世の中は便利になっているのか、窮屈になっているのかはわからないけど、
大きな変化はなくても小さな変化はたくさんあるものだなー、と振り返ってみたくなった。
今では意外とあたりまえだけど、コンビニやファミレスのレジの前には必ずと言ってよいほど
不要なレシート入れがある。 街中にレシートを捨てる人が少なくなることはまあ良いこと
なのだろうね。 あとはレジの前に小さな棚というかハンドバックを置ける場所ができている
ところも多い。財布を出す時には便利だものね。
そういえば昔は缶ジュースのプルタブは完全に取れるようになっていた。だからプルタブが
街の中に散乱していた、いつの間にかプルタブは折り畳み式のような形になっている。
最初は違和感があったけど、もうすっかり慣れてしまった。
そういうと昔はバイクもヘルメットは必要なかったし、シートベルトも義務付けされてなかった
今はタクシーの後部座席にのってもシートベルトする時代になってしまったね。
チャイルドシートも義務付けだものね。
高速道路のETCもなかったら降り口はいつも渋滞していたのを思い出す。
スイカもなかった。 昔は早く電車に乗りたいのに、切符売り場が並んでいてイライラすること
があったものね。 やっぱり世の中は便利になっているんだろうね。
そのうちに車もハンドルの部分にナビだけが付いていて、場所を打ち込むと
そこまで連れて行ってくれるようになるのだろうね。 どのルートを通るのが一番車が
混んでいないか計算してくれるから渋滞はもっと無くなるのかもしれない。
駅まで子供を迎えにいくのもドライバーが必要いらないなら携帯電話で行き先だけ打ち
込んで送信すれば駅まで無人の車を迎えに行かすことくらい簡単になるのかもしれない。
タバコを吸う人もドンドン少なくなっているよね。今は街中で歩きながら煙草を吸えないのだから昔では考えられないよね。 でも喫煙所でタバコを吸っている人達はなんとなく一体感
があって幸せそうに見える時もあります。
そのうちに歩きながら携帯電話をいじっていてぶつかったり、駅のホームで電車と接触したりして
問題になって、「歩きながらの携帯電話取締り条例」みたいなのができて、罰金とられるかもね。
「人生の免許書」みたいなものができて、例えば歩きながらのタバコで減点2点、歩きながらの
携帯で減点1 、信号無視も減点1、自転車二人乗りも減点1、電車の中での音楽大音量は減点1、優先座席に健常者が座っていて見つかったら減点1、酔っぱらい歩行も迷惑だから減点1、オナラ減点1、大便したトイレを流し忘れると減点1、ゴミのポイ捨て減点1、
立ちションベンは減点3、などと運転免許以外のことでも減点がとられる時代が来るかもね。
10年間無事故、無違反で「人生のゴールドカード」みたいなことをになるかもね。
そしたら納税額減らしてくれるとよいね。
日本はそういう国だものね。だって「路上駐車禁止」となったら本当に路上駐車無くなる国だ
ものね。 都内ではいたるところにタイムスができてるよね。 あの会社は儲かってるだろうね。
設備投資にお金かからないものね。
飲酒運転もなくなったね。それは良いことだね。
ひとはそうやって少しづつ進歩しているのだろうね。
でも実は進歩しているように見えて、便利になりすぎると生活のなかで工夫したり応用したり
(例えば自動車の運転の技術を身につけたり)する必要が無くなって、パソコンとスマホだけ
いじって生活するようになるのかな?
前から思っていたのだけど、体が丈夫そうで、ガッシリしている男性が持てるのは、女性が
本能的に「この男性ならたくさん獲物を取ってきてくれそう、世の中を生きる力がありそう」
と思うからだとしたら、そのうちに食糧調達もコンピューターで操作できるようになって、人間が
肉体労働しなくてよくなったら、今度は逆に小さくて頭でっかち(見た目も中身もね)な男性が
もてるようになるのかな? だって肉体労働しないのなら体が丈夫なことよりもビル・ゲイツ
みたいに頭の良いほうがお金を稼げるわけだし、女性が本能的にそういう男性のほうが
時代を生き抜く力があると思ったらそういう男性に魅力を感じるようになるのかもね。
でかい男は場所もとるし、雑で頭も悪いというレッテルを貼られて邪魔者扱いされる世の中が来るかもね。 人間にもコンパクトで高性能がもとめられる日が来るのだろうね。
結婚条件は3低
低身長、低燃費(大食いしないということね)、低姿勢
そういう男が理想の男性になる日がくるかもね。
まあ仕方ないか。 だいぶ話が飛びまわってしまってごめんなさい。
でもたまに意識して世の中がどれほど便利になってどういう部分が変わったのか認識して
おくことって大切だと思うのだよね。だから自分の中で少しまとめてみました・・・・
2012年10月17日水曜日
2012年9月24日月曜日
男の人生で最高のコーヒーの味
青年海外協力隊としてバヌアツにいたとき、僕が島に入ってすぐに先輩隊員は任期終了で
帰国してしまった。それから8ヶ月間一人で島にいた。
その次にテツヤが来た。二人になった時は本当にうれしかった、でもお互いに日本人同士で固まらないようにと週末だけ会うように心がけていた。
その6カ月してヒロが来て、タクヤがきて、最後に僕の後任のヨリがきてくれた。
ここまで書いて分かるようにウチの島には昔から女性は送らないことになっている。
タンナ島の男達はマンタンナと呼ばれてバヌアツ人の中では気性が激しいとされているから
女性はいない。
最初にタンナに行った時は自分は一人で2年間なのかもな? と思っていて。
だから食器もほとんど買わなかったし、地味な生活をしていた。でも3人4人と増えていくと
我が家が大きかったこともありみんなが集まるようになってきた。
週末にみんなで集まってそれぞれの活動の悩みを聞いた。
ある程度みんなが同じ悩みを持っていた。でも後輩たちは僕よりもたくましく活動している
ように感じた。実際にみんなよく働いていた。
4人目のタクヤが来た頃、みんなで食事ができるように椅子とテーブルを作ろうと思って
材木屋から材木を買ってきた。テーブルは簡単だけど、座り午後地の良い椅子を作るのは
とても大変だと分かった。
でもみんなでそろって食事をできるのは楽しかった。みんなと一緒にここにいたいとも思ったし。
2年間一度も帰っていない日本に戻れるうれしさもあった。
その頃は食後は焚火を囲んでコーヒーを飲むのがいつものパターンだった。
日本ではありえないくらいの安物のグラスとか100円ショップでも売っていないような
プラスティックのカップ、全員揃うと足りなくてジャムの空き瓶でコーヒーを飲んでいた。
ジャムの空き瓶は取っ手が無いし、熱が伝わりすぎるからコーヒーを入れると直接手で
もつことは難しいことも学んだりした。
なるべく新しい隊員にはきちんとしたカップで飲んでもらいたくて、古い隊員がジャムの空き瓶
でコーヒーを飲んでいた気がする。
でもそれを見て「かっこ悪いな」と思う隊員は僕達の中にはいなかったと思う。
あの時にみんなで飲んだコーヒーは間違い無く僕の人生で一番うまいコーヒーだった。
かっこ悪いとかダサいとかいう人もいるかもしれないけど、そういう人にはきっとわからない
のだろうなと思う。
みんなで一つの焚火を見つめてコーヒーを飲んでいたとき、僕たちはあの島で本当に良い
時間を過ごしていたのだと思う。
日本で一日中蛇口から水が出てきても、いつでも電気が使えても、 携帯電話で常に連絡がと
れても、立派なブランドのカップで一杯千円近いコーヒーを飲んでも。
僕の人生のなかであのコーヒーに勝るものはないと思う。
だから日本で生活しているとたまにどうしようもなくむなしくなることがある。
あの充実感は日本で味わうことは難しいのかもしれない。
すでに5人とも帰国してそれぞれの人生を歩んでいる。
人生には何もかもが便利すぎるから逆に味わえなくなってしまう「本当の味」があるのだと思う。
帰国してしまった。それから8ヶ月間一人で島にいた。
その次にテツヤが来た。二人になった時は本当にうれしかった、でもお互いに日本人同士で固まらないようにと週末だけ会うように心がけていた。
その6カ月してヒロが来て、タクヤがきて、最後に僕の後任のヨリがきてくれた。
ここまで書いて分かるようにウチの島には昔から女性は送らないことになっている。
タンナ島の男達はマンタンナと呼ばれてバヌアツ人の中では気性が激しいとされているから
女性はいない。
最初にタンナに行った時は自分は一人で2年間なのかもな? と思っていて。
だから食器もほとんど買わなかったし、地味な生活をしていた。でも3人4人と増えていくと
我が家が大きかったこともありみんなが集まるようになってきた。
週末にみんなで集まってそれぞれの活動の悩みを聞いた。
ある程度みんなが同じ悩みを持っていた。でも後輩たちは僕よりもたくましく活動している
ように感じた。実際にみんなよく働いていた。
4人目のタクヤが来た頃、みんなで食事ができるように椅子とテーブルを作ろうと思って
材木屋から材木を買ってきた。テーブルは簡単だけど、座り午後地の良い椅子を作るのは
とても大変だと分かった。
でもみんなでそろって食事をできるのは楽しかった。みんなと一緒にここにいたいとも思ったし。
2年間一度も帰っていない日本に戻れるうれしさもあった。
その頃は食後は焚火を囲んでコーヒーを飲むのがいつものパターンだった。
日本ではありえないくらいの安物のグラスとか100円ショップでも売っていないような
プラスティックのカップ、全員揃うと足りなくてジャムの空き瓶でコーヒーを飲んでいた。
ジャムの空き瓶は取っ手が無いし、熱が伝わりすぎるからコーヒーを入れると直接手で
もつことは難しいことも学んだりした。
なるべく新しい隊員にはきちんとしたカップで飲んでもらいたくて、古い隊員がジャムの空き瓶
でコーヒーを飲んでいた気がする。
でもそれを見て「かっこ悪いな」と思う隊員は僕達の中にはいなかったと思う。
あの時にみんなで飲んだコーヒーは間違い無く僕の人生で一番うまいコーヒーだった。
かっこ悪いとかダサいとかいう人もいるかもしれないけど、そういう人にはきっとわからない
のだろうなと思う。
みんなで一つの焚火を見つめてコーヒーを飲んでいたとき、僕たちはあの島で本当に良い
時間を過ごしていたのだと思う。
日本で一日中蛇口から水が出てきても、いつでも電気が使えても、 携帯電話で常に連絡がと
れても、立派なブランドのカップで一杯千円近いコーヒーを飲んでも。
僕の人生のなかであのコーヒーに勝るものはないと思う。
だから日本で生活しているとたまにどうしようもなくむなしくなることがある。
あの充実感は日本で味わうことは難しいのかもしれない。
すでに5人とも帰国してそれぞれの人生を歩んでいる。
人生には何もかもが便利すぎるから逆に味わえなくなってしまう「本当の味」があるのだと思う。
2012年9月6日木曜日
自分は我慢強いと思っている人へ
普段の生活の中で自分は我慢強いとか、いつも我慢しているという人がいるけど
40歳近くになった僕が感じるのは、年をとってきても自分が我慢強いと思っている人の
多くは実は我慢強いのでは無くて、
自分の我が強すぎて物事がうまく運ばない ⇒ 結果的に自分は我慢をすることが多くなる
⇒ 本人はまわりに自分が合わせてあげていると思いこんで自分は我慢強いと勘違いしている
ということもあるのではないかな? と思ってきました。 20代なら社会に出たばっかりだし、学ぶことも多いから我慢は必要だと思うのだけど、年齢を重ねるごとに世の中をスイスイを渡っていく術というか、ある程度は流されたほうが結果的には物事は上手くいく。世の中は目先の利益だけではないということに気がつくと思うのだよね。自分のなかでこだわる部分とそうでなくて良い部分が分かるというか、世の中を信じることができるというのかな・・・・
色々な成功体験を積み重ねて、そのたびに感謝していけば、物事を長い目で見ることができるようになるのだと思います。
僕も若いころ
「若者は結果を早く求めすぎる」
と先輩にしかられたことが多くありました。そういう言葉を伝えてくれる素敵な先輩がいてくれた事はとても幸運でした。
ちかごろ 「自分は我慢強いのだ!」
と言っている人を見ると、その我慢はその人の我儘(わがまま)さや傲慢(ごうまん)さからくるものなのでは?
と感じるようになってきました。
なんとなく日本の教育の中に「我慢ずることは良いことだ」 という認識があるからかもしれないけど、でも大人になって根本的に自分が我慢しなければならない状況を未然に防ぐ技術が身につけば この世の中はそれほど難しいものでは無くなってくるのだと思います。
40歳近くになった僕が感じるのは、年をとってきても自分が我慢強いと思っている人の
多くは実は我慢強いのでは無くて、
自分の我が強すぎて物事がうまく運ばない ⇒ 結果的に自分は我慢をすることが多くなる
⇒ 本人はまわりに自分が合わせてあげていると思いこんで自分は我慢強いと勘違いしている
ということもあるのではないかな? と思ってきました。 20代なら社会に出たばっかりだし、学ぶことも多いから我慢は必要だと思うのだけど、年齢を重ねるごとに世の中をスイスイを渡っていく術というか、ある程度は流されたほうが結果的には物事は上手くいく。世の中は目先の利益だけではないということに気がつくと思うのだよね。自分のなかでこだわる部分とそうでなくて良い部分が分かるというか、世の中を信じることができるというのかな・・・・
色々な成功体験を積み重ねて、そのたびに感謝していけば、物事を長い目で見ることができるようになるのだと思います。
僕も若いころ
「若者は結果を早く求めすぎる」
と先輩にしかられたことが多くありました。そういう言葉を伝えてくれる素敵な先輩がいてくれた事はとても幸運でした。
ちかごろ 「自分は我慢強いのだ!」
と言っている人を見ると、その我慢はその人の我儘(わがまま)さや傲慢(ごうまん)さからくるものなのでは?
と感じるようになってきました。
なんとなく日本の教育の中に「我慢ずることは良いことだ」 という認識があるからかもしれないけど、でも大人になって根本的に自分が我慢しなければならない状況を未然に防ぐ技術が身につけば この世の中はそれほど難しいものでは無くなってくるのだと思います。
2012年8月27日月曜日
スポーツは笑顔でなくても楽しめる
スポーツを楽しむっていう言葉があるけど、
それには二つあるのだと思います。
一つは体を動かして、自分をリフレッシュさせるようなスポーツ
もう一つは、人生の一時期を競技に捧げるようなスポーツ
僕のやっていたアメフトなら
日本一を目指しているようなチームがついに決勝まで来て
前半を終わって14対0で負けている
(これはサッカーだと2対0くらいかな?)
後半に14点以(2タッチダウン)以上とらないと逆転できない
圧倒的な劣勢に立たされている。
それでもチームの誰もが逆転をあきらめていなくって
「自分たちは絶対に勝つのだ!」と信じ切っている
そして後半になって少しずつ差を詰めて、試合が終わった
時に結果的には勝利している。
そういう試合に味わう充実感を楽しむことことが
リフレッシュともう一つあるスポーツの楽しみ方なのだと
思います。
その時の「楽しさ」って人生のなかで最も大きな楽しみで
限りなく充実感という言葉と近いのだと思います。
一流の競技スポーツの選手はそこを「楽しんでいる」の
だよね、だからオリンピックの金メダリストが
「楽しかった」というのはそういう「究極の勝負」を楽しんでいるの
であって、ニコニコ笑って楽しんでいるのとは違う楽しみなの
だと思います。
それには二つあるのだと思います。
一つは体を動かして、自分をリフレッシュさせるようなスポーツ
もう一つは、人生の一時期を競技に捧げるようなスポーツ
僕のやっていたアメフトなら
日本一を目指しているようなチームがついに決勝まで来て
前半を終わって14対0で負けている
(これはサッカーだと2対0くらいかな?)
後半に14点以(2タッチダウン)以上とらないと逆転できない
圧倒的な劣勢に立たされている。
それでもチームの誰もが逆転をあきらめていなくって
「自分たちは絶対に勝つのだ!」と信じ切っている
そして後半になって少しずつ差を詰めて、試合が終わった
時に結果的には勝利している。
そういう試合に味わう充実感を楽しむことことが
リフレッシュともう一つあるスポーツの楽しみ方なのだと
思います。
その時の「楽しさ」って人生のなかで最も大きな楽しみで
限りなく充実感という言葉と近いのだと思います。
一流の競技スポーツの選手はそこを「楽しんでいる」の
だよね、だからオリンピックの金メダリストが
「楽しかった」というのはそういう「究極の勝負」を楽しんでいるの
であって、ニコニコ笑って楽しんでいるのとは違う楽しみなの
だと思います。
2012年8月19日日曜日
どんくさいけど、自信のある子供
どんくさいのに自信は人一倍ある子供はどうやって育てたらよいのかなー?
って最近漠然と考えています。
このカテゴリーは4つに分かれていて、
①能力があって自信がある ⇒ ほっておける
②能力があって自信がない ⇒ 褒める、励ます(可愛く思える)
③能力も自信もない ⇒ 教える、励ます、成長する(可愛く思える)
④能力はないが自信はある ⇒ ほっておけない、
でも学ばない(可愛くない)
最近甥っ子を見ていて自分の子供の頃を思い出しました。
注意してあげるのだけど、言うことは聞かないし、やることが全てどんくさくて怪我ばかりするし、他人に迷惑をかける。
自分が怪我するのなら良いのだけど、よその子供に怪我をさせたり、人に迷惑をかけるのはやっぱり注意しないとね。
でも注意しても本人は反省しているつもりだけど、3分で忘れてしまうのだよね。
まさに自分がそうだったのだよね。子供の頃って人の迷惑とか考えてなくって(今も若干そうだけど・・・)親は苦労したのだと思います。でも注意されても治らないのだよね。成長しないというか。
だから母親は僕をビビらす事ばかり言っていたのだと思います。
「今のままでは普通の人間になれない」
「ほかの子供はみんな良い子だ」
「いとこの誰々ちゃんは私学の中学校に行っている」
「うちのマンションの子供はみんな頭が良いのでお母さんはずかしい」
「お父さんみたいになってほしかったのに・・・・」
そういった言葉は僕の行動の抑止力になったわけではなくって、なんとなく自分の中に生きている事に対する「罪悪感」みたいなものと、自分を受け入れてくれない世の中に対する「反社会的」な気持ちをため込んでいくという結果になったのだと思います。
潔癖症とかってそういうところから始まるのだろうね。自分が不潔であるというのは、何か処理できない気持ちの表れなのだろうね。
アメフトで妥協を許せなかったのはボールを集中して捕るというポジションには必要だったと思うけど、チームワークという面では協調性は必要だからマイナスなのかもしれないね。
そこら辺はプラス面もあり、マイナス面もあったのかな?
協力隊でボランティアに行った理由も全てではないとしても
「人生を攻めていないことに対する罪悪感、自分だけ日本で楽して生活してるのではないかという気持ち」
があったのではないかなとも思います。
じゃあ親はどうしたらよいのだろうか? と思うと難しいよね。
「どんな子供でも私はあなたを100%愛している」
と言ってあげたいけど、それで自由奔放な子供が交通事故にあったり、よその子供に怪我をさせては駄目だものね。
毎日子供と周りに気を使いながらいつまでたってもそれに気がついてくれない子供を見守るしかないよね。そいういうときには周囲の助けとか母親以外にその子供に接してくれる人がとても助けになるのだろうと思います。
そして親ができる最大の仕事は「成長を待つこと」だろうね。
こっちがしつけなくっても子供は心も体も成長していくから、高校生くらいになると急に気がつく事ってあると思います。
それまでに親が過剰に子供に注意しすぎるとバランスを失ってしまうのだろうね。 とは言っても高校くらいいける学力はつけてほしいしね。
まとまらないけど子育ては難しいなーって思います。
そして一番辛いのはその子供本人なのだということも身にしみて分かっているつもりです。
って最近漠然と考えています。
このカテゴリーは4つに分かれていて、
①能力があって自信がある ⇒ ほっておける
②能力があって自信がない ⇒ 褒める、励ます(可愛く思える)
③能力も自信もない ⇒ 教える、励ます、成長する(可愛く思える)
④能力はないが自信はある ⇒ ほっておけない、
でも学ばない(可愛くない)
最近甥っ子を見ていて自分の子供の頃を思い出しました。
注意してあげるのだけど、言うことは聞かないし、やることが全てどんくさくて怪我ばかりするし、他人に迷惑をかける。
自分が怪我するのなら良いのだけど、よその子供に怪我をさせたり、人に迷惑をかけるのはやっぱり注意しないとね。
でも注意しても本人は反省しているつもりだけど、3分で忘れてしまうのだよね。
まさに自分がそうだったのだよね。子供の頃って人の迷惑とか考えてなくって(今も若干そうだけど・・・)親は苦労したのだと思います。でも注意されても治らないのだよね。成長しないというか。
だから母親は僕をビビらす事ばかり言っていたのだと思います。
「今のままでは普通の人間になれない」
「ほかの子供はみんな良い子だ」
「いとこの誰々ちゃんは私学の中学校に行っている」
「うちのマンションの子供はみんな頭が良いのでお母さんはずかしい」
「お父さんみたいになってほしかったのに・・・・」
そういった言葉は僕の行動の抑止力になったわけではなくって、なんとなく自分の中に生きている事に対する「罪悪感」みたいなものと、自分を受け入れてくれない世の中に対する「反社会的」な気持ちをため込んでいくという結果になったのだと思います。
潔癖症とかってそういうところから始まるのだろうね。自分が不潔であるというのは、何か処理できない気持ちの表れなのだろうね。
アメフトで妥協を許せなかったのはボールを集中して捕るというポジションには必要だったと思うけど、チームワークという面では協調性は必要だからマイナスなのかもしれないね。
そこら辺はプラス面もあり、マイナス面もあったのかな?
協力隊でボランティアに行った理由も全てではないとしても
「人生を攻めていないことに対する罪悪感、自分だけ日本で楽して生活してるのではないかという気持ち」
があったのではないかなとも思います。
じゃあ親はどうしたらよいのだろうか? と思うと難しいよね。
「どんな子供でも私はあなたを100%愛している」
と言ってあげたいけど、それで自由奔放な子供が交通事故にあったり、よその子供に怪我をさせては駄目だものね。
毎日子供と周りに気を使いながらいつまでたってもそれに気がついてくれない子供を見守るしかないよね。そいういうときには周囲の助けとか母親以外にその子供に接してくれる人がとても助けになるのだろうと思います。
そして親ができる最大の仕事は「成長を待つこと」だろうね。
こっちがしつけなくっても子供は心も体も成長していくから、高校生くらいになると急に気がつく事ってあると思います。
それまでに親が過剰に子供に注意しすぎるとバランスを失ってしまうのだろうね。 とは言っても高校くらいいける学力はつけてほしいしね。
まとまらないけど子育ては難しいなーって思います。
そして一番辛いのはその子供本人なのだということも身にしみて分かっているつもりです。
ムヒカ大統領のスピーチについて
開発教育とか国際理解教育とかグローバル人材育成なんていうように、3年くらいで言葉は変わる日本の教育界だけど最近世界の流行りは
「持続可能な発展」 Sustainable Development
「持続可能な社会」
という「持続可能」という言葉がキーポイントみたいです。
ようは50年後も同じレベルが保てる事が大切で、例えばガソリンで走る車なんかは何年か後にガソリンが無くなったら維持できなくなる便利さだよね。 それではいけませんよということみたいです。
前回のブログで紹介した 「ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ」
のなかで気に行ったところをコメントしようと思います。
発展は良い事である! という漠然とした考え方に流されているけど、日本人の約10倍近くいる中国人の全員が日本人と同じ生活レベルまで「発展」したとしたらすでに地球はパンクだよね、持続可能な世の中では無くなるよね?
②どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
これもものすごく納得、資本主義社会に追いついてこい、と言って援助してみたり、同じ価値観を進めたりして、ある程度のレベルまではかわいい子供みたいなものだけど、発展しすぎて自分の意思を持ち出すとライバルになってしまう。
でももともとは発展が良いことだといって先進国のライフスタイルに途上国をひきこんでいったのは我々だよね。「可哀そう」から始まった政策はいつも間にかお互いの首を絞める「持続可能ではない世の中」を作っていると思います。
結局は満足することを知らない。資本主義社会の中で「本当の豊かさ」を学べなかった我々の問題点だと思います。
ここらへんを学問的に追求することが
「持続可能な開発の為の教育」 ESD という言葉で今世界中で始まっています。
この「持続可能」 Sustainable サステインナブル
という言葉、オリンピックの開会式でも使われていたし、日本語としては「持続可能」って使い慣れていない言葉だけど、今後しばらくはキーワードになると思います。
「持続可能な発展」 Sustainable Development
「持続可能な社会」
という「持続可能」という言葉がキーポイントみたいです。
ようは50年後も同じレベルが保てる事が大切で、例えばガソリンで走る車なんかは何年か後にガソリンが無くなったら維持できなくなる便利さだよね。 それではいけませんよということみたいです。
前回のブログで紹介した 「ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ」
のなかで気に行ったところをコメントしようと思います。
————————————————————————————————————————
①ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。
ウルグアイの大統領だからドイツとインドなのだろうけど、日本と中国に当てはめると分かりやすいと思います。発展は良い事である! という漠然とした考え方に流されているけど、日本人の約10倍近くいる中国人の全員が日本人と同じ生活レベルまで「発展」したとしたらすでに地球はパンクだよね、持続可能な世の中では無くなるよね?
②どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
これもものすごく納得、資本主義社会に追いついてこい、と言って援助してみたり、同じ価値観を進めたりして、ある程度のレベルまではかわいい子供みたいなものだけど、発展しすぎて自分の意思を持ち出すとライバルになってしまう。
でももともとは発展が良いことだといって先進国のライフスタイルに途上国をひきこんでいったのは我々だよね。「可哀そう」から始まった政策はいつも間にかお互いの首を絞める「持続可能ではない世の中」を作っていると思います。
③「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
耳が痛いです。ブランド物を買いあさったり、海外旅行に行ったり、癒しという言葉に騙されてマッサージやエステに行く人達はいつになったら満足するのだろうね? きっと全ての物欲を手に入れたら次は「不老不死」を手にいれたくなるのだろうね。結局は満足することを知らない。資本主義社会の中で「本当の豊かさ」を学べなかった我々の問題点だと思います。
ここらへんを学問的に追求することが
「持続可能な開発の為の教育」 ESD という言葉で今世界中で始まっています。
この「持続可能」 Sustainable サステインナブル
という言葉、オリンピックの開会式でも使われていたし、日本語としては「持続可能」って使い慣れていない言葉だけど、今後しばらくはキーワードになると思います。
ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ
ウルグアイの大統領のリオ会議でのスピーチを最近知って納得しました。 次回のブログはこれをヒントに書きたいと思います。
ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ: (訳:打村明)
会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。
ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。
私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝
いたします。
国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。
しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。
午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。
私たちの本音は何なのでしょうか?
現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。
息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。
同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?
なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?
マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?
どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。
現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは
発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命より も高価なものは存在しません。
ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では
私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。
このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、 1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと
働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題です し、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。
石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。
昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。
根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私
の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。
私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働 になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。
毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するもので
あってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限 のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。
幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。
ありがとうございました。
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