2012年8月9日木曜日

「勉強道」なのか「勉強術」なのか?

スポーツマンっていう言葉だったり、スポーツしてる人間はさわやかでハキハキしているべきだという意見があったりして、
子供の頃は漠然と「そうあるべきなんだ」みたいな気持だったけど、
実業団でフットボールを長くやったり、海外でプレーしたりするうちにスポーツは礼儀や人間性を育てるものだ。

という気持ちを忘れていったような気がする。
 
ある時に空手をしている先生に
「空手の世界ではそこらへんはどうなっているのですか?」
 と聞いたら、
「それには明確な答えがあって、日本では武術と武道にわけている。武術は自分のテクニックをあげて強くなること、試合に勝つかに優先順位を置いている。
逆に武道というのは空手を使って人間としての道を極めることに優先順位がある。だから勝ち負けに優先順位はない」
 
なるほどなー 

 って思ったのだけど、最近オリンピックを見ていて思うのは日本のスポーツは武道と武術の比率がどうしても武道のほうに偏りがちなのだと思いました。(ほかの国と比べてね)
 負けた選手が泣いていたり、必要以上に感謝の気持ちを述べたりするのは日本独特のものだと思います。
(それが良い悪いは関係なくです)
 特にオリンピックはアマチュアリズムにのっとっているからどちらかと言えば大会の趣旨も「武道」ということなのかもしれないけど、実際には「参加することに意味がある」という気持ちでオリンピックに参加している人はすでにいないよね?

 そして今日書きたかったことはもう一つあって、日本の教育についても同じような事が言えると思います。
 学校は勉強しながら社会性や人間性を学ぶところ、という「武道」の精神だとおもうのだけど、いつの間にか評価の基準は「受験に勝つため、学力の向上」
という武術になっているのだと思います。 
それで言うと塾は最初から勉強だけという「武術」の世界なのでスッキリしてるよね。
こちらはお金を払って、先生は勉強を教えるというプロの世界。塾の先生は能力が低ければ生徒がこなくなって失業するだけだからね。

 でも学校は難しい、武道ですよというスローガンを掲げながら、評価の基準はあくまでも勉強という「武術」になってしまっている。本当は「勉強」というツールを通じて子供に「人間としての道」を教えるはずの「勉強道」であるべきものがテストや受験で良い点数をとるためのテクニックを教える「勉強術」になっているのだろうね。

 それでも良いと思うのだよね。だって僕は小学校の頃にやっていて「スポーツごっご」よりも実業団でやっていて
「勝つためのスポーツ」から多くの事を学んだからね。
 
有名な関西のアメフトの監督も言っていました

「スポーツは勝つことが全てではない、参加することに意義があるなどというトロい取り組み方をしていては、勝つこと以上に大切なことも手に入れることはできない」 

 やっぱり「ごっこ」では人は本当の意味での強い人間は育たないのかもね。 もちろんその子供の年齢とか能力にも関係するだろうけどね。

 日本の学校ってそこらへんが明確ではないのではないかな? だから先生達が迷ってしまう。人間性を育てろという大きなスローガンがあるけど、実際にそれはできない。
 
 武道と武術が混同しているのだろうね。分かっていてやっているのとなんとなく矛盾を感じながら教えているのでは少し伝わり方が違うと思います。教えているほうが迷ってしまうのではないかな?
  なんてオリンピックを見ながら考えていました・・・