではなくて、事実を言っただけですが・・

 今はあの時が懐かしくも感じます。

2010年5月7日金曜日

ボランティアと仕事の違いについて

 昔にファミレスの社員をしながら実業団でフットボールをしていたときに考えてい

たことがあります。

 
 同じ苦しい事なのに、何故フットボールの若い選手達は目を輝かして一生懸命に

トレーニングして、試合に出ようと必死で頑張っているのに、

ファミレスに居る一部の若いアルバイトの人達は働いても働かなくても

自給は800円だからいかに楽するかで

「今日は得した」

とか、お客さんが沢山て忙しい日は

「今日はついてなかった」ってなるのかな? って感じた事があります。

 もちろんなぜそうなるかは社員である僕たちがきちんと仕事のおもしろさとやりがい

 を教えてあげれて無いし、表現できていないからなのはわかっていますが。

97年に入社してから2006年の春に退社するまでの9年間ってちょうどバブルが弾けて

売り上げは急降下、結局は客が増えないなら人件費を削って売り上げを上げる、っていう

 方向に会社が走っていた時期でした。

 2000年くらいまではそれまでいたベテランのパートさんや学生のアルバイトが

頑張ってくれて、何とか人件費を削って成り立っていましたが、その後は新しく

 入ってきた新人を育てるにはあまりにも過酷過ぎるマニュアルで少しでも経験が

 あって賢い人はすぐに気がついて辞めていってしまいました.

 残るのは褒められても、怒鳴られても動じないような今どきの若者が多かったです。

 そして時間キッチリになると仕事は丸投げして帰ってしまいます。

 
 昔から居るベテランのパートさんや仕事を良く分かっている学生達にしてみたら

 しらけるのは当たり前です、だって自給は100円くらいしか違わないしね。

 僕も嫌でした。社員が目を光らせている時だけ、働いて、居なくなると手を抜く

 ような人とは働きたくないよね。

 

当然のようにお店のモラルは下がり、クレームは増えました。

責任をとりたくない店長と部長はどなり散らすばかりでした

正直でいると馬鹿を見ることばかり。

 クレームがでてお客さんに謝りに行って

「必ず改善します」

 と約束して帰ってきても、改善できないことばかり。 
 
 仕事帰りの車の中で気が付いたら信号待ちしながら歯ぎしりしてる自分がいたのも

 ちょうどそのころです。

 「アメフトで日本一になるためにはどんなことでもする、今の仕事を続けていれば

 安心してフットボールができる、この矛盾に我慢することもアメフトのうちだ」

 と自分に言い聞かせていました。


 そんな仕事の世界とみんながチームの為に自己犠牲を喜んでするフットボールの世界

という両極端な世界を行ききしながら僕の社会人

生活は進んでいました。おそらく僕にとってはフットボールの世界は

 「美しすぎる」

 世界だったのだと思います。トップであるヘッドコーチから始まって

 コーチ、幹部、一軍、二軍、ベテラン、若手関係なく、おそらく上から順番に

 努力している世界でした。上を信じて無心で頑張れる環境でした。



 そしてその結果を試合で表現して勝利してその喜びを分かち合う。

 自分のプレーが勝利に直接的に貢献できる。

これ以上の充実感と幸せは無かったと思います。

 脱臼しても靭帯がきれても注射をうってでも試合に出さしてもらえる。

 チームに自分が必要とされていると感じれたのは残念ながら16年間のうち

後半の6年間だけでしたが、最初の10年間の苦労があったから試合にでれた6年は

 とても幸せに感じました。無我夢中でした。



 それが終わって次の人生は何をしようかなっておもいました。


  協力隊に行くときに考えていたのはボランティアの世界ではフットボールと同じ
 

 ような美しい世界があるかな? 


それとも結局はファミレスと同じように無責任な世界なのかな?


 もしボランティアでもみんながファミレスと同じように自分の保身ばかりを考えて

献身的でないとわかったなら日本に戻って納得して民間企業で働くことができる。

 でももしボランティアの世界でさらに違う「美しい世界」

を見つけることができるなら、また違う人生が見えてくるはずだ。

  と思っていました。


 結果的に言うとボランティアの世界はフットボール以上に「美しい世界」

 でした、でも根本的にっていうか自分て馬鹿だな、って思うのは

 「それでは食ってはいけない、税金を使ってボランティアに行かせてもらって

美しい世界に生きていても、それは本当の人生ではない」

 と言うことでした。そんなこと行くまえからわかってたはずだよね。反省してます。
 
 

そしてもう一つ思ったのは協力隊という2年間だけなら充実した経験になるけど、

これを5年も続けていたら、ただの自分に甘い、自立できない理想家になるだけだ。

 とも理解できました。

 2009年の一月に帰国してから、親父の事もあって一年日本にいましたが、結局は今は

ここにいます。

 このプログラムの良いところは

 「本気で人を助けたいのなら、行くお金も自分で稼いで行きなさい。だからイギリスで

アフリカの勉強をしながら6カ月からチャリティーとか古着集めとかなんでもやって、

 自分で30万ほど貯めたら後は面倒見ます。 税金とかリッチな人のお金を使っては

 駄目なのです」

 と言うおもしろい、っていうか、おそらく個人主義のヨーロッパだから何とか成り立っ

 っているという感じです。

 そこに世界中から人が集まってきて、一緒に古着を集めたり自分達で活動の紹介の

マガジンをつくって売ったりして半年でお金をためます。

 その間にいろんな国の人どうして喧嘩したり、決して楽な仕事ではないので、文句が

でたりします。

  辞めていく人も沢山います。

 逆にに一文無しで来て、立派にお金を作ってアフリカで活躍する人もいます。

 そこが面白いところ、お金はたまらないけどたいしてマイナスにもなりません。

 
 ボランティアだけど、人のお金は使ってないっていう、本当のボランティアです。

 どこまでいけるわ変わらないけど、どうせ終電逃した人生だから、もう少し頑張って

みようと思います。

 
 このテーマはまた続きが書けそうですが今日のところはここまでしか考えられません
 
 でした。




 

2010年5月6日木曜日

人生フルカウント

 
   恋愛をバッターに例えると、

 僕は今まで何球かストライクを見逃してきたのだと思う。


 ど真ん中ではないけど、外角高めな感じの僕の好きなタイプの女性を見送ってきた、

 その時はまだこの先に良いボールが来るだろうと思っていたら、

その後は意外と来なかった。

 
そして見逃したボールの事が気になって、とっさにバットを振ることをためらってきた。

 
そんなことをしているうちにだんだんとバットを振るのが怖くなってきた。


 でもいまさらボール球を振るわけにもいかないと思って、見逃しばかりしていたら、


 いつも間にか人生はフルカウントに追い詰められて、


しかも既に何球かの絶好球の球はスピードが速過ぎて
 
もはや僕の手には負えないようになってしまってる。

 打とうとしても空振りばかりだ・・・

 カーブやフォークの変化球も怖いし

 時には魔球があることも学んだ

 
 
 万が一当たって出塁してもちゃんと人生を走りきってホームベースまで戻って来れるのかな・・・

 きっと途中で足腰がたたなくなって、誰かに代走になってもらうんだろうな・・・


 全てが抽象的な言い回しですいません、あまり深く考えないで、

 なんとなく読んでください・・・・

 「どの球がどの女性だったのか?」

 などと勝手に推測するのも辞めてくださいね・・・

 「私はどの球だったの?」

などど勝手に推測するのも辞めてくださいね・・・・ 
 

こないだ人生の終電を逃した、って書いたら、そのブログが一番みんなの関心が

 大きかったので、続編を作っただけです・・・
 
あくまで思いついたから書いただけですので深い意味はないです。

 終電逃したブログの時に励ましのメールくれた方ありがとうございました。
 


 
 

2010年5月5日水曜日

武術と武道の違い

 昔に京都大学の有名なフットボール選手がアメフトの雑誌に書いていました。

 僕と同じポジションで90年代から2000年にかけて日本で最も偉大なワイドレシーバー

 であったと僕も同じポジションながら感じている方です。

 その人いわく

 反復練習とか、習うより慣れろ、とか石の上にも三年とかって言うけど、

フットボールを人格形成の為の物だと考えるならそれであっています。

でも京都大学のアメフト部は根本的に日本一になることを目標としている、

だから大学の4年間という短いスパンで考えて場合、習うより慣れろというよりも

新しい事をドンドン教えて次のステップに進んでもらいたい。

 気持ちや忍耐力を鍛えて選手が強くなるのなら、僧侶は毎日気持ちを鍛えて

いるのだから、基本的には彼らがフットボールで日本一になれるはずだ、

でもそうはならない。そう考えるといかにフットボールとして

実践的な練習を行うことが大切なのかがわかってもらえると思う。

 
と言うようなお話でした。 そしてその板井さんを育てた水野監督も

「忍耐なんてものは勝つ面白さがわかれば黙っていてもついてくるものなのだ

 忍耐や根性論が悪いというのはな無い、でもそれがまず第一に来るというのは

まちがっている」

と言っておられました。 

 まあ京都大学だし結果が出てるから説得力があるだけなのかもしれませんが・・・・

 
 でも僕もアメフト選手として長年言いわけばかり考えてきたので、

それなにに言いたいことがあります。

「練習中に声を出して試合に勝てるんだったら、コーラス部は毎日声出す練習してるから

 彼らが優勝するはずだよね!」

 ってなんか僕が言うと説得力無いですけど・・・ ほんとうに言いわけに聞こえる・・

 

でも雨の日に剣道の先生が

 「こういうひでもきちんと練習してる物が本当に強くなるのだ!」

 と言ったら、雨の日だけ熱心に練習してるやつが居る

 と言う話を聞いたこがあります。

 そういうこと日本で良くあるよね。実践にともなわない「スポーツごっこ」が・・・


 昨年に居た中学校で空手をやっていた先生がいて、その先生に聞いてみた事があります。

 「空手の世界では勝ことの意味って何なんですか?」

 「浦君それはだね、僕らは空手を武術と武道に分けて考えているんだよ、武術は

 ようはテクニックを磨くこと、勝つことが目的だし、

武道のほうは空手をつかって人間と

しての道を勉強しようということだから勝ち負けは関係なくなってくるわけだよ」

 ということでした、さすがだなと思いました。

その先生自身はそのどちらも極めて居るようでした。

個人的にもとても尊敬しています。



それで「武術」と「武道」という言葉があるわけか?

 でもその時に思ったのは高校野球ってどっちなのかな?

 
 参加することに意味がある?ってわけではもはやないみたいだし、

だからと言って松井の敬遠は

「高校野球としてはふさわしくない」

 みたいなとらえ方もされていたし。

 そういうところを明確にしないと難しいよね。

 

 良く考えたらプロボクシングとかプロ野球もそうだけど、純粋に「武術」と

とらえて勝つこと優先に考えてるからこそ、実社会でも応用できるメッセージがそこに

 隠されていることって多いものね、

「最初から人格形成の為」ってなってしまったら、指導者の導き方によっては

「苦しくても頑張ってる自分って凄くて偉い」

 みたいな世界になってしまうよね。

 でもその逆もあるか、人間的に最低な奴でも才能があって強い人がいると、

ファンや他の選手はやる気がなくなって結果的にはその競技から離れていくよね。

 
 それで今なやんでいるのが日本の相撲界なのかな?

強くてしかも人間的にも素晴らしい人が横綱になってくれないと、その競技自身の

品格が下がってしまうよね。

 ガッツポーズはお客さんや自分のチームの選手に対してするのは美しいけど、

 負けた相手に

 「ざま―みろ」

 っていうかんじでしてしまうと、それは美しくないよね。

 
亀田兄弟もボクシングもそういうところから問題になっていったのだろうね。

 でも亀田兄弟は周りの大人があの兄弟を大切に見守ってあげれば必ず世の中に

恩返ししてくれるような人物になると感じます。

 でもお金が動く世界だから、それだけが心配です。



 これは日本だけの問題ではなくてオリンピックでもよく問題になってるよね。

 「参加することに意味がある」っていう建前は既にどこの国も無視してるし

 ドーピングの定義だってむずかしいし。

 負けて言いわけしながわ忘れ去られていくよりも、とりあえず勝ちたい、って思う

のは当たり前かもね。その気持ちはよく理解できます。


 そしてどんなに嫌な奴でも圧倒的に強くて、たいして練習しなくて、酒ばっかり飲んで
 
いても真面目に練習してる選手よりも強い人に憧れたりする気持ちもわかります。

 そういう気持ちって人間の心の奥にきちんと準備されているよね。

 
 だから相撲界もボクシング界もオリンピックも高校野球も色々と悩むんだろうね。

答えはずっとないとおもいます。その時代に合わせてみんなが一生懸命考えて

決めていくしかないよね。

 そして負けたときに言いわけしないことも大切だよね。

 勝者にも敗者にもそれぞれ美学があると思います。

 長くなったけど、読んでいただいてありがとうございます!



 

グローバルスタンダード

 よくグローバルスタンダードっていうけど、それってたとえば日本とアメリカの

二国間で話し合ってるときには、

 「こっちのほうがグローバルスタンダードだ!」

 っていえるけど、 その場にフランス人もいて、ハンガリー人もいて、日本人、

 カメルーン人

 イタリア人、メキシコ人、ブラジル人と世界中の人が一緒に居るとうかつに

 「これがグローバルスタンダードだ!」

 って言えません。

 言った瞬間にいっせいにみんなから

 「何故それがグローバルスタンダードといえるんだ!」

 ってクレームでるからね。

 二国間で話し合ってるときにはグローバルスタンダードって言葉は使いやすいし、

 なにかの意味があるようなきがするけど

  今みたいに本当のいみでグローバルスタンダードな場所ではそれは存在しないんだって

 ことが良く分かりました。結局は個人の価値観のほうが国籍よりも大切ってことだと

 思います。

 アメリカ人がよその国を納得させるときにはよくこの言葉つかうけど、

 ヨーロッパでは誰も使ってない気がします・・・ 

朝の会話(ポルトガル人)

  

 ポルトガル人のジョゼの日本での発音はホセだということを最近知りました。

 そういえばホセっていう名前は良く効くよね。
 
 そして今日の朝にそのジョゼともう一人のポルトガル人のルイーズが話していました。

 「今日の天気しってる」       とジョセ
 
  「結構あったかいみたいですよ」  とルイーズ

 「でも昨日もそういって雨降ったしね」

 「僕は毎日天気予報を見てるけど、イギリスは当たらないんですよ」

 「そうだよね、春がきたと思ったら、冬に戻るし、毎日2時ごろにはシャツ一枚になりたい

 けど、4時には決まってマフラー欲しくなるしね」

 「ほんとですねー」

 「大昔にイギリス人達が我が国ポルトガルに攻め込んできた理由が良く分かるよ、

 こんな天気じゃよその国に移りたいって思うのあたり前だよねー!」

 「全くその通り、ヤッパリポルトガルが良いですねー」

 って言って満足げにふたりで大笑いしていました。

  うれしかったのはこの会話が全て英語だったことです。

 二人とも母国語のポルトガル語は使わずにたまたま同じテーブルに座っていた僕の為に

 普通に英語で話してくれていました。 

三人しかテーブルに居なかったのにもかかわらずです。

  そういう気づかいはここでは凄く感じます。

みんな自然にそういうことをしてくれるのがうれしいです、

やっぱり昔からそういうことに慣れているヨーロッパならではなのかな?

 とも思います。 

 二人はとてもうれしそうに腹の底から笑っていて、こっちもうれしく感じました。
 
 

2010年5月4日火曜日

耳掃除

 
 先週末はビルディングウィークエンド、という聞こえは良いけど、みんなで普段住んでる

 レンガでできた寮のペンキを塗ったり、床を磨いたり、家具を作ったり、アフリカに行った
 
 時に必要なスキルっていうけど、単に自分達で何でもやってるだけですが、

 協力隊に行ってたときにそういうスキル必要だったから一生懸命頑張りました。

 
 僕の仕事はブラジル人のアルツーと二人で柵つくり、犬が逃げないようにだって。

  犬の為に人間が働くのかと思いながら、僕はアルツーが好きだから二人で頑張って

 柵作りました。

 
 その後に部屋の掃除をしてたんだけど、ドアの向こうにアルツーが座っていて、ノックして

 も反応しないから、強引に押してドアをあけたらなんとアルツーは掃除機の音を聞いて

 るみたいでした。

  掃除機のノズルを耳に当てています。だからノックが聞こえなかったみたい。

  「アルツー何してるの?」

 って聞いたら、

 「耳掃除!」

 だって、モーターの音を聞いてたわけでは無かったみたいです。

 それにしても豪快だなー!
 
  絶対に真似はしたくないです・・・

2010年5月2日日曜日

結局は同じなこと

 3年前にバヌアツに行く前に思っていた

 「うちの親父はラッキーだな、日本に生まれたから癌になっても手術できる、

 痛み止めもあるし至れり尽くせりだ、

 バヌアツで癌になったらどうなるのだろうな?」

  

  そしてバヌアツに言ってジョセフという伯父さんの家に遊びに言った時に

 「ウラ、食事をする前に挨拶してほしい人がいる」

 って言われて連れて行かれた部屋には


 おじさんやおばさんが狭い部屋に6,7人いて、そこの横のベッドにお爺さんが横に

 なっていました。

  「たぶん肝臓が悪いみたいなんだ、背中が痛いみたいだ」

 ということでした、病院にいってどこが悪いかを診察してもらっても、特に

 治療とかはないので、交替でみんなでゆっくりとウチワで煽いであげていました。

 お爺さんはウチワの優しい風を受けながら、うっすらと目を空けて

 満足そうな顔をしていました。

 

 
  食事の時間だったので、平らなお皿に入ったミルクとお芋が運ばれてきました。

 最初に病人のお爺さんがふた口ほど口をつけましたが、それ以上は飲むのが

 
 苦しいみたいで、それを見ていた近くに居たおじさんがそれを受け取りました。

 
 それを回りのみんなで食事をしながら飲んでいました。

  「お芋は食べる?」

 って聞いても軽く手を振るだけでした。

 ジョセフも

 
 「もう長くはないからみんな一緒に居てあげているんだよ、さあ僕たちは隣の

 部屋で食事を取ろう、俺はお前の日本の話が聞きたいんだ!」

  
 って特に悲しそうでもなく、当たり前のようでした。

  だれもお爺さんに同情しているような雰囲気はなく、ただ別れの時を待っている

 感じでした。

 
 バヌアツと日本の一つの違いは医療以上に点滴があることだと思います。

 おそらくあのおじいさんは口から食事がとれなくなったら二週間ほどで無くなるのだと
 
 思います。
 
 気持ちのなかで

 「自分にもその時来たのだな」

 と悟れば、病気の進行は関係なく自然に食欲が無くなり、そのままなくなっていく

のだと思います。

 日本だと点滴があるから食事がとれなくなっても

 病気が進行するまでは命は続くと思います。


 このお爺さんとウチの親父とどっちが幸せなのかな? 
 
 とその時考えましたが、その時に少し思ったのは

 うちの親父には点滴を受けるか受けないからのチョイスがある、
 
 でもジョセフのお爺さんにはそのチョイスすら無い。だからウチの親父のほうが

 選択肢があるだけ良いのかな?
 
 でも逆に選択肢があるということは病気で弱っている病人がさらに迷わなくては

 いけないし、家族は少しでも生きていて欲しいと思うから、病人も頑張って

医療を受けるだろうし、もしバヌアツみたいにその選択肢が最初から無ければ自然に

 みんなが納得する形で人生をおわれるのかな?
 
  という気持ちでいました。




  5月から始まる僕のプログラムに昨日にポルトガルから

  40歳くらいの夫婦がやってきました

 
 旦那さんはルイーズ、奥さんはソフィア

  とても上品で最初に会話も面白く、英語もきれいです

 最初にあったときにルイーズに僕が

 「ここに来る前は何をしていたんですか?」

 ってきいたときに

 「ウーン色々としてきたからなー、
             何がメインだったのかな、何からはなそうかなー」

 って言った時の笑顔というか満足した顔がいかにも

 この人は色々な人生を歩んできて、とても満足しているし、

 沢山の成功体験をもっているのだろうなって感じました。

 今日の朝もたまたま同じテーブルで食事をしていたのですが、

 二人はオージリアというカメルーンの女の人と話していました。

 
 少し聞き耳を立てていると、

「昨年はソフィアは髪の毛が無かったんだよ」

 という話をしていました

 オージリアが上手く聞き取れなかったのか、理解できかなったのか

 「どういうこと?」

 って感度かききかえしていたので、僕も気がつきました


 「ソフィアは昨年に乳がんになって、その治療で髪の毛が一時的に無かったんだよ」

 って言う話をしていました。

 「彼女はラッキーだった、ポルトガルにある癌専門の病院に入院できたし、

 発見がはやかったからすぐに治せたんだよ」
 
 と言う話でした、僕も話に参加しようかな? って思ったけど、

 もし親父の癌の話になって

 「それでお父さんは今はどうしてるの?」

 って聞かれたらまさか昨年に癌の治療をしたばっかりの二人に

 「親父は亡くなりました」

 とも言いにくいから、取り合えず黙っていました。

 
 でも幸せそうに見える、ポルトガルからきたこの夫婦の人生にも色々なことが起こって

 それで人生を考え直すというかおそらく

 二人の時間を大切にしたくてここにきたのだろうなと感じました。

 
 
 そこで結局僕が思ったことは


 医学があるか無いかなんてそんなに関係の無いことなんだろうな、自分が信じて生きて

 きた環境で、好きな人と一緒に人生を過ごすことができれば、それが一番幸せなことで

あって、どっちが良いとか悪いとかは無いと思いました。

 もし進んだ医学をもっていて、

 「あなたが私の国に産まれていれば・・・」

 
なんて言う人がいたらその人が間違っているということだと思います。

 そんな同情は必要ないよね。


 
 最後に我が愛犬だったスパイダーの話をしたいと思います。
 
 詳しくは「追悼スパイダー」 と言うブログに乗っています。

  スパイダーはおそらく事故にあったか犬を食べる習慣のあるバヌアツ人につかまって

 死んだのだと思います。

  そして彼自身は自分が犬として野生の掟の中で生きていることを十分に理解していた

 と思うし、最後に愛する人とか僕とかに挨拶もできずに旅立って行ったけど、

 彼自身には何の後悔も無かったと思います。

 動物として弱肉強食の中で生きていて、その途中で亡くなったのだと思います。 

それもまた誇り高き旅立ち方だったと思います。
 
 だから誰にもみとられずに孤独に死んだとしても、それはそれで良いのだと思います。


 結局は医学があるとか無いとかの問題よりも、納得して亡くなるのなら

 同じことなのだと感じました。

 


 
 

 
 

2010年5月1日土曜日

5月病になる前に・・・

 日本は連休ですね、こちらはそういうのないみたいで、毎日働いています。

 このプログラムは少し変わって居て、

 最初の4カ月は古着を回収して売ってお金をためます。

 貯めたお金で次の6ヶ月間にアフリカとインドのプログラムの勉強をします。

 勉強しながらもチャリティー活動で主に自分達の活動をアピールする雑誌を

200円くらいで売って、アフリカに行くお金をためます。

 6カ月で貯めたお金でアフリカにいってさらに6カ月ボランティアをします。
 
  だからヨーロッパの人やアフリカの人は全くお金持たずに来ます。

 日本人はビザの必要があるからお金持っています。

 なんか自分で書いていたもうさんくさいプログラムだとおもいますが、

 でも自分では良い経験だと思ってます。
 
  

 と言うことで本題の5月病について書きたいと思います。

  
   昔アメフトをやって居た時に2月に新しいシーズンが始まると最初の二カ月は

 アメフトをしないで一年間分の体造りを徹底的にします。

 
 8週間の地獄のプログラムが待っていました。

 シーズン初めのミーティングでチームドクター兼ストレングスコーチ兼トレーナー

というおそらく日本のアメフト界に影がらですが最も貢献している一人と

思われる僕の尊敬するコーチが言いました。

 

「来週から八週間のトレーニングが始まります、これは相当きついですが、

やらないと勝てないので、絶対にやります、ウエイトトレーニングと

走りのメニューですが、どちらも体の裏側を徹底的に使うので、

腹筋をしっかり鍛えて体を支えれるようにしておかないと、

 確実に腰痛になります。でも腹筋をする時間がもったいないので、

腹筋はウォーミングアップとして朝一番に20分間色々なメニューでやり続けます」



 とまあ、あっさりとこんな感じです、次に

 
「最初の二週間はみんな筋肉痛に悩まされます、おそらく全身筋肉痛になります、

でも勝つためだから問題なしです、

良くストレッチしてアイシングしてメンテナンスしてください」

  

 「その後に4週目になると疲れて硬くなった筋肉のまま走ったりウエイトを続けるので

 関節が悲鳴をあげます、ひざ痛になり、その次に腰痛になります。

 でも大丈夫、僕は医者だから治せます」

  
  とあっさり言います、本当に医者なので説得力があります。 ポイントはここからです

 

「6週目に何が起こるかというと、みんながこのトレーニングの意味を疑い出します。」


 実際にそうなりました

 「こんなに辛いトレーニングをして本当に意味があるのか?  

 これで本当に勝てるのか? 

 こんなに辛い事するよりももっと効率良く勝てる方法があるのではないのか?

 コーチが新しい戦術を勉強したり、最初から基礎体力の高い選手を

 リクルーティングしてきたほうが効率が良いのでは?」

 「でもそんなことしたら俺達が試合にでれなくなってしまうから駄目か・・・」

 と言うことになります。

 これが6週目におこることだそうです

 
 「最後の二週間は問題なしです、先が見えるし、ラスト前パワーで乗り切れます。」


 
 と言う感じでした、ここまで説明されてるとなんか安心して動けるよね。

 6週目に起こることって最初から心の準備をしておけば乗り越えられると思います。

 僕もこっちに来て思うことあります。
 
 「古着集めがアフリカに行くことと何か関係あったっけ?」

 ってね、

 おそらくそういうの考えだすのって新しい環境に慣れてきたころだと思います。


 4月から始まった新しい環境になれるのはちょうど5月の連休明けくらい、6週目です、

 5月病ってちょうどそのころにおこるよね、今の仕事の意義をとなえだしたし、

疑問を感じるときがあったら、この話を思い出して頑張ろうと思っています。