2010年3月5日金曜日

読み、書き、そろばん


日本からの援助で中古のボールやユニフォーム各学校に配

っていて感じるけど、もらったものを大事にしないこと、使い捨

てなこと、もらったものを人に必要以上に自慢する事、なんで

だろうと感じます。
 
 自分が努力して得たものなら自慢したくなるのはわかるけ

ど、単に人からもらったものを他人に自慢する気持ちって理解

できない事もあります。
 

 逆になぜ日本人は戦後の復興時に援助されても自立できたのだろう?
 
 敗戦という劣等感が忍耐力をつけさせたのかな?

他人に物を恵んでもらう事を「よろしくない」と教えたのは誰なのかな?
 
 アメリカ人が見たことも無い沢山のものを持ってきたときに、

ただ単に
 
 「頂戴!」
 
 ではなくて、
 
 「自分たちもこれが作れるようになりたい」
 
 っていう発想になったのはなぜだろう?
 
 援助なれしてしまっているバヌアツ人を理解するにはなぜ日

本人が援助なれしなかったかを考えることが必要だと感じてき

ました。
 
 それをしっかり考えることが自分の活動の方向性を決める上

で大切なのではないかという気持が一年6ヶ月にもなって

 いまさら気になってきました。
 
 
 むかしに読んだ本に書いてあったんだけど、人間の欲求は 
 
 ・睡眠欲や食欲などの「生きていく為の欲求」
 
 ・組織の中での自分の立場や身の安全を確保したいという「安全の欲求」
 
 ・自分を高めたい、目指す自分に近づきたいという「自己実現の欲求」
 
 みたいな感じで三つくらいに分かれます。(本当は5個ありましたが忘れましたスイマセン・・・)
 
 そのどの欲求が旺盛かで生活のスタイルが決まるんだろ

うけど、 
 
そのどの欲求を選択するかも文化と言ってよいのかなー?
 
 って感じます。
 
 文化と言うならバヌアツ人は変える必要は無いし、逆に

 上を目指さないことを怠惰だというなら変えるべきだよね。
 
 
一本の注射で命が助かる人や、一つのオーター

タンクで村人の生活が大きく変わることをわかっている人はその

人たちにそれを与えたくなる気持ちも理解できます。
 
 だって喜びは国や人種も超えてみんなで分け合ったほうが良いものね。
 
 喜びを分け合う、技術を分け合う、だから最初は援助する、
 
始まった当初はお互いに上手くバランスが取れている気がする

けど、それが継続的に行われると、与えるものと与えられる

ものになってしまうよね。
 
 逆に言えばバヌアツの人が僕を教会に誘ってくれてるの気持ちも同じなのかな? 
 
神を信じればもっと高度な精神世界が待っているのになぜ信じる事をしないのか?
 
 って思ってるだろうね。ちょうど僕がバヌアツの人に
 
 「自分たちもこれが作れるようになりたい」
 
 って思わないのはなぜ?って疑問を感じるのと同じだと思います。
 
 文化か向上心の無さか、それ以外の答えがあるのか、迷います・・・・
 
 やっぱり子供の頃からの教育なのかな?もしそうだとしたら

僕のやってる体育の普及は間違ってないよね・・・・ 

 でも間違ってるのかな?
 
 新隊員のタクヤに相談したら戦後に日本人が見事に復興

を成し遂げた大きな理由は、戦前からきっちりと行われていた

「読み、書き、そろばん」
 
 があったおかげだという答えをもらいました。さすがです!

 
 そしてここまで書いてて思ったけど、5段階の欲求を全て理

解していて、その上で「生きていくだけの欲求」を選択してるな

ら問題は無いけど、ただそれだけしか知りませんというのなら、

それは選択ではなくて、価値観の乏しさということになるよね。
 
 ってことは基礎知識として教育の中で教えていくことは大切だよね・・・・ 
 
 活動も残りわずかなのにいまだにこんな事悩んでる自分は

なんなんでしょうね・・・・・
 
 

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