2010年5月2日日曜日

結局は同じなこと

 3年前にバヌアツに行く前に思っていた

 「うちの親父はラッキーだな、日本に生まれたから癌になっても手術できる、

 痛み止めもあるし至れり尽くせりだ、

 バヌアツで癌になったらどうなるのだろうな?」

  

  そしてバヌアツに言ってジョセフという伯父さんの家に遊びに言った時に

 「ウラ、食事をする前に挨拶してほしい人がいる」

 って言われて連れて行かれた部屋には


 おじさんやおばさんが狭い部屋に6,7人いて、そこの横のベッドにお爺さんが横に

 なっていました。

  「たぶん肝臓が悪いみたいなんだ、背中が痛いみたいだ」

 ということでした、病院にいってどこが悪いかを診察してもらっても、特に

 治療とかはないので、交替でみんなでゆっくりとウチワで煽いであげていました。

 お爺さんはウチワの優しい風を受けながら、うっすらと目を空けて

 満足そうな顔をしていました。

 

 
  食事の時間だったので、平らなお皿に入ったミルクとお芋が運ばれてきました。

 最初に病人のお爺さんがふた口ほど口をつけましたが、それ以上は飲むのが

 
 苦しいみたいで、それを見ていた近くに居たおじさんがそれを受け取りました。

 
 それを回りのみんなで食事をしながら飲んでいました。

  「お芋は食べる?」

 って聞いても軽く手を振るだけでした。

 ジョセフも

 
 「もう長くはないからみんな一緒に居てあげているんだよ、さあ僕たちは隣の

 部屋で食事を取ろう、俺はお前の日本の話が聞きたいんだ!」

  
 って特に悲しそうでもなく、当たり前のようでした。

  だれもお爺さんに同情しているような雰囲気はなく、ただ別れの時を待っている

 感じでした。

 
 バヌアツと日本の一つの違いは医療以上に点滴があることだと思います。

 おそらくあのおじいさんは口から食事がとれなくなったら二週間ほどで無くなるのだと
 
 思います。
 
 気持ちのなかで

 「自分にもその時来たのだな」

 と悟れば、病気の進行は関係なく自然に食欲が無くなり、そのままなくなっていく

のだと思います。

 日本だと点滴があるから食事がとれなくなっても

 病気が進行するまでは命は続くと思います。


 このお爺さんとウチの親父とどっちが幸せなのかな? 
 
 とその時考えましたが、その時に少し思ったのは

 うちの親父には点滴を受けるか受けないからのチョイスがある、
 
 でもジョセフのお爺さんにはそのチョイスすら無い。だからウチの親父のほうが

 選択肢があるだけ良いのかな?
 
 でも逆に選択肢があるということは病気で弱っている病人がさらに迷わなくては

 いけないし、家族は少しでも生きていて欲しいと思うから、病人も頑張って

医療を受けるだろうし、もしバヌアツみたいにその選択肢が最初から無ければ自然に

 みんなが納得する形で人生をおわれるのかな?
 
  という気持ちでいました。




  5月から始まる僕のプログラムに昨日にポルトガルから

  40歳くらいの夫婦がやってきました

 
 旦那さんはルイーズ、奥さんはソフィア

  とても上品で最初に会話も面白く、英語もきれいです

 最初にあったときにルイーズに僕が

 「ここに来る前は何をしていたんですか?」

 ってきいたときに

 「ウーン色々としてきたからなー、
             何がメインだったのかな、何からはなそうかなー」

 って言った時の笑顔というか満足した顔がいかにも

 この人は色々な人生を歩んできて、とても満足しているし、

 沢山の成功体験をもっているのだろうなって感じました。

 今日の朝もたまたま同じテーブルで食事をしていたのですが、

 二人はオージリアというカメルーンの女の人と話していました。

 
 少し聞き耳を立てていると、

「昨年はソフィアは髪の毛が無かったんだよ」

 という話をしていました

 オージリアが上手く聞き取れなかったのか、理解できかなったのか

 「どういうこと?」

 って感度かききかえしていたので、僕も気がつきました


 「ソフィアは昨年に乳がんになって、その治療で髪の毛が一時的に無かったんだよ」

 って言う話をしていました。

 「彼女はラッキーだった、ポルトガルにある癌専門の病院に入院できたし、

 発見がはやかったからすぐに治せたんだよ」
 
 と言う話でした、僕も話に参加しようかな? って思ったけど、

 もし親父の癌の話になって

 「それでお父さんは今はどうしてるの?」

 って聞かれたらまさか昨年に癌の治療をしたばっかりの二人に

 「親父は亡くなりました」

 とも言いにくいから、取り合えず黙っていました。

 
 でも幸せそうに見える、ポルトガルからきたこの夫婦の人生にも色々なことが起こって

 それで人生を考え直すというかおそらく

 二人の時間を大切にしたくてここにきたのだろうなと感じました。

 
 
 そこで結局僕が思ったことは


 医学があるか無いかなんてそんなに関係の無いことなんだろうな、自分が信じて生きて

 きた環境で、好きな人と一緒に人生を過ごすことができれば、それが一番幸せなことで

あって、どっちが良いとか悪いとかは無いと思いました。

 もし進んだ医学をもっていて、

 「あなたが私の国に産まれていれば・・・」

 
なんて言う人がいたらその人が間違っているということだと思います。

 そんな同情は必要ないよね。


 
 最後に我が愛犬だったスパイダーの話をしたいと思います。
 
 詳しくは「追悼スパイダー」 と言うブログに乗っています。

  スパイダーはおそらく事故にあったか犬を食べる習慣のあるバヌアツ人につかまって

 死んだのだと思います。

  そして彼自身は自分が犬として野生の掟の中で生きていることを十分に理解していた

 と思うし、最後に愛する人とか僕とかに挨拶もできずに旅立って行ったけど、

 彼自身には何の後悔も無かったと思います。

 動物として弱肉強食の中で生きていて、その途中で亡くなったのだと思います。 

それもまた誇り高き旅立ち方だったと思います。
 
 だから誰にもみとられずに孤独に死んだとしても、それはそれで良いのだと思います。


 結局は医学があるとか無いとかの問題よりも、納得して亡くなるのなら

 同じことなのだと感じました。

 


 
 

 
 

2010年5月1日土曜日

5月病になる前に・・・

 日本は連休ですね、こちらはそういうのないみたいで、毎日働いています。

 このプログラムは少し変わって居て、

 最初の4カ月は古着を回収して売ってお金をためます。

 貯めたお金で次の6ヶ月間にアフリカとインドのプログラムの勉強をします。

 勉強しながらもチャリティー活動で主に自分達の活動をアピールする雑誌を

200円くらいで売って、アフリカに行くお金をためます。

 6カ月で貯めたお金でアフリカにいってさらに6カ月ボランティアをします。
 
  だからヨーロッパの人やアフリカの人は全くお金持たずに来ます。

 日本人はビザの必要があるからお金持っています。

 なんか自分で書いていたもうさんくさいプログラムだとおもいますが、

 でも自分では良い経験だと思ってます。
 
  

 と言うことで本題の5月病について書きたいと思います。

  
   昔アメフトをやって居た時に2月に新しいシーズンが始まると最初の二カ月は

 アメフトをしないで一年間分の体造りを徹底的にします。

 
 8週間の地獄のプログラムが待っていました。

 シーズン初めのミーティングでチームドクター兼ストレングスコーチ兼トレーナー

というおそらく日本のアメフト界に影がらですが最も貢献している一人と

思われる僕の尊敬するコーチが言いました。

 

「来週から八週間のトレーニングが始まります、これは相当きついですが、

やらないと勝てないので、絶対にやります、ウエイトトレーニングと

走りのメニューですが、どちらも体の裏側を徹底的に使うので、

腹筋をしっかり鍛えて体を支えれるようにしておかないと、

 確実に腰痛になります。でも腹筋をする時間がもったいないので、

腹筋はウォーミングアップとして朝一番に20分間色々なメニューでやり続けます」



 とまあ、あっさりとこんな感じです、次に

 
「最初の二週間はみんな筋肉痛に悩まされます、おそらく全身筋肉痛になります、

でも勝つためだから問題なしです、

良くストレッチしてアイシングしてメンテナンスしてください」

  

 「その後に4週目になると疲れて硬くなった筋肉のまま走ったりウエイトを続けるので

 関節が悲鳴をあげます、ひざ痛になり、その次に腰痛になります。

 でも大丈夫、僕は医者だから治せます」

  
  とあっさり言います、本当に医者なので説得力があります。 ポイントはここからです

 

「6週目に何が起こるかというと、みんながこのトレーニングの意味を疑い出します。」


 実際にそうなりました

 「こんなに辛いトレーニングをして本当に意味があるのか?  

 これで本当に勝てるのか? 

 こんなに辛い事するよりももっと効率良く勝てる方法があるのではないのか?

 コーチが新しい戦術を勉強したり、最初から基礎体力の高い選手を

 リクルーティングしてきたほうが効率が良いのでは?」

 「でもそんなことしたら俺達が試合にでれなくなってしまうから駄目か・・・」

 と言うことになります。

 これが6週目におこることだそうです

 
 「最後の二週間は問題なしです、先が見えるし、ラスト前パワーで乗り切れます。」


 
 と言う感じでした、ここまで説明されてるとなんか安心して動けるよね。

 6週目に起こることって最初から心の準備をしておけば乗り越えられると思います。

 僕もこっちに来て思うことあります。
 
 「古着集めがアフリカに行くことと何か関係あったっけ?」

 ってね、

 おそらくそういうの考えだすのって新しい環境に慣れてきたころだと思います。


 4月から始まった新しい環境になれるのはちょうど5月の連休明けくらい、6週目です、

 5月病ってちょうどそのころにおこるよね、今の仕事の意義をとなえだしたし、

疑問を感じるときがあったら、この話を思い出して頑張ろうと思っています。

2010年4月29日木曜日

人としてか?医師としてか②(財前教授の目線から)

 前回の話を違う角度からみてみます。財前教授目線です。 

 前にウチの親父が言ってた話で

「5人の医者を育てることと、一人の名医になること、

どっちが大切か考えることが人生にはある

 たとえばお前が一人の名医だとして、5人の助手がいる。

そこに患者が運ばれてきた、

 常にお前が手術してあげれば、お前の腕も上達するし、患者も良くなる、

 でもお前が死んだり引退したら、お前の助手はいつもお前の手術をみてい

ただけだから、誰も手術ができない。

 でももしお前が自分の助手に順番に手術をさせてあげれば10年後には

 5人の医者が育つ、お前一人が名医になるよりも5倍の患者を助ける

ことができる、でも未熟な助手が手術してもし失敗したら、お前は自分を

責めることになるかもしれない。

 亡くなった患者の家族の悲しむ姿を見て、医師として何故自分が

手術してあげなかったのだろうと思うかもしれないし、

手術を任された助手の苦しみも同時に味わうことになるだろう、

 でも今それを我慢することで10年先に救える命もあるということを

 信じなければならない。

出世して上に行けばそうい選択をしなければならないこともある。

 そして誰かがその役目をしなければならないのだ」

 
 って言うような話を聞いたことがあります、

 たぶんそれプラス大分自分の想像力も入ってしまってますが・・・

 
 それが上に立つ人間の苦しさ、財前教授の苦しさなのかもしれません。

 ドラマの中でも財前教授は最後まで自分の道を進み続けていました。

 信じきっていました。 

 前回のHIVの話に戻ると、

 一夫多妻を認めるか、認めないかは

 どっちの目線からみても正しいということになり、

 答えはありません。 自分の中でも答えは無いです。

  実際に働いていたら、家族とか出世争いとか、お金とかで純粋に人間としての判断を

 するよりも、組織の一員としての判断を下すことになるんだろうとも感じます。

 もっと上手く書きあらわしたかったけど、

 今の自分のレベルではこんな感じになってしまいました・・・

人としてか?医者としてか?①(里見医師として)

 アフリカでのHIVのプログラムについてみんなで話し合ったことがありました。

 一夫多妻制がHIVをさらに広げている、旦那が感染すると一族が総崩れになる。

 旦那は絶対にHIVのテストを受けたがらないだろうし

しかし女性の立場でから言うとコンドームを用意しておくことは難しいし、

一夫多妻なら、何人の子供を持つかによって家族の中での地位も変わってくるだろう。

 実際にそれで旦那さんがHIVとわかったところで、その後にその家族はどうなってしまうのだろう?


 「法律を変えろ」

という意見もありました。でも法律で決められてしまったら、一夫多妻制の人達は

 刑務所に入るってことなのかな?そんなのおかしいよね?

 いずれにせよ


僕がその時に少し感じたのはみんながメチャクチャに自分達のしていることが正しい
 
 と信じきっていることでした。

  僕はの意見は

 「彼らにHIVの知識を説明したあとで、彼らが法律を変えることや、コンドームを使うことや、

 HIVのテストを受けることに対するチョイスはあるのか?」

  という意見でした。

 それに対する現地で活動してきた人の意見は
 
 そういう場合は何年でもその村を訪ねて、納得してもらう。

でした。 確かにそれが一番だと思いました。

 


もちろんHIVは感染するからすすでに感染してる人は

他の人に移さないように気をつけることはとても大切だと思います。

でも僕にも一つの理論があって


  もしタイムマシーンができて100年後の2110年から未来の人がやってきて

 
「日本人は可哀そうだね、平均寿命は85歳なんだ、いまだに癌で死んでしまう人がいるんだ、

 100年後は平均寿命は120歳だよ、僕たちの三分の二しか君達は生きれないんだ、

じゃあ僕達が君たちを救ってあげよう!」


 みたいなことになって、生活習慣とかいまでプライドを持ってきた生き方とか

 強制的にしかも絶対的な正義感を持って変えられて行ったらどう感じるだろう

 「自然に任せて死ぬ権利さえ奪われるのか?」

 って感じるかも知れないよね。

 
 
  山崎豊子さんの「白い巨塔」のなかで出世頭だった財前教授が

 「大学病院は高度な医学をそろえているので治療の必要の患者の為にある、

だから末期で既に

 治療のできない患者には小さい病院に移ってもらって、

高度な医療で治るかも知れない患者の為にベッドを空けるべきだ」

 と言った時に、里見医師が

 「僕にとってはみんな同じ患者だから

今いる患者に出ていってくださいとは人間として絶対に言えない

病院は患者を選んではいけないのだ」


 と言うようなことを言っていました。財前教授は

 「そういう君の人間性は医者としては必要ないし、逆に患者を傷つける」

 言われた里見先生は

 「僕は迷うことで医者であり続けたい」

 と言っていました。

 僕も医者としては財前教授に賛成だし、HIVに関して言えば、癌とまったく違うことは

 感染すること、ほっておけば必ず新しい患者が産まれてしまうというところは全く癌と

 違います。だから法律を変えてでも守るべき命があることには賛成です。

 でもたとえそうであっても心の深い所に、

 「迷うことで医者であり続けたい」

 と言っていた里見教授の意見も覚えておかないといけないと思います。

 それがわかっていて法律を変えてしまうのと単に

 「我々は正義なのだ!エイズは悪なのだ!だから絶対的に君たちは我々に従いなさい!」

 というのでは意味が違ってくると思います。やることは一緒なら

 そんなセンチメンタリズムで自分を傷つけることに意味があるのか?

  って思うかもしれないけどね。 まあ難しいね、あくまでも提案としての意見です。 

  次回は財前教授目線で書いてみます、全く逆目線だからぜひ読んでくださいね!


 

2010年4月28日水曜日

マイノリティーとマジョリティー

 こっちにきて思ったけど、40歳までに5年か10年で仕事を変えたり、

自分が今してる仕事の知識がもっと必要だと感じて、

2年くらい大学院に戻ったりしてまた同じ分野に戻ったり、

 今僕が来ているボランティアのプログラムに参加したりしながら歳をとっていくのって、

 
  世界の人の中では結構普通なことみたいです。

 結婚したり子供育てたりすることもその中の一部みたいな感覚の人もいると思います。

 なんで外国ってそれで食べていけるのかは少し不思議なんだけどね?

 
 
  こっちにきてみんなが言うのは 「終身雇用」っていう制度は日本独特だね。

 っていうことです。 
 
 会社はファミリーでロイヤリティーがあって、ボスがみんなを面倒みてるんでしょ。

 って言ってました。それが良いとか悪いとかは何とも思ってないみたいですが。

  
  だから最近思ったのは日本では終身雇用は多数派(マジョリティー)だけど、世界の中で

 は終身雇用は少数派(マイノリティー) ってことです。

 だから僕が外国に居る間は僕は多数派になって、人生を有意義に過ごしてるって評価される

 けど、日本に戻ると少数派になって「お前はいい年して恥ずかしくないのか?」

って怒られます。

 あんまりそれをシツコク言われると酒がまずくなりこともあります。

 特に年配の人に言われるとね、高度成長の時代とバブルがはじけた今の時代では違うもの

 って言いたくもなります。 

 だからって言って日本のなかで立派に終身雇用で

 勤めあげた人に文句が言えるわけもなく、ただ単にへらへら笑って耐えるだけになります。

 


 そして最後にヤッパリ僕は日本人なんだから、世界基準がどうとか持ち出して、

  今の自分に行き方が間違ってないって言いたいのなら、

  それが言いわけに聞こえないように、

  きちんと結果もだしていかないといけないと思います。

  だって僕は日本人だからね。

  
  今の日本で同じように悩んでる人は結構いると思います。

 

ミスチルが歌ってました。

 「ふがいない自分に銃口を突き付けろ、当たり障りない道を選ぶくらいなら」

  協力隊に行く前に9年間社会人だった頃に心に響きました。この歌詞にも凄く賛成しますが

 「人はつじつまをあわすように形にはまっていく」

  この歌詞もうなずけます、それも仕方ないかなって・・・

 そして最後に
 
 「嘘や矛盾を両手に抱えて、それも人だって悟れるの?」

 これが結果だとおもいます、人生の最後にこう思えるのかな?

 もう少し深く考えようと思うけど

 「難しく考え出すと結局全てがいやになって、そっと逃げ出したくなるけど」

 って言う歌詞もあったなー! って思いだしました。

 今日のところはこれ以上考えないようにします!

 
 と言うことで明日も頑張ります! ブログ書いたらスッキリした!

 

 
 
 

 

 

ランゲージ・バリア

 日本では言葉の壁っていうけど、言葉が邪魔して宗教、習慣、文化などをが

 わかりあえないことを

 「ランゲージ・バリア」

 って言うらしいです。 

 「ミスアンダスタンディング」

 よりもバリアのほうが適してるよね。
 
 お互いにお互いを守ろうとして無意識のうちにバリアを張ってるって感じ良く分かります。

 それがあるからなかなか世界が一つになれない。

 っていってました。

 なるほどね「壁」ではなくって「バリア」なんだ。

 一つ勉強になりました!

2010年4月26日月曜日

親父の最後の時(ブログにしては少し長いです)

 親父がホスピスに入院して三日目、仕事が終わって6時にバイクでホスピスに行った時

 「テルヒロ今日は大変だったんだ、お父さんは死ぬかと思った」

 って言われて、

 「へーそうなんだ!」

 って言いながらも、今日はこの先何時に家に戻れるのかな? って思っていました。

 その時に看護婦さんから呼ばれて外に出て、そこで待っていた主治医のお医者さんに

 「昼間に様態が悪くなってしまって、もしかしたら一、二カ月といこともあるかもしれ

 ません。 
  
 という話でした。今まで親父は

 「この冬は越せないだろう」        と一月に発言し
 
 「二月が山場だ」             と言いながら何も起こらず

 「3月いっぱいだから仕事に着かないでくれ」 と言いながら四月まで頑張り

 「ゴールデンウィークまで持つかな?」    と言いいながら連休を楽しんで
 
僕に

 「親父は狼少年だから、死んだって誰も信じてくれないよ!」

 って言われて苦笑いしていた親父が、本当に最後を迎えているのか、と思うと、

どんな顔をして病室に戻って良いのか少し戸惑ったけど、親父自身は

 「すでに8年も癌と闘ってきたから、いまさら死ぬことは怖くはない、ただ唯一心配なのは、死ぬ瞬間に苦しむことと、逆に

死ねずに何カ月も寝たきりになって、お前に迷惑をかけることだ!」

 って言っていたので、それなりに覚悟はできていました。

 「親父はそのことを知ってるのかな?」

 っておもったけど、 部屋に戻っていつもどうりに振る舞えるかな? って思いながら部屋に戻りました。

 部屋に戻ると親父は僕の事を横眼で見ながら少し安心した顔をしました、首を動かしてまで僕を見る

のが大変みたいでした。

 いつもは親父のベッドの隣に椅子を置いて、そこで座ってすっかり細くなった腕などをさすって

 あげていたけど、その時はベッドの横に座って

 「昼間大変だったんだね、大丈夫?」

 って聞いてあげました。

 親父は小さくうなずきました、一分ぐらいして親父が急に右手で僕を払いながら

「熱い、どけ!」

 って言いました、 その時なんとなく安心しました、

自分に最後が近付いているって相変わらず気がついてないな!

 って思いました。 ウチの親父はそういう親父です自分のことに常に必死で

家族とか他人の気持ちは考えない親父なのです。良いときも悪い時も・・・


「この調子ならまだしばらくは大丈夫だ」

 と思いながらしばらくは部屋に座っていました。

 二人でしばらく居ましたが8時ごろに看護婦さんが見に来てくれました。

 親父に声をかけると親父はおもむろに目をさまして、

 「口をゆすぎたい」

 と言っていました。親父は舌癌もしていたし、入れ歯も入ってるから、

口の中のコンディションは常に気になるみたいです。

 大丈夫なんかな? って思ったけど、看護婦さんんがコップに水を用意

しましょうか? っと言うのをことわって、自分でする! って言っていました。

 その時に親父は一度ベッドに座って、自分の両手の平をゆっくりと見ながら

「テル、なんかいつもと違う感じだ、なんか変なんだよなー」

 って言って気まいた、

それは変だろうなと思いながらも僕もなんて言ってよいのかわからずに

 「あっそう!」

 って答えました。 

 ここまで読んでると、なんて冷たい息子なんだ! 

って思う人もいるかもしれませんが、これが僕と親父のスタイルです、

親父は少しだけアマノジャクなところがあって、人に気を使われたり、

何かしてもらうことは大嫌いなのです、

そして本人も一切他人には気を使いません。そういう面では筋は通って

いる男なのですが、逆にこちらがなにも同情しないで、

死にそうな親父に対しても普通の態度をとって居ると、

親父にとってはそれが一番安心するみたいなのです。

 こちらが悲しそうな顔をして

「お父さん大丈夫? 頑張ってね! 死んじゃ嫌だよ! 癌はきっと治るよ!」

などと言うと、お前に何がわかるんだ! と怒りだします、

そういう形式的な同情はいらないみたいです

 逆にこっちが

 「死ぬのは順番だからねー、何も恐れることはないんだよ、その時がきたら飛び込んでいけば案外

あっちの世界も素敵だと思うよ!」

 などと言っていいると、意外と安心したように

 「お前には他人事だからな!」

などといいながらもまんざら嫌な気分ではないみたいです、

(他人事って身内に使ってよいのかな?っていま素朴な疑問がわきました・・・・)

 

そしてその後には

 「お前は本当に良い息子だなー」

 などと言ってきます。

 優しい言葉をかけないで、しかも良い息子といわれるなら、

優しくない方がよいよね、

しかもちょっと前に優しくしてあげようと思ってベッドに座ってみたら

 「熱い、どけ!」

 って死にそうなくせに全身の力を振り絞って僕を払いのけたしね・・・・



  9時になりました

 看護婦さんが

 「息子さん、もう一度良いですか」

 って言われて、部屋から出ました、

隣には主治医の先生というかその日の夜の宿直の大柄な先生が

おられました。

 「先ほど一、二カ月と申しましたが、今の脈の状況などから考えますと、

もしかしたら2,3週間かもしれません、身内の方で連絡しておく方が居れば、

今からでも連絡しておいたほうが良いかもしれません」

 「オ! ついにこの時が来たのか」

 となんとなく思いました、親父と僕はこの半年間ずっと二人っきりだったし、

親戚や友達とも親父は最後は連絡を取りたがらずに、

週末などにみんなが最後に顔を見たいと言ってくれたり、電話してきても、 

 「なぜこんなに疲れている俺の気持ちがわかってくれないのか?

 向こうは良いと思ってしてくれることでも、

こっちは本当に電話で話したくもないし、会いたくもないのに、

シツコク連絡してきやがる」

 と激怒していました、それだけ怒る元気あるなら会えるんじゃないかな? 

って思ってたけど、お医者さんにそう言われて初めて、

マンツーマンだった僕と親父だけど、、もう一度周りの人に連絡

しても良いんだな。 っていう気持ちになりました。


 姉と親父の兄弟の長男さんと長女さんに連絡しました、

(親父の兄弟で残っているのはこの三人です)

みんなに僕が伝えた事は

 「2,3週間あるから、あわててこないで欲しい、親父もまだ意識があるし、

きっと面倒くさがると思います、しかも今週にあってもらって、

その後に2,3週間後に亡くなった場合にまた来てもらうよりも、

僕がずっと病院に居るので何か様態が変わったらすぐに連絡しますので、

その時に飛んできてもらえば良いです。」

 とつたえました、三人とも山口県なので、大阪まで来てもらうことは大変なのです。


 僕が連絡した理由はあくまでも状況報告であって、

  今すぐという気持ちではなかったです。
 


 一通り電話が終わって10時になりました。

 
 電話していた部屋から個室の病室にもどると、看護婦さんが


 「また様子が変わりました。

  2,3日から1週間の可能性もあります、最後に会わせたい

  人が居るのなら、きてもらってください」

 ということでした、一番に姉に電話して、

 「きたほうがよさそうだ、明日の朝で良いよ」

 と伝えました、伯父さん、叔母さんにもそのように伝えました。

 

 電話が終わって11時、病室に戻ると看護婦さんが部屋の前で待っていて

 「様態がまた変わりました、今夜かもしれませんので、

明日に来てもらっても間に合わないかもしれません。

耳は聞こえますので、もし最後に話してもらいたい人がいるのなら、

携帯で電話してあげてください」


 ということでした、

 姉の動揺する顔が一瞬うかんだけど、時間がないのならすぐに電話するしかありません。
 
そのまま隣の部屋から携帯で姉に電話して、事情を説明して、

すぐに親父のベッドに行きました。

 「お父さん、お姉だよ、お話してあげて」

 すでに瞳孔が開いたようになっていた親父でしたが、携帯から姉の声が聞こえると、

急に 一生懸命頭を持ち上げて、声にならない声で話そうとしていました。
 
 ちなみにウチの家は母親が離婚して出て行ったあと、

僕は関東に居たので、姉と親父は二人で5年

 近く暮らしていました、姉はとても優しい性格で、

姉が結婚する前には親父と二人で海外旅行に行くような仲の良い親子です。

 親父もなんだかんだ言って姉の事は絶対的に大事にしています。

 「お父さん、大丈夫、明日の朝に行くからね、頑張ってね、

 ありがとうね 良く頑張ったね」

 親父も一生懸命答えていましたが声にはならないので僕が

 「お姉、お父さん聞こえてるよ、一所懸命話してるよ、

  お姉の言ってることわかってるからね」

 って伝えました。

 姉もなんて言っていいのか言葉が見つからず、

親父が何を言いたいのかは誰も聞きとることができず

ただ単に、家族の魂みたいなものがその場で伝わりながら時が流れていく感じでした、

 一分ぐらいして

 姉は絶対に電話を切りたくないだろうし、親父もそうだろうから、

僕が提案するしかないと気がついて、

「お姉、お父さん疲れるといけないから、また明日の朝に話してあげてね」

 と話して電話を切りました。

 「お父さん、お姉と話せて本当に良かったね、僕らは本当に良い親子だったね、

お父さんも良く頑張ったね、ありがとう」

 と20分ほど話しかけていましたが、親父も疲れただろうし、

  ゆっくり休みたいかな?って気がついて

 「お父さん疲れたでしょ、ゆっくり休んでね、

 僕はずっと一緒にここに居るから、安心して休んでいて良いよ、

 ここに居るから大丈夫だからね」


と伝えました、看護婦さんは20分に一度ぐらいのペースで

 「大丈夫ですか?」

 と優しく声をかけてくれました、脈拍や機会に着いた数字を静かにチェックしてから

 「ここは家族の時間ですから邪魔はしません、一緒に居てあげてください、

 何かあればすぐにナースコールで読んでください」

 と言ってくれました。

  僕が親父の死にたいして後悔が無い一つの理由はこの時の看護婦さんの

 気づかいで、

  親父との最後の時間を気を使わずに過ごせてことも大きな理由の一つです。


 時間は既に11時半を回っていました。 

 親父は僕に「ゆっくり休んでね」と言われたのがわかったの

かどうかはわかりませんが、そこから少し眠っているようにも見えました。

 僕も安心して見ていましたが、12時を回ったくらいから呼吸が浅くなってきました。

 10秒に一回くらいだったのが、20秒に一回になり、

 30秒間しなかったかと思うと、急にまた息を

吹き返したりしました。 

 見に来てくれたお医者さんと看護婦さんが

 「もし苦しいのなら体をよじったり、眉間にしわが寄ったりします。

 でも浦さんは全くそういうのがありません、

 とても安心してリラックスできているようです、痛みは感じていないですよ」

 と話してくれました。

 その一言がその時の僕にはとてもうれしかったです。 

 特に親父が苦しんでいるかどうか意識していたわけではないけど、

 お医者さんのその一言が僕の気がつかないうちに張り詰めていた気持ちを落ち着

 かせてくれました。

 今でもとても感謝しています。


 その後20分間ほど、親父の呼吸は30秒以止まったり、

 また戻ったりしていましたが、親父の顔はとてもリラックスしているように見えて、

 横に居ても安心できました。

 最後まで見守って居てあげるから安心しててね。

 って思いながら隣に座っていました。

 30秒に一回ほどの呼吸と首のあたりに脈が打っていることだけど、

 親父の生命の証でした。

 親父のおでこに手を当てながらその時を待っていました。

 最後の呼吸が終わって一分が過ぎました。

 でもまだ脈が打っていたので、ナースコールは押さないでいました。

 脈が終わるまで待っていてあげよう。

 とおもっていました。
 
 二分ぐらいして目に見えていた脈も確認できなくなりました。

 静かなかな、聞こえていたのは自分の少しだけ荒くなった呼吸だけでした。

ゆっくりと自分の呼吸を整えました。

 時間は24時22分、

「お父さん長い間ありがとう、良く頑張ったね」

 最後の別れを言って、ナースコールを押しました。 

 看護婦さんになんて言ってよいかわからなかったので

 「たぶん、最後だったと思います」

 と看護婦さんに伝えました。

 今まで二人の人間んがいた部屋が、親父が亡くなって僕一人になっていたので、

 部屋の温度が急に5度くらい低くなったような気がしていました。

 宿直のお医者さんが来てくれて、死亡確認が24時40分。

 
 最愛の息子に甘えながら静かに去って行って親父は幸せだったと思います。

 僕の人生の中でも何かが少し変わった時だと思いました。


 これが2009年に起こった最も大きな出来事です、ちなみに日にちは6月19日

 2年は覚悟していた親父の介護が始まって、中学校に勤めだして、一学期がようやく

 終わろうとしていたときでした。

 61歳でした、マダマダ若いのに・・・

 って思ってくれる人もいるかもしれませんが、親父の人生はみんな甘えて、

 色々な充実感もあって、やりたいことも沢山やって、最後は息子に甘えて

 最高の人生だったと思います。

   少し長くなりましたが、これから親父の笑える話も書いていきますので
 
 よろしくお願いしますね!