次に行きます。
それでは日本の文化は受け入れられないのか?我々の美徳はどうなるのか?
ということですが、それは受け入れられます。
西洋の人達は自分達の自己主張の強さ、
いつまでたってもお互いに足を引っ張り合う文化、
他人のことを思いやりたくても、
自分が敗者になって搾取される側には絶対になれない。
そういう文化にうんざりしています。
だから日本人が持っている
「いたわり、無念さ、弱者に対する思いやり、敗者の美学、情け」
といった感情にとても興味を示します。
自分達の社会の矛盾の答えがこう言った感情の中にあるのでは?
と感じるのだと思います。
でも敗者にはなれない。だから絶対的優位な立場に自分を守りながら、
「募金」という形で、敗者への「情け」の感情を表します。
日本人みたいに「一庶民」として生きていくにはリスクが高い社会だからです。
ではどうやってそういった感情を西洋の人に対して
態度で理解してもらうようにできるのか?
ということになりますが、
たとえば映画や本のようにコンパクトに一つのものとして
まとまっている場合には2時間で理解してもらえますが。
今の僕のように一緒に生活しながら理解してもらうには少し時間がかかります。
もちろん言葉の壁もあります。
でもこの半年で僕が感じたことは、粘り強く頑張れは、
それはキチンと評価されるし、日本人への信頼は僕らが思っている以上に高い。
ということです。
僕も一度はこう思いました。
もっと英語が話せて、自分がもっと若くて、日本で働いたことも、
日本人の文化についてもたいして知らなくって、二十歳前後でここに来たら、
簡単に西洋人みたいになって、自己主張してそれが良い、
日本人の謙虚さは意味が無い! って思ってたかもしれないでも
でも僕は日本で10年間社会人してたし、
その間に日本人として日本社会で学んだことは沢山あるし。
大学の体育会4年、実業団のフットボール9年で嫌というほど
身に着いた日本の上下関係、縦割り社会、個人と組織、情と知、自己犠牲、
終終身雇用制度にいたるまで、
深く自分の魂に刻み込まれてきた感情とそれによって得た
成功体験から逃れることはできなくって、不器用だけどでも頑固に、
そのスタイルを貫いてきました。
結果的に今思うことは、半年の時間をもらって、教室以外の仕事、
募金活動、掃除、食事の用意、部屋の改装やペンキ塗り、
畑仕事など実生活の中で見せることができる自分のライフスキル、
生活力と衣食住みたいなことから表現される実力が
結果的には僕を助けたとおもいます。
西洋の強烈な自己主張は最初の一カ月間は通用しますが、
それが継続されると口だけでは通用しなくなり、敵が沢山できて、
お互いに権力の取り合いになり、それが決着するまでは話が全く前進しなくなります。
「船頭多くして船山登る」
もう一人の日本人の啓太が先日教えてくれました。
西洋文化を表すのにぴったりだと思います。
みんなが自分の全体像を描くので、話が全く進みません。
(逆に日本人は全体像を描いて主張することが上手くないと思います。
物事が良く分かっている人に限ってこういう人が良くいます。)
日本にはこういう言葉があります
「人を相手にするな、天を相手にしろ」
権力を気にするあまり、相手を倒すことばかりに能力を使ってしまって
本当にしなければならないことを見失ってしまうこと良くあると思います。
プログラムが始まった最初の二カ月くらい良くこの言葉を思い出しました。
もちろんこれはうちの学校という入学試験もなく、申し込みだけで入ってこれる
学校の中で起こったことであり、もっとキチンとしたヨーロッパのあると思います。
2010年11月8日月曜日
この半年間のまとめ①
32ooパウンド、約45万円の募金活動が無事に終了しました。
心配と応援してくれた皆様、あと日本から募金しましょうか?
と提案してくれた方々、本当にありがとうございました。
終わってみればメンバー10名の中で最も早く終わることができました。
そろそろこの半年のまとめをしようと思います。
まずは
「ノーと言える日本」
について、
「日本人はノーと言わない」
これはこちらの先生達が日本人を褒めるときにも、けなすときにも使う言葉です。
嫌なことはキチンと断ってくれないと困る
というのが彼らの意見ですが。
この半年で気がついたことは、
日本人は相手の気持ちをとても考えて質問するので、その場でとっさに
「ノー」
ということに慣れていません。
相手が受け入れにくい質問は最初からしないのです。
ずうずうしい質問をすることを恥じるので、キチンと相手が
「イエス」
って言ってくる質問をします。だから聞かれたほうほ
「良いよ!」
っていうのが普通になっています。
特に日本人の中でも生真面目で普段からみんなに尊敬されている人に対しては、
こちらもあまり失礼なお願いはしないので、
そういう人はさらに「ノー!」ということに慣れていません。
(別に自分がそうとは決して言ってません)
相手の理由はどうであれ、 誰から自分に対して助けを求めているのなら、
すでに相手は相当思案した上で訪ねてくれているのだろう。
だから答えは即答で「イエス!」なのです。
そこでいちいち相手を疑って
「なんで僕の助けが必要なの?どういう理由で?」
などと聞くことは下品なことだと思っているのです。
それが一流の日本人、外国の人みたいに
言ったもの勝ち、主張したもの勝ち、実力はその次、
ずうずうしくないと生き残れない、ヨーロッパは昔からいろいろな国の文化、
習慣、言語がミックスしているので、
相手の気持ちなんて察しようと思っても全くわからないのです。
だからとりあえず明確にストレートに自分の主張を通すことが普通なのです。
ということになります。
だから一流の日本人が外国人と接するときに、その人が立派な日本人であり、
謙虚で律義で誠実で
耐えざることに耐え、忍びざることを忍べば忍ぶほど、
海外で短期間のうちに活躍することは難しくなると思います。
高倉健ではだめなのです。
「私は不器用なので、ご自由にしてください」
という僕たちの美徳は彼らにとっては「わかりにくい」のです。
心配と応援してくれた皆様、あと日本から募金しましょうか?
と提案してくれた方々、本当にありがとうございました。
終わってみればメンバー10名の中で最も早く終わることができました。
そろそろこの半年のまとめをしようと思います。
まずは
「ノーと言える日本」
について、
「日本人はノーと言わない」
これはこちらの先生達が日本人を褒めるときにも、けなすときにも使う言葉です。
嫌なことはキチンと断ってくれないと困る
というのが彼らの意見ですが。
この半年で気がついたことは、
日本人は相手の気持ちをとても考えて質問するので、その場でとっさに
「ノー」
ということに慣れていません。
相手が受け入れにくい質問は最初からしないのです。
ずうずうしい質問をすることを恥じるので、キチンと相手が
「イエス」
って言ってくる質問をします。だから聞かれたほうほ
「良いよ!」
っていうのが普通になっています。
特に日本人の中でも生真面目で普段からみんなに尊敬されている人に対しては、
こちらもあまり失礼なお願いはしないので、
そういう人はさらに「ノー!」ということに慣れていません。
(別に自分がそうとは決して言ってません)
相手の理由はどうであれ、 誰から自分に対して助けを求めているのなら、
すでに相手は相当思案した上で訪ねてくれているのだろう。
だから答えは即答で「イエス!」なのです。
そこでいちいち相手を疑って
「なんで僕の助けが必要なの?どういう理由で?」
などと聞くことは下品なことだと思っているのです。
それが一流の日本人、外国の人みたいに
言ったもの勝ち、主張したもの勝ち、実力はその次、
ずうずうしくないと生き残れない、ヨーロッパは昔からいろいろな国の文化、
習慣、言語がミックスしているので、
相手の気持ちなんて察しようと思っても全くわからないのです。
だからとりあえず明確にストレートに自分の主張を通すことが普通なのです。
ということになります。
だから一流の日本人が外国人と接するときに、その人が立派な日本人であり、
謙虚で律義で誠実で
耐えざることに耐え、忍びざることを忍べば忍ぶほど、
海外で短期間のうちに活躍することは難しくなると思います。
高倉健ではだめなのです。
「私は不器用なので、ご自由にしてください」
という僕たちの美徳は彼らにとっては「わかりにくい」のです。
2010年11月2日火曜日
時が経つと変われること

<写真は小学校3年生くらい、真ん中でビニール袋を持っているのが僕です。何をやっても自信が持てなくて、さえない子供でした。だから忍耐強く続けることができなくて、でもみんなに認めてもらいたい気持ちは沢山あって、子供だったから気がつかなかったけど、一生懸命にもがいていた時期だと思います。でもそういう経験があるからこそ、人にやさしくなれるのかな?とも思います、何事も経験しておいてそんはないですよね>
子供のころからあまり
「ウラ」っていう名前好きではなかったような気がします。
学校で先生が
「コラ!」
って怒ったらなんか自分が怒られてるような気がするし、そのたびにドキッとするし、
「山本リンダのファンですか?」
「ジャングルクロベエの主題歌を歌って!」
「下の名前はビデオくんですか?」
っていじめられるし、もっと「三浦」とか「杉浦」
とかそういうカッコよくてバランスの良い名前がよいなー!
って思っていました。
でも男だし一生この名前なんだな。って思ってました。
でもバヌアツ、イギリスなどの海外に出来て思ったけど、
「ウラ」っていう発音、意外と外人は覚えやすいみたいです。
明らかに下の名前の「テルヒロ」よりは発音しやすいし、
北欧のほうでは嬉しい時に 日本でいう「ヤッター」みたいな意味で
「ウラー!」 とか「ウララー」 とか「フラー」
とかっていうらしくて、その動作と一緒に自己紹介するとみんな覚えてくれます。
そして結構それは前向きな意味なので、みんなな喜んでくれいます。
ウチのチームで韓国人の女の子で
「スッキー」
っていう子がいるんだけど、毎日
「スッキー!」
って読んでるとなんか僕はこの子のことスキなのかな?
っていう錯覚に陥るのと同じ作用があるのだと思います。
猫も
ノラっていう名前つけると、だらしない猫が育つって言うしね。
まあ呼ぶ側の心掛けの問題だと思いますが・・・・
あとはインターネット、「浦輝大」っていう感じの組み合わせ、
ジェイリーグのサッカー選手で似た人がいるのだけど、
それ以外はほとんどいないみたいで、
グーグルでもヤフーでも結構早めに僕の名前が出てきます。
この名前嫌だな。って思っていたころにはインターネットなんてなかったし、
こんな日が来るとは思っていなかったけど、
時代が変われば価値も変わるものだな!って思います。
価値が変わった話のもう一つは昨年の中学校で非常勤講師していたとき。
支援学級っていう昔でいう養護学級って言ったらよいのか
言葉の使い方が難しいところなんだけど、
クラスに適応しにくい生徒のサポートをする教室に一年間居ました。
自分の中学校時代は暗くて悲しい時期だったので、
あまり思い出したくなかったのですが、昨年に支援学級で働いていて感じたことは、
「子供の気持ちがものすごくわかる、何をやっても自信が無いし、
周りからは認めてもらえないし、その割に自分のプライドやエゴは凄くあって、
みんなから認めてもらいたいっていう気持ちは凄くある。
でも誰にも認められない、こういう自分って嫌だな、でも変えられないな」
って思っていた時期、自分のそんな頃を自分の生徒を重ねてみると、
なぜかとても生徒に対してやさしい気持ちになれました。
おそらく他の先生からは
「浦さん体育の先生なのに、生徒に甘すぎ、なめられすぎ」
って思われていたかも知れないけど、
生徒はキチンと三学期まで楽しく学校に通ってくれました。
二度と取り戻せないと思っていた自分の中学校時代でしたが、
今思えばとり返す必要なんてなかったのかな?
って感じています。
「ウラ」っていう名前も、悲しい中学時代も、
時が経ってみればちがう見方ができて、結局は同じことなのかな?
って思いました。
「人生の苦労の数は決まってる」
って学生の時の友達がオッサンみたいに言っていました。
なるべくいろいろなことにこだわらずに自然体で生きていけたらよいなと思います。
2010年11月1日月曜日
30年で2回
<写真はバヌアツの小学校一年生。
僕は彼らの何人を励ますことができたのかな?っておもいます、
ウラに褒めてもらったから、あの後30年頑張ったよ!って言ってくれる人
は将来いないと思うけど、僕はあれから30年間頑張ったつもりです>
今から30年前、僕が大阪の吹田市、千里第二小学校に入学したとき、
当時はまだ第二次ベビーブームでマンモス校と呼ばれていて、
木造校舎に40人以上の生徒が詰め込まれて、
それが10クラス近くあって、うちの小学校はなぜか宝塚みたいに、
雪組、星組、花組、月組、みたいにクラスが呼ばれていたころ。
僕の担任の先生は当時30歳くらいだったサッカー部の顧問の先生でした。
その先生が僕に
「ウラ君、キミはサッカーが凄く上手だし体育がよくできる。
きっとよい選手になるよ!」
週末にある地元のサッカークラブを紹介してくれました。
僕はそれがとても嬉しくて、自分がサッカーが上手なんだと思い込んで、
一生懸命サッカーをしていたのを思い出します。
そう信じていたからサッカーが上手になったのだと思います。
そのまま30過ぎるまでずっとスポーツしてきたから、
あの先生の一言が僕の人生に与えた影響は大きかったと思うし。
ウチの母親もいまだにその先生のことをよく覚えています。
それから30年が経って昨年ウチ親父の看病の為に大阪に戻って
午前中だけ中学校で非常勤の先生をしていましたが。
たまたま小学校の体育科の先生と、
中学校の体育科の先生達が一緒に集まる情報交換会みたいなのがあって、
そこでその先生に30年ぶりに再開しました。
30年ぶりでしたが、全く変わっていなかったので驚きました。
中学校で非常勤をしていること、
親父が一学期で亡くなってしまったことなどを話しました。
その先生はすでに校長先生になっておられて、地元では有名な先生でした。
二学期末に教育委員会から連絡があって、
「三学期、小学校で妊娠されている女性の先生のかわりに週3回、
午後に体育教えてもらえますか?体育だけなら浦さんが小学校で教えても大丈夫です。」
という連絡があり、30年ぶりに恩師の先生の学校で働かせてもらいました。
朝礼での初めての挨拶のとこに、
「みんなの校長先生は30年前の僕が小学校一年生の時の担任の先生でした」
っていったらみんなとても喜んでくれました。
僕の人生を2回も変えてくれた先生にはとても感謝しています。
教員ってよいものだな。と改めて感じました。
2010年10月30日土曜日
哀れな日本人に愛の手を?
<写真は募金をするときに使っている僕のオリジナルボードです、
バヌアツの時の写真が貼ってあって、次はアンゴラに行くので募金宜しく!
って言うとみんな納得してくれます。言葉よりも写真の力は大きいです>
募金活動をしていて、思うことはアフリカ出身の人は二手に分かれること。
とても喜んでくれて、協力してくれる人と、
明らかに不審感を持って気分を害する人に分かれます。
「お前は何でアフリカに行きたいんだ!」
「おれたちの写真を使って金を集めてるだけだろ」
「おれたちはほっておいてほしいだけなんだ、助けなんていらない」
「旅行者気分で人助けなんてできないよ」
って言われます。僕の答えは
「僕はスポーツを教えるのが好きだからアフリカに行きたい。
日本でも先生をしていたし、バヌアツでも体育を教えていて
自分の経験の為、楽しい時間を過ごしたいだけなんだ」
でもこの答えは僕が最初に協力隊に行く前とは全く違っています。
4年前に協力隊に行こうと思った時に感じていたのは
「困っている人を助けたい、日本人として何か貢献したい」
でした、だからバヌアツで海外のボランティアが口々に
「経験の為、自分の人生を変えたかったから」
っていうのを聞いて、少し驚いたし
「税金使って来てるのに、少し無責任だな、受け入れ国にも失礼だ」
なんて思いました、
でも今は違います。バヌアツに行って少し感じだことは
「基本的に人が人を助けることはできない」
解釈が難しいし誤解を生んだら困るけど、助けようと思って何かをしてあげると、
最初は相手も喜んでくれるけど、それが継続的に行われると、
相手もやってもらって当たり前になってくる。
こっちは助けてあげている、って思ってるけど、何の感謝もされなくなる、
別に感謝されるために初めて人助けではないけど、それが当たり前になってきたり。
「もっと助けて!」
って言われたりすると、
助けるのではなくて自立させることが大切だ。
ということに気がつくのだと思います。もちろん
「魚を与えて一日を養うのではなく、漁法を伝えて一生を養う」
「食べ物を与えて難民にするのではなく、クワを与えて自立してもらう」
この言葉は基本にあります。でもこの言葉は時に現実的ではないこともあります。
日本人は教育水準が上がれば彼らは自律して立派にほかの国と競争できる、
と思っていても、もともと途上国はそんなことを望んでいないこともあります。
また
「こんなに献身的に頑張ってる自分て素敵!」
みたいな感じで、単に自己満足になる人もいると思います。
ヨーロッパに来て思うことはボランティアって人生の中の一時期
に無給で働いてみることによって、人生観が変わったり、
給料をもらって働くことと比較できたする良い機会になるのかな?
と思いました。
またアフリカ出身の人が嫌な気分になるもう一つの理由は
たとえば満面の笑みの日本人の子供の写真をどこかの外国人が
ポスターにして持っていて、そのポスターのスローガンに
「日本を助けよう!」
「日本人に愛の手を!」
「あなたの100円で沢山の日本人の命が救えます」
「日本には教育が必要です!」
こんなのを持っている外国人の若者を海外で見たとき、
自分はどんな気持ちがするかな?って思ったら、きっと良い気分にはならないだろうな。
っておもいました。
だからアフリカ出身の人になぜアフリカに行きたいんだ?
って聞かれたら今は
「自分の経験の為です、僕が彼らを助けることなんてできないことはわかってる、
ただ僕はアフリカに行って彼らと一緒に遊びたいだけなんです」
って胸を張って言うようにしています。
そうすると相手も納得してくれます。
間違っても
「彼らを助けたいのです」
って言ってはいけない気がしてます。
それが4年前と今とで僕の中で変わったことだと思います。
それぞれの人がいろいろな思いでボランティアだったり、
人助けをするのだと思いますし、その動機は全員が違っていて良いし、
常に変わっていくものだと思いますが
2010年の僕は今こんなふうにおもっています。
2010年10月29日金曜日
僕の頭は150ギガくらい
<写真はブリリングトンという港町です、古い建物が今でも
残っているなかなか味のある町でした>
学生時代に勉強する意味は、用は自分が持っているラップトップの中に
どんどんいろいろな情報を入れていくようなものだとおもう。
メールソフトは国語
理科はエクセルで作った書類
算数も書類、音楽はもちろん音楽
社会もあって、英語もあって、自分のラップトップのメモリーの中にいろいろな情報を
「詰め込んで」行く作業のような気がします。
メモリーが80ギガの人もいれば、500ギガのひともいて、
IQが高ければ1テラバイト(1000ギガバイト)みたいな人もいると思います。
そして年齢が重なるごとにウィンドウズもアップデートされていって、
それらの情報はさらに使いやすく自分の頭の中で整理させて、
必要な時に必要な情報が取り出せるようになります。
そこで重要なのは単に1テラバイトの中に凄く沢山の情報を詰め込んだ
IQの高い人でも、それらの情報を必要な時に取り出す技術が無ければ、
持っている情報は意味がなくなってしまうのだと思います。
「確かこんな情報を持っていたと思うけど、どこのフォルダに入れたかな?」
って感じること、パソコン持っている人ならだれでもあると思います。
だから1テラバイトの情報量よりも300ギガバイトくらいの
使える情報を持っているほうが意味があるのかもしれません。
でもとりあえず学生というのは自分の持っているメモリーの
容量に入るだけの情報を入れることは大切なのだと思います。
そしてできるだけ多くアップデートして、
沢山の情報を使いやすく頭の中で整理して、準備しておきます。
なぜその必要があるの?っていうことになりますが、
その答えは学生が終わって、社会人になりますが、社会人とはすなわち
インターネットだからです。
仕事を始めるということはプロバイダーと契約して、
インターネットにつなぐことができることだと思います。
だから社会人になったらわからないことがあればすぐに
グーグルやヤフーで検索すれば良いのです。
もういちいち図書館に行って調べなくても上司や友達に聞くことができます。
そのインターネットとは上司や同僚、お得意さんのことです。
わからない言葉があったら、
自分のメモリーの中の情報からいちいち探すよりもすでに
情報や経験のある人から聞いたほうが早いからです。
いちいちメモリーの中からファイルを探す必要はありません。
じゃあ学生時代に詰め込んできた情報の意味はあるの?何のために勉強するの?
ってことになりますが、それはあります、
というのはネットの中の情報は本当のこともありますが、
嘘の情報や正確でない情報が沢山あるからです。
それが世の中だし、社会なのだと思います。
インターネットの世界は意外と恐ろしいものなのです。
そういった情報の中からどの情報が自分に必要で、
正確なのかを判断するためには、
今まで自分の中に貯め込んできた自分の
ラップトップの中に入っている情報が頼りになります。
もしラップトップの中が空っぽで何の情報の蓄積もなくって、
その人がいきなりインターネットをつないだとしたら、
入ってくる情報が自分に必要なのか?正確なのか?わからなくなります。
とりあえず自分の興味のままにクリックし続けた結果が、
タチの悪い詐欺だったり、ウィルスが入ったりすること多いと思います。
それをキチンと判断するには、
ラップトップの中に最低でも300ギガバイトくらいの
情報が入っていることが大切だと思います。
ちなみに僕の頭のラップトップには150ギガくらいしか入っていませんが、
その情報はすべて自分の経験の中でものすごく濃く刻み込まれた情報なので、
とても使える情報だと思っています。時に相当偏っていますが・・・・
逆にいえば1テラバイトも情報量を学生時代に詰め込んだ人でも
その情報の使い方を全く知らなければ、社会の中では全く使い物になりません。
そういう人は英語の単語も漢字も理科も社会も「情報」として頭に入れただけで、
それがどういう情報なのか
「知識」として自分で考えることをしなかった人だと思います。
そして悲しいことに日本のテストの結果がすべてな学校ではそういう人でも
「優等生」として扱ってくれます。
学生が終わるまではそれで良いのですが、そのあと社会に出ると困ったりします。
自分の人生を外付けのハードディスクみたいな役割で終わるのならよいですけど、
人生の醍醐味はやっぱり自分のラップトップでネットにつないで
社会の一員として世の中をネットサーフィンしながら
経験して行くことだと僕は思うからです。
じゃあどうやって判断力を身につけていくの?ってことになりますが、
それは、受験には関係のない 音楽、美術、体育、読書などから
身につけること結構あると思います。
もちろんそのバックグランドには「国語」がとても必要です。
国語がきちんとできて「言葉」として自分のハートに
知識が刻み込まれなければ持っている「知識」はただの「情報」になるからです。
今僕が中学生に「なんで勉強しないといけないの?」
「学歴に何の意味があるの」
って言われたら、こんな風に説明してみようと思っています。
でもこれはあくまでも一つの側面からみた「勉強」に対する考え方です。
もう少し深く考えてみようと思いますが、今日のところはすでに僕のラップトップ
の能力以上考えたので、フリーズしてしまいました。ごめんなさい・・・・
2010年10月27日水曜日
役割

<写真は今週に古着を集めに行ったスコットランドです。低い空と湿った大地どこまでも続く農園、湿気のせいかすべての色が濃く見えました。ウチ学校から500キロくらいあります。一人で行って、一人でホテル泊まって、一人で古着集めて帰ってきました。考える時間がありすぎて、逆に何も考えなくなってしまいました・・・>
埼玉のガストで社員として5年間ほど働いていた事がありますが、
そのころに面白い疑問がありました。
ウチのガストの隣にはとても忙しいガソリンスタンドがあって、
そこの店長はなかなかの人で、バイトの子達の接客態度もしっかりしていて、
いつも感心します。
そして一カ月に一度、その店長のオゴリでバイトの子達がガストに食事に来ます。
すべてオゴリなのでみんな豪快に頼んで、豪快に食べて、
ドリンクバー飲んで、タバコ沢山吸って帰ります。
僕はひたすら彼らのテーブルが汚くならないように、
食べ終わった食器を片づけて、
すぐにいっぱいになる灰皿を新しいものに変えて回ります。
テーブルにゴミが散らかって、灰皿があふれると、みんな行儀が悪くなる、
というのがファミレスの社員として僕が学んだことだったからです。
でもたまに僕がガソリンを入れに行くと、
とてもキチンと働いて好感を持てて自分達も接客業しているその子達が、
すぐ隣のウチのお店でこれほどまでに行儀悪くなれるのかなって、
不思議に思った頃あります。
たとえばその日の夕方に僕がガソリンを入れに行くと全く立場が逆になって、
「ガストの人が来た!」
って感じでなんとなく気まずくなるからです。
そういう時って気持ちよく
「いらっしゃいませ!」
って言いにくいよね。
そこで感じたことは、
「日本人って凄くその役割を演じているんだな」
っていうことでした。
普段その子達は元気で礼儀正しいガソリンスタンドの店員を演じていて、
僕はファミレスの社員を演じています。
だから仕事が終わって演じなくてよい時には本当の自分が出ます。
仕事中は少し我慢して演じているからです。
僕自身はそういうときに演じるのが下手くそなきがします。 だから良く
「お前は要領が悪い!」 って怒られました。
これは型にはめるという日本の教育のシステムから始まっているのだと思います。
日本の良いところでもあり、悪いところでもあるきがします。
役割で自分を殺すこともでるからです。
そして殺しているうちに身に着くことも多くあると思います。
忍耐強いといえば響きは良いし、
日本人は裏表があるといわれる理由もそこだと思います。
僕も無意識の自分の行動のなかからそういう面を感じることあります。
これはイギリスだけでは無くて、海外に行くと思うことですが、
どんなサービス業の人でも、決して自分を演じていなくて、
ありのままの自分でいるな。って思います。
日本でよくあるマニュアル先行ではないのです。
だから時にサービス業の店員の態度が悪いと腹を立てることがあります。
外国の店員さんはあくまでも店員を演じているのではなくて、
「自分らしく居ること」
が優先されているからだと思います。
だから横で外国人同士がお客さんと店員さんとして対等に世間話をしているのを見ると、
この人達前から友達だったのかな? って思うことあります。
日本には「お客様は神様です」
っていう言葉があるくらいだものね。
でも隣同士のガソリンスタンドとファミレスで、
昼間はガソリンスタンドの店員さんが神様で、
夕方僕がガソリンを入れに行ったときは僕が神様になる!
って何か疲れるよね。どことなく滑稽だよね。
常にどちらの立場の時でもお互いに尊重して生きていたいよね。
なんで常に自分であってはいけないのかな?
自分らしく接客することがなぜ認められないのかな?
レベルの低い人達が居るから、マニュアル作って押しつけたほうが簡単だ。
という意見もあるかもしれないけど、
逆に言ったらマニュアル以上の接客のできる人を白けさすし、
接客されるほうもどこまでがマニュアルの笑顔で、
どこからがその人の本心の笑顔かわからないと人間として接しにくいよね?
日本は常に型にはまってるよね。
30代の男は結婚しているべき!
お年寄りは大らかであるべき!
子供は無邪気であるべき!
運動してる人はさわやかであるべき!
長距離トラックの運転手はやしろあきを聞くべき!
テレビ局のプロディーサーは石田純一であるべき!
東大卒はプライド高くあるべき!
課長は細くて神経質そうであるべき!
部長は、小太りであるべき!
新入社員の女の子は賢くてはいけないべき?
(馬鹿を演じなくてはいけないってことです)
30前の女子はたとえ結婚したくなくっても結婚を焦っているふりをするべき!
お笑い芸人は自虐的であるべき。
っていうなんとなく型にはまっていることを社会も要求するし、
その肩にはまっているほうが何かと人生が生きやすくなるような
仕組みができていると思います。
おそらく企業がそれぞれの世代の多数派の人に向けて物を売りだしたり、
宣伝広告出しているから、無意識のうちのそれに乗っかって、
お金さえ払っていれば日本人の考える
「
理想の日本人像」
みたいなのに近づいていって、周りも本人も安心できるからかもしれません。
そういうの外国ではあまり感じないです。
僕が36歳っていうと、急に敬語になってよそよそしくなるわけでもなく、
(英語に敬語無いしね)
普通に20歳の人も今までとおなじように接してくれるし、
年長だからという理由で、何かみんなから尊敬を受けた記憶もありません。
ある意味36歳を演じる必要が無いので、気持ちは楽です。
自分らしく入れます。
でもそうやって自分らしく居ることは日本人には難しいのかもね。
自分ってどういう人なの?
ってあまり意識しないで生きているからだと思います。
別に日本が悪いとは思ってないのだけど、そういうことをたまに
意識して生活してみるとまた面白いかな?って思います。
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