2010年6月30日水曜日

シャンプーと言う犬についての話③



 <写真はシャンプーの物真似をする隣のクウィンティル、タソガレ顔が
なんとなく似ています。写真は2008年の10月だから、3歳か4歳でした、
今は小学校に通っているそうです。>


そんな彼女と僕との間に小さなもんだがおこったのは

スパイダーが死んでから一カ月くらいたったある深夜の事でした。

 眠れないのでメールのチェックをリビングでしていた時の事、

外のセンサーライトのオレンジ色の光の中で、

シャンプーが他の二匹の犬と交尾をしているのに気がつきました。

 スパイダーの支配下におかれていた、我が家の敷地の中で、

二匹のたいして品の良くもない雄犬に囲まれて、

交尾しているシャンプーのその遠い眼の先に、

一瞬でもスパイダーの事を思い出してくれているのかな?

 と少し切なくなりました。

 人間としてあまりにも守られた世界に住んでいる僕にとっては

 少しだけショックでした。

 しょせんそんなのは男のエゴだなとわかりながらも、

とても複雑な気持ちで、深夜のその光景を家の中にある

少し大きな肘置きのあるチェアーにもたれながら、

死んだスパイダーの事を思いながら、

 少し複雑な気持ちで眺めていたのを思い出します。

 
 それから三日間ほど、僕はシャンプーと口を利きませんでした。

 お前がスパイダーを待つ気が無いのならば、もう一緒にはいたくない、

もともとお前はうちの犬では無いのだ、

うちの残飯はお前には食べてほしくないし、スパイダー以外の犬を飼うきは俺には無い。
 
 そう思っていました。

 シャンプーは残飯がもらえてももらえなくても6時前後には必ずうちの

キッチンに顔をだして、座っていました。

 三日間たって、餌をあげない僕に腹を立てるでもなく、仕方が無いから

一切れだけあげた肉のかけらの匂いだけをゆっくりと嗅いで、

なぜか口に入れなかったシャンプーの姿をみて、

 「腹が減ってるから来てるわけではないんだな」

 となんと無く自分が間違っていたようなきがしました。

 「スパイダー、お前はどう思っているのか?」

 と彼に聞きたい気持ちでした。

 おそらくスパイダーは

 「そんなことは犬の世界では当たり前、人間てなんでそうなの?

   ウラのほうがおかしいよ!」

 って思っていたかもしれません。

2010年6月26日土曜日

シャンプーという犬についての話②



<写真は我が家のコンクリートの上で涼んでいるシャンプーです、
いつも落ち着いていて、優雅な感じでした。気がついたら我が家に居て、
いつの間にか去っていく、別に食事をねだりに来ている訳ではなく、
くつろぎに来ているようでした。>



スパイダーが事故か、他殺かで行方不明になってから二週間、夕方になるとシャンプーはう

ちにキッチンの入り口にさりげなく座っています。

 僕が肉の破片やシーチキンの空き缶などを目の前に置くと、

ゆっくりと首をもたげて優しく空き缶を舐めます。

 スパイダーが居た時はその空き缶すら彼に取られていましたが、

シャンプー以外の犬が我が家の敷地内に入ることはスパイダーが断じてゆるさなかったので、

うちのキッチンにシャンプーがいるだけでも、

それは十分にスパイダーの彼女として認められていたのでした。

 「今日もスパイダーは帰ってこなかったな、

お前も俺と一緒に彼の帰りを待っているのか、

今日はスパイダーは帰ってこなかったから、晩飯の残飯はお前にあげるよ、

そうしないと夜中に他の犬がうちのごみ箱を荒らすからな、

きれいに食べてから家に戻ってくれ」

 といって彼女に残飯を食べてもらっていました。

「でもお前はジョンの家の犬だし、スパイダーもレイモンドの家の犬だったから、

さすがにお前はうちの犬としては認められないよ、

バヌアツの人にウラは犬泥棒だと言われたくないからね、

食べたらすぐに戻るんだよ」

 そういう僕の気持ちがわかるのかどうかはわからないけど、

シャンプーは僕の晩飯の時間が終わると、気が付いたら姿を消しています。
 
 あとから気がついたんのですが、彼女はそれぞれの家の晩御飯の時間を
把握していて、夕方の4時ごろから、8時くらいにかけて、

それぞれの家を回って食事をもらったり、残飯をあさったりしているようでした。

 雄犬達は自分達の縄張りをきちんと守って生活していますが、

雌犬のシャンプーは縄張りは持たず、したたかにそれぞれの場所を回っては

食事をえているようでした、雄犬達もシャンプーにはそれほど攻撃はせず、

シャンプー自身も他の犬の嫌がるようなことは決してしない犬でした。

 他の犬に自分の食事を横取りされても、おこるそぶりも見せずに、

フラフラと去っていくような犬でした、そのけなげさで、

バヌアツで生き抜いていけるのか?隊員達のあいだでは常に不思議がられていました。

体は大きいのに、犬のくせに猫背で、まっすぐ歩いているのに、

どことなく斜めに進むその姿に、なぜか哀愁を感じるのは僕だけでは無かったと思います。

2010年6月24日木曜日

シャンプーと言う犬についての話 ①



:写真はシャンプーです、僕の部屋をのぞきに来た時です、
決して家の中には入ってきませんでした。
 いつも僕がシャンプーの姿を確認したとわかると、
静かな場所を見つけてくつろいでいました:



  もう一年以上も書かなければならないと思っている犬の人生がある、

名前はシャンプー、僕の愛犬スパイダーの彼女。突然この世を去ったスパイダーの帰りを僕と一緒に待っていた悲しきこの犬の人生を時に僕は深く考えていた。
一年以上たった今、夜の10時まで日の落ちないイギリスで彼女の話を書こうと思います。

 彼女の本名はビニーという、ジョンという高校の先生の飼い犬だった、
 なぜシャンプーと呼ばれているかというと、僕が近所の子供達に

「この犬はなんていう名前なんだ?」

 と聞いたら、子供達はジャンボという犬がビニーと良く似ていたので、僕に一生懸命

「ウラ、この犬はジャンボっていうんだ! ジャンボだよ!」

 と繰り返して教えてくれた、バヌアツにはジャの発音は無いので子供達のジャンボの発音は奥にはシャンポに聞き取れた、僕が変だな?って思いながらも

「シャンポっていうのか?」

「そうだジャンポだ」

「今、お前はシャンプーっていったのか?」

 「そうだウラ、いま、俺はジャンボっていった!」

 「シャンプーって頭を洗うシャンプーか?」

 「ウラが言ってることわからないけど、ジャンボだ、とりあえずジャンボなんだ」

  「そうかシャンプーか」

 という感じで気が付いたらみんなどうでもよくなっていて、

かってに彼女の名前は僕のなかではシャンプーでした。

 ジャンボを僕が聞き間違えてシャンプーになり、元の名前も子供達が

 ジャンボという犬と間違えて、結局ビニーは誰にも本当の名前をよんで

もらえず、そのまま僕が帰国するまでシャンプーでした。

 僕の愛犬スパイダーが愛した犬、だれも犬に餌をやらないバヌアツで、

けなげに生き抜いている彼女の姿は、悲しくもあり美しくもありました。

 
 今日から8回くらシャンプーの話になりますのでよろしくお願いします。

2010年6月22日火曜日

親父は超えれませんね



 <写真は親父の送別会です、親父は死ぬ前に言いました。
 「大阪で葬儀しない代わりに、送別会みたいなことをしてくれ、俺が死んだら
 この5人に連絡してくれ、っていって元の会社の人達の名前を書き残しました、
 そして、その人達が親父の意向をさっして送別会を全て段取りしてくれました。
 とても良いものになりました。親父にはもったいないほどでしたが、
 ありがたかったです。皆様にこの場を借りて改めて、お礼を言いたいと思います。>






息子というものは無条件に親父を尊敬しているものだとおもいます。

 良く「親父超え」

 なんていうけど、おそらく、世の中の親父達はそれほどその言葉を

意識していないし、息子は対してライバルでもないと思っているとおもい

ます。

 そんな僕と親父の人生が初めて交差したのが親父が53歳で会社を

引退した時だったと思います。

 それまでの親父の人生は「ベビーブーム」「高度成長」「団塊世代」とい

う常に多数派であり、人生のレールはひかれていて、そのレールの上を

他人よりいかに早く走るかを競う人生だったと思います。

 どこに行くのか? 何が目的なのか? なぜ急ぐのか?

 は関係なく、日本の全てが早く走ることに何の疑問も持たない時代、

その方向性はとりあえず「成長」すればそれでよし!

ということだったのだと思います。

 どこに行くのかは誰も気にしてなかった。

 でも昭和49年の早生まれの僕が97年に就職する頃、ちょうどバブル

が終わり始めたころから、なんとなく

「早く走るのも良いけど、そろそろ俺達の前を走っている国が世界中の

どこにも無くなってきたぞ、これからは何を目標にどこに追いつくために

頑張ればよいのかな?」

 という疑問が日本の中に出てきた時代だと思います。

 そんななか親父は会社を引退して、出家しようと思ったみたいです。

「お父さん、人生で初めて挫折したね」

 とその時僕が言ったそうですが、僕は覚えていません。でもおそらく

僕が親父に言いたかったのは、挫折ではなくて、

「自分が何を目標にして、どこに向かって走るのかを模索しながら

人生を進めていくことが一人の人間としていかに不安で、難しい物なのか、

初めて気がついたのではな無いかな?」

 ということが言いたかったのだと思います。

親父の人生は常に多数派だったからね。

それは僕が子供の頃からずっと悩んでいて、団塊世代の親父は一度も考え

たことが無い事だと思ったからです。



二人の人生が交差して、親父が自分の息子に本気で興味を持ちだしたのは

その頃からだと思います。

 でも親父の事をいまでも凄いなと思うのは、

団塊世代を走り抜けた親父には、

僕とは比べ物にならないほどの成功体験を持っているということ、だから

出家しても、癌になっても常に自分の成功を信じて、前向きに闘うことで

した。

 良く言えば前向きで純粋、悪く言えばガメツくゴキブリのような生命力

 最後までこのオヤジは超えれないなー!

とあきらめてしまいました。

 そんな親父が最後の半年間、精も根も尽きて、子供のように家族に甘えてこの世を去っていった時なんか少し嬉しかったです。

「人間は最後にはこんなにカッコ悪くなって死んでよいんだ、あれほど偉大だと思っていた親父も、これほど子供に戻って最後を迎えることができるとは、人生とはそれほど悪くは無いものだな」

 と少しだけ安心しました。改めて「えらいぞ親父!」

とおもいました。

皆さんにもお勧めしたいです、最後は頑張らずにカッコ悪く旅立つことは

子供にとっては少し嬉しい事でもあるし、人生の最後は頑張らなくても、

素晴らしいものだ、と感じさせてくれると思います。それが本当の人間

だと感じました。



「親子というのは争う物ではなくて、何か人生を引き継いでいくものなのだな」

 とも感じました。
30を過ぎて自分というものがわかってくると、なぜ自分はこういう風に考えるのかな?自分は何故こういうことにこだわるのかな?

 とかいう疑問がわいてきた時、自分の親父をみれば、なんとなく
「これは俺のせいではなくて、持って生まれた血のせいだ」

 と納得できることがあります。

 自分を知るには親を知ることが大切であり、親の悪いところは真似しないようにすることは大切だと思いました。

 そんな親父が一年前に亡くなってから、25年間勤めた親父の会社の

人達と、個人的にお線香をあげに来てもらった時や、

 親父の生前に何度かあったことのある人達と

一緒にお酒をごちそうになることが何度かありました。

 そこでみんなに言われた事は

「テルヒロ君、僕は君の事は何でも知ってるよ、スポーツしてたことも、

バヌアツにボランティアに言ったことも、お父さんはいつもお酒を飲むと

君の事を自慢していたからね」

 という話をみんなから聞きました。

「なんだヤッパリ僕の事好きだったんだ」

 と周りの人の話から感じることができました。

 葬式はしなかったのだ親父の送別会が開かれた時の挨拶で

「会社の皆さんに癌で死ぬ死ぬと言って8年間もタダ酒を散々飲ませてもらって、

家族にはお父さんは狼少年だから、本当に死んだときには誰も気がついてくれないだろう、

と言っていたのに、今日はこれほどの人に集まっていただいてありがとうございます。

僕が自慢の息子のテルヒロです。」

 と挨拶したらみんな喜んでいました。

 驚いたのは親父の会社では昨年の一年間だけで団塊世代とそれより若い人達が2人も亡くなっていたことです。

 「ゴルフが大好きだった浦さんもあの世に言って、天国にあるパラダイスゴルフクラブでは

今3人で居るはずだ、ゴルフは4人で回るものだけど、どうかまだ俺達を呼ばないで欲しい」

とみんなで言って笑っていました。団塊世代は頼もしいなー、となぜか羨ましかったです。

 あれからちょうど一年が経ちました、そろそろ親父も天国のほうが居心地が良くなってきた

頃だと思います。

2010年6月21日月曜日

イギリスの桶狭間で頑張りました

 人生のなかで募金活動をしたことのある人が何人いるだろうか?
 
僕は自分の人生でそういうシチュエーションになることは無いと思っていた。

 渋谷や梅田の広場で歌を歌い事も無いと思っていたし、

何か人前に見せれるような技術は僕には無い。
 
 でも今それをしている、はっきりいって僕は日本ではする自身が無い。
 
 でも旅の恥はかき捨て、ではないけど、こっちだとできるし、意外と

 みんな喜んでくれる。そして不思議なことにお金をくれる。


 先週はリンカーンという古い町に行った、

丘の上におそらく日本のマンションでいうと

10階建てくらいの高さで奥行きも100メートルくらいある大きな教会があって、

その向かいに石垣があり、お城がある、

おそらく300年とか500年とかのレベルで建っているたてもので、

しかも教会はそれだけ大きな建物の中がワンルームだということが恐ろしい、

イギリスの建築の技術は恐ろしいし、地下にプレートが走ってないから、

地震が起こらないというのは恐ろしい事だと思った。


 でもよく考えたら京都の清水寺は日本人の僕が見ても恐ろしいし、

あっちのほうがさらに古いと思うと、日本もかなり恐ろしい国だ。

 まあ別に恐ろしいという表現はあってるかどうかはわからないけど、

実際に目の前に建ってそれだけ大きな建物が何百年もそびえたっているというのはそれだけで

僕にとっては恐ろしいことなのです。
 


 その下は城下町になっていて、

おそらく昔は商人たちが住んでいたのだろうけど、

今はショッピングセンターが果てしなく続いている。

昔ながらに残っているのは石畳の道くらいのものだ。

 

6人で行ったのだけど、募金活動をするのに駐車場代の300円がもったいない、

ということで、城下町にある教会にいって

「募金活動を一日するので、車停めても良いですか?」

って言って、募金活動をしながら売る200円のマガジン
(僕らの活動とかアフリカの現状なんかが書いてある、自分達で作ったマガジン)
 
を渡して説明すると、

「偉いぞ、頑張れ!」

と言って、ただでおかしれくれる、きちんと話せばきちんと受け入れてくれる、

それがイギリスの面白いところです。

 ちなみに僕らは城下町に車を止めたので、

みんな町の真ん中まで一緒に歩いて行って、そこで解散した。

 1時にここでみんなで昼食、その後4時まで頑張る!
 
ということになった、メンバーはフランス人、ハンガリー、

ブラジルが二人、イタリア、僕の6人。

 みんなは町に降りていったけど、僕は丘の上にあるお城に興味があったので、

とりあえず観光しなきゃと思って丘をひたすら登って行った。

 圧倒的な教会の大きさと、お堀の高さに少し感動していたけど、

頭の半分は募金の事を考えていた。そして気がついてしまった。

 観光客用の駐車場は丘の上にある、みんなそこに車を停めて、お城と

教会を観光してから、細くて急な坂道を下って、

城下町のショッピングセンターに下りていく、

そして昼飯を食べて、また坂を登っていくのがこの町の仕組みだ!

 ということで細くて急な石畳の道の道幅が少し細くなったところで

募金活動をすることにした。
 
「ここがこの町の桶狭間だ!」
(信長が2千人くらいで今川義元の4万人の軍勢に勝利したところです。
ようは道が狭くて4万居ても意味が無かったところです。)
 
しかも僕は立ってする募金は疲れるので椅子とマガジンラックを持ってきて、

道のくぼみに座って

 「ハロー、良い一日を!」
 
を繰り返します。たまに止まってくれる人には僕のバヌアツの頃の写真をみせて

僕は体育を教えにアフリカに行きます。

って伝えます。でもおそらくみんなはバヌアツをアフリカだと思っているので、

「アフリカに戻るんだね!では100円!」

って感じでお金を投げ入れてくれます。募金箱には

 「あなたの一円が笑顔を作ります、サンキュー!」

っていうなんかいい加減なスローガンが、書いてありますが、

みんなポケットに一度手を突っ込めば、一円だけを出すのが逆に面倒になって、

30円くらいは入れてくれます。

 そんな事を2時間くらい繰り返していると千円くらいの小銭がかごにたまりました、

その頃になると、城下町に下りて昼飯食べて戻ってくる人達がまた坂を登りだします。

 「お前まだいたの、お前に言われたとおりに俺達良い一日過ごせたから、ハイ募金!」
 
っていって投げ入れてくれます。 

 それを見た他の人も、

「じゃあ俺も募金!」

立ち止っている人をみて坂を下ってる人達も

「とりあえず募金!」

それをみた回りのお店の人達が、

「じゃあ俺はポテトチップを募金!」(お金じゃないから寄付になるのか)

 通り過ぎた家族から子供だけが戻ってきて、

「はい募金、そして握手!」

 その頃になると僕は楽しくなってきてお金なんてどうでもよくなり、

ひたすらみんなに挨拶するだけで

「はい募金!」

 2時ごろになるとイギリス特有の薄暗かった雲の間から

木漏れ日が僕を照らしてくれて、ちょっと体も暖かくなり、

「神様が応援してくれてる。」

となんとなく感じながら、またみんなに挨拶、

かごに小銭がいっぱいになってきて、

不思議なことにお金が沢山入ってるのを見ると、人は

「自分も入れなくては!」

 と思ってくれるみたいで、

「はい募金!」

坂を下る時に空だったカゴにお金が沢山になっているのをみた帰りがけの人が喜んでくれて
 
「はい募金!」 
 
 そんな感じで時間は4時、坂を下って城下町のみんなに合流、

即効でショッピングセンターのトイレに駆け込みました。 

一人の募金活動は寒いし、トイレに行けないからね。

 他のみんなには

「今日は全く駄目だった」

「みんな私達がアフリカに行くことをしっていたし、既に日本人に募金したって言われた」

 ウラは昼飯にも来ないでどこに居たの?っていわれて

 「桶狭間!」

っておもったけど、言ってもわからないよね。

 みんな平均千五百円くらいなんだけど、

僕はたぶん三千円は言ったはず、って思いながらもそこから2時間かけて

学校に戻りました。

 結局もどってきて全部数えたら60ポンド、

日本円にしたら八千円くらいになっていました。

イギリスは物価が安めだから八千円は結構なお金です。

 まあこんなに上手く行く日は無いと思いますが、

でも僕たちは半年間のイギリス生活で四十五万を集めてそのお金でアフリカに行くので、

本当に助かりました。

 募金してくれたみんなの気持ちを無駄にしないように

頑張ってアフリカに行こうと思います。
 
イギリスの皆様ありがとう!





 

2010年6月19日土曜日

お葬式の段取りの話



 <写真は亡くなる二日前です、入院したことを姉にメールで伝えよう!
  って言って携帯で撮った写真です、子供みたいに笑ってくれました、
  今考えても本当に我慢強い人でした。人生の最後に頑張って作った
  笑顔だと思います。死ぬ寸前にニッコリ笑えたってことは、
  親父の人生はそれだけで大成功だったのだと思いますし、
 きっと姉に元気な顔を見せたかったのだとおもいます。>



 親父は死ぬ前に

 「死んだら大阪でお葬式するなよ、出家した時にお世話になった山口に持って

行って、そこで燃やしてくれ、俺は一応あそこのお寺の坊主だし、

きちんと向こう

には話してあるし、山口の兄ちゃん(僕のおじさん)にも話してあるから

大丈夫だ!
 
 と言っていました。

 
 結局親父が夜中の1時前に死んで、僕は病院に一人だけ、

 遺体を山口で燃やせって言うけど、そんなのできるのかな?

っておじさんに聞いたら、それは難しいと思う。もしそうするなら大阪の

葬儀屋にお願いするのではなくて、山口の葬儀屋にお願いして山口から迎

えにきてもらうことになるから、難しい。

 ってことになって、

 「親父、話と違うじゃん!」

 親父を恨んだけどすでにさっき死んじゃってるから恨みようがない・・・

 時間はすでに夜中の2時、明日の朝には親戚一同が病院に来ます。

 その後にマンションまでみんなで移ってそれから相談するの?

 その間親父の遺体は病院に置いておくのかな?

 そして気がつきました。

 
   決めるのは自分だ!既に親父はこの世に居ないのだ!

 
 そこから夜中に葬儀屋4件くらいに電話して、

どこも金額言わなかったけど、

一番誠実そうなところに決めて、

朝の6時に病院からマンションに親父を連れて行

ってもらうことにしまいた。

 金曜日でゴミの日だったから、7時とか8時にマンションに行くと

みんながゴミ出しに出てきていてあまり良くないと思ったから朝の6時に

してもらいました。

 朝の6時に葬儀屋の人が来てくれました、病院のほうは

 「お会計とかは今は気にしなくてよいです、二週間くらいして落ち着いたら着てください、大変だと思いますが頑張ってください」

 と言われて、葬儀屋の人には

 「あなた一人ですか?」

って言う感じでみられて、親父の車がでた後で、広い駐車場に朝の6時に

たった一台ポツンと停めてあった自分の原付に乗って、家に戻りました。

 親戚には

 「すでに実家のマンションにもどりましたがの、病院には行かないで、

 直接マンションに着てください」

 と連絡して、気が付いたら朝の7時。

 とりあえず親父の葬式代とかを親父の口座が閉じられる前に銀行から

 引き落としとかないと。
 
 と思いながらみんなが来るのを待ちました。

姉が悲しむ姿を見るのだけが唯一気になっていたけど、一緒に来てくれた

 姉の二人の息子達(3歳と5歳)が走り回るので、姉もゆっくりと悲しむ暇

は無かったかもしれません。

 
 それがお葬式のはじまりでした。後は葬儀屋さんが全て仕切ってくれる

から、楽なもんでした。

 面白いのは見積りって家に親父を運んでもらってから行われること。

 もしそこで金額とかがかみ合わなかったらすでに家まで運んでもらって

るし、ちょっと気まずいよね。

 身内は悲しんでるけど、そこらへんのお金の勘定は葬儀屋さんにとって

もこちらにとっても微妙な駆け引きがあるなー!

って感じました。

ウチの場合は親父の主将のお坊さんが来てくれていて、その人が

 「葬儀はお寺でしますので、大阪では単に骨にしてもらうだけで結構で

すので、余計なことはいりません、それが故人の希望でもあります。」

 って言ってくれたので、簡単に済みました。それでも約50万。

 僕は初めての喪主だったけど、特に何もすることはなく、喪服をきてウ

ロウロしてるだけだったです。

 あれから一年が経ちました。

 きちんとブログを書こうと思ったのですが、今日は朝から10時間も

 車を運転したので、お休みさせてもらいます。

 ちなみにイギリスは今夜の9じです。

 ワールドカップのアルジェリア先のために高速道路はガラガラ、

 町も静まり返っていました。 

  

 

2010年6月16日水曜日

ご連絡ありがとうございました。

 先週にアドレスを作ってから一週間ですが、

 皆さんから10件ほどの連絡をいただきました。

 本当にありがとうございます。
 
 一番多かったことは、写真がなんで乗っかってないの? というものでしたが、

 ブログの無料で使える容量が終わってしまって、こっちに持ってきたカードがなぜか今

 使えなくて、もう少し待ってください。 たったの500円くらいで沢山乗っけることが
 
 できます、そしてけっう良い写真を撮ってあるので、できたらすぐに乗っけますね。


  なんでウラはそんな人間になったの? っていう質問もありましたが、それは上手く

言えないけど、たぶんスタートがとても悲しかったからだと思います。

 子供の頃の夢は

 「普通の人間になりたい、みんなみたいに普通になりたい」

 ってなんか妖怪人間ベムみたいなことを考えていたからだと思います。

  大人になって少しだけ気がついたのは、少しくらい変わってるほうが人生は面白いかな?


 って思えた事。 後はスポーツしてたから、色々と物事を深く考えた事があったのかも

しれません。

 たぶん子供の頃にそれほど劣等感みたいなものがなかったら、今の人生で満足してない

 かもしれません。もっと学歴社会とかお金とか地位とか名誉にこだわっていたかもしれない

 けど、なぜか子供のころに漠然と、

  「自分はみんなよりも劣っている、悲しい人間なんだ」

 ってなぜか思っていたから、普通になれた今はそれだけで以外とうれしい物なのです。

 そこが元気の源かな?

  「生きてるだけで丸儲け」、ってサンマがいってました。

 後もう一つ、

 「人生は真っ裸で産まれてきたのだから、

 死ぬときにパンツ一枚でもはいていたら、それだけで大満足」

  というのもあったと思います。

 
 いまはブログ書いていて、一週間で10名ほどの人が連絡くれた事が

 とてもうれしかったです、幼馴染から、協力隊の方、関西、関東のともだち

 そして今週のブログにあった、「とても感謝していること」のK島さん

 など、改めて感謝しています。

  
  なんとなく安心しました、みなさんありがとうございました!