2012年8月27日月曜日

スポーツは笑顔でなくても楽しめる

 スポーツを楽しむっていう言葉があるけど、

 それには二つあるのだと思います。

 一つは体を動かして、自分をリフレッシュさせるようなスポーツ

 もう一つは、人生の一時期を競技に捧げるようなスポーツ

 僕のやっていたアメフトなら

 日本一を目指しているようなチームがついに決勝まで来て

 前半を終わって14対0で負けている

  (これはサッカーだと2対0くらいかな?)

 後半に14点以(2タッチダウン)以上とらないと逆転できない

 圧倒的な劣勢に立たされている。

  それでもチームの誰もが逆転をあきらめていなくって

 「自分たちは絶対に勝つのだ!」と信じ切っている
 
  そして後半になって少しずつ差を詰めて、試合が終わった
 
 時に結果的には勝利している。

  そういう試合に味わう充実感を楽しむことことが

  リフレッシュともう一つあるスポーツの楽しみ方なのだと

 思います。 

 その時の「楽しさ」って人生のなかで最も大きな楽しみで

  限りなく充実感という言葉と近いのだと思います。

  一流の競技スポーツの選手はそこを「楽しんでいる」の

 だよね、だからオリンピックの金メダリストが
 
「楽しかった」というのはそういう「究極の勝負」を楽しんでいるの
 
 であって、ニコニコ笑って楽しんでいるのとは違う楽しみなの

 だと思います。

 

2012年8月19日日曜日

どんくさいけど、自信のある子供

どんくさいのに自信は人一倍ある子供はどうやって育てたらよいのかなー? 

 って最近漠然と考えています。

 このカテゴリーは4つに分かれていて、

①能力があって自信がある ⇒ ほっておける

②能力があって自信がない ⇒ 褒める、励ます(可愛く思える)

③能力も自信もない     ⇒ 教える、励ます、成長する(可愛く思える)

④能力はないが自信はある ⇒ ほっておけない、
                        でも学ばない(可愛くない)

 最近甥っ子を見ていて自分の子供の頃を思い出しました。 
 
 注意してあげるのだけど、言うことは聞かないし、やることが全てどんくさくて怪我ばかりするし、他人に迷惑をかける。
 自分が怪我するのなら良いのだけど、よその子供に怪我をさせたり、人に迷惑をかけるのはやっぱり注意しないとね。
 でも注意しても本人は反省しているつもりだけど、3分で忘れてしまうのだよね。

 まさに自分がそうだったのだよね。子供の頃って人の迷惑とか考えてなくって(今も若干そうだけど・・・)親は苦労したのだと思います。でも注意されても治らないのだよね。成長しないというか。

 だから母親は僕をビビらす事ばかり言っていたのだと思います。
「今のままでは普通の人間になれない」
「ほかの子供はみんな良い子だ」
「いとこの誰々ちゃんは私学の中学校に行っている」
「うちのマンションの子供はみんな頭が良いのでお母さんはずかしい」
「お父さんみたいになってほしかったのに・・・・」
 
 そういった言葉は僕の行動の抑止力になったわけではなくって、なんとなく自分の中に生きている事に対する「罪悪感」みたいなものと、自分を受け入れてくれない世の中に対する「反社会的」な気持ちをため込んでいくという結果になったのだと思います。

 潔癖症とかってそういうところから始まるのだろうね。自分が不潔であるというのは、何か処理できない気持ちの表れなのだろうね。
 
アメフトで妥協を許せなかったのはボールを集中して捕るというポジションには必要だったと思うけど、チームワークという面では協調性は必要だからマイナスなのかもしれないね。

 そこら辺はプラス面もあり、マイナス面もあったのかな?

 協力隊でボランティアに行った理由も全てではないとしても
「人生を攻めていないことに対する罪悪感、自分だけ日本で楽して生活してるのではないかという気持ち」
 があったのではないかなとも思います。 

 じゃあ親はどうしたらよいのだろうか? と思うと難しいよね。
「どんな子供でも私はあなたを100%愛している」
と言ってあげたいけど、それで自由奔放な子供が交通事故にあったり、よその子供に怪我をさせては駄目だものね。

 毎日子供と周りに気を使いながらいつまでたってもそれに気がついてくれない子供を見守るしかないよね。そいういうときには周囲の助けとか母親以外にその子供に接してくれる人がとても助けになるのだろうと思います。
 そして親ができる最大の仕事は「成長を待つこと」だろうね。
こっちがしつけなくっても子供は心も体も成長していくから、高校生くらいになると急に気がつく事ってあると思います。

 それまでに親が過剰に子供に注意しすぎるとバランスを失ってしまうのだろうね。 とは言っても高校くらいいける学力はつけてほしいしね。
 
 まとまらないけど子育ては難しいなーって思います。
  そして一番辛いのはその子供本人なのだということも身にしみて分かっているつもりです。

ムヒカ大統領のスピーチについて

 開発教育とか国際理解教育とかグローバル人材育成なんていうように、3年くらいで言葉は変わる日本の教育界だけど最近世界の流行りは
「持続可能な発展」 Sustainable Development
持続可能な社会」 

 という「持続可能」という言葉がキーポイントみたいです。
 ようは50年後も同じレベルが保てる事が大切で、例えばガソリンで走る車なんかは何年か後にガソリンが無くなったら維持できなくなる便利さだよね。 それではいけませんよということみたいです。

 前回のブログで紹介した  「ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ」
のなかで気に行ったところをコメントしようと思います。
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①ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

ウルグアイの大統領だからドイツとインドなのだろうけど、日本と中国に当てはめると分かりやすいと思います。

 発展は良い事である! という漠然とした考え方に流されているけど、日本人の約10倍近くいる中国人の全員が日本人と同じ生活レベルまで「発展」したとしたらすでに地球はパンクだよね、持続可能な世の中では無くなるよね?


②どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか? 

 これもものすごく納得、資本主義社会に追いついてこい、と言って援助してみたり、同じ価値観を進めたりして、ある程度のレベルまではかわいい子供みたいなものだけど、発展しすぎて自分の意思を持ち出すとライバルになってしまう。
 でももともとは発展が良いことだといって先進国のライフスタイルに途上国をひきこんでいったのは我々だよね。「可哀そう」から始まった政策はいつも間にかお互いの首を絞める「持続可能ではない世の中」を作っていると思います。
 

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

耳が痛いです。ブランド物を買いあさったり、海外旅行に行ったり、癒しという言葉に騙されてマッサージやエステに行く人達はいつになったら満足するのだろうね? きっと全ての物欲を手に入れたら次は「不老不死」を手にいれたくなるのだろうね。
 結局は満足することを知らない。資本主義社会の中で「本当の豊かさ」を学べなかった我々の問題点だと思います。
 ここらへんを学問的に追求することが
「持続可能な開発の為の教育」 ESD という言葉で今世界中で始まっています。
 
 この「持続可能」  Sustainable サステインナブル  
という言葉、オリンピックの開会式でも使われていたし、日本語としては「持続可能」って使い慣れていない言葉だけど、今後しばらくはキーワードになると思います。 

ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ


ウルグアイの大統領のリオ会議でのスピーチを最近知って納得しました。 次回のブログはこれをヒントに書きたいと思います。

ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ: (訳:打村明)

会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。
私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝 いたします。
国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。
しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。
午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。
私たちの本音は何なのでしょうか?
現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。
同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

 私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

 このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?

 どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは 発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命より も高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では 私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、 1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと 働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題です し、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私 の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働 になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。 毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するもので あってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限 のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

ありがとうございました。

回転木馬のデッドヒート

 先日に村上春樹さんの本の題名で
「回転木馬のデットヒート」 
というのがあった、短編物だったのだけど、
その中に
 「人間は人生というレースが何処かの方向に向かって進んでいると思っているけど、実はメリーゴーランドの回転木馬のように人間は同じ場所をクルクル回らされているだけなのだ。」 
 というような内容でした(本は図書館に返したのできちんと覚えていなくてごめんなさい・・・・) 

 でもこの言葉ものすごくおもしろいなーって思いました。
 回転木馬なのに、それがデッドヒート(死に物狂い)で競い合ってるということだよね。でも今の世の中を見ているととてもぴったりだと思いました。

 回転木馬という楽しいはずのテーマパークの中でスイッチが入れられると1日中ゴールもないのにデッドヒートを繰り返している(ようにみえる)、本人達は必死なんだろうけどね
 
ものすごく奥が深い言葉だなー、って思いました。

 さすがですよね
 

結婚式と葬式と・・・

 昔から結婚式は苦手で、なんか途中で疲れてしまう。
 なんかみんなが無理して喜んでいたり、はしゃいでいたりすることに気疲れしてしまうのかもしれない。
 もちろん素敵な結婚式もたくさんあった、それは本当に来ている人が二人を祝福するようなムードがあり、無理せずにそこにいられる時だ思う。

 もともとが運動をしていたので、体育会系の結婚式が多かったというのもあると思う、そういうもので良くあるのは
 ・脱ぐ
 ・暴露話
 ・いじられキャラをみんなでいじる
 ・食べ物コンペティション
 ・景品が当たるゲーム

 という感じかな?
 たくさん結婚式いったけど、式場とかその日の余興は覚えているけど、誰の結婚式だったか忘れている式がたくさんあります。
 みんな個性が無くて同じなんだものね。そしてそれが良いと思っているのだろうね。
  今思えば結婚式は基本的に「若者」がするということだから
 やっぱりノリは若者文化になるのかもね。
 
  でももしアラフォーで結婚すしようと思っている人が結婚式上にいって、いかにも無理して若者向けの式を挙げさせられるのはなんか可哀そうだなー。とも思うけどね。 そういう人は神社でやればよいのか?
 でもその関係って難しいよね。 お金もうけでやっている結婚式の会社と、建前としてはお金にとらわれてはいけない お寺の間でどのような話がされているのか? とても興味があります。

 僕は結婚生活に最近興味はあるけど、結婚式には昔から全く興味はないのだよね。 半分くらいの男性はそうなのだと思うけどね・・・・

 たかが5時間で300万物金を使っている。ご祝儀があっても100万は自分で払うのだよね?

 その金を使って毎日の結婚生活をもっと充実したものにしたほうがよっぽど良いと思います。 5時間で100万だったら5時間我慢して100万貯金したと思えばよっぽど良いけどね。
 
 お嫁さんの為とかご両親の為とかいうけど、結局は結婚式場の為にやらされているということに何故きがつかないのかね?

  まあこういった発言が僕の器の小ささを露出してしまうのだね・・・ もう少し大人になります・・・・
 
 結婚式しなくて良いという女性がいたら結婚したいと長く思っていた時期もありました。

 でも結局は本人たちがそれでよくても、

「親戚が・・・ 」 「親が・・・・」 「会社が・・・・」

 という「日本人的」な考え方で結局はそうはいかないのだ。

 まあ結局はやってしまえばやっぱり  「やってよかった」

 となるのだろうけどね。 でもそういうときの日本社会は僕には重たい。 先日に結婚式に来ていた元同じチームの外国人選手に 「日本の結婚式どう思う?」って聞いたら
 「クレイジーだ」と言っていて少しほっとした。
外国人から見たら宗教的でもなんでも無くて、みんなでから騒ぎするだけの式ってなんだろう? って思うのだろうね。
 結局は日本にはお金が余っているのだろうね。

 同じような事を思ったのが親父の葬式の時。
うちの親父は大阪で亡くなったけど、式は山口でするので、大阪では遺骨にするだけでした。だから家からそのまま火葬場に持っていってほしい。
 と葬儀屋さんにお願いすると。
 「最近は家からというのはあまりなくて、いったん葬儀場でお預かりして、そこでお別れをしてそこから火葬場というのが普通なんですよ。」 と何度こちらも事情を説明しても理解してくれない。

 金額も家からそのまま火葬場だと50万、一度セレモニーホールを使うと、その使用料で100万アップする。それプラスお花代とかくだらない物がプラスされるのだろうけどね。
 「一般的とかそうでないとかは関係なく、親父からの遺言で式は大阪でしないというおことなのでセレモニーホールに行ってもだれも来ませんから、家から直接で良いです」
  と再度言うと
 「それはよくわかるのですけど実は最近はマンションから直接に出棺されるのをマンションの方や自治会、管理人さんが嫌がられることがあるので、こちらとしてはそういったトラブルを避けるためにもやっぱりセレモニーホールをお勧めします。」

 というのだよね。でも親父の遺体は今は家にあって、そこからセレモニーホールに持っていくにしても、火葬場にもっていくにしても、いずれにしてもマンションの入り口を通るよね?
 それに何の違いがあるのかな? ただ火葬してほしいだけだよ?葬式は山口県でやるからね。

 って思ったし、身内を失って弱っている家族に言い方は丁寧だけどマンションのほかの方が嫌がる。なんていうのはとても変だとおもいました。今の日本では人は死んではいけないというとなのかね?

 うちの親父は35年前に新築でマンションができたときに入居してきたのだし、それから35年間、最近は自治会の役員までやっていたのに、その人の出棺を嫌がって「気持ち悪い」と思う人がいたら、その人の考え方がすでに「気持ち悪い」 よね。

 家族を失った人にそんな言葉まで使ってセレモニーホール100万円コースを進める会社って何なんだろう? と思ってしまいました。 でもあの人へ会社に帰ったら上司に
「お前の営業力が無いからセレモニーホール使えなくて100万取り損ねたじゃないか!」
 とおこられるのだろうね。冠婚葬祭業界には務めなくないなー。

 結局管理人さんに聞きにいったら、管理人さんもとても改まって
「そうでしたか、浦さん亡くなられたのですね、ご病気されたいたのは前から存じていましたが、ご愁傷さまでした」
 とても丁寧に挨拶してもらって、自治会から香典までいただきました。 
やっぱり葬式屋の言っていることはおかしいのだと思ったね。

 結局はそういう商売のやり方が今でも成り立っているということは不景気とは言ってもあるところにはお金があって、日本人は人生を楽しむことよりもそういう建前の為にお金を使う民族なのだろうね。 冠婚葬祭のタブーはまだまだ破られないだろうと思います・・・・
 

 

2012年8月11日土曜日

日本とアフリカの旅行の違い

先日にアフリカから帰ってきた協力隊員に話を聞いたら

日本の凄いところは旅行に行く時に
(例えば東京から東北に行くとして)
その間にまったく誰にも道を尋ねずに行けてしまうところだ。
 と話していました。
 看板がきちんと整備されていて、切符だって新幹線やバスのシステムだって統一化されているし、いざとなればスマートフォン見れば人に聞くよりも早くて確実な情報が入ってくるものね。

 アフリカならいろいろな人に聞きながら、一緒に考えてもらったり助けてもらったりして目的地にたどり着くので、その感動も大きいし、到着を待ってくれている友人との再会も感動的だし、一つの旅で経験することも多くなる。

 日本人の追求してきた便利さにアフリカから帰国してきたばかりの私は今は違和感と物足りなさを感じている。
 と話していました。 

なるほどー、確か自分にもそういうことを感じた時期があったなー、と日本社会にどっぷりつかってしまっている自分が少しさみしくなってしまいました・・・

金メダルかジャイアンツの選手か?

先日に後輩が言っていた

「ジャイアンツの選手よりもオリンピックの金メダリストのほうがよっぽど素晴らしいけど、今の物質主義の中では結果的にお金を多く稼ぐプロ野球選手のほうが勝ち組になれるのはおかしい」

 この話を聞いた時になるほどなー、とは思ったけど、まあ僕の素直な気持ちとしてはプロ野球選手もオリンピック選手もどっちも同じくらい素晴らしいのに、入ってくるお金の額が圧倒的にプロ野球選手が多いということに不満を感じるのだろうな、と思いました。

 でも金メダリストの良いところは日本人の好きな
「パッと咲いて、パッと散る」
という面もあるよね。意外とみんな普通の人、だからメダルをとった時にインタビューなんかもプロ選手とは違って言葉になってなかったりする。それが日本人の感動を呼ぶのだと思います。ある意味高校野球みたいな感動があるよね。

 応援していた家族もみんな普通の人、どこにでもいるような田舎の人で、この人はきっと子供がオリンピックに出なかったら一生海外旅行なんて行かないのだろうなー。っていう見ていて微笑ましい家族もいるよね。

 でもトータルするとどっちが良いのかな?って考えると
また不思議な気持ちになります。

 プロ野球選手は引退後はみんなどんなことをしているのだろうね。

 年収とか高いから現役の頃は良い生活しているけど、引退後
 にそれと同じ収入が得られるわけではないし、今までのプロ選手としての充実した生活は終わってしまって、普通の人になってしまう。プロ野球選手だったから仲良くしてくれていた知り合いなんかも少なからずいるだろうから「元プロ野球選手」になってしまうと離れていく人もいるだろうね。

 子供の頃から野球中心の人生だったから野球という土俵の上では強いけど、それ以外の仕事の場所ではどうなのかな?
 元プロ野球選手だったという「ピエロ」的な仕事はあるだろうけど、そんな見せ物的な仕事で満足するような事はないだろうしね。

 まあどちらもスポーツ選手である前に自分という一人の人間である。という気持ちが無いといけないのだろうね。
 スポーツは自分の人生の大切な部分ではあるけれど、家族があって仕事があってスポーツがあるという三本柱を形成することを忘れない事が大切なのだと思います。

 ここではやっぱり前回にも書いた「武道」というスポーツを通じて以下に人格形成をしておくか、が引退後の人生を左右するのだと思います。

2012年8月9日木曜日

「勉強道」なのか「勉強術」なのか?

スポーツマンっていう言葉だったり、スポーツしてる人間はさわやかでハキハキしているべきだという意見があったりして、
子供の頃は漠然と「そうあるべきなんだ」みたいな気持だったけど、
実業団でフットボールを長くやったり、海外でプレーしたりするうちにスポーツは礼儀や人間性を育てるものだ。

という気持ちを忘れていったような気がする。
 
ある時に空手をしている先生に
「空手の世界ではそこらへんはどうなっているのですか?」
 と聞いたら、
「それには明確な答えがあって、日本では武術と武道にわけている。武術は自分のテクニックをあげて強くなること、試合に勝つかに優先順位を置いている。
逆に武道というのは空手を使って人間としての道を極めることに優先順位がある。だから勝ち負けに優先順位はない」
 
なるほどなー 

 って思ったのだけど、最近オリンピックを見ていて思うのは日本のスポーツは武道と武術の比率がどうしても武道のほうに偏りがちなのだと思いました。(ほかの国と比べてね)
 負けた選手が泣いていたり、必要以上に感謝の気持ちを述べたりするのは日本独特のものだと思います。
(それが良い悪いは関係なくです)
 特にオリンピックはアマチュアリズムにのっとっているからどちらかと言えば大会の趣旨も「武道」ということなのかもしれないけど、実際には「参加することに意味がある」という気持ちでオリンピックに参加している人はすでにいないよね?

 そして今日書きたかったことはもう一つあって、日本の教育についても同じような事が言えると思います。
 学校は勉強しながら社会性や人間性を学ぶところ、という「武道」の精神だとおもうのだけど、いつの間にか評価の基準は「受験に勝つため、学力の向上」
という武術になっているのだと思います。 
それで言うと塾は最初から勉強だけという「武術」の世界なのでスッキリしてるよね。
こちらはお金を払って、先生は勉強を教えるというプロの世界。塾の先生は能力が低ければ生徒がこなくなって失業するだけだからね。

 でも学校は難しい、武道ですよというスローガンを掲げながら、評価の基準はあくまでも勉強という「武術」になってしまっている。本当は「勉強」というツールを通じて子供に「人間としての道」を教えるはずの「勉強道」であるべきものがテストや受験で良い点数をとるためのテクニックを教える「勉強術」になっているのだろうね。

 それでも良いと思うのだよね。だって僕は小学校の頃にやっていて「スポーツごっご」よりも実業団でやっていて
「勝つためのスポーツ」から多くの事を学んだからね。
 
有名な関西のアメフトの監督も言っていました

「スポーツは勝つことが全てではない、参加することに意義があるなどというトロい取り組み方をしていては、勝つこと以上に大切なことも手に入れることはできない」 

 やっぱり「ごっこ」では人は本当の意味での強い人間は育たないのかもね。 もちろんその子供の年齢とか能力にも関係するだろうけどね。

 日本の学校ってそこらへんが明確ではないのではないかな? だから先生達が迷ってしまう。人間性を育てろという大きなスローガンがあるけど、実際にそれはできない。
 
 武道と武術が混同しているのだろうね。分かっていてやっているのとなんとなく矛盾を感じながら教えているのでは少し伝わり方が違うと思います。教えているほうが迷ってしまうのではないかな?
  なんてオリンピックを見ながら考えていました・・・