2010年3月5日金曜日

たき火検定



青年海外協力隊タンナ島派遣は現在男子4名です。

週末などに一時間以上歩いて我が家にみんなが集まることがあります。

といっても時間もルーズで

・「日没を目標に集合」とか。

・「腹が減ったら集合」

・「誰にも捕まらずにたどり着けたらとりあえず我が家に集合」

・「こないつもりだけど、気が向いたら集合」

・「月夜なら9時には解散して岐路だがもし月が出なければ宿泊」

・「飯は全員の到着を待たずに食べ始める。」 

などと全てがいたってルーズな感じです。

嘘をつかない為には初めからあやふやなルールにしておく事が島では大切です。

食事の後には会話以外にすることもなく、いかに会話を楽しむ

かはやはり、ムードという事になります。

そしてやはりムードが良いのは焚き火の回りということになります。

食後にその日だけはインスタントではなくてきちんとフィルターを使

ってコーヒーを落としてのみます。

男4名が狭いキッチンで食事をすると南国バヌアツでは相当熱

気が上がるしヒロがタバコを吸いたいので外に出て焚き火をしよう

というな流になります。

そこで大切なのはいかにスムーズに焚き火を作るかということです

が、そこはなかなか難しいです。

僕らの中での焚き火の定義はきちんと安定して薪が燃えている

事、落ち葉やダンボールなどに一過性の焚き火は認められずにき

ちんと薪に燃え移って、みんなが安心してその炎を見つめられると

いう状態が焚き火が完成したということになります。

そこで

「焚き火検定」

という言葉が生まれました。


4級なら時間制限も無くマッチ、ライター、ろうそく、時にはガソリ

ン(爆発してスネ毛が燃えるので、邪道だといわれています)や、

油分の多いマンゴーの葉やココナッツを包んでいるパームなど何で

も使ってよいので、とりあえず火が燃えれば4級がもらえます。


3級は時間制限があり、4級と同じ条件で5分以内に

安定して薪が燃えれば合格です。

ここまでは大抵の人が合格できるし、4級を持っていなくても3級

の受験資格はあります。

2級になると少し難しくて、ライター、ウチワ、枯葉、ダンボールな

ど邪道簡単火おこしグッズへの依存が文明に頼りすぎという理由

と焚き火検定の品格向上の理由で使用が不可になります。

文明社会との接点として与えられる三本のマッチのみでので安

定した焚き火がもとめられます。

その三本を無駄に使ってしまった場合でも5分間以内であれば、

火打石、枯れ木、偶然の雷と火山の噴火などの方法で規定の

5分以内に火を起こす事ができれば合格となりますが、その可能

性は極めて少なく、受検定料として使われる

「隊員としてのプライド」

を無駄に使ったとして、同情されるというもっとも屈辱的な気持ちを味わいます。

なので2級からは合格率は極端に下がりますし、もしタンナ派

遣の協力隊員OBの履歴書に、

「焚き火検定2級」

とあれば、それは自動二輪免許と同じ、もしくは英検2級と同じ

程度の評価を下してもらえれば個人的にはうれしいです。

ちなみに1級は相当高度で、その検定方法はのメインは

「雨の中での火を使う為の道具を使わない薪への着火、
制限時間5分以内」

という検定試験内容になります。

一級検定が2級以下と大きく違う事は着火剤は一切使えませ

んが、ブッシュナイフは直接的に火を起こす道具ではないので使用できます。

ちなみに数少ない合格者の必勝法は

検定開始同時にブッシュに入り、倒れて湿っている薪には目もく

れず、朽ちてもなお枝として幹にしがみついている、もしくは縦に

立っている薪を探し切り倒してくる事。

その薪も雨の中では表面は湿っているので、ブッシュナイフで真

っ二つに割り、内側の湿っていない部分をこすりあわせて火をおこす事。

そしてそれをすばやく枯れたココナッツの周りを囲んでいる細い繊

維でできた油分の多いココナッツパームに燃え移らせてから

湿っていない薪の内側を割り箸状に小さく裂いて燃やしその炎で

湿ったまきを乾かしつつ安定した焚き火にすること。

一級合格に大切なのは、種火への強すぎず弱すぎずという絶

妙の息の吹きかけとその際のコントロールとタイミング、合格への情

熱と豊富な肺活量が決め手になります。

これをクリアすると「焚き火検定一級」という認定がもらえます。


男4人のタンナの夜は焚き火検定の話のほかに

この4名で日本で商売をするとしたら何で儲けるのか?

1、タンナの生姜を輸出する

2、ドライマンゴーを輸出する

3、カバを輸出してカバの店(ナカマル)を下北沢にオープンする

4、チーフの娘と結婚してこのままタンナでチーフになる

5、マンタンナを煽ってバヌアツからの独立運動を起こして、タン 
ナ王国の国王になる

などといったあくまでもいい加減な今後の人生プランの会話もします。

その話題に飽きると、昔に流行った映画「スタンドバイミー」だっ

たら4人のウチの誰がリバーフェニックスの役になるか?

北斗4兄弟なら誰がケンシロウとして伝承者に選ばれるか?

バンドを組んだら誰がボーカルになるか?

またその場合はカントリーでいくのか、ロックでいくのか、ビジュアル

系で行くのか?やはりバヌアツで流行っているストリングバンドでデ

ビューすべきなのか?

というようなないようで少し口論をしてみなりしながら夜が更ける

のを無駄に待ちます。

焚き火検定とは昭和生まれの大人になりきれない隊員達のロマンの詰まった幻の検定です。

ちなみにこれと似たものに、

マンタンナ検定、ガキ大将検定、村語検定、ブッシュナイフ検定

などの検定もありまが、内容がしつこくなりそうなので、今日はこの

くらいにしておきます・・・・

戦場ドッチボール



スーパー ルーラル プレースのイキティ小学校!

(超ド田舎の小学校!)

サウスの上というところにあり、そこに巡回に行っているとバヌ

アツの人に言うと

「お前大丈夫か?」

「何が?」

「何がって全てにおいて・・・・」

という感じ、サウスは道が悪いし、人口も少なく、しかもその

さらに上のほうだからバイクで登っていくのも結構大変です。

海岸沿いにサウスへ向かってイキティ小学校のある山頂を

見上げるとそこだけに雲が立ち込めている事もあります。

そんなイキティが僕は大好き、こんな山奥でどうしてフラン

ス語習ってるの?って思うけど、そんなことは大して問題では

ないみたいです。

3学期初めの週は子供が学校に来なくて少ないのでみん

なでドッチボールをしました。

しかしイキティのグランドは丘にあったココナッツ畑を切り開

いて牛に草を食べさせてできたグランドで、グランドといっても

凄い傾斜で、芝生といってもそこは牧草地!

牛のウンコが沢山あります。

二つのボールを同時に使ってドッチボールをやっていると、

ボールがネチョッ!と牛のウンコに突き刺さります。

しかし子供はそんなことはなれたもので、草にこすり付けて

ウンコを剥がします。

でもドッチボールで興奮している子供たちはきれいにウンコ

を剥がす前に投げてしまいます。

こっちは絶対にあたりたくないのでますます緊張感のあるド

ッチボールになります。

そのうちにまたグチョッ!っていう音が聞こえて振り返ると、

子供の足が茶色に染まっています。

「まさかお前・・・・」

しかしこちらもそんな事にはかまってられません、立ち止まっ

ていればウンコのついたボールが飛んできます。

空中にはウンコ爆弾が飛び交い、足元のいたるところには

ウンコ地雷がしかけられている、今日の授業はまさに戦場と

化していました。

必死にウンコボールをかわして、必死に投げつけて、そのう

ち自分の足にも何かおかしな間隔が。

まさか自分だけはそういうことにはならないという自信が少

し揺らぎます。ゆっくりと後ろを振り返ると

「ウラがソーリーなことになってる・・・・」

という子供達のささやきが。

でもっちょうど直径30センチのウンコのど真ん中に足が入っ

たので力が上手く吸収されて、サンダルの外側から少しだけ

小指にウンコが進入してきただけでした。

「今だ!とりあえずウラを倒せ!」

という子供達のウンコボール攻撃を必死にかわしながら重

たく湿った足の裏のウンコもそぎ落とします。

日差しも強いし、だんだんとみんなの熱気もウンコ臭くなって

きます。

でもここまできたらどうでも良くなってきて逆にウンコまみれも

楽しくなってきます。

結局一時間ほどウンコにまみれて三学期最初に授業は

終了しました。

なにかスポーツとは違う盛り上がりを見せてた気がします。

きっとウンコと一緒に充満したアンモニアと子供達の汗の臭

いが混ざり合って神経を刺激したのだと思います。

家に戻って庭に置いてある真っ黒のゴミ箱の中に溜めてある

水で水浴びします。何故ゴミ箱かというと、黒いと水が太陽

の日差しで温かくなるからです。

きれいになって昼飯食ってゆっくり昼寝をしました。

夕方パンを買いに行こうと思って、財布を捜してイキティに

ボールを入れて持っていったかばんを空けた瞬間。

「プーン!」

というウンコの臭いが生暖かいかばんの空気と一緒に部屋

中に充満しました。

これぞバヌアツ!これぞイキティ小学校!

人間のウンコに比べたら草しか食べてない牛のウンコはきれ

いなものだと思いました。この臭いなぜか癖になりそうです・・

写真はイキティ小学校、この一見平和なフォールドが戦場と化します。

セコムしてますか?


2月に学校が始まって12月に終わるバヌアツは早くも二学

期が終了しました。

 二週間のタームホリデーです。

南半球は今は冬だし、二学期と三学期の間だからやっぱり

冬休みと言う感覚です。
 
 冬と言えばセコムサイズ、日本語で言うと割礼です、男の

子の成人の儀式です、大事なところにかぶっている皮をカット

してもらいます。それが終わると男の子として認められて、髪

の毛が長かった子も短くカットしてもらいます。

何故今の時期かと言うと夏にすると傷口が膿むからです、今

はドライシーズンだからカットしたところが膿みにくいみたいです
 
 二学期最終週になると男の子の数が少なくなっています。

何でかな?って思っていたら、割礼の儀式のあとは一ヶ月間

は女性の居ないところに隔離されて、村の老人たちが割礼の

終わった男の子の食事の世話をするらしいのです。だから二

週間のタームホリデーの始まるさらに2週間前に自分の村に

もどって割礼を受けて、その後の一ヶ月間をそこで過ごせば、

ちょうど三学期が始まる時に学校に戻ってこれると言う事でし

た。
 
 なるほどね、だから終業式には女の子の方が多くなるんだと納得しました。

だいたい3年生から6年生までの間に割礼するみたいです。
 
「日本はセコムサイズどうしてるの?」
 
 って良く聞かれるのでそこは日本ではタブーだと思いながらも
 
 「ナチュラルだよ!」
 
 ってあいまいに答えたら、みんな納得しないので
 
 「する時は病院に行くよ」

 って答えたら、
 
 「俺たちとどう違うのか見せてみろ!」
 
 と言われました。
 
 「嫌だ!」
 
 というと
 
 「本当にセコムサイズしたの?」
 
 って疑われました。そういえば
 
 「セコムしてますか?」
 
 っていうCMが昔あったよね?
 
  ちなみにセコムサイズの儀式が終わるとみんなで一晩中

踊るというカスタムがあるので、

 タームホリデーの間は色々なおところでみんなが踊っています。
 
 僕も誘われて何回か見に行きました。
  
 三学期に「一皮剥けた」男の子たちに会えるのが楽しみです。
 
 写真はカットした後で隔離されている男の子です、写真では緊張

したような顔をしていますが、結構楽しそうに過ごしていました。

もちろんカットする時は麻酔とかはないから痛かっただろうと思います。
 
 

ケニーと観光⑥


最近火山は結構アグレッシブで、先週は飛んできた石が観光

客に当たったということだったので、僕は隅っこのほうで

 「俺はすでにベテランで何回も見に来てるからそんなにはしゃ

がないよ」

 という感じでみていました。

 もちろんケニーは始めてです。

 タオルにくるまり、トラックに飛び乗ってきたままなのでもちろん

はだしのまま一生懸命火山の爆発を見ていました。
 
僕の頭にあったのはもうそうとう腰が痛くなってきてるし、帰りは

特に記念撮影とかもないからドライバーは真っ暗な道をビュンビ

ュン飛ばすだろうし、でもいまさら、半袖、短パンのケニーを外に

出すわけには行かないし・・・・・

 タンナ島には珍しい日本の女性に囲まれて島を一周回って

おまけにカリントウまで食べやがって・・・・

 とケニーの笑顔がなんとなく憎らしく見えてきました。
 
 でもそれは口にせずに、ケニーを見てニッコリと笑うと、相変わ

らずのお気楽スマイルで、眉毛と顎を少しだけ持ち上げるように

僕に微笑みかけてきました。
 

ケニーと観光⑦


火山をみて本日の目標は全て達成!あとはいかに早くホテル

まで戻るかだけを目標にして走り出したドライバー

のウィリーはまったく愛情無しの、ラリーモードで走ります。
 
 前にいた三台の車を猛スピードで抜き去りました。後ろの男4

名は

 「絶対に俺達の存在を忘れている」

 と文句を言っていましたが、3台抜いてトップに躍り出ると前の

車の巻き上げる砂埃が無くなって荷台に乗っていても目を細め

なくても大丈夫に成りました。

 「なるほどね、そういう愛情があったんだね」

 とみんなで納得していると、なぜかトラックが急停車、

「なんだ!なんだ!」

と意味も無く止まっているうちに後ろの三台にまた抜かれてしまいました。

 荷台の僕らは寒いし砂埃が凄いし、ちょっと不機嫌でした。し

ばらくみんなでやけくそになって歌などを歌っていましたが、そのう

ちそれも面倒になってしばし無言の時間が続いた時、ヒロが

 「後部座席の後ろの小さな扉から暖かい風がもれてきます

よ、手をかざすと温かいですよ、きっとなかでは暖房を炊いてい

るのでしょう」

 とうれしそうに叫んでいましたが、僕はすでにお腹も減っていた

し、寒いし、とりあえずパーカーを深く被って

「そんなことには興味は無いよ」

 という姿勢を貫きました。僕は世の中の結構辛い事も我慢で

きるタイプですが、お腹が減った時だけは例外で、車の中から

漏れてくる温かい空気ですら不機嫌の対象になります。
 
 その後にどういう姿勢で座ったら一番楽に過ごせるかというコ

ンテストを4人でやって、その後に星が綺麗だというのと月が小さ

いという話をして、一気に山の峠まで上ると耳が痛くなり、それと

同時に寒さで頭痛もして、山を西サイドまで降りてきました。
 
 下り切った所で、みんなの泊まっているホテルは島の北側、我

が家は南側なので、いったん車を泊めて、ケニーに

 「俺達みんなはホテルで晩飯を食うからお前はここから歩いて村まで戻ってくれ」

 といいました、といっても歩いて30分ほどです。
 
 そのときのケニーの満足げな笑顔はまさに最初に授業を遅刻

してきたときに見せた

 「世の中には僕のことを攻めるものなんてなにも無いよー」

 というノビノビとした笑顔でした。

 「結局こいつには一日やられた・・・・・」

 と思いました。

 「浦さん寒いから中に入ってください」

 ってみんなが気を使ってくれたけど、なんかもう入るのも嫌にな

ってしまって、

 「ここまで来たから最後まで後ろで良いよ」

 と意地を張りました。

 「ケニーは今日のこの彼の人生のなかでもっとも豪華で楽しか

ったはずの一日を友達みんなにどんな風に自慢するのかな?」

 って思いながら、それでもまだ憎む気になれないケニーの笑顔

を思い出しながら僕も無理して悲しい笑顔を作ってみまし

た・・・・ 
 
 写真はポートレゾリューションでみたお花の道です。
 
 トラックでこの間をくぐりぬけました。なんかディズニーランドみた

いな感じでした。
 
 ケニーとの観光はこれでおしまいです。
 

ケニート観光⑤


そのままトラックは火山に引き返します。火山の入山料は2250円

です、これはバヌアツの物価からいって高すぎです。ちなみに観光客

は払いますが、バヌアツ人は払いません。
 
 現地の言葉で、俺たちはボランティアだし何度も来てるから払わなく

て良いよね?

 って言い張って何とか値切ります。   
 
 ちなみに僕はすでに10回は登っているので、絶対に払いたくありません。
 
 そしてそのゲートのところにあるカバというバヌアツ特有の胡椒科の木

の根を水で溶いた飲み物を飲みます。

 これは大人の男性しか飲めないとされているものですが、ここは観

光用のゲートなので女性も飲めます。

 みんなでためしにタンナ島のカバを飲もうという事になり、車から降り

ましたが、カバは子供は飲むところも見てはいけない、と思っているの

か、車から降りてこようとしませんでした。

 「お前もまだ可愛いところあるじゃん」

 と思ってみていましたが。少し可哀想だったのでクラッカーを渡すとう

れしそうに食べていました。

 きっとお腹が相当すいていたのだと思います。
 
 ゲートから火山までまた相当急な坂を登ってほぼ9合目といったとこ

ろに車が止まります。

 そこでみんなはそれぞれにフリースやウウィンドブレイカーなどを着込

みます。

 ケニーは何も無いけど、僕も自分の分しかないし、勝手にここまで

ついてきたのだから我慢しろと思ってみていると

 ちゃっかり女性たちが持ってきていた大きなバスタオルをかりて体に巻

いていました。  

 最初にトラックの荷台に乗っていたときには、なんとなく僕を頼るよう

な目で見ていたケニーもトラックの中に座らせてもらってからというも

の、もう僕にはようがなくなってみたいで、中にいる女性達に上手く甘

えて、後ろで寒いのを我慢しているトラックにしがみついている僕の事

を軽視している気がしてきて、

 「寒くないか?」

 と声をかけるを辞めて僕はスタスタと火山の頂上へと向かいました。

 僕自身が少しでも早く体を動かして温まりたいという気持ちが働い

ていました。
 
 写真は火山のふもとから見上げた火口です。
 

ケニート観光委④


丘を下ってジャングルを抜けて行きます、ここら辺になるとすで

に火山灰が凄くて、サングラスをはずすと目の周りだけが白くなっ

たりします。

 ケニーも必死に目を細めていました。僕は木工などに使う安

全用の透き通ったダサいサングラスをかけています。これだとレン

ズが透き通っているのでバイクに乗っていたり、トラックの荷台に

しがみついている時でも眉毛で挨拶ができるから便利です。

 ジャングルを抜けると砂漠に一本の川と大きな岩の塊という壮大な風景が広がります。
 
 ずっと昔にここを訪れたフランス人がそのあまりにも美しい景観

に感動して、ここをシウイとなずける!と勝手に自分の名前を

付けて帰っていったという、単純な地名ですが、なんとなくバヌア

ツのローカルの言葉にも溶け込みやすい感じの名前です。
 
 そのサバクにエアーズロックのような真っ赤な石の塊がそびえた

っています。みんなで記念撮影をしているとケニーはうれしそうに

その岩の塊に登っていきました。時間はちょうど4時頃で岩にあ

たる西日が綺麗でした。 
 
 そのまま火山の前をとをって、とり合えずポートレゾリューションに向かいます。
 
 ポートレゾリューションは東と南の境にある岬です、なのでケニ

ーはポートレゾリューションには行かずにここでお別れになります。

ケニーに

 「ここで降りたら家まで戻れるのか?」

  ってきいたらあいまいな笑顔

でもいずれにしても彼の家までは送っていくことはできないのでこ

ちらも少し真剣に

 「ポートまで言ったら日が沈むけどとりあえず行ってみたいのか?」

 って聞いたら笑顔で頷きました。
 
 何処にでも知り合いの居るバヌアツだからもし月が出なくて歩

けなければどこかの村に泊めてもらえばよいだろうと思ってそのま

まにしておきました。
 
 ポートに行くと選挙のまえなので、人が沢山集まっていました。 

 そしてそこにはとても綺麗な花の道がありました。みんなで喜

んで記念撮影をすると、その先には綺麗な白い砂浜

 が待っていました。

 僕もポートレゾリューションには何度もきたけど、この砂浜は初

めてでした。みんなで記念撮影をして、綺麗な砂浜をみて感動
しました。

 気温が大分下がってきたのでケニーは少し寒そうでした。仕方

が無いのでヒロが荷台にのってケニーは女性達と一緒にトラック

の中に入れてもらいました。
 
隊員はみんなビシュラマゴを話せるので、ケニーが入っても問題はなしです。
 
 ポートの白い砂浜とお花の道に感動し、そのまま岬から火山

へと引き返します。

 そこでもう一度トラックの荷台からケニーに

 「ここで下りるのか?」

 と聞こうとおもって覗き込むと、彼は女性隊員にもらったカリント

ウをとても複雑な顔で口に運ぼうとしていました。

 「だまされているのではないか?」

 と犬のように臭いをかいでいましたが、他の女性たちが食べて

いるのを見て自分も口に運んでいました。
 
 「後ろのトラックの人達にも配ろう」
 
 と後部座席の小窓からかりんとうの袋が差し出されましたが、

後ろの4人はオフロードを走るトラックにつかまるだけで精一杯、

 「今は無理!」

 と言い捨てて僕は寒いのでパーカーのフードを必死に被ろうと

したとき、車の中では僕等に拒否され行き場を失ったカリントウの袋

は再びケニーに向けられていました。

 今度は警戒心もなくうれしそうにカリントウをつまむケニーを見

ながら、僕は少しどうでも良くなってきてケニーに降りるのか?と

聞くのをやめてしまいました。
 
 写真はポートレゾリューションの先にあった綺麗な砂浜です。 

 

ケニート観光②


ケニーが今日は何をするのか?ときいてきたので、今から友達

と観光するんだよ、と言いました。

 ケニーは二週間休み何するの?自分の実家に戻ったりしないの?

 って聞いたら、彼の村は南東にあるから僕らの住んでいる西か

らは山を挟んで裏側にあたり、海沿いに戻っても山沿いに戻って

も20キロ近くあるので、帰れないということでした。
 
 今は何処に住んでるの?って聞くと、「上の村」、というシンプル

な答えが戻ってきました。でもせっかくのお休みなのに、家族に会

えないのは可哀想な気がしました。
 
 今から僕らが行くのは島の東側です。山側から行ってちょうど南

東との境に突き出たような形になっているポートレゾリューションと

言う湾と、火山を見に行きます。
 
 乗っけていってあげたいけど、トラックは優勝パレードトラックとい

うピックアップトラックの荷台にベンチを乗っけて、三人が座れるよ

うにしたもの、これだと助手席に一人、後部座席に三人、そして

トラックの荷台に3人と計7名が座れます。片道2時間のオフロ

ードは二台の後ろにしがみついて行くには遠すぎるので、優勝パ

レードをお願いしていました。
 
 しかしやってきたトラックはなぜか荷台に椅子が着いていない普

通のピックアップトラックで、僕らはがっかり、今から片道2時間トラ

ックの荷台にしがみついてオフロードの山を登るのか・・・
 
 仕方なく荷台に座ると見送っているケニーの意味ありげなまな

ざしを感じました。

 後ろに3人乗るはずだったトラックは椅子が無いのでコーナーが

四つ、その一つが空いています。僕の家の前でトラックがUターン

しているのを見送るというより何かを訴えかけているように見てい

るケニーに、

 「ケニー実家に戻るのに何か荷物とか取りに帰らなくてもよいのか?」

 と聞くとニンマリ笑って

 「もちろんそんなもの無いよ」

 「じゃあ南東との境までこのトラックに乗っていけばそこから二時間も歩けば家まで帰れるけど来るか?」

 と言ったらトラックに飛び乗って着ました。
 
前回はいつ実家に戻ったのかは知らないけど、まったく荷

物も無しに何ヶ月も「上の村」に住んでいたのかと思うと驚きです。

 それがこのたびの始まりでした・・・・・
 
 写真は今回な乗れなかった通称「優勝パレードトラック」 
 
 これに乗って島を旅すると島の人みんなが手を振ってくれて
 
 なにも優勝してないけど優勝したような気分になれます。
 
 冬は少し寒いけど、夏は最高です。
 

ケニート観光③


峠を猛スピードで駆け上がるトラックの荷台でケニーはうれしそ

うに座っています。

後の三人が日本語で話しているのを興味深く聞いていました。

 「ケニー、大丈夫か?」

 って声をかけるとうれしそうに笑ってうなずきます。家に戻れる

のはやっぱりみんなうれしいものなのかな?と感じました。島を横

断して東側にある火山をとりあえずは横切り、南東にあるポート

レゾリューションに向かいます。
 
 火山までの道のりは僕は巡回指導でなんども通った道、そし

て何度もなかされた道です、オーバーヒート、パンク、転倒、川

の増水、雨季の悪路、一つの丘を除いて全ての道が舗装され

てないので、雨季の悪路は相当なものでした。

 残りの活動期間はもうこちら側への巡回はしないのでなんとな

く、懐かしい気持ちで山を登ります。

 登りきるとそこにはジャングルが広がります、トラックもドンドンス

ピードを上げます。

 僕はトラックの荷台にしがみつきながら過去に巡回指導した

学校の子供たちに挨拶をします、峠も越えて今度はくだりにな

ります。

 ジャングルの奥にある火山を見下ろすと共に、アニワ島、エロマ

ンガ島とうなどのタフェア州の他の島を眺めながら山を下ります、

ちなみにタフェア州というのは
 
 タ ンナ島
 ア ニワ島
 フ ツナ島
 エ ロマンガ島
 ア ナイチョム島

 の5島の頭文字をとってタフェア週です。日本で有名なのはな

んと言ってもエロマンガですが。それぞれの島にそれぞれの特徴

があり、州といってもそれほどの結束は無いという感じです。州と

言うのは政府が決めた単位で、あくまでもバヌアツの人の生活

の基盤はそれぞれの村の単位であると思います。

 写真は峠から島の東側の海岸を写したものです、この峠からだと

 肉眼ではアニワ島、エロマンガ島、フツナ島が見えます。

ケニーと観光①


バヌアツは二学期が終わり二週間のお休みです、日本で言う夏

休みだけど、こちらは季節が逆なので冬休みという事になるけど、

常夏なのでやっぱり夏休み?まあ一年中夏だからそういう表現の

仕方はできません。
 
 首都から何人かの教員隊員とその友達がタンナ島に遊びにき

てくれました。

 今日はみんなでタンナ島観光です。
 
 トラックをチャーターしたので、僕は家でピックアップを待ちます。
 
 でも退屈なので、庭でなんとなく木を削っていました。

 するとフラッとケニーが現れました。

 ケニーはフランス語学校の5年生、ハニカム笑顔の素敵なおと

なしい男の子です、彼が僕の印象に残っているのは、授業に思

いっきり遅刻してきたのに、その素敵な笑顔と悪びれなさで何事

も無かったように授業に入ってきたことです。

 実際に本人はいつも楽しそうで、世の中に自分を責めるものな

んてなにも無いよー!

 って思ってるみたいです。
 
 そのケニーと二人で木を削ります、削っていたのは畑を耕すクワ

の柄の部分でそこに鉄でできたクワを差し込んで庭を耕します。 

先日にストアーで見つけたので高かったけどこれは必要!と思っ

て買ってきました。
 
 僕はケニーに自慢げに、

 「この棒を上から順番に削っていって、このクワを通すんだよ、

 下の部分を太くして上は細くしておけば鉄の部分が外れて飛ん

でいってしまう事は無いでしょ」

 と説明します。ケニーもうれしそうにうなずきます。
 

 でも太さ十センチほどある角材を5センチくらいの棒にするのは

結構大変で、僕も途中で疲れてきました。

 するとヒロが時間よりも早くウチにやってきました。
 
 俺がヒロに、

「この棒にクワをつけようとおもって削ってるんだけど、棒が大きすぎて全て削るのは結構大変なんだよ」

 というとヒロはあっさり

 「浦さんこういうのはですね、先の部分だけを削ってそこにクワを差し込んで、開いた隙間にクサビを打ち込むものですよ、全て削って上からクワを通したらとっての部分が細くなって下に行くほど太くなって握りにくいでしょ!」

 って言われて僕も納得、さすがヒロだとおもって、早速ケニーに

説明してやろうと思って彼を見ると、なにか意味ありげな笑顔

 「お前もしかして、クサビのこと知ってたの?」

 って聞くと、相変わらずの悪びれない笑顔と共にコクリとうなず

き、声を上げて笑い出しました。

 おそらく日本人は賢いからそんなことは当然知っていると思って

いたのかもしれませんが、それにしても先に提案くらいしてくれても

良いよね。
 
 写真はケニーです、なぜかこの日はブルースリーの顔の入った
 Tシャツを着ていました。
 
 

ロウノンとその兄弟


前回のブログの続きです。一番後ろでグレーのシャツを着ているの

がカスタムビレッジから来ているロウノンです。

そしてその兄弟、ロウノンは10歳くらいだとおもうので、それぞれ二年

くらいの間隔だと思います。

男9人、女の子一人だと言っていました。

でも学校に行っていても数の概念があまり無いので、兄弟の数は詳

しくは知らないみたいです。

 とりあえずこの写真の5人は本当の兄弟だと言っていました。 

学校のあるときは町に住んで、お休みになると2時間くらいかけて歩

いて村に戻るみたいです。
 
 そして町に住んでいる時にはロウノンが弟達の面倒を見ている

ようでした。

 ちなみにロウノンは5年生ですが、6年生にカティパというロウノンの

お兄ちゃんがいます。

 でも彼は村から町の学校に行くのが遅かった為に、体は大きいけ

どロウノンよりも現地ごのビシュラマ語がまだ理解できていないみたい

で、少しシャイです。

 学年と学力、年齢はまったくと言ってよいほど定まっていません。

13歳で小学校2年生の子供も居れば6歳で2年生の子供も居ます。

同じクラスで体育をするのは結構大変です。 
 
 ちなみに、ウチのとなりの高校の校長のドネルさんの家にはメルメ

ル、ネイサン、アーテル、という3人兄弟がいて、昨年はそれぞれ1年

生、2年生、3年生に一人ずつ居たのですが、

今年は全員3年生にまとまられていました。兄弟三人が同じクラス

です。そのほうが親としては何かと便利なのかもしれませんが、学校

の教室でも家の延長みたいな感じが気がします。まさにアットホーム。
 
日本には無い感覚だな、と思います。

待ち遠しい朝


朝僕が巡回先の学校に向かう時、それぞれの学校にそれぞれの子供達が登校して行きます。
 ウチのすぐ隣の子供たちはフランス語学校なので黄色いシャツ、コーナースクールは英語学校なのでブルーのシャツ、僕の家のすぐ裏にあるキンディーはグリーンのシャツと決められています。でもキンディーはみんなユニフォームは着てきません。

 すれ違うとみんな挨拶してくれます。
日本の朝は寒かったりみんなテンションが上がらなかったりでなんとなく憂鬱でしたが、バヌアツは朝からおかしなことが沢山起こります。
 
 ・自分の兄弟と手をつないでキンディーに送り届けてから学校に行く子
 
 ・沿道の花を摘みながら毎日花束を学校に持って行く子

 ・親のトラックの荷台に乗って登校してくる子

 ・学校が8時に始まるのに、その時間になぜか学校と逆の方向に笑顔で全力疾走している子

 ・8時過ぎているのに公園のブランコをこいでいて、悪びれもせずに満
 面の笑みで「ウラ おはよう!」っていってくる子
 
 ・後ろから追いかけてきて僕の荷物を持ってくれる子

 ・フランス語学校なのに、英語学校に登校して友達と遊んでいる子
 
 ・そしてそんな子供に混じって悪びれもせずに遅刻してくる先生達

 みんな8時になると取り合えずその時に居るメンバーで賛美歌とかジーザスの歌を歌いだします。
その間にもドンドンと生徒が登校してきて人数が増えていくと言う感じです。
 
 時計は無いので太陽が早く昇季節になるとみんな早く学校に来ます。大体8時になるとその日の担当の先生が笛を吹いて外で遊んでいる子供達に中に入るように合図します。
 
 僕が8時前に学校にいってその日の授業の準備をしていると、毎週時間割は決まっているのに、
 「今日は何年生からはじめるつもりなの?」
 って集まってきます。
 ちなみに今は春なのでみんなの学校に来る時間も日に日に早くなります。

 みんなが朝が来るのが待ちどうしい国って世界に何カ国残ってるのかな?

 

女の子が偉そうな理由とは?


先日友達が旅行に来たので、タンナ島にあるカスタムビレッジに行

ってきました。

するとなんとなく様子がおかしいというか、子供たちが僕と目を会わ

せないように隠れているような空気が流れています。
 
なんでかな?って思ってよく見ると、そのうちの一人が

 「ミスターウラ!」

って話しかけてきたので驚きました。

 僕が巡回している学校の子供達が混じっていたのです。

カスタムを守っている村でも何人かの子供は学校に行ってるみたい

で、学校に行っているときは洋服を着ているのですが、村に戻るとナ

ンバスと呼ばれる腰ミノに着替えて生活しているので気がつきませ

んでした。

 これも時代の流れだなー、と感じました。
 
 一度教え子のロウノンという男の子と学校帰りに村に行った事が

あったんですけど、そのときも村の入り口に来たときにロウノンが

 「ウラ少し待っていて」

 というので待っていると、ロウノンが村の入り口にある自分の家に

入って行って、出てきた時には腰ミノに着替えていました。

 出てきたロウノンも僕に腰ミノの姿を見られるのは少し恥ずかしそ

うでしたが、僕にチーフを紹介する時には尊敬をあらわす為に、洋

服は着てはいけないみたいでした。

 5年生のロウノンは緊張しながら僕をチーフに紹介してくれまし

た、もちろんチーフはバヌアツの公用語であるビシュラマ語は話せな

いので、ロウノンが通訳をしてくれます。

 まだ子供なのにすっごくしっかりしていましたが、しばらくすると椅子

に座って両手を腿の下に入れて足をバタバタと振って遊んでいた

ので、マダマダ子供なんだなと思いました。

 ロウノンは普通なら3年生くらいの体の大きさなのに5年生に居ま

す、なかなか頭が良いみたいです。 

 僕はロウノンが好きです、次回は彼の兄弟を紹介します。


 
 授業中に一列に並んでコーンの上をジャンプしたりする時がある

んですけど、ローカルなエリアの学校に行くと、なぜか女の子がみん

な順番を待っているときにみんな偉そうに腕を組んで居たりします。

そして先生達が必死に

 「腕を組むな!」

 と怒っていた事がありました。

 あの時は

 「小学生の女の子なのにみんな偉そうだなー」

 って不思議に思っていたけど、カスタムの強い村では女の子は腕

を組んで胸を隠す習慣があるみたいで、列に並んだりして、少し不

安になったりすると自然と普段の癖が出るみたいです。
 
 カスタムビレッジで教え子に会った時にようやくその理由がわかり

ました。

 別に偉そうだったわけではないみたいです。

 もし僕が腰ミノつけて学校に行って授業したらみんな喜んでくれる

かな?
 
でも組み体操とか逆立ちはこれでは難しいな?って思います。
 
 写真はカスタムビレッジです、左のほうで腕を組んでいるのが

 良くあるスタイルです。
 

自分のスタイル


テーブルでもつくろうかな?って思って木材を買ってきてベ

ランダで音楽を聴きながらヤスリをかけていると、クレガー(6

歳)がっやってきます、

一分くらい不思議そうに僕の作業を見てから

「ウラ、何か助ける事できる?」

「ウーンそうだねじゃあ俺の反対側に座ってヤスリをかけてくれるかな?」

 二人でヤスリをかけていると、エタ、ウェンディー、バネッ

サ、ジャミラ、ロドニーがやってきて一分くらい僕らを観察しま

す、それをみてクレガーが言います

「ウラ、俺がウラを助けてるってみんなに言ってよ」

「クレガーが俺を助けてくれてるんだよ」

クレガーのお姉さんのバネッサ(8歳)が

「クレガーちょっと代わりなさい」

「嫌だよ、俺がウラを助けてるんだから」

「ウラ、私と代われって言ってよ」

「じゃあバネッサ俺と代わってあげるよ」

 っていって僕がバネッサにペーパーヤスリを渡して自分は

違う木を持ってきてしい木にヤスリをかけ始めるとエタとジャミラが

「ウラ、ミー!」

っていって代わってくれます、僕は新しいヤスリをカットして二

人に渡します

そしてさりげなく音楽を最近首都でダウンロードした映画パ

イレーツオブカリビアンの音楽に変えるとロドニーが

 「アッ!これなんか知ってる、ウラこれなんだっけ?」

 「パイレーツ オブ カリビアンだよ」

 「エッ、何?」

 「ジャック・スパロウの映画だよ」

 「エッ?あーわかった、チャック・スパロウね!」

 バヌアツはGの発音が無いのでジャック・スパローはチャッ

ク・スパローになります。

 ちなみにロバートはロペット、エスタはエタ、アルバートはア

ルペット、ジョーはチョーになりジョージはチョーチと少しだけ

可愛くなります。ジャック・スパロー約のジョニー・デップも「チョ

ニー・デップ」になってしまいます。

 周りの子供も気が付いて

 「そうだチャック・スパロウがデビルと戦う映画だ!ウラそうだよね!」

(悪役はみんなデビルになります・・・・)

 とみんなでストーリーを話し合って盛り上がります。
 
 そのうちにエタが
 
「ウラ、私のヤスリかけたところを触ってみてよ!」

 と尋ねてきます

 「完璧にできてるから次はこっちに決めの細かいので仕上

げれば終わりだよ」

 するとバネッサも

 「私のももういいよね?」

 「ウン、良いよ、新しいヤスリを今渡すね」
  
 次はクレガーが

 「ウラ、俺も新しいの!」

 でも三人目もすぐに許すと今後の仕事の質が低下する

ので、少し慎重にチェックするふりをして
 
「クレガーのはここら辺がまだだな、もう少しだけ今のヤスリで削らないとダメだね・・・」

 と言う感じにします。

 素直なクレガーはみんなに冷やかされながらも一生懸命

にヤスリをかけてくれます。
 
 そのうちにエタとバネッサはきめの細かいヤスリも終わって

次の木に移りたいと言ってきます。

 キメの荒いヤスリをもう一度うので、細かいのが必要なく

なります、でも賢いこの二人は細かいヤスリを周りに取られ

ないようにきっちりと隠しています。
 
 だから僕はここでやり方を少し変えます。
 
 「エタとバネッサはこの椅子に座って常に細かいヤスリで仕

上げるようにして、ロドニー、クレガーは荒いヤスリでドンドン

削って、終わったらエタとバネッサに渡すようにすればみんな

ひとつのヤスリだけですむでしょ、ジャミラはほうきを貸してあ

げるからそれで木のくずを掃きだすかかりね!」
 
 
みんな納得するとほっておいても作業はドンドン進みます。

 交代要員も増えてきて疲れると次に代わる事ができます

が、みんな意地になって

交代しません。仕方ないので部屋からマッチを持ってきて焚

き火をはじめます。

 「ウラが焚き火をはじめてるから落ち葉と薪を拾おう」

 と集まってきた子供たちがドンドン薪を拾ってきてくれます。

 時間は5時過ぎでそろそろ暗くなってきたし、気温も下がってきたので焚き火の炎はみんなの気持ちを明るくします。

 マーケットで買ってきたピーナッツを配ると、喜んで食べる

子供と、自分は今は働いてるからいらない、と職人のような

気持ちになっている子供もいます。
 
 6時近くになって水道の水が閉じられる時間になると、み

んなのお兄さんやお姉さんが

 「水浴びしろってお母さんが言ってるぞ!」

 と迎えにきます。

 みんなは水浴びが寒くて嫌なので、粘りますが、最近夕

方になってみんなが電気を使い出すと電力会社がパンクし

てバチン!と停電になって真っ暗になります。

 「じゃあ今日は終了ね!みんなありがとう使った道具はこの箱に入れてね!」

 となってみんな解散していきます。
 
 残された僕は、

 「今日もなかなか上手く行ったなー」

 と一人ニンマリします。
  
 
 そういうときになんとなく頭に浮かぶのは僕の仕事の体育の普及のことです。

僕の仕事である体育の普及は現在僕が一人でヤスリをか

けているのをクレガーが見ていた最初の一分の段階です。

 体育って意味あるの?ウラは何を一生懸命やってるのか

な?って観察されている状態、もう少し頑張ってれば、

 「ウラ、何か助ける事できる?」

って誰かが言ってくれそうなところまでやっときた感じです。

 それじゃあ仕事としてはダメかもしれないけど、みんなの自

主性を促す事と僕が帰国した後も継続的に続けてもらうに

はみんなに自主性を持ってもらうことが大切、

厳しく言って強引に僕のいる間だけやってもらって、僕も先

生達もみんな嫌な思いして、そして僕の帰国後はみんなに

忘れられてしまうよりも、とりあえず一人で一生懸命働くの

が自分のスタイルだと思っています。

 あとはみんながまだ声をかけてくれないのは、僕に魅力が

無いからだと思います。

 外国では自分のやっている仕事は積極的にアピールしな

いといけない、という考え方もあるし、それも試してみたこと

があるけど、やっぱりそれは自分のスタイルとは違うと思いや

めました、変えても良いじぶんとのスタイルと、変えてはいけ

ない自分のスタイルがあると思います。

 自分じゃないものになろうとすると、自分を失って自信が

無くなると感じました。

自分のスタイルで失敗した時は何かが自分に身につくと思

いますが、他人の真似をして失敗した時に残るのは、自分

を裏切ったという後悔だとおもいます。
 
 写真は夕方にみんなでヤスリをかけているところです、真

ん中に座っているグリーンのシャツがクレガー、細く光ってい

るのは木のくずです。 

 

日本、アメリカ、オーストラリアのボランティア達


僕の任地タンナ島には現在日本のボランティアが4名、アメリカのピ

ースコーが10名、オーストラリアから4名ほどのボラ

ンティアがきています。
 
 たまに立ち話しますが、英語でもなくて日本語でもなくて、外国の

人とバヌアツの公用語であるビシュラマ語で話すのは何かおかしな感

じです。

 日本のボランティアとその他の国のボランティアのスタイルの違いは、

日本人は

 「現地の人に溶け込んで、現地の人の為の活動」

という気持ちが強いと思います。

 逆にアメリカやオーストラリアの人は

「自分のキャリアアップの為、自分の経験の為」

 と言う気持ちが強いと思います。おそらく学校教育のスタイルの違い

だと思います。

 西洋文化の学校は

「自分のスキルをあげる、自分に良い経験を積ませる」 

 という感じなのかな?とおもいます。
 
 逆に日本は

「世の為、人の為に立派な人間になる為に学ぶ」

 という哲学が根底にはあるのではないかな?と思います。

お互いに良いところと悪いところがあって、時に日本人は

 「こんなに私が一生懸命みんなの為に働いているのに、何故それを
わかってくれないんだ」
 
と失望する事もあると思います。

 そういうところは西洋文化は妙にさわやかです

「自分の為にやってるんだから、伝わらなくても気にしないよ、だから特
に失望もしないし、自分のスタイルで頑張るつもりだよ、、ダメならアプローチの仕方を変えてやってみるけど、それでもダメなら居ても意味が無いから帰国するか、僕を必要としているところに移るだけだよ」
 
 と言う感じです。
 
バヌアツ人にしてもときに日本人はバヌアツ人の気持ちを理解してく

れて、親身になってくれる、と言う感覚もあるみたいですが。それが逆

に、日本人はヒストイック過ぎるし自分で勝手に物事を難しくしておい

て、イライラしている、そんなにイライラするのならやらなきゃ良いのに

 って思ってることもあるかもしれないです。
 
でもこちらとしては税金使ってこさせてもらってるのだから、何か結果を

出さないと納税者の皆様に申し訳ない、という気持ちが少なからずあります。
 
 でも西洋文化はそういうのは無いみたいです。納税者が怒るのな

ら、その納税者もボランティアになってくれば良い。

 と言うこれもまたさわやかな感じです。
 
 そして自分のキャリアアップだから、失望する事も無くドンドンと仕事

をこなしていくし、また特に仕事の形を残さずに思いっきり楽しんで帰

国するのもそれは自分のスタイルだからと申し訳ない気持ちになること

も無いようです。
 
 そういうところから出てくる西洋文化の割り切りっては日本人には無

いものだと思います。
 
 西洋のやり方は受け入れ側のバヌアツ人にしてみたら、素晴らしい

リーダーシップと合理的なやり方で何事もスローにしか進まないバヌア

ツ人のやり方を変えてくれたと評価されることもあるし、

まったくこっちの意見を聞居てくれずに強引な仕事のやり方をして、無

責任に去っていった西洋人という見方になることもあるとおもいます。

 まあそこはおそらくやり方がどうこうではなくてそのボランティアの人柄が大きく影響するのかとも思います。

 僕はどうなの?って振り返ると、取り合えず自分の限界までは自分

のこだわりをもって突き進んだ気がしますが、それが難しいと判断する

とバッサリと切り捨てて方向転換を図りました。

 その点では納税者の皆様にはごめんなさい、僕の能力ではここまで

でした・・・・ という感じです。

 体育が必要だと考えてくれているのは、ジャイカに要請をだした大臣

や外国に留学したことのある偉い人達で、実際に僕の任地で僕と一

緒に働く先生達は、小学校時代に体育を習った事も無く、日本から

来た僕が、片言の現地語で体育の必要性を伝えても、まだ伝わらな

かったみたいです。僕の仕事はそういう意識付けからはじめるべきだっ

たのに、僕は現地の先生達は少なからず体育を教えたいと思ってい

るとと勘違いしていたのが未熟なところだったのだと思います。
 
 悩んだ結果にそのギャップに自分で気が付いて現地の先生達への

アプローチを諦めて、一人の体育教師として島全体に巡回して体育

の授業を紹介するという方向転換でした。結果的にはみんなには笑

顔しか残さないという

「大道芸人的ボランティア活動」

であったと自分では思っていますがここまでみんなに笑顔になってもら

えたのならそれはそれで良しとしようかな?と勝手に思ってます。

 そしてそういう僕のやり方をみて少しずつ先生たちの体育に関する

意識も高くなってきたと思います。

 追いかけると逃げていくけど、ほっておくと興味を示してくれる、先生

達との関係はそういものでした。

方向転換するまでに相当悩んだから、その後は迷わずに自分の決め

た道を進んできたと思います。
 
 ボランティア側ではないけれでも、日本人、アメリカ人、オーストラリア

人と比べてバヌアツ人はどうなの?って考えると、もともとは島文化だ

し、村文化です、そういう面では日本的、でも農耕民族ではないの

で、協力して仕事する事はあまり無く、お互いの生活に迷惑がかから

ないように気を使えば特に協力する必要は無く生活できています。
 
 でもおそらく日本人よりの考え方が強い気がします。そして現在急

速に西洋文化に変化してきています。

 日本は長かった江戸時代に相当なレベルまで積み上げられた日本

独自の教育と文化そして国力があったから自分達の文化を残しつ

つ、西洋文化も取り入れるというゆっくりな進み方でしたが、バヌアツ

は日本よりも早く西洋化が進みそうです。

 それぞれの国、人、教育、気候などによって人間はイロイロな存在

になるものだと思います。不思議です。旅行では味わえないものをこ

の二年間で味わえたと思っています。
 
 写真は警官の子供のエドウィリー、なかなかの演技派でいつも笑わせてくれます。当たり前だけど、昨年は3歳だったのがすでに4歳になりました。子供の成長は早いなって改めて思わされます。
 
 

ウラ戻ってきたよ


写真の男の子たちは悪名高きイサンゲルのイングリッシュスクールの7,8年生です。

 昨年僕は赴任当初の2月から7月まで彼らを教えていま

した。この学校の名称は角にあるのでコーナースクールです、そ

うよばれるもう一つの理由はイサンゲルにはフランス語の小学

校がもう一校あり、そちらはフランスから援助がくるので少し格

上と言う感じでイサンゲルスクールというとなんとなくみんなそち

らを連想してしまうからです。
 
 昨年はコーナースクールの7,8年生に悩まされました。シャ

イだし、怒るとフテクサレルし、ほっておくとイジケルしなかなか

難しい年頃なのです。
 
 そして昨年7月の僕の最後の巡回授業のときにもナピルとブ

ルースという二人の男の子が授業に参加していなくて、僕は

今日が最後だからみんなに挨拶だけしたいからこっちにおいで

と言ったんだけど、最後まで木の陰に隠れて出てきませんでし

た。仕方ないので、その二人を抜きにして

「今日で僕の授業は最後になるけど、5ヶ月間ありがとう」

と言ってさよならしました。
 
 もともとコーナースクールの先生は校長とクーパー先生を除い

てはまったく体育に関心が無く、特に7,8年生の先生は黒板

に授業の内容を書いたらいつも居なくなってしまう先生達で

(誤解の無いように説明するとバヌアツ英語学校の現状はそ

れがスタンダードです)体育の授業にも顔を出さなかったのでそ

の場には担任の先生は居なくて、女子生徒達は僕が怒って

授業を辞めたのだと思ったらしく、慌てて学校に戻って先生達

に話したようでした。

 そして5年生の担任だったクーパーが慌てて僕の家にやってきました。
 
 僕は7月になって首都からバイクが届いたのでこれからタンナ

島全土に巡回するから今月で巡回先を変えるんだよ。

と話しましたが、話がややこしくなりそうだったので、午後にもう

一度学校に行って7,8年生に事情を話しました。
 
「朝一番の一年生の授業から全てのクラスで今日は最後になるよとお別れの挨拶をしてきたから、ナピルとブルースが授業に参加しなかったから来なくなるわけではないんだよ。」
 
と説明しましたが、生徒たちは相変わらずうつむいたままでした。
 
 そして悪い事にイサンゲルのフランス語学校は生徒が250

人もいて隔週で授業をしていたし、先生達も体育に関してす

ごく積極的でしかもフランス語だから通訳も必要だと言う事で

一緒にグラントでてきてくれるし、僕も1週間の巡回先5校全

てにバイクで行くのは疲れると思ったので、そのままフランス語

学校には昨年いっぱいは巡回を続けました。やはり僕としても

体育の指導に熱心な先生達と働けるのはうれしかったですし、

ここまで良くしてもらって裏切れないと言う気持ちもありました。
 
 ちなみにコーナースクールは生徒数160名ほどで、ちょうど4

コマで全ての授業が午前中の4時間で終ります。
 
 「浦はフランス語のほうにはまだ授業をしに行っているみたいだ」
 
 と同じ町なのですぐに噂が広がり、低学年の子供たちには

「何で私達だけ来てくれなくなったの?」

と聞かれることもありました。フランス語は隔週だからと言っても

なんとなく7,8年生の一件もありみんな納得してくれていませ
んでした。
 
 その後わたってきたことなのですが、バヌアツの小学校は全て

の学校に7,8年生があるわけではなくてセントラルスクールと

定められた規模の大きな学校にだけ7,8年生があり、1年生

から6年生までの学費が一学期につき500円なのに対して

7,8年生は5000円と10倍になります。
 
だいたい5校につき一校くらいの割合でセントラルスクールがあります。

 コーナースクールの場合だと一年から6年まで一学年20名

だとすると7,8年生はそれぞれ30名ほどになり2クラスあわ

せて授業をすると60名くらいになります。

 人数も多く、そして当然のように昔からコーナースクールに居

る内部の生徒達と7年生から参加してくる田舎の子供達とで

は着てる服や学力、そして時には言葉も違います。

 当然のように問題が多くなります。
 
 昨年新学期の始まった2月には僕はまったくそういう事情が

わかっていなくて、6年生までみんな良い子なのに、何故7年

生から人数も多くなるし、クラスの雰囲気もこんなに変わってし

まうのかと不思議でした。
 
 あれから1年がたち僕の活動も残りわずかとなり、そして勝

手に好きなところに巡回していたタンナ島にも続々と新隊員

達が赴任してきて現在4名、僕を含め3名が教員で一人が

漁業組合です。

 みんな着々と地元の町になじんでいき、そういう姿を見てい

ると、ここまできたら最後は地元に還元して帰国しないとな!
 
という気持ちが沸いてきました。

 11月は期末テストなので、体育の授業巡回指導は10月

でおしまい、なので8月、9月、10月は火曜日にコーナースク

ール、木曜日、金曜日はフランス語学校を半分ずつに分けて

行い、新しく行く学校は雨季の時期に巡回指導のレターを持

っていったのにもかかわらず、あまりの道の悪さに断念てしまっ

たイキティ小学校、断念した時に

「子供達にウラが雨でもバイクで丘を登ってこれるように整備させるから来て欲しい」

 とまで言ってくれたのでどうしても行こうと思い、月曜日に行く

ことにしました。

 水曜日はお休みしてます。5日連続だと声を出しすぎて耳がおかしくなるので・・・・・
 
 そして8月の初めにコーナースクールに一年ぶりに戻る事に

なったとき、最後だなーという気持ちと武者震いがしました。

 「終わりよければ全てよし!」

と言う事でこの一年でそれなりに上手になった授業の展開と

現地語で最後にみんなに喜んでもらって帰国したいと思いま

した。

 昨年は1,2年生から始めていた授業も、この8月からは7,

8を最初にしてもらって朝一番で気持ちもフレッシュでしかも気

温がまだ上がっていない時にはじめる事にしました。
 
 写真の男の子達と同じくらいの数の女の子がグランドに出て

きて、一年ぶりにみんなで手をつないでサークルを作ったとき

に、

 「ダメでも何でももうこの3ヶ月が最後だからべストを尽くそう!」

という気持ちになりました。

 目標は生徒みんなの名前を覚える事です。昨年は
 
「ユー!」

 としか呼べなかったからなんとなく距離を感じていたけど、今年は常にポケットにサインペンを入れておいて
 
 ミッシェル (黒シャツ)
 サルル  (フツナ島の子)
 カティパ  (ロウノンの兄)
 ジェームス (アフリカ顔)
 モシス    (ハナタレ)
 アントニー  (オヤジ顔)
 
 などと左腕に書いていきます。

 授業の内容もキックベースに絞ってやっているので、僕は常

にキャッチャーでホームベースの横に立っているので、みんなの

顔がよく見渡せるし、顔と名前もチェックしやすいです。

 そしてやっぱり今年も7年生からコーナースクールに入ってき

た生徒達はみんなと距離があります、住んでる村も谷を二つ

以上越えてきてます。昨年6年生だった子は顔を覚えている

から、今年から入ってきた子供を優先的に覚えました。
 
 結果的には上手く行っています。キックベースの打順も男子

が奇数、女子は偶数で最初に手のひらに書き込んでいるので

混乱もありません。
 
 みんな楽しく授業をしてくれています。1年生から6年生まで

も昨年に引き続き絶好調に楽しんでくれてます。
 
 そして授業の最後に
 
「写真撮るよ!」
 
 っていって撮ったのがこの写真です。みんな何も知らずに笑っ

てるけど、これは現在僕のパソコンの待ち受け画面です。

これだと簡単に名前が覚えられます。
 
 今週で二学期が終わり二週間のお休みに入ります。
 
 その後は三学期、僕の活動も本当に最後になります。授

業中はいつも僕がリーダーシップを取ってるけど、心の中ではい

つも感謝するとともに、みんなが楽しんでくれるようにお願いす

るような気持ちで取り組んでいます。

 結局2年間の目標だった先生達への体育技術移転は

まったくできなかったけど、いつも生徒に励まされて頑張って来

れたきがします。
 
 今の授業が上手くいってるだけでも本当に嬉しいです。残り
 
 わずか、毎日大切に活動しようと思います。
 

すてきなひげの女性


7月24日はバヌアツのこどもの日です、それぞれの学校でスポーツ大会などが行われます。
 
僕は以前に巡回していたポートレゾリューション小学校で行われる3校の学校合同の体育大会に招待してもらいました。
 
そこであったのが写真の女性です。首都にある
 「SAVE THE CHILDREN FUND」
というところから大会の予算を持って来てくれたのです。
とってもVIPなお客様です。
 
 僕が招待されて理由は簡単で、ストップウォッチと100メートルのメジャーを貸して欲しいからです。 
 
 開会式にきちんとした椅子に座らされて、校長や地元のチーフなどの長いスピーチが午前中に永遠と続きます。
 
 二人ともお客さん扱いなので、なんとなく一緒に話していたんですが、その時から気になってきたのがこの人のあごひげでした。
 
 バヌアツには自分の村のチーフや身内が死んだ時などにはその後1年間はヒゲを剃らないとか、一ヶ月は村から出てはいけないというカスタムがあり、そういったものなのかな?
 
 と考えていましたが、話せば話すほど気さくな感じだし、首都に報告する為か本人もデジタルカメラを持っていて、写真をパシャパシャと撮っていました。 

 午後になって大会の雰囲気も和んだものになり、二人してリレーのゴール地点でカメラを持って立っていたので、これはチャンスと思い。 

 「そのヒゲはやっぱり村のカスタムなのですか?」
 
 と恐る恐る尋ねたところ
 
 「単に私が面倒だから剃ってないだけなのよ」
 
 って大笑いしてくれました。そこでここぞとばかりに
 
 「そのヒゲが気に入ったので一枚とっても良いですか?」
 
 って尋ねたら、恥ずかしがりながらもうれしそうに撮らせてくれました。
 
 顎の下にあるのは影ではなくてヒゲです、僕なんかよりずっと
  
濃くて立派でした。バヌアツの女性は結構生えてる人います。
 
 特にヒゲを恥ずかしいとは思っていないようで普通です。
 

 先日首都に行った時に免税店で少し胸の谷間が素敵なド

レスを着ている20才くらいの若くて綺麗な定員さんが居たの

で、 「さすが首都はオシャレだな!」
 
 っておもって思わず目が言ってしまったのですが、その時に
 
驚いたのが、谷間に立派な胸毛が生えていたことです。
 
ちょっと裏切られたような、それでいてなんか少しうれしいよう

な、背中がくすぐったいような、少し複雑な気持ちになりまし

た。きっと見てはいけないところを見てしまったで罰が当たった
 
のだと感じました。
 
 アレはアレでアピールなのかな?っとその後にみんなと相談し
 
ましたが日本人の中では答えはでませんでした。
 
 自称「相当にバヌアツになじんだ」つもりの僕でも、や

っぱりバヌアツってマダマダ奥が深いな・・・・・
 
と改めて身構えてしまいました。
 
でもヒゲはなんとなく素敵だと思います。この方の笑顔も素敵でした。

胸毛は誤解されるといけないので写真での報告はできませんが、立派なヒゲの女性が居たらまた報告しますね。 

 

恋の悩みは世界共通


バヌアツの人は凄く自分たちのカスタムに誇りを持っていて、よくそういう話になります、特に結婚の話は好きみたいです。
 僕の任地のタンナ島では彼女は居ないの?
と聞きたい時は
「お前の洗濯物は誰が洗ってるのか?」
 と聞いてきます。
 
 基本的には男の人は洗濯をしない習慣なので、そうやって遠まわしに聞いてきます。
「僕は自分で洗ってるんだよ」
 というと、
「そうなんだ・・・」
 となんか少し可哀想な人を見るような目で見られます。
 
 結婚してるかどうか聞きたい時は
「子供は何人居るのか?」
 って聞いてきます。
「まだ結婚してないから子供は居ないよ」
 ってこたえると、なるほど結婚してないんだなと理解してくれます。 
 年齢はあまり聞かれません、あまり数の概念がないから気にしてないみたいです、年齢よりも見た目の感じで判断しています。
まあその方が自然で年齢で人を判断するほうがおかしいのかな?とも最近感じてきました。
 日本みたいに年長者を敬うような習慣はそれほど無い気がします。

 こないだまた親父達に取り囲まれて日本はどうやって結婚が決まるのか?
 ときかれました。
「昔は親が決めていたけど、今は二人が恋人になってその後に親に二人で挨拶に行って、親が気に入れば結婚するんだよ、でもほとんどの親は反対しないから問題は無いよ。」

 と答えました。すると

「それはウエスタンカスタムだ!若者が勝手に結婚相手を決めるのは良くない」
 
 と一人の親父が言い出しました。
 ちなみにバヌアツではチーフや父親が結婚相手を決めます。
そういったカスタムが少しずつ薄れている事に親父達は不満を感じているみたいでした。
 親父の説明によるとたとえば自分が隣の村の娘を好きになったとすると、とりあえず自分たちのチーフに相談する、そしてナカマルという大きな木の下に設けられた会議場でそのことについて相手方のチーフとこちらのチーフそして村人たちみんなで会議が開かれる、その場合は三通りの決め方があって、

 一つは自分に女兄弟が居た場合は、その一人を相手側の村の適齢期の男と結婚させるということで話がまとまる、
 そういった「スワップ」が上手くまとまらなかった場合は、豚を3匹くらいとバヌアツの伝統的な飲み物である、カバの根っこを3株くらい持っていけばそれでよい、
 一番最後の手段は現金で、それだと8万円になる。
という事でした、8万円という中途半端な額はなんでかな?
 っておもったけど、そこはそのままにしておきました。

「それが俺達のやり方だ、ウエスタンカスタムみたいに若者が勝手に結婚するのはけしからん!」

 そこで僕にも素朴な疑問が沸いて来て

「じゃあみんなその方法で結婚したのなら、今はみんな幸せなんだよね?みんな奥さんと上手くいってるんだよね?」
 
 って聞いたら、何故かその質問には全員が痛いところを突かれた感じで視線を落としてしばらく沈黙が続きました、そのうち一人が

「まあ俺達のカスタムもそんなにきつくないよ、少しずつ変わってきてるからさ、今はお互いが好きなら結婚できなくも無いよ・・・・」

 結局はウエスタンカスタムでもバヌアツのカスタムでも結果はあまり変わらないよね!ってことで女性の尻にしかれている男同士の妙な一体感がその場に生まれました。
 
 高校生の女の子達と話していた時にも同じような会話になりました。僕が
「バヌアツの男性ではどういう人が素敵とされてるの?」
 って聞いたら、恥ずかしがりながらも
「・ルックアウテム(面倒見がよいこと)
 ・シェアレム(分け合う気持ち)
 ・ファッシン(全般的なその人のやり方)
 の三つだと言われました」
 
 僕は三つ目のファッシンをファッションと聞き間違えて
「洋服のセンスってこと」
 といったら真面目な女子高生達は
「ファッシンとは服のセンスではなくてその人の生活や生き方のスタイルの事だ!」
 と眉間にしわを寄せて凄い勢いで正されました。
バヌアツの女子高生は純粋なのだけれど時にオバサン的な要素が強く、怖いです。
 
 「結婚はどうやって決まるの」
 って聞いたら
「昔はチーフや親が決めていたけど、最近では好きなら結婚できるようになってきたよ」

 と一人が言うと、おそらくカスタムの強い村から来たと思われる少し面目そうな子が

「私は絶対に親が決めた人と結婚する、勝手に結婚するのは良くないと思う」
 と真面目な口調で主張してきました。

 周りの女の子達はどちらというわけでもなく、まあどっちの言う事も間違ってないよと少し困った感じでしたが僕がその子に
 
 「もし親とチーフがお前はウラと結婚しなければならない!
って言ったら僕と結婚してくれる?」
 
 って言ったら、急に真っ赤な顔になって(メラネシアンだから赤くなたわけではないけど)小さな声で、でもはっきりと
「イエス・・・・」
 って答えてくれました。周りの子達は大喜びで、みんなでバヌアツ特有の奇声を上げるような笑い方ではしゃいでいましたが、なんとなく話が丸くまとまってよかったなと感じました。
 
 結局は恋愛に関しては何処の国でも本音と建前があって文明がどれだけ発展ても恋愛に関してはいつまでも発展てないのかな?ってすこしうれしくなりました。
 
 写真は7月30日のバヌアツの独立記念日の為のお祭りの時の写真です。真ん中の黒いシャツの子が「イエス」と答えてくれた女の子です。名前は知らないんだけど、真面目で良い子です。きっと彼女なら誰と結婚しても幸せな家庭を築いてくれると思います。

 

スポーツ哲学


バヌアツに来る前に三ヶ月ほど日本で研修があったんだ

けど、その時に体育教員とその他の専門スポーツ(たとえ

ばバレーボール、水泳、テニス、陸上、武道)の人たちで

集まって情報交換をやりましょう、見たいな企画がありまし

た、合計20名くらいで集まってテーマを決めて話合うこと

になったんだけど、そのテーマは

・個人スポーツと集団スポーツの違いは?

・スポーツは勝つことが全てなのか?

・対戦相手がいるスポーツと陸上などのスポーツの違いは?

・アマチュアとプロの違いは?

・努力と才能はどっちが大切か?

などでした、最初にテニスなどの個人スポーツをしていた隊員から、

「集団スポーツは自分がベストを尽くしてもチームメイトに

足を引っ張られて負ける事もあるし、たとえば高校野球の

タバコでの辞退のような例もあるし、純粋に自分の技術だ

けを磨けば勝てるというものではないところが難しいと感じ

る」
 
 という意見でしたそれに対して集団スポーツをしていた人

からは

「確かにそういうことはあるけども、集団スポーツでは1プラ

ス1が単純に2ではなく、3になったりそれ以上になることも

ある、そういった高まりを感じた時には凄い充実感を味わ

える事ができる」
 
 「同じような問題が対戦相手の居るスポーツにもあるの

ではないかな?たとえばサッカーなんかの場合は自分がそ

の試合にベストではなくても、相手の調子が悪ければ勝て

ることもあるし、チームメイトの調子が良くて勝てることもあ

る、そういうあやふやな部分があるよね?」

 「あるある、そういう気持ちって難しいよね、たとえばチー

ムが負けても自分がホームラン打った日は落ち込まないけ

ど、チームが快勝しても自分がそれに貢献出来ていなけ

ればそれは負けた時よりもショックに感じる事もあるも

も・・・」
 
という野球隊員の意見もありました。
 
 そこで出てきたのが陸上をしていた人の意見で

 「陸上というのは個人スポーツだし、対戦相手もチームメ

ートも居ないもので、なにと戦うかというと過去の自分の記

録と戦うものなのです。」
 
 そこで全員が納得して

「ウーン深いねー」
 
 って感じでした。

 「じゃあアマチュアとプロの違いは?」
 
ってことになって

「プロって言うのはやっぱり勝つことが全てでしょ、目的は一

つだけ、でもアマチュアはイロイロな目的があるよね、健康

だったり、ストレス解消だったり、学校の現場だったら規律

や協調性を教えたりね。」
 
 そこでプロ経験の人の意見で

「プロの世界ではナイスファウルっていう言葉があるんです

よ、基本的にはスポーツは反則はしないっていうのが原則

ですけど、プロの世界の考え方は違って反則以外は何を

しても良いという考え方になってるんですけど、でもやっぱり

日本一とかそういうレベルになると、反則もバレなければし

てもよい、というもう一歩進んだ考え方になると思います。

バレた時のペナルティーとバレなかったときに獲得できる得

点みたいなものを計算するようになります。

 だからといってその世界がメチャクチャ汚い世界というので

はなくて、そのレベルの世界での弱肉強食のルールもある

と思います。

 そのルールはスポーツの本来のルールとは他のところにあ

って、そのルールの中でプレーできる人は本当に一流だと

おもいます。
 
たとえばゴール前の接戦で本当は相手を掴んではいけ

ないところで審判にばれないところで掴んだり、掴まれたり

して、それで得点を許した時なんかに、得点をした相手に

向かって笑顔で

 「ナイスファウル!」

 って半分は皮肉を込めて言う事があります、言われた相手も

 「サンキュー!」

 ってウィンクする感じ、お互いにそういうところまで考えてプ

レーできてるところにそれなりのリスペクトがあります。

外人選手とかは結構そういうこと多いですね、でもそれって

お互いにそのレベルまで考えてしかも自分のチームを背負

っているもの同士にしかわからないようなところもあって、お

互いにそのレベルでプレーできてることに喜びを感じていると

思います」

 という多少長い意見もありました。

確かにプロボクシングとか見てるとそういう世界だなってかんじますよね。

 「なるほどねー、プロはスポーツごっこではなくて真剣勝負

だものね、生活がかかってるからね。勝てば官軍だものね」
 
 とそこまで話がヒートアップしてきたところでこれまであまり

発言をしていなかった合気道の隊員に皆が意見を求めま

した。すると

 「合気道というのは勝ち負けとかそういうものはありませ

ん、あれはスポーツではなくて「道(ドウ)」なのです、その道

を極める為に反復練習などをして心と体を鍛えているので

す。だから反則とか勝ち負けとかいうのとは根本的にありま

せん。」
 
 という日本人の心を熱くする一言が発せられました
「なるほどー!」
「深いね」
「素晴らしい」
 
という賞賛の言葉をその武道隊員ははにかみながら聞い

ていました。
 
 結局こういう話は1時間半の枠では収まりがつかず、そ

の後も食堂や休憩時間に継続して意見交換がなされて

とても勉強になりました。

 そしてそれそれの考え方は違うけど、協力隊員としての

共通点は、何か人の役に立ちたいと考えていること、その

根底だけはスポーツに対する考え方は違っても共通のも

のだと思いました。

 世界中に散らばっていった20数名の隊員達は2年間

でまた違う意見を持って帰ってきてくれることだと思います。
 
 写真は訓練中に皆でとったものです、毎朝6時半からラジオ
 
 体操とジョギング、ウォーキングがありました。
 
 僕らは秋から冬にかけてだったので、朝は寒かったです、しかも
 
 真っ暗でした。頑張れ18年度2次隊!
 
 

バツイチ親父の相談


バヌアツで無職のことを

スタップ ノモ 「ただ居るだけ」

といいます。といっても僕の赴任地のタンナ島では8割の

人がスタップ ノモです、だって芋もマンゴーもココナッツも

ほっておいてもドンドン育って落ちてくるから、

人間の仕事はそれをドンドン食べる事だけになります。
 
 先日30代のバヌアツ親父達10名ほどに取り囲まれて、

 「お前はバヌアツと日本とどっちが好きなん?」

 となかば脅迫っぽく聞かれました。
 
 その質問は既に100回くらい答えて自信があるので

「もちろんバヌアツだよ!、日本は忙しいからね、バヌアツは静
かだし、食べ物はフリーだし、海は綺麗だし、会話も沢山でき
るしね、ちょうど今僕達が話してるみたいにね」

 という模範解答!なんといっても1対10だからおかしなこと言えないしね。

 そしたらその中の一人が

「日本人は離婚は多いのか?」

 と聞いてきました。ぼくは

「4組に一人だよ」

 って答えました。

 どうやらその親父は離婚しているらしいのです、

 バヌアツって日本と逆でキリスト教が強いから中絶はみとめら

れていなくて、だから未婚の母は結構普通に受け入れられて

います。みんな普通にシングルマザーです。

 逆に離婚は相当なタブーで居場所がなくなります。
 
 親父は離婚率が高いことに異常に興味をしめして自分の

新しい生活は日本以外にありえないと思ったみたいで

「なら日本には俺たちみたいにスタップ ノモのやつらはおるん

か?」

 と身を乗り出して聞いてきました。残りの9名もその親父を

応援するように興味津々で身を乗り出しています。

 「ウーン・・・・?居なくは無いよ、少しだけだけどね」

 「オウ!そうかそうか、ホンデやっぱりそいつらも俺達みたいに
ブッシュに住んでるのか?」

 「ウーン・・・・?それは違うかも・・・・ 逆に町に住んでるよ」

「町ていうのはシティーのことか、そんなところにの食べ物が
あるんか?その人達は何を食べてるんや」

「ウーンなにかな?まあシティーではイロイロと食べるものがあるんだよ・・・・」

 「でもそいつらはスタップ ノモで生活できてるんやろ」

 「まあね」

 「じゃあそいつらと俺達との違いはなんやねん?」
 
 って聞かれて上手く答えられなくて迷いました、
 
でもバツイチで居場所の無いその親父は既に日本に行く気

満々みたいで、凄い勢いで僕に質問してきます。僕は親父の

息が臭いのと、ちょっと話がかみ合わない事、日が沈みそうな

ことに少しイライラしていて早くその場から立ち去りたい気分で

した。
 
 「お前はバヌアツ人の女をどう思うか?」

 という話が隣の親父から出ました

「素敵だと思うよ、僕は好きだよ」

 って言ったら、

 「だったら逆に日本の女は俺達バヌアツ人を好きになること
もあるわけやろ!」

 ってまたバツイチ親父に臭い息で迫ってこられて、そういう話

の展開ねっておもったけどでもこっちもそろそろ何か反撃しない

と親父のペースで話していると会話が終わらないと思って。

「でもねー、日本の女性はお金が好きだからね、たとえば僕はボランティアだしお金が無いからいまだに結婚できてないでしょ、日本はスクールフィーが高いし狭い土地に沢山の人が住んでいるから土地も食べ物も高いし、だから女性はお金を持っている男性がすきなんだよ」
 
 と少し反撃をしてみました。
 
 一番痛いところを付かれた親父は少し意気消沈でしたが

まだ諦めがつかないらしく

「じゃあ俺がもしバヌアツで沢山のお米を植えてお金は無くて
もお米が沢山あったら、俺も日本人の嫁をもらえるという事に
なるということやろ?」
 
と懲りずに聞いてきたので

「まあその女の人がお金よりお米が好きなら来ると思うよ」
 
って答えたら、周りの親父が大笑い、本人は次の質問を考え

ようとしていたけど、僕の態度が少しづつ冷たくなっているのを

感じたみたいで、諦めたみたいでした。

 本当はこういう親父達とも時間をかけてゆっくりはすとそれは

それですっごく仲良くなれてとても良い友達になれるのはわかっ

ていたのだけど、その時は既に夕暮れで、懐中電灯を持って

いなかったので、日が沈む前に帰りたいと少し焦っていたので

そこで話が終わってしまいました。

 ごめんねバツイチ親父、こんどまた相談に乗ります・・・・ 
 
 写真の一番奥に立っているのがバツイチのピーター 
 
 嫁さん募集中です・・・・

情報共有しすぎると・・・


3ヶ月に一回くらい首都に上がるとジャイカのオフィスに行って、

本を借りてきます。オフィスには過去の隊員が赴任した時に持

っていって、帰国する時に置いていった本や、東京から送られ

てきたボランティアや援助に対する本などが大量に置いてあり

ます。 僕の読むペースは一ヶ月に三冊くらいです。
 
 そしてその後その本を任地にもう一人居る隊員の徹也と取

り替えるえたりして、お互いにまた読みます。
 
 お互いに同じ本を読み、感想を言い合いますが感じ方がま

ったく違うときもあれば同じような思考回路になっているときも

あります。どちらかといえばこの数ヶ月で考え方が似てきたよう

な気がします。
 
 そしてきっと僕は同じことを何度も徹也に話していると思いま

す。だって話している途中に

「この話前にも誰かにしたことあるな?」

 って気が付くからです、島には日本人二人しか居ないので

徹也以外にはありえないからです。
 
でも徹也の偉いところはそういうときでも気が付かないふりをし

て思う一度聞いてくれるところで、なかなかできた男なのです。
 
 しかしたまにもっとおかしなこともあります。

徹也が話した内容を僕が頭の中で記憶していて、それを徹

也に自分のことのように話してしまう事です。
 
 たとえば日本でこんな事が起こっているそうだ、とか首都でこ

んな事が合ったそうだ、と言う事を徹也が僕に話してくれます。
 
 一週間後に二人で合った時に、徹也に何か面白い話は無

いかな?と僕は考えて、そういえば日本ではこういうことが流

行っているって聞いたな?

なんて思って徹也に一生懸命話します。徹也もウンウンと聞

いてくれます。でも徹也が帰ってからそういえばあの情報って何

処で聞いたんだっけ?

 って思い出すと前の週に徹也が教えてくれたことだった事に

気が付く事もあります。少し恥ずかしくなります。
 
 写真は首都でピースコーというアメリカのボランティアのブレッ

ドとテツヤと三人で一緒にとったものです。

 ブレッドの仕事はタンナコーヒーというコーヒー会社のマネージ
 
 メントでした、2年間で素晴らしい成果を上げて先月に帰

国していきました。
 
 普段は島でボロボロの格好しているのに、首都でのお別れ
 
 会だったのでみんな少しだけオシャレしています。

 おそらくこの2年間で一番都会的な写真だと思います。
 

読み、書き、そろばん


日本からの援助で中古のボールやユニフォーム各学校に配

っていて感じるけど、もらったものを大事にしないこと、使い捨

てなこと、もらったものを人に必要以上に自慢する事、なんで

だろうと感じます。
 
 自分が努力して得たものなら自慢したくなるのはわかるけ

ど、単に人からもらったものを他人に自慢する気持ちって理解

できない事もあります。
 

 逆になぜ日本人は戦後の復興時に援助されても自立できたのだろう?
 
 敗戦という劣等感が忍耐力をつけさせたのかな?

他人に物を恵んでもらう事を「よろしくない」と教えたのは誰なのかな?
 
 アメリカ人が見たことも無い沢山のものを持ってきたときに、

ただ単に
 
 「頂戴!」
 
 ではなくて、
 
 「自分たちもこれが作れるようになりたい」
 
 っていう発想になったのはなぜだろう?
 
 援助なれしてしまっているバヌアツ人を理解するにはなぜ日

本人が援助なれしなかったかを考えることが必要だと感じてき

ました。
 
 それをしっかり考えることが自分の活動の方向性を決める上

で大切なのではないかという気持が一年6ヶ月にもなって

 いまさら気になってきました。
 
 
 むかしに読んだ本に書いてあったんだけど、人間の欲求は 
 
 ・睡眠欲や食欲などの「生きていく為の欲求」
 
 ・組織の中での自分の立場や身の安全を確保したいという「安全の欲求」
 
 ・自分を高めたい、目指す自分に近づきたいという「自己実現の欲求」
 
 みたいな感じで三つくらいに分かれます。(本当は5個ありましたが忘れましたスイマセン・・・)
 
 そのどの欲求が旺盛かで生活のスタイルが決まるんだろ

うけど、 
 
そのどの欲求を選択するかも文化と言ってよいのかなー?
 
 って感じます。
 
 文化と言うならバヌアツ人は変える必要は無いし、逆に

 上を目指さないことを怠惰だというなら変えるべきだよね。
 
 
一本の注射で命が助かる人や、一つのオーター

タンクで村人の生活が大きく変わることをわかっている人はその

人たちにそれを与えたくなる気持ちも理解できます。
 
 だって喜びは国や人種も超えてみんなで分け合ったほうが良いものね。
 
 喜びを分け合う、技術を分け合う、だから最初は援助する、
 
始まった当初はお互いに上手くバランスが取れている気がする

けど、それが継続的に行われると、与えるものと与えられる

ものになってしまうよね。
 
 逆に言えばバヌアツの人が僕を教会に誘ってくれてるの気持ちも同じなのかな? 
 
神を信じればもっと高度な精神世界が待っているのになぜ信じる事をしないのか?
 
 って思ってるだろうね。ちょうど僕がバヌアツの人に
 
 「自分たちもこれが作れるようになりたい」
 
 って思わないのはなぜ?って疑問を感じるのと同じだと思います。
 
 文化か向上心の無さか、それ以外の答えがあるのか、迷います・・・・
 
 やっぱり子供の頃からの教育なのかな?もしそうだとしたら

僕のやってる体育の普及は間違ってないよね・・・・ 

 でも間違ってるのかな?
 
 新隊員のタクヤに相談したら戦後に日本人が見事に復興

を成し遂げた大きな理由は、戦前からきっちりと行われていた

「読み、書き、そろばん」
 
 があったおかげだという答えをもらいました。さすがです!

 
 そしてここまで書いてて思ったけど、5段階の欲求を全て理

解していて、その上で「生きていくだけの欲求」を選択してるな

ら問題は無いけど、ただそれだけしか知りませんというのなら、

それは選択ではなくて、価値観の乏しさということになるよね。
 
 ってことは基礎知識として教育の中で教えていくことは大切だよね・・・・ 
 
 活動も残りわずかなのにいまだにこんな事悩んでる自分は

なんなんでしょうね・・・・・
 
 

引きこもりの時期


ちょうど一年前の今頃、離島に来て一ヶ月だけ一緒だった先輩隊員が帰国して、島に一人になって約3ヶ月が過ぎた頃でした。
 
 言葉もマダマダで
「何処の国から来たの」
 って聞かれてるのに
「イエス」
 って答えてたり、余計な事言って相手を困らせなくないから愛想笑いばかりを浮かべて、そのうちだんだんと人と話すのが面倒になり、仕事以外の時は部屋の中に引きこもったりすることが多くなっていました。

 寂しいそうだからとバヌアツ人が夕食に誘ってくれたりするのですが、言葉がわからない中での食事は一人で居るより余計に寂しさが増すし、できれば誘って欲しくないなー、と言い訳をして断る事もありました。 
 
 部屋の中でDVDをみたり、本を読んだりしているのが唯一自分を取り戻せる時間のような気がしていたとおもいます。
 
 人間って言葉や情報のインプットとアウトプットを繰り返して暮らしていると思うけど、あの頃はインプットばっかりでアウトプットをまったくしてなかったと思います。
 
 そういう生活を続けていると話す事を忘れてしまうような気がします。
 ビシュラマ語がまったく伸びてないな?って思ったのもその頃でした。言葉を口から出そうとしても上手く出ないんだよね。心の中で最初からあきらめてしまっているというか、バヌアツに居れば居るほどドンドン現地語が出てこなくなるような気さえしました。
 
 そんななか首都に上がる機会があり久々に他の隊員にあって日本語をおもいっきり話す事ができました。その時はスッゴク喋りまくったと思います。
 喋ることの楽しさを久々に思い出した気さえしました。
 
 約一週間ほど首都に居て島に戻った時に不思議に感じたのはあれほど話せなかったビシュラマ語も意外と口から出るような気がしました。
 日本語とかビシュラマ語とかは問題ではなくとりあえず話すってことを忘れてたみたい。
 何で首都で日本語話しただけなのに、ビシュラマ語が伸びたのか不思議だな?
 って思ってたけど、それからは少しずつ話せるようになりました。今考えても不思議だけど、そんな時期もあったなー
って思い出すことがあります。
 
 写真は先日海に居た男の子、地元の言葉で裸は「マルマル」
というので彼はマルマルボーイと呼ばれていました・・・・
 
 

カスタム破りの家族②


近いからすぐだよ、丘を登るだけって言われてついて

いくと案の定結構遠くて丘を登る事30分、山の中腹に

彼の家はありました。
 
 子供は男の子ばっかり5人で奥さんは昨年になくなったそうです。
 
 家の真ん中に大きなお墓がありました。
 
 庭の手入れも凄く綺麗にしてあって、家の周りも綺麗です。きっとハリーはマメな人なんだと思います。
 
 子供もみんなスッゴク可愛くて純粋です。
 
 ハリーの家は山の中腹にあり、そこからさらに山の斜面は急になります。
 
 上の方にも人が居るの?
 
って聞いたら、俺たちが最後、俺は静かな生活が好きだからこの上には誰もすまないようにしているんだよ。
 
 だから全ての木がスッゴク大きいよ、もうずっと切ってないからね。って言ってました。
 
 凄いなー、こんな丘の上の景色と山全てを独り占めなんだー!
 
 っておもうとなんとも贅沢だなー、って感じました。
 
 そのスケールの大きさに驚いているとハリーにナカマルに行こうということ言われて、子供をつれてナカマルに向かいました。
 誰が噛むのかな?って思ってたらハリーとその子供たちが総出で噛みだしたので驚きました。
 
 しかも子供はナカマルの真ん中の広場で堂々とサッカーをしながら噛んでいます。
 
 みんな口にカバを入れてムシャムシャ噛み砕きながらサッカーをしているので終始無言でサッカーが続けられます。
 唯一噛んでいない3歳くらいの男の子だけがお兄ちゃんたちの分も話し続けていました。
 
 カスタムも何もあった物ではなく最初は
 
 サッカーしながら噛んだカバを飲まされるのか・・・・

 って思うと少しありがたみの薄れた気分になりましたが、底抜けに明るいハリーの子供たちをみていると、
 
 なんか今日はアットホームなカバだな、ってなんとなく悪くない気分になってきました。
 
 三男がどこかからポリタンクに入れた水と少し大きめの葉っぱをちぎってきて地面に置き、そこにみんなが噛んだカバを ペッ!ペッ!と吐き出していきます。

 そして25キロのお米が入って売っている丈夫な袋を切って手ぬぐいくらいの大きさにしたものを持ってきて、その中に噛み砕いたカバを入れて上から水を垂らし、子供たちがそれを良く揉んだ後に布をクルクルとひねって下においてあるココナッツシェルにカバを搾り出します。 

 それを僕の分とハリーの分の二杯作って二人で飲みます。
 感想はといえばお店で売っているのよりも少しだけ温かくて、そしてクリーミーです、そしてハリーとその家族の味がしました。一杯飲んだだけでとてもよく効きました。

 ホワイトサンズはラストカスタムなんて言われていてカスタムが強いって思ってたけど、実際に本人たちはそんなに意識してないのかなー?って感じました。

カスタム破りの家族①


バヌアツのカスタムであるカバという飲み物、昔はチーフ

や村の偉い人達の為に、青年たちが一生懸命気の根

っこを口の中で噛み砕き、それを水でこして飲むという公

衆衛生上あるまじき行為だけど、カスタムの強いホワイ

トサンズではあのキリスト教ですら禁止を徹底する事が

できなかったという怪しく、そしてタブーとされてきた飲み

物。
 
 首都などではミキサーを使って粉々にして、それを出

がらしになるまで何度も濾して一杯100円ほどで飲む

事ができますが、人が噛んだカバと比べたらウヲッカとビー

ルくらいに効き目が違うという飲み物です。
 
 やはり昔からの伝統手法で作られたカバにはそれなり

の実力があります。
 
 たまにカスタムのカバに呼ばれると、童貞の子供しか噛

み砕いたカバに直接に触れる事は許されていないので、

普段学校で言う事を聞かない腕白な子供たちが暗闇

の中でなにか反省させられているように座らされており、

噛み終ったカバをすばやく掴みとり、布に包るんでその上

に水を垂らして、良く揉んだ後に布を絞って下において

あるココナッツシェルに搾り出し、あたかも悪い事をしたか

のように闇の中に去っていく姿を見ます。


 僕が冷やかすようにその様子を見ていると照れくさそう

にしていて可愛いです。
 
 そのココナッツシェルが僕に渡されると、こちらも大そう

改まった気持ちになり、暗闇のなかで一気に飲み干す

と、無言のままで遠慮がちにそのシェルを戻します。
 
 それをみんなで順番に飲んで程よい脱力感を味わい

ながら別れの挨拶も何も無しに、懐中電灯の代わりに

焚き火の火を片手にもち、それぞれがブッシュの中に消

えていく、それが古きよきバヌアツ、タンナ島でラストカス

タムとされているホサイトサンズでのカバの飲み方です。
 
 子供は作らされるだけで飲む事は許されないし、女性

がナカマルというカバを作って飲む場所に入ることもタブー

とされています。
 
 巡回指導の二週目、先週はチーフ・ナカウとカバを飲

みまししたが、今週はナカウは首都でのチーフ会議に出

席の為に居ないので、何処で飲もうか授業のあとで学

校から歩き出しました。
 
 学校の前にいた自転車に乗った兄ちゃんと立ち話とな

り、ナカウが居ないので今週は何処でカバを飲もうか考

えているんだよ、と言ったところ、ウチのおじさんのハリー

ならカバあるよ!
 
 って紹介されてハリーの家に向かうことになりました。
 
 写真はハリーの家に向かう途中です。
 
 空と小屋と豚!丘をドンドンと登ります。
 
 

がんばれクウィンティル


タンナ島では最近ニュージーランドの農園でりんごやキュウイを取る出稼ぎが流行っています。
 
 半年行って90万円がもらえます。30万は税金で取られて、30万はエージュントに取られて、残りの30万が自分の物になります。 
 
 ウチの村でも結構たくさんの人が行きました。 
 
隣のジョセフも二ヶ月ほど前に出発しました。 

 ジョセフの家族は子供が三人
 
 長女 ティンティナ  6歳
 
 長男 クウィンティル 3歳 
 
 次女 マラ      1歳  です。 
 
お母さんはリーシーと言ってウチの隣の高校の先生です。 

 お父さんが出稼ぎに行ってから三歳のクウィンティルにも少し変化が出てきました。
 
 よく僕の所に遊びに来ては膝の上に乗ります。
 
 バイクに憧れているらしく、バイクして!って良く言います。 
 
 僕が膝を動かしてピョンピョン飛び跳ねさせると
 
 バイクのようにブーンではなくて、パカン、パカンと馬に

乗ってるように口真似します。まあどちらでも良いみたいです。 
 
お父さんが居なくてきっと寂しいんだなー、って思います。
  
そして今年からキンディー(幼稚園)に通っていますが、彼は結構 
 
頑固なので、二週間ほど登校拒否をしていました。
 
 キンディーはウチのすぐ裏なので、みんなが歌ってる声が聞こえま
 
 す。僕が座っていると、妹のマラの面倒をみていたクウィンティル
 
 が走ってきて僕の膝の上でキンディーから聞こえてくる歌声に
 
 あわせて得意げに歌いだしました。 

 「クウィンティルなんでキンディー行かないの?」
 
 って聞いたら
 
 「キンディーには嫌な事があるんだ」  
 
 と答えました。ウーンこいつもなかなか頑固なこだわりを持ってる
 
 な。と思いながらまあ男には時に組織に一人で立ち向かわなけ

ればならない時もあるものなのだ、と彼の反抗を見守ることにしま

した。
 
 1歳になったマラは父親が居なくなってから僕を見ると以前にも
 
まして泣くようになりました。特にリーシーが僕と話しながらマラをだ
 
っこすると、話を止めるまで泣き止みません。きっとマラもジョセフが 
 
 いなくて寂しいのだと思います。 
 
 長女のティンティナは小学校に通ってるので僕が昨年体育の授
 
 業を受け持っていた事もあり、特に変化はありません。

 
登校拒否のクウィンティルは11時になってキンディーが終わるころ

になると友達のウェンディーとモシスをこっそりと迎えに行きます。
 
 それを見た先生がクウィンティル中においで、とやさしくなだめて
 
 いましたが、それには反抗を示しているようでした。
 
 二週間がたって僕が気が付かないうちに彼はまた通うようになっ

ていましたが、3歳にしては長い反抗だったと感じました。
 
 
先日キンディー協会のパレードというかデモ行進とちょっとした集会
 
 があったのですが、みんな珍しくおめかしして出掛けていました。

僕もバイクが故障で失業中だったのでカメラマンとして動向しまし
 
 た。集会の内容は現在バヌアツでは幼稚園は義務教育では
 
 ないので政府からの援助がまったくなく、自主運営になっている
 
ので先生はボランティアだし、建物はボロボロ、学費は一学期に
 
 つき1000円と小学校の倍なのです。
 
 それを訴えるものでした。
 
  10校近くのキンディーがフラッグを掲げてパレードをした後、
 
 それぞれが歌を歌って、偉い人の演説が永遠と続き、昼食が
 
 あって解散しました。

 仲の良いモシスにはお父さんが、ウェンディーにはお母さんが着て

いましたが、クウィンティルのお母さんは学校の先生なので

 付き添いは無し、僕は珍しく親子でいる同じ村の人達を見なが

ら、この人がこの子の親だったのか?と興味深くそれぞれの家族を

観察していました。
  
モシスは何故かご機嫌斜めで早々と父親と一緒に家に戻りました。

 ウェンディーも車に乗って帰って行きました、クウィンティルは誰と

帰ろうか迷ってるみたいでしたが、僕も一人だったので、
 
「クウィンティル、一緒に帰ろう」
 
って言ったら素直に手をつないできました。10メートルくらい一緒

に歩いたらすぐに手を解いて僕の前を走り出しました。
 
 その後姿を見ながら感じたのは
 
子供は時には自分の意思を主張して、時には寂しい思いもして

こうやってたくましく成長していくものなのだな、ということでした。
 
 父親のジョセフがいないこの数ヶ月も彼を子供から少年に変え

ていく大切な時間なのかもしれません。

 自分の個性を大切にして、いろいろなことを感じながら育ってい

って欲しいと思います。
 
 写真はクウィンティル、リーシー、マラとウェンディーです
 
 

ヒロと薫製


新隊員のヒロはすっごく理系な男です。
 
 日本でバイクに乗っていたわけでもないのに、エンジンを外から見ただけで、

「ここでガソリンが燃えてその力がここから伝わって、冷却水はここから流れていって、エンジンを冷やして、マフラーの役目は・・・・」 
 
 などとつぶやく事ができます。
 
 
 何もかもが理論的で、一緒に食事していても、味の事や栄養の

話になると、成分分析表を見ながらこのビスケットはカロリーが高い

とか、塩分が多いだとかすぐに分析します。
 
僕はデジカメの説明書すらきちんと読めないので、そういうところを

尊敬します。
 
 長い間考古学の発掘調査をやってたらしくて、ロンドンへの留学

も経験しています。でも留学で勉強したのはなせか農業です?
 
そして協力隊としての彼の仕事はフィッシャリーズの強化です。 
 
なんじゃそれ?
 
 彼いわく、 
 
 「組織を作っていくのは農業でも漁業でも同じなのです」 
 
 だそうです。応用が利くところも理系ですよね・・・・
 
先日僕が、バヌアツの牛肉は固いからビーフジャーキーを作ってみ

たいんだよね。
 
 ってなんとなく酒を飲みながら言っていたら、ヒロが、
 
 「僕も漁業組合でそういったことを考えていましたが、それにはイッ

トカンやドラム缶などが必要です。」
 
 とアドバイスしてくれました。
 
 「なに?焚き火の煙で一晩とかあぶっただけではダメなの?」
 
 と聞くと 
 
 「アレは煙で直接あぶるのではなくて、炭化させたチップからでる

煙でいぶすので、炎の出ている煙ではダメなのです、ようはチップご

とドラム缶に入れて火にかけて、ドラム缶の中でチップから出てくる

煙を使っていぶすのです」 
  
 といって燻製の本を貸してくれました。でもその本は難しすぎてよ

くわからなかったので、次の日に僕がヒロの説明を聞いてから作った

のが写真の燻製器です。
 
 といっても鍋のそこにナイフで削ったチップを敷き詰めて、その上に

肉が汚れないように葉っぱを敷き、肉を乗っけて蓋をして焚き火に

乗っけるだけ、という簡単なもの、僕の頭ではこれが限界、でも理

論的には間違ってないよね?
 
 あまりにも早い行動と単純思考でできた燻製器に戸惑いながら

もヒロも興味深々で、昼飯から夕方までいぶし続けました。
 
 出来上がったのは写真の通りです。
 
 「燻製やジャーキーとしてはまだ未完成だけど、これはこれで結構上手から良い」
 
 というのが彼の感想です。
 
 安い骨付き肉を使って燻製を作り、それを煮込んでスープを作っ

たりもしましたが、結構良いだしが出て、
 
 「これはこれでまた上手い」
 
 とまた二人で満足していました。
 
 
 そんなある日、二人で本の話になって、
 
 この作家はどういう人なの? 
 
 毎日新聞、朝日新聞と読売新聞の違いは?
 
 右翼と左翼の違いは?
 
 筑紫テツヤは何でニュース読んでるの?
 
 子供電話相談室のように僕が彼にネホリハホリ聞いていると、ど

れにも理論に基づいた適切な答えが返ってきました。
 
 「でも何でそんなに何でも知ってるの?」
 
 って聞いたらあっさりと
 
 「僕はもともと大学で文学部卒業なので」
 
 っていわれました。そういえば本人の口から一度も自分は理系で

すっていわれたことなかったなー、って気が付きました。僕が勝手に

思い込んでいただけで単に頭が良いだけみたいです。

 学生時代はバンドのドラムとして活躍していて大して勉強し

てないという事でした。
 
 「ローリングストーンズやU2のドラマーはとても大切で、上手いとか

下手とかは関係なく、あのレベルになると彼らではないと出せない

テンポやリズムがあるんですよ。」
 
 なんて言ったりもします。そして物静かだけど嗜好品が大好き

で、一日中タバコを吸ったりコーヒー飲んだり、ロンドン留学時代に

イタリアの友達からもらったというエスプレッソを作る丈夫そうなステン

レスのヤカンを使ってエスプレッソを食後にチビチビと飲んだりしま

す。違いのわかる男なのかもしれません。
 
 着るものとかにはこだわりはないようで、僕が3回洗濯する間に

彼は1回くらいのペースです。
 
 お風呂は僕の5回に彼1回です・・・・

 このブログはアップする前に彼に読んで確認してもらいますが、お

そらく
 
 「文体としては未完成だけど、これはこれでまた結構面白いから良い」
 
 と言ってくれると思います。
 
  燻製とヒロの話が混じっていますが、少し煙り臭いところと噛め

ば噛むほど奥深い味が出るという点ではこの二つは似ているきがし

ています。
  

大げさな絶体絶命⑤(最後に・・・)

50メートルごとの休憩がいつの間にか20メートルごとになり、
サバクに座り込んでいたとき、奇跡的に一台のトラックがこちらに向かって走って来ました。
 
 慌てて手を振って止まってもらいました。
状況を説明してきちんとお金を払うので西側にある修理工場まで
バイクを積んで欲しい。
 とお願いしたら、快く引き受けてくれました。
 
僕の必死な状況とは逆にトラックに乗ってた二人組みのおじさんたちは呑気な感じでその雰囲気に緊急事態から日常の生活に繋がった気持ちがしてとても心が救われました。
 
 おじさん達は飛行場から観光客を火山の近くのバンガローに乗せていき、その帰りに空港側に戻る途中でした。

 三人で頑張ってバイクをトラックの荷台に載せて、僕の約に立てることをうれしそうにしてくれているおじさん達に喜んでもらいたくて記念撮影をしてから出発しました。
 
 結局イクアルマヌ小学校へは今週だけでも二回も約束を破ることになってしまいましたが、とりあえずベストは尽くした?と納得しました。
 
 帰りはトラックの荷台にバイクと一緒に積まれて運ばれていきます。
 
 戦争に負けて収容され国に戻るというか
 
ピッチャー交代でリリーフカーでブルペンに戻る時の気持ちというか

荷台にバイクと一緒に載せられて、さらし者にされながら来た道を戻りながら、無事に戻れるという安心感と自分への反省の二つの気持ちが入り混じったほろ苦い気持ちになっていました・・・・

 写真は火山をバックにご機嫌な親父達です

大げさな絶体絶命④(停滞中)


川が渡れるのは一箇所だけなので、そこまでバイクを押して行きます。
 
 サバクでパンクしたバイクを押すというのは砂浜と同じ状況で
 50メートル進むだけで汗がびっしょり、でもここまでの過程は誰のせいでもなく全て自分の選択で進んできたものだから後悔しても仕方ない。
 それにしてもエンジンの故障で止まったのならまだ諦めがつくけど
 ここまで来てなぜこれまで問題の無かったタイヤがパンクしたのかが皮肉な感じがしました。
 
 時間は2時、何故か救急車が一台100メートルくらい先を通り
過ぎました。中には人影がびっしりでおそらく助けを求めても無理だろうと思い、そのままバイクを押し続けました。
 
 一時間に一台は車が来るだろうと思いました。
  
最悪夕方の6時前後には火山を見に来る観光客を乗せたトラックが来るはず、バイクは無理としても僕一人くらいなら乗せてくれるだろうと思いながらしばらくサバクに腰を下ろしていました。 
 
 雨が降ってないだけでも自分はラッキーなのだと自分を
慰めました・・・・
 
 

大げさな絶体絶命③(二番目の試練)


サバクの緩やかな坂を下って川を横切ってから火山に火山に

 向かいます。
 
 とりあえず川をわたれるポイントへと向かいます。
 
 サバクの砂の中ではバイクが止まると押してエンジンをかける
 
 ことは難しいので、慎重に進みます。
 
 バイクの後輪がやわらかい砂の上で少しスリップする事もあ 
 
ありますが、くだりなのでそのまま滑って下れば問題なし。
 
 それにしても今日はよく滑るなー、風が強いからかなー?
 
 などと思いながら進んでいると何かいつもと違う感触。
 
 嫌な予感がしたけど確認するのが怖いから30メートルくらいほっ

ておいたんだけど、現実を向き合うべきだとあきらめて転ばないよう

にバランスをとりながら後輪を見ると、なんと後輪がペッタンコ、なん

とこのサバクのど真ん中でバイクがパンクしてしまったのです。
 
 自分が想像していたなかで災厄のシナリオでした。
 
 「もし島の東側まで行ってバイクが壊れたら?」
 
 それはまさに背中が凍りつく瞬間でした・・・・
 
 急に辺りが静かになって、サバクの砂を運ぶ強い風の音だけが

真っ白な頭の中をこだまするように響いていました。
 
 サバクの風の中をオレンジ色の目立つシャツを着て風上にむか 
 
 い後ろ向きに歩いている男がはるか向こうに見えました。
 
 意味も無くバイクを押してみる事50メートル、
 
 ここで座って助けをまつのか、バイクを隠して自分だけで助けを求

めに行くのか、とりあえず意味も無くバイクを押しながらトラックが来

たら助けを求めるのか?

大自然の中での自分の小ささを感じるとともにこのピンチをどう切り

抜けようかと真っ白で働かない頭で考えました。
 
 ぶつぶつとイロイロな状況は独り言のようにつぶやいてみました。
 
 結局は来た峠を押して登ることは不可能なので、このま
 
 ま下って学校まで行くしかない、と判断してとりあえず
 
 川をバイクが渡れるところまで押していく事にしました。
 
  写真はサバクの中で風に吹かれているところです、
 このときの僕の気持ちとをあらわすようにどんよりした空と砂の嵐 
  でした
 

大げさな絶体絶命②(ヤスール火山)


峠をを下ると火山が見えてきます。壮大なジャングルの中に
 
その一帯だけがまるで火星のようなサバクが広がります。
 
 火山灰のサバクとそこに現れる大きな岩、そしてその周りの
  
 を取り囲むジャングルのは自然の雄大さを感じさせます。
 
 学校へはそのサバクを流れる一本の川を
 
 わたって向かいます。
 
 ジャングルから出て生物を寄せ付けないその砂漠に突入する時
 
 この広いサバクの中で熱を発しているのは僕の体と火山の二つ

だけだと感じる時、胸がワクワクします。
 
  やっぱり引き返して良かったと感じました。
 
 写真の真ん中で煙に包まれているのが峠からみたヤスール火山

です、手前のジャングルを抜け火山へと進みます。
 
 

大げさな絶体絶命①(無茶と無理)


今回もちょっと大げさに書きます・・・・
 
 不安と恐怖で一瞬にして体が凍りつく瞬間

それまで適度な運動で流れていた汗が急に冷や汗に変わる
 瞬間
 
 時が止まったように感じてそれまで自分の体の中で鼻歌のように流れていたリズムが消え、風や波の音が無意識のうちに鮮明に聞こえてしまう瞬間
 
 楽しくて大自然の中に居る自分が気持ちよく感じていたのに、急に自分の小ささを感じるとともに、自分の思い上がりを後悔する瞬間
 
  
   たとえば


 綺麗な海でスノーケリングしていて、ソロソロ疲れたな、と思って陸を見た瞬間に自分が海流に流されていると気が付いた瞬間
 
 海外旅行をしていて、気が付いたらパスポートと財布が見当たらなかった瞬間


 日が沈むまでガキ大将としてみんなと楽しく遊んで家に戻った時に鍵がかかっていて母親に締め出されたと気が付いた瞬間
 
 血が逆流するように感じる瞬間は普通の時に起こるのではなく、物事が上手く運んでいて、自分の力を過信してしまった時に起こることが多いと思います。
 
 そして一瞬にして恐怖が襲ってきます。
 
 本能寺で信長が光秀に殺された瞬間もそうだったのだと思います。
 
 人は死ぬ瞬間にその人生を走馬燈のように見るといいますが、その理由は死がせまったその瞬間、自分の今までの経験からそのピンチを乗り切ろうという気持ちが働いているのではないかと思います。だからきっと病院で死を覚悟していた人より、事故などで急に死がせまった人の方がそういう経験が多いのではないかと思います。 
 
 僕はまだそういう経験が無いけど、もしそうでなくって神様が思い出の為にその人の人生を振り返らしてくれるのならばきっとアルバムをめくるように生まれてたときから順番に思い出すはず、でもその瞬間から少しずつ逆に時が戻っていくという事は、やはり過去の経験の中で何かピンチを乗り切るヒントを探しているような気がします。
 
  という大げさな前置きの後で僕の小さなピンチの話をします。
 
 それは先週の木曜日、島の東側にある火山の近くの学校への巡回指導へ行く途中の出来事でした。
 
 もともとその学校(イクアルマヌ)へは月曜日に行くはずだったのですが、バイクの故障でいけず、火曜日に隣の学校(ポートレゾリューション)に巡回した帰りに学校によって「明日の水曜日に」来ます」と伝えました。
 
 片道約1時間、島の逆側なので大きな山を横断していきます。
 
 1時からの授業に12時出発して峠を目指します。
 
 火曜日の時点でバイクの調子が悪かったんだけど、連絡手段

が無いので、行かないと待ってくれている先生や生徒に迷惑がか

かるし、

 「挑戦しないで諦めることはできない」
 
 という言葉を胸に刻んで出発しました。 
 
 やはりバイクの調子は思わしくなく、峠を越えたとでオーバー

ヒート、でもそれは予想していたので準備していた
 
 水をエンジンにかけてさめるのを待ちました。
 
 待つこと30分、すでに時間は1時でした、そこで一つの選

択をせまられました。

  このまま峠を引き返して自分の村のある西側に戻るか?

  それとものままこの道を下って東側の学校を目指すか?

月曜日に行くはずだったのを変更してもらったので

 今日は行かないわけにはいけないけど・・・・
 
 でもこのまま東側に下りてしまったら帰りにもう一度峠まで
 
 登ってくることができるかどうか?
 
 迷った結果
 
 「休み勇気も必要だ・・・・・」
 
 と、やはり引き返すことにしました。  
 

  最近のバイクの主な症状は、エンジンを冷やすための冷却水
 
 とエンジンの間に入っているガスケットという薄い金属の部品が

古くなって働かないので、エンジンの中に冷却水が入り込んで
 
 エンジンが水浸し、
 
 そのせいでエンジンがかからないし、ガスケットから水と一緒に
 
 圧力ももれているのでパワーが出ない、パワーが無いのでついつ

いローギアで回転数を上げてしまう、その結果チェーンにエンジン
 
 の力を加えているスプロケットという部品に負担がかかり、削れて 
 
エンジンの力がチェーンとタイヤに伝わらないとうものでした。 
 
 体で言うなら合併症という感じです。
 
 
島の修理工場に通い、そのたびに何とか走れる状態には

なるものの、島には新品のパーツは無いので、今あるもので修理
 
 するというか応急処置しかできなくて、しかも結構なお金を取ら

れ続けています。
 
 
  すでにスプロケットの山が削れて無いのでローギアではチェーン

が滑ってエンジンがかけれないので、長い坂を利用して3速で押し

 ながらエンジンをかけることに成功しました。
 
 下ること500メートル、意外と順調に下れます。エンジンの
 
 音もスムーズ。その瞬間に心の中で、

 「きっとバイクが順調なのはお前が引き返すと決めたから気が楽
 になって順調なのだ、もし学校を目指して東の丘を下っていた らきっとこんなに順調ではなかっただろうな・・・・」 
 
 という悪魔のささやきが、エンジンが順調であればあるほど

 自分の逃げ足が速いような気持ちになってきました。
 
 
 この2週間、修理しても修理してもバイクの調子が思わしくなく

直ったから明日は行きます、といっておきながら行けなくて悔しい

思いをしたこともあり、いつ壊れるかわからないようなこのバイクが

今順調に走っているなら、このチャンスに行かないと次はいつ行け

るかわからいし、どうせ下るならどちらに西でも東でも同じだという

思いが湧き上がってしました、バイクをいったん止めて、エンジンが

止まらないように大げさに吹かしながらこの二週間の出来事や仕

事のできない焦りの感情が大きなエンジンの音と一緒にぶつかり合

いました。
 
 「無理は良いけど、無茶はいけない」
 
 と先輩隊員の言葉が頭をよぎりましたが、健康に関することで
 
 無ければ許されると思ったし、このまま戻ってバイク屋にバイクを
 
 見せても、今走ってるなら何処を修理するの?
 
 ってことになるかもしれない。
 
 イロイロ考えた結果、僕はもう一度バイクを峠という目標に

 進めることにしました。

 
  峠を越えたら後は下るだけ、時間はすでに1時15分、すでに

 遅刻だけど行かないより、行ってから謝ればそれですむ。
 
 と考えて下りだしました。 
 
 くだりはやはり順調でした。
 
 帰りにもしもエンジンがかからなかったら学校に泊まってあしたト

ラックをチャーターして戻ればよいか、と思い学校へ向かいました。
 
 心の中では自分は正しいことをしているという満足感が少し
 
 あり、なんとなく鼻歌交じりでバイクを運転していました。
 
 
 写真の左側が後日に取り替えた時のスプロケットという部品です。 右は新しいものです。

 削れてほとんど歯が無くなってました。チェーンが滑るのも仕方ないよね。よく頑張ってくれてありがとう、ネックレスのヘッドにするには少し大きいけど、そうしたいくらいい感謝しています。
 

一年住んで思うこと⑥ (明るい未来)


現地の人の気持ちを考える時によく僕が思うことは、もしタイムマシーンがあって、50年後の未来から今の日本にボランティアがやってきたら僕はどんな気持ちがするかな?
 ってことです。
 僕達日本人はすでに世界のトップにいるからそういう気持ちって想像しにくいからあえて未来から来てもらうことにしています。
 
 2058年から人がやってきます。
医療、教育、政治、建築、経済なんでも良いです。
 
 ファッションとかも僕らとは違っていて、パソコンとかは持ち歩くものではなくて、すでにウィンドウズ2058が頭にインプットされていて、USBケーブルの差込口が首の後ろとかについていて、語学とかは勉強して覚えるのではなくて、ソフトを買って頭の中にダウンロードすればその日から何処の国の言葉でも話せたりします。
 
 右利き左利きとかもなくて、みんな両方つかえます。だからサッカーとか野球とかの考え方はまったく変わっていて、僕らが尊敬している、松井やイチローなんかよりももっと凄い選手がいたりします。
 
 そんな人が未来から日本にやってきます。

・平均寿命が85歳なんて可哀想、未来ではみんな100歳超えてるよ

・終電ってなに?2058年は24時間電車が走ってるんだよ

・待ち合わせに5分もくれるなんて相手に対するリスペクトが無いよ、5秒くらいなら許せる範囲だけどね

 なんて会話になります
 
そして選ばれた数人の人だけが未来へ連れて行ってもらって、2058年を見てきます。
 
 それまで2008年の人達のなかで信じられて誇りに思っていた
経済力や価値観に不安を感じたりします。
 
 2058年の人達を受け入れる人達と受け入れない人達が出てきて、受け入れなかった人達は自分達のプライドを保つ事ができるけど、取り残されているという焦りも感じながら生活していく事になります。
  
 その時僕が未来の人に求める事ってなんだろう?
 
 もちろん僕は好奇心があるか未来の話はすっごく聞きたいです。僕の可能性を試せる何かが未来にあるなら行ってみたいとも思います。
 でももし僕が50歳くらいで、今僕は34歳なんだけど、それ位の年の未来の人がやってきて、50歳の僕と話す時、未来のテクノロジーの話が聞きたいかな?って思うとそうではない気がします。
 やっぱり家族のあり方とか、生活や文化、あとは未来の人の一般的な考え方よりもその人個人の人間性などが聞きたいと思います。
 
 そして生きてきた年代は違っても僕の50年の生き方も興味を持って欲しいとも思います。
 
 もし未来の人が僕に

・2058年にはみんながわかり合えるようになって、戦争とか軍隊とかは野蛮だし意味が無いと納得できて、世界中から兵器と呼ばれるものは無くなったんだよ。

・宗教はコンピューターの発達で語学が学ぶものではなくてダウンロードするものに変わったので、それぞれの宗教がお互いを理解する事が簡単になって、みんなで話し合った結果、それぞれの考え方の良いところだけをまとめた宗教ではない「一つの考え方」というものを世界中で作って仲良く暮らしているよ。
 もちろんそれぞれの宗教はそのまま継続して信じられているよ。

 ・人種のミックスが進んだので、人種差別は無くなったよ、だから人種よりも個人個人の考え方のほうが意味を持つということに
なったんだよ。

・ゴミ問題は妥協策としてとりあえず宇宙に捨てる事で解決ているよ
 
 そんな会話をしてくれます。
 
 そしてやっぱり未来から来た人は謙虚でおおらかで明るくあって欲しい、未来の人がみんな疲れた顔してたら僕らも憂鬱になるものね。
 僕らと同じ目線で僕らの生活の問題を一緒に考えて欲しいとも思います。
 2年たったら2058年に戻ってしまうことは悲しいけど、2058年にもどっても僕の事は忘れて欲しくないとも思います。 
 
 写真は僕が撮ったものではなくてバヌアツ隊員のN嶺さんのものです。みんな良い表情をしていて僕の大好きな一枚です。
 

一年住んで思うこと ⑤ (教育の目標)


バヌアツの自立に欠かせないのが仕事が無い事です。みんなせっかく高校まで出ても仕事が無い、タンナ島で子供が憧れる一番の仕事はバスの運転手。
 
 身近だし車に乗ってるのは素敵に見えるみたい。

 基本的には専業農家とかも無いし、みんな自分の食べるぶんを作ってるだけ。残りをマーケットに持っていって売ったりしてるくらいです。それも儲けは殆ど無いみたい。
 
 ホテルっていうかバンガローみたいなのはいくつかあるけど、そこでベッドメイクとかして働いても自給105円らしくて、一日働いても1000円にもならないです。
 
 ちなみに小学校の先生は一月7万円くらいで結構もらえます。なんと僕のバヌアツの海外手当より高い!
 (ちなみに僕達は約54000円、でも離島なら足ります、バヌアツ隊員全員同じだから首都の隊員は大変です。)

 真面目に働こうと思っても一日中ベッドメイクや庭の手入れ、観光客のための食事の準備などではなかなか定着して働く気はならないみたい。
 
 そのほかの産業といってもタンナコーヒーとサンダルウッド(ビャクダン)なんかを少し輸出してるくらいです。

  もともとガソリンが高いから船で物を送ることを考えると、採算が合わないみたいです。だから産業ってなかなか発達しないのです。

 そう思うと学校を卒業した後の目標ってなかなか無いんだよね。少し働いては見たものの、やっぱり面白くなくて村に戻ってローカルな生活をしてる人は結構います。
 
 ローカルな生活をしていればほぼ自給自足が成り立ってるから文明からは遠ざかるけど、心穏やかに暮らせるからそれが自然な気もします。
 
 仕事があれば若者の目標が出来るという人は結構居るけど、なかなかみんなが思うようにはいかないのが現状です。
 
 だから税金が無いので公共事業は足止め、援助待ちです。なかなか抜け出せない現実ですが、それが現実だからしっかり考えていくしていくしかないですよね。
  
 写真は家の隣の高校生です、年も16歳前後、でもヒゲが濃くってどう見てもオッサンだよね、でも良く見てると行動は日本とおんなじ高校生です。 

 時に小学生以上に可愛いです。
 
ほとんどの子供が高校まで行かないバヌアツではこの子達は明日のバヌアツを担うエリートです。
 期待してるよ!

一年住んで思うこと④(幸せ論)


僕は松下幸之助の本が好きでバヌアツにも何冊か持って来てます。
 心の豊かさとは何か、日本人として今何をすべきかなどが書いてある、戦後の日本の発展のバイブルだと思います。
 
 でも最近感じているのは日本人の満たされるべき心の豊かさは戦後70年近くたってすでに満たされてしまって今は満たされるべき豊かさのコップからあふれ出してしまっている状態なのかもしれません。
 
 豊じゃなかった頃は500円の晩飯でも上手いと感じていたのが、少し豊になって1000円となり、3000円となり、今は毎晩5000円くらい。もちろんたとえとしての5000円だけどね。
 
 人の豊かさのコップは5000円ですでに満杯になっているのに、さらに日本人は豊になりすぎて毎晩3万円のフルコースを食べないと食欲がわかない状態になっているのかも。
 
 でも基本に戻って食欲はどこから生まれてくるのかと考えれば、毎日一生懸命働いて体を動かせば500円の食事でも十分満足できるように神様はバランスよく人間を作ってくれてるはず。
 
 でも今の日本は豊になりすぎて、お腹が減るまで一生懸命に使命感を持って働ける仕事が何かがわからなくなっているのかも知れません。
 
 だから普通に生活していたら人生危機感がなさすぎて食欲沸くほど一生懸命に働く気がしない、その心の隙間みたいなものを高
級なもので満足させようとしている。

その結果満足するためにはますますお金が必要になる。そしてみんなの気持ちは楽して稼ぎたいになってしまっている。

 そう考えるとバヌアツ人から学べるところはたくさんあります。バヌアツ人は昔から食べるものにも困らず毎日の生活に満足して生活してきたから心の豊かさを持って生活してきた歴史は日本より相当長いです。だから成金主義になることは無いんだよね。
 
 ちょうどお腹が一杯になる程度の心の豊かさに昔から気が付いていてバランスを失わずにずっと続いている感じです。それ以上も求めないしそれ以下でもない。日本で言えばみんな毎日500円の食事で満足してるかんじです。

 でも日本は500円の人より30000円目指している人の方がすばらしいと考えられてしまうし実際に毎晩30000円食べたい人は能力さえあればそれが出来るような社会の仕組みが出来てしまっている。
 
 そういうのはもともと日本人の文化ではなかったと思います。日本人には武士道があってなんでもホドホドにたしなむ事が良いと思っていたからね、でも戦後に西洋の社会に圧倒されてこの70年で少しだけ日本人のアイデンティティーを忘れてしまっていたのかも。
 
 でも人間は普通500円の晩飯食べたらとりあえず満足なはずだよね。

 戦後に一生懸命頑張って国民みんなが500円食べれるようになった時点で仕事に対する新しい価値観や目標、使命感が必要だったんだけど、経済の発達の勢いが良すぎたのともともと真面目でなんでも極めようとする日本人の気質や何でも一番主義のアメリカと一緒に頑張ってたせいで気がついたら日本人としての平均のバランスが崩れて欲張ってお腹壊すくらいまで食べないと満足しなくなってるひとがおおくなちゃってるのかもね。過食症だよね。
 
 バヌアツの人々はもともと心が豊なのであれば、すでに結果がでてるから最初から頑張る必要はないということになるよね。無理やり西洋社会にあわせようとして途上国なんて呼ばれるのは迷惑だよね。

 日本人は思う一度
 
 「たしなむ心」とか、「謙虚さ」
 「つつましい生活の中にある幸せ」
 みたいな気持ちを思い出す時なのかもね?
バヌアツに来て気が付いたけど、日本て物質的にも精神的にも絶対に世界一だと思います。
 建国200年のアメリカよりも圧倒的に深い文化や伝統があるしね。
 
 

一年住んで思うこと③(先進国の矛盾)


バヌアツ人に対して最近思うことって、仕事がないと20代以降の文化がなかなか成長しないということ、日本なら社会に出れば新入社員としての心得やその文化を習うことができるし、30代は中間管理職としての文化、40代は管理職としての50代は役員としての文化とともに社会人としての自分のあり方や家庭との兼ね合いも考えて、少しずつ自分の人生のスタイルみたいなものを意識するようになると思う。
 
 それぞれの世代の為の本が沢山出ているし、研究されているからそれは文化と呼ぶべきだと思う。
 
 でもバヌアツ人は学校を卒業しても特に仕事が無いから20歳以上の文化って同じなんだよね。

  20代も50代も同じ感覚です。一番象徴的なのは笑顔かな?おじいちゃんおばあちゃんでも子供でも目が合うと同じ笑顔でニッコリ挨拶してくれます。
 
 バヌアツ人いわく、 
 
 「都会にはボスがいてその人の言うことを聞かなければならないが、ブッシュの中では自分が自分のボスなんだ、だから自分が働きたければ働けば良いし、働きたくなければ働かなくてもよい、泳ぎたければ泳げばよいし、お腹が空けば食べ物はいくらだもある、ボスは自分自身なんだよ!」
 
 って言ってました、しかも言ってた人は意外と働き者なので、特に自分が働かない言い訳ではなくって、素直な意見に聞こえました。
 
 ではチーフがいて組織があるでしょ?ってことになりますが、基本的にチーフは組織のリーダーであるけれども、それって組織がおかしな方向に行き始めたときに元に戻す役目であって、新しいことにチャレンジするという感じではなく、「スローな生活」に戻すことが役割だから方向が間違ったほうに進むことに気がつく能力とみんなに慕われる人柄があれば後は大して問題ではないんだよね。
 
 でもそれで幸せなら僕らがその生活を変化させる必要ってあるのか疑問だよね。
 
 でもこのままではドンドン外国人のビジネスマンに土地を安値で買われてしまって、バヌアツがバヌアツで無くなってしまうし、何とか自分たちで国を守れるくらいには発展しないといけないしね  
 先進国は援助してみたり、ビジネスしてみたり勝手にバヌアツを荒らすのは良くないよね。
 
 まあ先進国で生きるって事の大変さを知ってる僕はそれも仕方が無いのかなー、みんな生きるの大変だしねー、とも感じます。でも先進国の場合は大変にしたのも自分達だしね・・・・
 
 できればバヌアツをそっとして上げて欲しいです。

 ボランティアで来さしてもらっている僕が発展しなくても良いなんていってはダメなんだけどね。

 でもボランティだからこそそういった彼らの現状をよく理解して同じ立場で考えることができるのだと思います。
そうやって見守ってあげる事が今バヌアツにとっては凄く大切です。
 
 「昨日と今日が同じ生活の繰り返しで何が悪いの?」 

 ってきかれたら答えに困ります。
 
 それで良いよ!って本当は言ってあげたいんだけどね。そういえない理由は地球には先進国という恐ろしい国があるから。
 
 ってことになるよね。 
 
 先進国はバヌアツを「世界一幸せな国」と決定したのに、自分達がバヌアツを見習って生活しないのはおかしいよね先進国の目指しているのは「幸せな国」ではないのかな?
  
 途上国が先進国に追いつくまでは先進国は今以上に発展してはいけない!って決めたら良いかもね。
 
 だって途上国の発展よりも先進国の発展のほうが倍以上に早いからいつまでも追いつけないものね。
 
 少しづつみんながそういうことに気が付いて行けばよいね。僕ら日本人はそのときに何が出来るのかな?

 僕もあと7ヶ月して帰国したら日本の生活に追われてバヌアツ人を思いやるような気持ちはどこかに行ってしまうのかな?
 
 僕は今バヌアツで毎日バヌアツの人達に助けてもらってるのにね。 
 
 写真は脱ぎ捨てられたサンダル、僕も一年前ならこのサンダルをみて可哀想に・・・
 って思ったかもしれないけど、最近はこれでよいのだ!
と思うと同時にバヌアツへの愛着がいっそう沸きます。
だから今の僕にはお気に入りの写真です!
 

一年住んで思うこと③(自立するって難しい)


バヌアツは1980年にフランス、イギリスの両国の統治から独立して現在建国28年目です。若い国。でも援助の問題点は結構あります。
 
身近なところで言うと、みんな自給自足してるので現金収

入が無い事、だから税金が集められない。

 するとどういうことになるかというと、独立前にフランス人やイギリス人が整備して行った水道や道路、学校の維持費が無いもちろんゴミの回収など夢のような話。
 
ウチの村は植民地時代に州知事があったので、今でも殆ど

の家にはバヌアツには珍しく水洗便所が着いています。

 だから水が出なくなると困ります。
 
じゃあ水道代や水道ポンプの燃料はどうなるの?

という事になりますが、それは先進国からの援助しか無いので

す。だって税金ないから国家予算無いもの。

 学校も同じ、フランスはフランス語を話す国を保ちたいので

フランス語学校に毎年援助をします。

 イギリスは英語を話す国は別に増えなくてもよいのであまり

援助しません。だから援助は寄せ集め、日本にたとえると、

私学はフランス語学校で公立は英語学校という感じです。

 どちらかというと英語学校は予算が少ないです。

 もともと自給自足の生活をしていた人たちに学校や水洗

便所を持たしておいて、後は自分たちで持続するように!

 って言って去っていってしまった国の人たちはちょっと無責

任だから少しバヌアツ人はかわいそうな気もします。
 
そして国家予算がもともと海外からの援助でできているので

みんな物をもらうのはあたりまえになってしまっているのも自

然な流れだと思います。
 
だから体育の授業をしようと思うと
 
「ボール頂戴、芝刈る燃料頂戴」
 
ってなります。最初は僕の仕事は技術移転だから物はあげ

れないよ、って少し戸惑ったけど、色々な国の仕組みがわか

ってくるにしたがってそれも仕方ないなー

 って思うこともあります。もともと彼らは水洗便所も学校も

体育も無しでも自分たちの生活にプライドを持って楽しく生

活してたんだからね。

 それをもう戻れない状態にしてしまってからいまさら自分達

で何とかしなさいって言っても困るよね、動物にたとえるのは

失礼かもしれないけど、いったん餌をもらう事を覚えた動

物はもう野生には戻れないのと同じように援助が無くなった

ら生きていけないものね。
 
 そこを上手く考えるのが今一番の問題、半分助けて、でも

自立の道も探っていく、なかなか形には表すことはできない

けどそういう意識を持ちながら仕事するのって大切だと思っ

てます。
 
 写真はウチの隣のイサンゲルフランス語学校です生徒は約
 250名。校舎はフランスからの援助で立てられています。
筆記用具もフランスからきています。
バヌアツ政府が払うのは約15名いる先生の給料だけです。

 水光熱や芝刈りのガソリンその他のものは一学期につき
 約500円の授業料でまかなわれますが、その500円がなくて学校にこれない子供も居ます。

 

一年住んで思うこと②(2年間でできること)


援助される側の気持ちって結構難しい、
 戦後の日本みたいに継続して一つの組織が見守ってくれるなら良いけど、途上国にくる援助って一貫性が無いことが多い。
 これは僕の妄想で本当のことではないけど、たとえばオーストラリアの援助が来て、バヌアツに漁港を作って水産業をもっと促進すれば、バヌアツの人達に元金収入をもたらすし、オーストラリアにも安い魚が入ってきて良い。 
 と考えて5年間くらいかけて港を作ったり冷蔵庫や市場を作ったりして援助してくれるとする。
 
 そしたら思ったよりガソリンの値段が上がってオーストラリアに輸送するにもコストが高いし、魚を捕りに行くガソリン代のほうか漁獲高より高くつくので働けば働くほど赤字になる。

  おまけにバヌアツは思ったより電気の供給が安定していなくて、せっかく保存していた魚が停電によって全て解けてしまい。
大きな損害をこおむることになる。
 
 やっぱりこれでは採算が取れないとプロジェクトは中途半端な形で終了するがもともとオーストラリアの税金で賄われているから、プロジェクトを立ち上げた人たちは赤字になった理由だけ国に上手く説明できれば民間企業のように倒産してしまう事もない。
 
 全ての設備はどこかの国の民間企業に安くゆずられて、忘れられていく。
 
 次にアメリカが来て道路の整備を行おうとする、道が整備されれば車が安定して走る事が出来るので、生活が安定して、全てにおいて便利になり経済が発展するだろうと思うって一通り舗装してくれる。
 素直なバヌアツ人はこれで全てが順調に行くと思ってしまうけど、プロジェクトが三年で終わってあとは自分たちで継続的に、って言われてしまうと、自分たちは継続する技術もないし、もともと自分たちの税金で作ったものではなくて援助でもらったものだから、ひどくなれば、またどこかの国が援助してくれるだろう。 という事になる。
 
 まあこれは僕の妄想で実際はもっと頭の良い人が色々と考えてからプロジェクト組んでるからもっと上手く行ってると思いますけど・・・・
 
 僕の仕事もそういうところあります。2年ごとに新しいボランティアが来て
 
 「先生達に指導要領が無いから体育が出来ないんだ」
 
「現地の先生達で構成される、体育委員会が無いから出来ないんだ」 
 
「単純に道具が無いからできないんだ」
 
「やる気が無いからできないんだ」
 
「子供は毎日遊んで運動量は足りてるから体育はまだ必要ないんだ」
  
 などどみんなそれぞれイロイロな事を言ったりやったりして2年で帰国して行ってしまう。ボランティアと一緒に頑張って働いていた現地の先生は、ボランティアの帰国とともに多くの仕事を引き継がされて、しかもそれは一人の教師が引き継ぐには大変な仕事だったりする。
 だから現地の人の中にはどうせプロジェクトが終われば彼らは帰国して俺達のことは忘れてしまうからその後のことを考えると一緒に働きたいけど無理して深入りしすぎるとその後に自分が大変になる。
 という気持ちが長い援助とのかかわりで生まれるかもしれない。
 もともと日本の教員のように一生その仕事に情熱をかけようと思っている人はあまりいなくて、とりあえず35歳から40歳くらいまでは子供を育てるのに現金が欲しいから働いて、その後は村に戻ってローカル暮らしをしたい。
 と思っている先生が多いのも確かです。
 
 日本人のように、国の為に一生を捧げてとか、10年20年先の人達に今自分が何かを残したい。という考え方は無いし。一つのことを継続して積み重ねていく事に対する意識は途上国って全般に低い気がします。

 土地に対する執着が無いからかな? 
 
 たとえば自然災害を減らすためとか先祖代々守ってきて土地の為に公共工事をして自然の姿を変えるより、自分達が土地を移って住んだほうが自然だ、と思う気持ちってなんかバヌアツに居ると理解できます。

 援助はとりあえずもらっておこうという考え方になるのも仕方ないよね。

 現地の人の思うようにやらせないと自主性がわかないと思って現金だけの支援をしてしまうと、お金の使い方が適切でなかったりする事もあるし。

 かといって援助する側がある程度の形を決めてしまうと、現地の人には理解できない仕事の進め方になって、現地の人は従うだけになって自主的に物事を考えなくなってしまうからいつまでも援助から抜け出せないし。

 そう言う事を繰り返して少しずつ発展していくのだと思います20年とか50年レベルでね。だから2年間なんてほんの一瞬なのかもしれないしそこで目に見える結果が出たというほうがうそになるのかもね、その一瞬の積み重ねがいつか大きな結果になることを信じて頑張る事しか出来ないよね。
 
 写真はアニワ島に居た親父の後姿、隠し撮りしちゃったけど結構上手く取れてるでしょ。
頑張れジャイカ! 頑張れ自分!