2010年3月2日火曜日

一年たって感じること①(もしもこれが仕事だったら)


もし僕がボランティアではなくって、一つの仕事としてここに居ていたとしたら恐ろしくなりました。考え方まったく変わるよね。

「タンナ島の60校の小学校の先生達全員に              週に2回の体育の授業を実践させる」

 っていう仕事だったら僕はどうだったろう?2年間で結果を出さなければ日本での評価が下がって今後仕事ありませんよ、もしくは出世街道からは遠ざかりますよ、給料下がりますよ、家族が困りますよだったら・・・・・

 きっと180度考え方変わってると思う。怠け者なバヌアツ人は世界を救う可能性のある科学技術や文明社会とはまったく反対な生活をしている。マラリアなどは各国が協力して一斉に撲滅しなければならないのに途上国のせいでいつまでも撲滅できない。

 食べるものが豊富な事に甘えて、働かず、文化も持たず、怠け者でけしからん。

 彼らには教育が必要で、チームワークや規律、組織づくりを学ぶためには体育は欠かせない、なんとしてでも全ての先生達に一刻も早く体育を実践させる事が私の使命であり、それが世界の平和につながる! 
 
 ってなってたかもね。しかもそっちの方が自分で書いててもかっこよい気がするしね!使命感みたいなの感じるもん。
 
 でももしかしたらそこが先進国の人たちが陥りやすい過ちなのかもね。
 
 明確な目標とそれに突き進む自分!それって生きていくなかでとても大切だと思う。でも気がつかないうちにその使命感が間違った方向に進んでしまって引き返せなくなってしまうこともある。
 また仕事に明確な目標があるということは、明確な結果が数字で出るという事になるから、仕事の出来る出来ないで人間のレベルに明確な基準が生まれてしまう。
 そこで生き残っていくためにはとりあえず数字としての結果が求められるし、勝ち残っていくためには多少やり方を曲げても結果を出さなければいけない、そういう考え方が少しずつ仕事の目的を違った方向に進めていくのかもね。
 
  組織レベルでそういった使命感が盛り上がってしまうと
  時には戦争したほうが世界平和のためだ!とか他国への侵略も認められてしまうこともある。そして結局止まれなくなって気が付いたら相手も自分も大きな傷を負ってしまう。
 
 ボランティアのつもりで自主的に働いてその結果で評価されるのが一番よい形なのかも。

 他人の評価は結果的にされるものであって評価される事を目的にしちゃうと仕事の意味や内容、方向性は大きく変わる気がします。
 
 でも日本人が一生懸命働いたお金で今も自分がバヌアツに来させてもらえている事も忘れてはいけないとも思います。
 
 だからこそ常にこういうことを意識して働かないといけないと個人的には思っています。
 

 



 

やっぱり僕は日本人


先日幼稚園のサマンタ(本当はサマンサだとおもいます)が
 
 僕が大きな荷物を持っていたときに 「ウラどこに行くの?」

 って聞いてきたので
 
 「日本に帰るんだよ!」 って嘘ついてみました。
 
 サマンタは不思議そうな顔をして
 
 「フロム?」  「何で」
 
 って行ったので、
  
 「コントラクト ブロング ミー イ フィニス!」
 
 「契約が終わったからだよ」 

 って冗談で言ってみました。サマンタはコントラクトの意味がわ

からないのでもう一度
 
 「フロム?」
 
 って言いながら駆け寄ってきました。回りに居た小学生の
 
 エタ、ロドニー、ナッシー もなんか真剣な顔で僕ら二人の会

 話を見つめています。
 
 エッ!なんか俺の冗談通じてないの?って思って
 
 「ミ ミ ギヤマン ノモ !」
  
 「嘘ついただけだよ」
 
 って言ったらまたサマンタが
 
 「ユー ゴー ロング ジャパン フロム?」
 
 って言って泣きそうになりました。
 
 みんなが僕らの会話を見守っていました。
 
 結局サマンタには方膝をついて
 
 嘘ついただけでずっと居るから大丈夫。
 
 って言ったら少しご機嫌直りました。
 
 でもその時の回りの子の表情を見ても思ったけど、あんまり
 
 帰国のこと言うの止めとこうって思いました。
 
  最近、新隊員が来た事もあっていつ帰国かよく聞かれま

 す。実際に僕が任地を去るのはあと半年も先です。

  バヌアツはとっても楽しいし、毎日幸せだし、みんな嫁を
 
もらってこっちに住めばよいと言ってくれます。
 
 僕も日本が好きな訳ではないけど、でもやっぱり外国に永

住することは考えた事は無いです。 
 
 イロイロなことを学んだり、日本を客観的に見る経験として 

は良いけど、それはいつか日本に戻るという前提での感覚
 
 でもし永住するとなると、やっぱり違います。
 
 なんで違うのかと考えるとやはり僕の中に日本で育ってきて
 
 身に着けてきた感覚とか価値観とかあるからだと思います。

 ・陰ながら努力して何かを達成したり
 
 ・頑張ってる人を応援したり
 
 ・石の上にも三年だったり
 
 ・ただ単に味噌汁の味をわかりあえたり
 
 
そういう感覚を良いと思う気持ちって日本での生活のなかで

 は意識してないけど僕の気持ちの奥にはあると思います。

  
 特にバヌアツ人の生活のなかでは何かを継続的に行って
  
 達成するという充実感を一緒に共有するという事は少ない
 
 です、農耕民族でないので協力しないでも生活していける
 
 とか、日本のように冬が来るわけではないので、それに向けて
 
 みんなで蓄えを作る必要が無いという理由があるとおもいます
 
 それが良いとか悪いとか言う事ではなくて、彼らの生活に必要
 
 がないから育たない感情なのだと思います。
 
  逆に彼らは毎日の生活を楽しむ事や仕事より家族を優先
 
 すること、お年寄りをいたわること、大家族で育つので、兄弟

同士の役割分担など戦後の日本の生活で少しずつ消えつつ

ある習慣が大切に残っています。
 
 第二次ベビーブームの真ん中で育ってきた僕は核家族世代
 
 なので、バヌアツの家族を見て日本が忘れたそういった感覚
 
 を思い出さされること良くあります。

 
 話は戻って
 
  同じ感覚を共有できたり、自分が一生懸命やった仕事を

 同じ価値観を持った人に認めてもらいたい、それが無いと
 
 頑張れない訳ではないけど何処となく寂しいよね
 
 結果だけではない評価がそこにはあると思います。
 
 だから僕は日本に戻るのだと思います。
 
 生活していくだけならバヌアツのほうが絶対に楽だし楽しい
 
ものね。
 
 楽だし楽しいからバヌアツにいようと思わないのも日本人ぽい考え方なのかもしれないですね。
 
 写真はサマンタです、デジカメで写真を撮って見せてあげると

 「ミー!」 って言わずに 「サマンタ!」
 
 って自分の名前を叫ぶ無邪気で可愛い2歳半です。
 
 

たき火は人生


男には無性に焚き火を大きくしたい衝動に駆られる時があると思います。

  また逆に

 一人でこじんまりした焚き火を見つめてその火を大切に育てながら生きていきたいと感じる時もあります。 
 
何か大きな事を達成したいと意気込む瞬間と、小さくてもよいから自分が満足できる世界を作ってそれを見つめて生きていたいと感じるときです。

 乾いた枯れ草にマッチで火をつけて、その火で細い枝を燃やして最後には安定して火力を出してくれる薪を燃やします。 
 
 その過程を頭の中でイメージしながら家の回りを一回りして燃えそうな枯れ草や小さな枝を捜します。
 
 そして着火、同じ草でもその日の風や湿度、時間などによって安定した焚き火になるまでの時間は異なります。
 
 そういった環境を「考えるの」ではなく「感じる」ようになって、その日の自然の環境に逆らわないようにやさしい気持ちで火と向き合います、焦ったりいい加減な気持ちで焚き火を作ろうとすると失敗してマッチばかりを無駄にしてしまいます。 
 
  時に完璧な焚き火と出会い一瞬何もかもが完成された気持ちになることもありますが、それは常に見守ってあげないと気が付いた時には炎が作り出した灰で色あせてしまいます。

 安定した風のおかげでいつまでの美しく燃え続けてくれるような気持になることもありますが、風はいつやむかはわからないのでやはり頼りになるのは自分になります。
 

 「焚き火の達人は人生の達人」
 
                    そんな気がします。