2012年2月14日火曜日

自由の意味と「おきて」の大切さ

日本には自由が無い、窮屈だ、もっと自分を試したいという気持ちでバヌアツやアンゴラに行ったけど、そこで感じたことは

「自由を得たいなら、リスクも覚悟しなければならないということ」

 バヌアツに派遣される前の研修で、色々な立場のプロが途上国で起こることに対するレクチャーをしてくれる。

 衛生に対するレクチャーでは

 「現地の人の家の呼ばれて食事をするときは、もし現地の人が手を洗わずに食事の準備をしていたり、まな板が汚れていたり、水が無いので生野菜を洗っていなかった場合は、衛生上断るべきである」

 と言われたり、

 
「現地の足と言われているバイクの2人乗り、3人乗りのタクシーは隊員は乗ってはいけない、時にはドライバーが酔っぱらっていることもあるし過去に事故が多く報告されている」

 
「現地ではトラックの荷台に人が乗ることが許されているが、あれは振り落とされるので危険である。」

「現地のレストランで出された水は飲んではいけない、必ず下痢をする、しかしコーラなどの加工されている飲み物は安全である、でももしコーラがグラスにつがれていて、その中に氷が入っていた場合、氷は生水からつくられているので、残念ながら飲んではいけない」


などとそれぞれの立場からそれぞれの専門家が連日レクチャーしたあとに異文化理解の教授がきてこう言っていた
 
 「協力隊の隊員としては現地の人と同じものを食べて、同じものを着て、同じ生活をしなくては誰もあなたの事を信頼して一緒に働いてはくれません。どこまで現地に溶け込めるかが信頼を得るには大切なのです」



それぞれの自分の専門分野で真面目に考えた結果がこういう矛盾をになるのだろうし、結局人間は一人一人がとても真面目で良い人だけど、多くの人が組織を構成していて、その人たちの安全を守る為に、過去に起こった事件、事故を繰り返さないようルールを作っていくと今度は禁止事項ばかりで何もできなくなってしまう。

結局は途上国の人に

 「日本人みたいにはなりたくないよー!人生楽しめてないじゃん!自分の良心よりもルールが優先なんだ!」

って言われちゃうかもね?



 現地に行って感じたことは、日本で聞いている時には馬鹿らしいと思っていたこういうアドバイスも、現地の医療設備や日本とは違う常識に当てはめると

 「なるほどな」
 
と思わされることもあります。 でもこのアドバイスをすべて守っていたら窮屈過ぎて何も生活できません。

 だってペットボトルの水が手に入らなくて、煮沸することが困難だった場合、生水を飲んで下痢をするか、我慢して脱水症状になるかの選択になるからです。

現地のお母さんが一生懸命作ってくれたご飯を遠回しでも断ることはボランティアとして以前に人間としていかがなものか?ということになるしね。

 
下痢する自由ってもんがあっても良いよね?

 自分の判断で下痢したならその下痢には意味があるし、プライドを持てると思います。

 
そこでダメなのは?

 「下痢したー、ジャイカの人助けてー、協力隊なんて来なければ良かった」

 っていう人だと思います。
  
 そういう人には「自由」を求める権利は無いよね。

 自由が欲しいならそれによって起こったことには自分で責任とらないとね

 責任は取らない、でも自由は欲しいでは矛盾してるよね。

 
 その選択を自分ですることが「自由がある」ということなのだと思います。

日本では最初からルールと規制か過剰すぎて、危険だからルールを守らなきゃ!って思う前に、警察に捕まるから守らなきゃ!

 ってことになってるよね。 そういう環境で育った人が考えることは

「ルールの範囲内でやれることはどんな汚いこともやらなきゃ損!

 法律や規制が追いついていないグレーゾーンならとりあえずやったもん勝ち」

 になってしまってるところもあると思います。

 資本主義が行きづまっているのもそういう考え方が一部の頭の良いと言われる

 ビジネスマンの中で「自由」という言葉を盾にして広がりすぎたからだと思います。

 ルールや規制ではなくって「ジャングルのオキテ」が守られていたころのほうが

 人間は純粋だったのではないかな?

 「弱肉強食」っていう言葉は野蛮ではなくてもしかしたらバランスのとれた

 素晴らしい「オキテ」だったのではないかと思います。