2011年5月23日月曜日

アンゴラ人はみな強い


バヌアツではよく子供が泣いていました。兄弟で遊んでいると、よく子供は泣きます。

周りの子供がそれを大人に言いつけて、いじめていた子供が大人に怒られてまた泣きます。

 それほど大人が子供を世話を焼いていましたし。

子供は泣くことによって何かが解決されるという認識があるのだと思います。

 アンゴラでは泣いている子供をみることはほとんどありません。

歩けるようになればすでに親とは一緒にいません。

裸のままで2歳、3歳の兄弟達と遊びだします。
 
そういうやって成長する子供は泣くことは少ないのだと思います。

甘やかされたり、可愛がられることは日本やバヌアツほど無いのだと思います。

 そうやって育った真の強い子供たちがポルトガル語圏独特の自己主張の強い環境でされに鍛えられて、

町の中で育っても野性的な人達に磨きあげられるのだと思います。

 相手の気持ちはど考えていてはいられない。明日のことより今自分が良ければそれでよい。
 
そういった鋭い感性の人達が育っていくのだと思います。

 人目につくところで立ちションベンだけではなく、大便でもすることも、

水溜まりで手を洗うことも、食事に虫が入っていることも、

運転しながらお互いに挑発することも、みんな当たり前なのです。

 もちろんそれは男性だけではなくて女性も同じことです。

金のある男の子供を産んで養育費をもらう。
 
そういう感覚が20前から芽生えているのを感じます。

それが当たり前、何の疑問もありません。


なんでそういう風になったのかな?っていつも答えを探していますが、なかなか奥が深いです。

 
一つは500年続いて植民地支配、

ポルトガルはアンゴラ、モザンピーク、東ティモール、ブラジルなどを植民地にしましたが、学校や教会よりも優先して、自分達の利益を考えていました。

だから搾取してばかりで「人」を育てようとは考えていなかったし、

そういうビジョンが彼らにはありませんでした。 

だからアンゴラ人は一生懸命はたらいてもただ利用されるだけ、搾取されるだけ、
 
それなら言い訳していかに働かないか、独立した1975年の後はいかに人の上に立つかに集中します。

逆にイギリスに植民地にされたインド、ケニア、南アフリカなどの現在の発展をみると、

明らかになります。
 
イギリス人は本当に自分達の国が素晴らしいとわかっていて、世界に進出して学校と教会をたてて、もちろん搾取もしたけど本当によい国と組織作りができる社会を作ろうという

使命感がありました。

 しかしアンゴラでは一生懸命働いたら上の人が認めれくれて出世できる。

という世界ではないのです。

まじめに働くと利用されるというのは教育を受けずに育った人達のなかではある意味

常識なのかもしれません。だから組織の一員として働くこと、
歯車の一つのなることは彼らにとっては難しい行動の一つです。

 あとは過去に何かを成し遂げたという成功体験を学校の教育の中で得ていれば

忍耐強く働く書けるのかも知れませんが、教育が追いついていない今の状態ではそいういう経験をすることすらありません。


自分の努力が結果につながるのは自分で畑を耕している人くらいなのだと思います。

 
生徒に関しても自主性を育てて努力をさせるよりも、罰を与えるほうが効果があることは明らかです。 僕がいくら毎朝声をかけても遅刻してくる生徒達も、他の先生が僕の出席簿をみて、遅刻した生徒に掃除や農作業をさせるようになった途端出席率はてきめんにあがりました。

それは当たり前みたいです。

 カンニングに対しても罪悪感は全くありません。

 「恥ずかしくないのか?」
 
 という言葉は彼らには理解できません。

生徒にそこまでの自主性を求めていた自分が間違っていたのだと感じました。あきらめてはいけないとは思いますが。。。

 あとはキリスト教と仏教の違いもあるのだと思います。
 
 何かの本で読んだのですが反省というのは外国の人にはわかりにくいようなのです。

 だから海外にいったら「すいません」と言ってはいけない、罪を認めてはいけないのだとよく言われます。

仏教は仏は存在は自分の中にいて、自分と向き合いながら信仰していくものです。だからキリスト教のように毎週教会に行かなくては信仰できます。
逆に日本では何か罪を犯しても反省すれば許されることが多いです。
反省している人にさらに罰を与えることはありません。
 
逆にキリスト教では神は教会にいます。だから自己完結してしまう反省という感覚はあまりピンときません。何か罪を犯すと、教会に行って神様に問いかけます。自分の外に問いかけます。
 この世で罪を犯すと天国に行けないという、基本的に罰を受けないためによいことをするという感覚があるのかもしれません。

  他の国ではどうなのかはわかりませんが、アンゴラではそういう解釈であっていると感じます。 だから何か悪い事をした時に先生に言い訳というか許しを乞うために屁理屈でも何でもよいのでとりあえず言い訳をするという習慣です。日本だと罪を素直に認めないのは潔くないと感じますが、こちらでは他人に話すことによって許されるのであって自分の中で完結して反省する感覚はありません。彼らは逆に不思議に思います。
 「じゃあ日本では反省するフリしたら許してもらえるの?それなら楽でよいね!」

 という疑問が彼らのなかに湧くのだと思います。
 

 最後に立ション、野グソの件ですが、サバンナ気候で空気がドライなアンゴラでは排泄物はハエがたかってウジがわく前にカラカラに乾いてしまいます。
だから道で用を足しても他の人の迷惑になる前に乾いてしまいます。

ウジがわくことはほとんどありませんし、においが迷惑になることもあまりないのだと思います。  
だから日本でイメージするほどの罪悪感は生まれません。
彼らが下品かどうかなのではなくてこの問題に関しては自然環境が彼らを合理的にさせているという解釈であっているのだと思います。
 アンゴラで毎日ボーっと過ごしている僕ですが、なんでこうなのかな?

逆に日本はなんでこうなったのかな?などと考えていると時間はあっという間に過ぎていきます。

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