昔にファミレスの社員をしながら実業団でフットボールをしていたときに考えてい
たことがあります。
同じ苦しい事なのに、何故フットボールの若い選手達は目を輝かして一生懸命に
トレーニングして、試合に出ようと必死で頑張っているのに、
ファミレスに居る一部の若いアルバイトの人達は働いても働かなくても
自給は800円だからいかに楽するかで
「今日は得した」
とか、お客さんが沢山て忙しい日は
「今日はついてなかった」ってなるのかな? って感じた事があります。
もちろんなぜそうなるかは社員である僕たちがきちんと仕事のおもしろさとやりがい
を教えてあげれて無いし、表現できていないからなのはわかっていますが。
97年に入社してから2006年の春に退社するまでの9年間ってちょうどバブルが弾けて
売り上げは急降下、結局は客が増えないなら人件費を削って売り上げを上げる、っていう
方向に会社が走っていた時期でした。
2000年くらいまではそれまでいたベテランのパートさんや学生のアルバイトが
頑張ってくれて、何とか人件費を削って成り立っていましたが、その後は新しく
入ってきた新人を育てるにはあまりにも過酷過ぎるマニュアルで少しでも経験が
あって賢い人はすぐに気がついて辞めていってしまいました.
残るのは褒められても、怒鳴られても動じないような今どきの若者が多かったです。
そして時間キッチリになると仕事は丸投げして帰ってしまいます。
昔から居るベテランのパートさんや仕事を良く分かっている学生達にしてみたら
しらけるのは当たり前です、だって自給は100円くらいしか違わないしね。
僕も嫌でした。社員が目を光らせている時だけ、働いて、居なくなると手を抜く
ような人とは働きたくないよね。
当然のようにお店のモラルは下がり、クレームは増えました。
責任をとりたくない店長と部長はどなり散らすばかりでした
正直でいると馬鹿を見ることばかり。
クレームがでてお客さんに謝りに行って
「必ず改善します」
と約束して帰ってきても、改善できないことばかり。
仕事帰りの車の中で気が付いたら信号待ちしながら歯ぎしりしてる自分がいたのも
ちょうどそのころです。
「アメフトで日本一になるためにはどんなことでもする、今の仕事を続けていれば
安心してフットボールができる、この矛盾に我慢することもアメフトのうちだ」
と自分に言い聞かせていました。
そんな仕事の世界とみんながチームの為に自己犠牲を喜んでするフットボールの世界
という両極端な世界を行ききしながら僕の社会人
生活は進んでいました。おそらく僕にとってはフットボールの世界は
「美しすぎる」
世界だったのだと思います。トップであるヘッドコーチから始まって
コーチ、幹部、一軍、二軍、ベテラン、若手関係なく、おそらく上から順番に
努力している世界でした。上を信じて無心で頑張れる環境でした。
そしてその結果を試合で表現して勝利してその喜びを分かち合う。
自分のプレーが勝利に直接的に貢献できる。
これ以上の充実感と幸せは無かったと思います。
脱臼しても靭帯がきれても注射をうってでも試合に出さしてもらえる。
チームに自分が必要とされていると感じれたのは残念ながら16年間のうち
後半の6年間だけでしたが、最初の10年間の苦労があったから試合にでれた6年は
とても幸せに感じました。無我夢中でした。
それが終わって次の人生は何をしようかなっておもいました。
協力隊に行くときに考えていたのはボランティアの世界ではフットボールと同じ
ような美しい世界があるかな?
それとも結局はファミレスと同じように無責任な世界なのかな?
もしボランティアでもみんながファミレスと同じように自分の保身ばかりを考えて
献身的でないとわかったなら日本に戻って納得して民間企業で働くことができる。
でももしボランティアの世界でさらに違う「美しい世界」
を見つけることができるなら、また違う人生が見えてくるはずだ。
と思っていました。
結果的に言うとボランティアの世界はフットボール以上に「美しい世界」
でした、でも根本的にっていうか自分て馬鹿だな、って思うのは
「それでは食ってはいけない、税金を使ってボランティアに行かせてもらって
美しい世界に生きていても、それは本当の人生ではない」
と言うことでした。そんなこと行くまえからわかってたはずだよね。反省してます。
そしてもう一つ思ったのは協力隊という2年間だけなら充実した経験になるけど、
これを5年も続けていたら、ただの自分に甘い、自立できない理想家になるだけだ。
とも理解できました。
2009年の一月に帰国してから、親父の事もあって一年日本にいましたが、結局は今は
ここにいます。
このプログラムの良いところは
「本気で人を助けたいのなら、行くお金も自分で稼いで行きなさい。だからイギリスで
アフリカの勉強をしながら6カ月からチャリティーとか古着集めとかなんでもやって、
自分で30万ほど貯めたら後は面倒見ます。 税金とかリッチな人のお金を使っては
駄目なのです」
と言うおもしろい、っていうか、おそらく個人主義のヨーロッパだから何とか成り立っ
っているという感じです。
そこに世界中から人が集まってきて、一緒に古着を集めたり自分達で活動の紹介の
マガジンをつくって売ったりして半年でお金をためます。
その間にいろんな国の人どうして喧嘩したり、決して楽な仕事ではないので、文句が
でたりします。
辞めていく人も沢山います。
逆にに一文無しで来て、立派にお金を作ってアフリカで活躍する人もいます。
そこが面白いところ、お金はたまらないけどたいしてマイナスにもなりません。
ボランティアだけど、人のお金は使ってないっていう、本当のボランティアです。
どこまでいけるわ変わらないけど、どうせ終電逃した人生だから、もう少し頑張って
みようと思います。
このテーマはまた続きが書けそうですが今日のところはここまでしか考えられません
でした。
2010年5月7日金曜日
2010年5月6日木曜日
人生フルカウント
恋愛をバッターに例えると、
僕は今まで何球かストライクを見逃してきたのだと思う。
ど真ん中ではないけど、外角高めな感じの僕の好きなタイプの女性を見送ってきた、
その時はまだこの先に良いボールが来るだろうと思っていたら、
その後は意外と来なかった。
そして見逃したボールの事が気になって、とっさにバットを振ることをためらってきた。
そんなことをしているうちにだんだんとバットを振るのが怖くなってきた。
でもいまさらボール球を振るわけにもいかないと思って、見逃しばかりしていたら、
いつも間にか人生はフルカウントに追い詰められて、
しかも既に何球かの絶好球の球はスピードが速過ぎて
もはや僕の手には負えないようになってしまってる。
打とうとしても空振りばかりだ・・・
カーブやフォークの変化球も怖いし
時には魔球があることも学んだ
万が一当たって出塁してもちゃんと人生を走りきってホームベースまで戻って来れるのかな・・・
きっと途中で足腰がたたなくなって、誰かに代走になってもらうんだろうな・・・
全てが抽象的な言い回しですいません、あまり深く考えないで、
なんとなく読んでください・・・・
「どの球がどの女性だったのか?」
などと勝手に推測するのも辞めてくださいね・・・
「私はどの球だったの?」
などど勝手に推測するのも辞めてくださいね・・・・
こないだ人生の終電を逃した、って書いたら、そのブログが一番みんなの関心が
大きかったので、続編を作っただけです・・・
あくまで思いついたから書いただけですので深い意味はないです。
終電逃したブログの時に励ましのメールくれた方ありがとうございました。
2010年5月5日水曜日
武術と武道の違い
昔に京都大学の有名なフットボール選手がアメフトの雑誌に書いていました。
僕と同じポジションで90年代から2000年にかけて日本で最も偉大なワイドレシーバー
であったと僕も同じポジションながら感じている方です。
その人いわく
反復練習とか、習うより慣れろ、とか石の上にも三年とかって言うけど、
フットボールを人格形成の為の物だと考えるならそれであっています。
でも京都大学のアメフト部は根本的に日本一になることを目標としている、
だから大学の4年間という短いスパンで考えて場合、習うより慣れろというよりも
新しい事をドンドン教えて次のステップに進んでもらいたい。
気持ちや忍耐力を鍛えて選手が強くなるのなら、僧侶は毎日気持ちを鍛えて
いるのだから、基本的には彼らがフットボールで日本一になれるはずだ、
でもそうはならない。そう考えるといかにフットボールとして
実践的な練習を行うことが大切なのかがわかってもらえると思う。
と言うようなお話でした。 そしてその板井さんを育てた水野監督も
「忍耐なんてものは勝つ面白さがわかれば黙っていてもついてくるものなのだ
忍耐や根性論が悪いというのはな無い、でもそれがまず第一に来るというのは
まちがっている」
と言っておられました。
まあ京都大学だし結果が出てるから説得力があるだけなのかもしれませんが・・・・
でも僕もアメフト選手として長年言いわけばかり考えてきたので、
それなにに言いたいことがあります。
「練習中に声を出して試合に勝てるんだったら、コーラス部は毎日声出す練習してるから
彼らが優勝するはずだよね!」
ってなんか僕が言うと説得力無いですけど・・・ ほんとうに言いわけに聞こえる・・
でも雨の日に剣道の先生が
「こういうひでもきちんと練習してる物が本当に強くなるのだ!」
と言ったら、雨の日だけ熱心に練習してるやつが居る
と言う話を聞いたこがあります。
そういうこと日本で良くあるよね。実践にともなわない「スポーツごっこ」が・・・
昨年に居た中学校で空手をやっていた先生がいて、その先生に聞いてみた事があります。
「空手の世界では勝ことの意味って何なんですか?」
「浦君それはだね、僕らは空手を武術と武道に分けて考えているんだよ、武術は
ようはテクニックを磨くこと、勝つことが目的だし、
武道のほうは空手をつかって人間と
しての道を勉強しようということだから勝ち負けは関係なくなってくるわけだよ」
ということでした、さすがだなと思いました。
その先生自身はそのどちらも極めて居るようでした。
個人的にもとても尊敬しています。
それで「武術」と「武道」という言葉があるわけか?
でもその時に思ったのは高校野球ってどっちなのかな?
参加することに意味がある?ってわけではもはやないみたいだし、
だからと言って松井の敬遠は
「高校野球としてはふさわしくない」
みたいなとらえ方もされていたし。
そういうところを明確にしないと難しいよね。
良く考えたらプロボクシングとかプロ野球もそうだけど、純粋に「武術」と
とらえて勝つこと優先に考えてるからこそ、実社会でも応用できるメッセージがそこに
隠されていることって多いものね、
「最初から人格形成の為」ってなってしまったら、指導者の導き方によっては
「苦しくても頑張ってる自分って凄くて偉い」
みたいな世界になってしまうよね。
でもその逆もあるか、人間的に最低な奴でも才能があって強い人がいると、
ファンや他の選手はやる気がなくなって結果的にはその競技から離れていくよね。
それで今なやんでいるのが日本の相撲界なのかな?
強くてしかも人間的にも素晴らしい人が横綱になってくれないと、その競技自身の
品格が下がってしまうよね。
ガッツポーズはお客さんや自分のチームの選手に対してするのは美しいけど、
負けた相手に
「ざま―みろ」
っていうかんじでしてしまうと、それは美しくないよね。
亀田兄弟もボクシングもそういうところから問題になっていったのだろうね。
でも亀田兄弟は周りの大人があの兄弟を大切に見守ってあげれば必ず世の中に
恩返ししてくれるような人物になると感じます。
でもお金が動く世界だから、それだけが心配です。
これは日本だけの問題ではなくてオリンピックでもよく問題になってるよね。
「参加することに意味がある」っていう建前は既にどこの国も無視してるし
ドーピングの定義だってむずかしいし。
負けて言いわけしながわ忘れ去られていくよりも、とりあえず勝ちたい、って思う
のは当たり前かもね。その気持ちはよく理解できます。
そしてどんなに嫌な奴でも圧倒的に強くて、たいして練習しなくて、酒ばっかり飲んで
いても真面目に練習してる選手よりも強い人に憧れたりする気持ちもわかります。
そういう気持ちって人間の心の奥にきちんと準備されているよね。
だから相撲界もボクシング界もオリンピックも高校野球も色々と悩むんだろうね。
答えはずっとないとおもいます。その時代に合わせてみんなが一生懸命考えて
決めていくしかないよね。
そして負けたときに言いわけしないことも大切だよね。
勝者にも敗者にもそれぞれ美学があると思います。
長くなったけど、読んでいただいてありがとうございます!
僕と同じポジションで90年代から2000年にかけて日本で最も偉大なワイドレシーバー
であったと僕も同じポジションながら感じている方です。
その人いわく
反復練習とか、習うより慣れろ、とか石の上にも三年とかって言うけど、
フットボールを人格形成の為の物だと考えるならそれであっています。
でも京都大学のアメフト部は根本的に日本一になることを目標としている、
だから大学の4年間という短いスパンで考えて場合、習うより慣れろというよりも
新しい事をドンドン教えて次のステップに進んでもらいたい。
気持ちや忍耐力を鍛えて選手が強くなるのなら、僧侶は毎日気持ちを鍛えて
いるのだから、基本的には彼らがフットボールで日本一になれるはずだ、
でもそうはならない。そう考えるといかにフットボールとして
実践的な練習を行うことが大切なのかがわかってもらえると思う。
と言うようなお話でした。 そしてその板井さんを育てた水野監督も
「忍耐なんてものは勝つ面白さがわかれば黙っていてもついてくるものなのだ
忍耐や根性論が悪いというのはな無い、でもそれがまず第一に来るというのは
まちがっている」
と言っておられました。
まあ京都大学だし結果が出てるから説得力があるだけなのかもしれませんが・・・・
でも僕もアメフト選手として長年言いわけばかり考えてきたので、
それなにに言いたいことがあります。
「練習中に声を出して試合に勝てるんだったら、コーラス部は毎日声出す練習してるから
彼らが優勝するはずだよね!」
ってなんか僕が言うと説得力無いですけど・・・ ほんとうに言いわけに聞こえる・・
でも雨の日に剣道の先生が
「こういうひでもきちんと練習してる物が本当に強くなるのだ!」
と言ったら、雨の日だけ熱心に練習してるやつが居る
と言う話を聞いたこがあります。
そういうこと日本で良くあるよね。実践にともなわない「スポーツごっこ」が・・・
昨年に居た中学校で空手をやっていた先生がいて、その先生に聞いてみた事があります。
「空手の世界では勝ことの意味って何なんですか?」
「浦君それはだね、僕らは空手を武術と武道に分けて考えているんだよ、武術は
ようはテクニックを磨くこと、勝つことが目的だし、
武道のほうは空手をつかって人間と
しての道を勉強しようということだから勝ち負けは関係なくなってくるわけだよ」
ということでした、さすがだなと思いました。
その先生自身はそのどちらも極めて居るようでした。
個人的にもとても尊敬しています。
それで「武術」と「武道」という言葉があるわけか?
でもその時に思ったのは高校野球ってどっちなのかな?
参加することに意味がある?ってわけではもはやないみたいだし、
だからと言って松井の敬遠は
「高校野球としてはふさわしくない」
みたいなとらえ方もされていたし。
そういうところを明確にしないと難しいよね。
良く考えたらプロボクシングとかプロ野球もそうだけど、純粋に「武術」と
とらえて勝つこと優先に考えてるからこそ、実社会でも応用できるメッセージがそこに
隠されていることって多いものね、
「最初から人格形成の為」ってなってしまったら、指導者の導き方によっては
「苦しくても頑張ってる自分って凄くて偉い」
みたいな世界になってしまうよね。
でもその逆もあるか、人間的に最低な奴でも才能があって強い人がいると、
ファンや他の選手はやる気がなくなって結果的にはその競技から離れていくよね。
それで今なやんでいるのが日本の相撲界なのかな?
強くてしかも人間的にも素晴らしい人が横綱になってくれないと、その競技自身の
品格が下がってしまうよね。
ガッツポーズはお客さんや自分のチームの選手に対してするのは美しいけど、
負けた相手に
「ざま―みろ」
っていうかんじでしてしまうと、それは美しくないよね。
亀田兄弟もボクシングもそういうところから問題になっていったのだろうね。
でも亀田兄弟は周りの大人があの兄弟を大切に見守ってあげれば必ず世の中に
恩返ししてくれるような人物になると感じます。
でもお金が動く世界だから、それだけが心配です。
これは日本だけの問題ではなくてオリンピックでもよく問題になってるよね。
「参加することに意味がある」っていう建前は既にどこの国も無視してるし
ドーピングの定義だってむずかしいし。
負けて言いわけしながわ忘れ去られていくよりも、とりあえず勝ちたい、って思う
のは当たり前かもね。その気持ちはよく理解できます。
そしてどんなに嫌な奴でも圧倒的に強くて、たいして練習しなくて、酒ばっかり飲んで
いても真面目に練習してる選手よりも強い人に憧れたりする気持ちもわかります。
そういう気持ちって人間の心の奥にきちんと準備されているよね。
だから相撲界もボクシング界もオリンピックも高校野球も色々と悩むんだろうね。
答えはずっとないとおもいます。その時代に合わせてみんなが一生懸命考えて
決めていくしかないよね。
そして負けたときに言いわけしないことも大切だよね。
勝者にも敗者にもそれぞれ美学があると思います。
長くなったけど、読んでいただいてありがとうございます!
グローバルスタンダード
よくグローバルスタンダードっていうけど、それってたとえば日本とアメリカの
二国間で話し合ってるときには、
「こっちのほうがグローバルスタンダードだ!」
っていえるけど、 その場にフランス人もいて、ハンガリー人もいて、日本人、
カメルーン人
イタリア人、メキシコ人、ブラジル人と世界中の人が一緒に居るとうかつに
「これがグローバルスタンダードだ!」
って言えません。
言った瞬間にいっせいにみんなから
「何故それがグローバルスタンダードといえるんだ!」
ってクレームでるからね。
二国間で話し合ってるときにはグローバルスタンダードって言葉は使いやすいし、
なにかの意味があるようなきがするけど
今みたいに本当のいみでグローバルスタンダードな場所ではそれは存在しないんだって
ことが良く分かりました。結局は個人の価値観のほうが国籍よりも大切ってことだと
思います。
アメリカ人がよその国を納得させるときにはよくこの言葉つかうけど、
ヨーロッパでは誰も使ってない気がします・・・
二国間で話し合ってるときには、
「こっちのほうがグローバルスタンダードだ!」
っていえるけど、 その場にフランス人もいて、ハンガリー人もいて、日本人、
カメルーン人
イタリア人、メキシコ人、ブラジル人と世界中の人が一緒に居るとうかつに
「これがグローバルスタンダードだ!」
って言えません。
言った瞬間にいっせいにみんなから
「何故それがグローバルスタンダードといえるんだ!」
ってクレームでるからね。
二国間で話し合ってるときにはグローバルスタンダードって言葉は使いやすいし、
なにかの意味があるようなきがするけど
今みたいに本当のいみでグローバルスタンダードな場所ではそれは存在しないんだって
ことが良く分かりました。結局は個人の価値観のほうが国籍よりも大切ってことだと
思います。
アメリカ人がよその国を納得させるときにはよくこの言葉つかうけど、
ヨーロッパでは誰も使ってない気がします・・・
朝の会話(ポルトガル人)
ポルトガル人のジョゼの日本での発音はホセだということを最近知りました。
そういえばホセっていう名前は良く効くよね。
そして今日の朝にそのジョゼともう一人のポルトガル人のルイーズが話していました。
「今日の天気しってる」 とジョセ
「結構あったかいみたいですよ」 とルイーズ
「でも昨日もそういって雨降ったしね」
「僕は毎日天気予報を見てるけど、イギリスは当たらないんですよ」
「そうだよね、春がきたと思ったら、冬に戻るし、毎日2時ごろにはシャツ一枚になりたい
けど、4時には決まってマフラー欲しくなるしね」
「ほんとですねー」
「大昔にイギリス人達が我が国ポルトガルに攻め込んできた理由が良く分かるよ、
こんな天気じゃよその国に移りたいって思うのあたり前だよねー!」
「全くその通り、ヤッパリポルトガルが良いですねー」
って言って満足げにふたりで大笑いしていました。
うれしかったのはこの会話が全て英語だったことです。
二人とも母国語のポルトガル語は使わずにたまたま同じテーブルに座っていた僕の為に
普通に英語で話してくれていました。
三人しかテーブルに居なかったのにもかかわらずです。
そういう気づかいはここでは凄く感じます。
みんな自然にそういうことをしてくれるのがうれしいです、
やっぱり昔からそういうことに慣れているヨーロッパならではなのかな?
とも思います。
二人はとてもうれしそうに腹の底から笑っていて、こっちもうれしく感じました。
2010年5月4日火曜日
耳掃除
先週末はビルディングウィークエンド、という聞こえは良いけど、みんなで普段住んでる
レンガでできた寮のペンキを塗ったり、床を磨いたり、家具を作ったり、アフリカに行った
時に必要なスキルっていうけど、単に自分達で何でもやってるだけですが、
協力隊に行ってたときにそういうスキル必要だったから一生懸命頑張りました。
僕の仕事はブラジル人のアルツーと二人で柵つくり、犬が逃げないようにだって。
犬の為に人間が働くのかと思いながら、僕はアルツーが好きだから二人で頑張って
柵作りました。
その後に部屋の掃除をしてたんだけど、ドアの向こうにアルツーが座っていて、ノックして
も反応しないから、強引に押してドアをあけたらなんとアルツーは掃除機の音を聞いて
るみたいでした。
掃除機のノズルを耳に当てています。だからノックが聞こえなかったみたい。
「アルツー何してるの?」
って聞いたら、
「耳掃除!」
だって、モーターの音を聞いてたわけでは無かったみたいです。
それにしても豪快だなー!
絶対に真似はしたくないです・・・
2010年5月2日日曜日
結局は同じなこと
3年前にバヌアツに行く前に思っていた
「うちの親父はラッキーだな、日本に生まれたから癌になっても手術できる、
痛み止めもあるし至れり尽くせりだ、
バヌアツで癌になったらどうなるのだろうな?」
そしてバヌアツに言ってジョセフという伯父さんの家に遊びに言った時に
「ウラ、食事をする前に挨拶してほしい人がいる」
って言われて連れて行かれた部屋には
おじさんやおばさんが狭い部屋に6,7人いて、そこの横のベッドにお爺さんが横に
なっていました。
「たぶん肝臓が悪いみたいなんだ、背中が痛いみたいだ」
ということでした、病院にいってどこが悪いかを診察してもらっても、特に
治療とかはないので、交替でみんなでゆっくりとウチワで煽いであげていました。
お爺さんはウチワの優しい風を受けながら、うっすらと目を空けて
満足そうな顔をしていました。
食事の時間だったので、平らなお皿に入ったミルクとお芋が運ばれてきました。
最初に病人のお爺さんがふた口ほど口をつけましたが、それ以上は飲むのが
苦しいみたいで、それを見ていた近くに居たおじさんがそれを受け取りました。
それを回りのみんなで食事をしながら飲んでいました。
「お芋は食べる?」
って聞いても軽く手を振るだけでした。
ジョセフも
「もう長くはないからみんな一緒に居てあげているんだよ、さあ僕たちは隣の
部屋で食事を取ろう、俺はお前の日本の話が聞きたいんだ!」
って特に悲しそうでもなく、当たり前のようでした。
だれもお爺さんに同情しているような雰囲気はなく、ただ別れの時を待っている
感じでした。
バヌアツと日本の一つの違いは医療以上に点滴があることだと思います。
おそらくあのおじいさんは口から食事がとれなくなったら二週間ほどで無くなるのだと
思います。
気持ちのなかで
「自分にもその時来たのだな」
と悟れば、病気の進行は関係なく自然に食欲が無くなり、そのままなくなっていく
のだと思います。
日本だと点滴があるから食事がとれなくなっても
病気が進行するまでは命は続くと思います。
このお爺さんとウチの親父とどっちが幸せなのかな?
とその時考えましたが、その時に少し思ったのは
うちの親父には点滴を受けるか受けないからのチョイスがある、
でもジョセフのお爺さんにはそのチョイスすら無い。だからウチの親父のほうが
選択肢があるだけ良いのかな?
でも逆に選択肢があるということは病気で弱っている病人がさらに迷わなくては
いけないし、家族は少しでも生きていて欲しいと思うから、病人も頑張って
医療を受けるだろうし、もしバヌアツみたいにその選択肢が最初から無ければ自然に
みんなが納得する形で人生をおわれるのかな?
という気持ちでいました。
5月から始まる僕のプログラムに昨日にポルトガルから
40歳くらいの夫婦がやってきました
旦那さんはルイーズ、奥さんはソフィア
とても上品で最初に会話も面白く、英語もきれいです
最初にあったときにルイーズに僕が
「ここに来る前は何をしていたんですか?」
ってきいたときに
「ウーン色々としてきたからなー、
何がメインだったのかな、何からはなそうかなー」
って言った時の笑顔というか満足した顔がいかにも
この人は色々な人生を歩んできて、とても満足しているし、
沢山の成功体験をもっているのだろうなって感じました。
今日の朝もたまたま同じテーブルで食事をしていたのですが、
二人はオージリアというカメルーンの女の人と話していました。
少し聞き耳を立てていると、
「昨年はソフィアは髪の毛が無かったんだよ」
という話をしていました
オージリアが上手く聞き取れなかったのか、理解できかなったのか
「どういうこと?」
って感度かききかえしていたので、僕も気がつきました
「ソフィアは昨年に乳がんになって、その治療で髪の毛が一時的に無かったんだよ」
って言う話をしていました。
「彼女はラッキーだった、ポルトガルにある癌専門の病院に入院できたし、
発見がはやかったからすぐに治せたんだよ」
と言う話でした、僕も話に参加しようかな? って思ったけど、
もし親父の癌の話になって
「それでお父さんは今はどうしてるの?」
って聞かれたらまさか昨年に癌の治療をしたばっかりの二人に
「親父は亡くなりました」
とも言いにくいから、取り合えず黙っていました。
でも幸せそうに見える、ポルトガルからきたこの夫婦の人生にも色々なことが起こって
それで人生を考え直すというかおそらく
二人の時間を大切にしたくてここにきたのだろうなと感じました。
そこで結局僕が思ったことは
医学があるか無いかなんてそんなに関係の無いことなんだろうな、自分が信じて生きて
きた環境で、好きな人と一緒に人生を過ごすことができれば、それが一番幸せなことで
あって、どっちが良いとか悪いとかは無いと思いました。
もし進んだ医学をもっていて、
「あなたが私の国に産まれていれば・・・」
なんて言う人がいたらその人が間違っているということだと思います。
そんな同情は必要ないよね。
最後に我が愛犬だったスパイダーの話をしたいと思います。
詳しくは「追悼スパイダー」 と言うブログに乗っています。
スパイダーはおそらく事故にあったか犬を食べる習慣のあるバヌアツ人につかまって
死んだのだと思います。
そして彼自身は自分が犬として野生の掟の中で生きていることを十分に理解していた
と思うし、最後に愛する人とか僕とかに挨拶もできずに旅立って行ったけど、
彼自身には何の後悔も無かったと思います。
動物として弱肉強食の中で生きていて、その途中で亡くなったのだと思います。
それもまた誇り高き旅立ち方だったと思います。
だから誰にもみとられずに孤独に死んだとしても、それはそれで良いのだと思います。
結局は医学があるとか無いとかの問題よりも、納得して亡くなるのなら
同じことなのだと感じました。
「うちの親父はラッキーだな、日本に生まれたから癌になっても手術できる、
痛み止めもあるし至れり尽くせりだ、
バヌアツで癌になったらどうなるのだろうな?」
そしてバヌアツに言ってジョセフという伯父さんの家に遊びに言った時に
「ウラ、食事をする前に挨拶してほしい人がいる」
って言われて連れて行かれた部屋には
おじさんやおばさんが狭い部屋に6,7人いて、そこの横のベッドにお爺さんが横に
なっていました。
「たぶん肝臓が悪いみたいなんだ、背中が痛いみたいだ」
ということでした、病院にいってどこが悪いかを診察してもらっても、特に
治療とかはないので、交替でみんなでゆっくりとウチワで煽いであげていました。
お爺さんはウチワの優しい風を受けながら、うっすらと目を空けて
満足そうな顔をしていました。
食事の時間だったので、平らなお皿に入ったミルクとお芋が運ばれてきました。
最初に病人のお爺さんがふた口ほど口をつけましたが、それ以上は飲むのが
苦しいみたいで、それを見ていた近くに居たおじさんがそれを受け取りました。
それを回りのみんなで食事をしながら飲んでいました。
「お芋は食べる?」
って聞いても軽く手を振るだけでした。
ジョセフも
「もう長くはないからみんな一緒に居てあげているんだよ、さあ僕たちは隣の
部屋で食事を取ろう、俺はお前の日本の話が聞きたいんだ!」
って特に悲しそうでもなく、当たり前のようでした。
だれもお爺さんに同情しているような雰囲気はなく、ただ別れの時を待っている
感じでした。
バヌアツと日本の一つの違いは医療以上に点滴があることだと思います。
おそらくあのおじいさんは口から食事がとれなくなったら二週間ほどで無くなるのだと
思います。
気持ちのなかで
「自分にもその時来たのだな」
と悟れば、病気の進行は関係なく自然に食欲が無くなり、そのままなくなっていく
のだと思います。
日本だと点滴があるから食事がとれなくなっても
病気が進行するまでは命は続くと思います。
このお爺さんとウチの親父とどっちが幸せなのかな?
とその時考えましたが、その時に少し思ったのは
うちの親父には点滴を受けるか受けないからのチョイスがある、
でもジョセフのお爺さんにはそのチョイスすら無い。だからウチの親父のほうが
選択肢があるだけ良いのかな?
でも逆に選択肢があるということは病気で弱っている病人がさらに迷わなくては
いけないし、家族は少しでも生きていて欲しいと思うから、病人も頑張って
医療を受けるだろうし、もしバヌアツみたいにその選択肢が最初から無ければ自然に
みんなが納得する形で人生をおわれるのかな?
という気持ちでいました。
5月から始まる僕のプログラムに昨日にポルトガルから
40歳くらいの夫婦がやってきました
旦那さんはルイーズ、奥さんはソフィア
とても上品で最初に会話も面白く、英語もきれいです
最初にあったときにルイーズに僕が
「ここに来る前は何をしていたんですか?」
ってきいたときに
「ウーン色々としてきたからなー、
何がメインだったのかな、何からはなそうかなー」
って言った時の笑顔というか満足した顔がいかにも
この人は色々な人生を歩んできて、とても満足しているし、
沢山の成功体験をもっているのだろうなって感じました。
今日の朝もたまたま同じテーブルで食事をしていたのですが、
二人はオージリアというカメルーンの女の人と話していました。
少し聞き耳を立てていると、
「昨年はソフィアは髪の毛が無かったんだよ」
という話をしていました
オージリアが上手く聞き取れなかったのか、理解できかなったのか
「どういうこと?」
って感度かききかえしていたので、僕も気がつきました
「ソフィアは昨年に乳がんになって、その治療で髪の毛が一時的に無かったんだよ」
って言う話をしていました。
「彼女はラッキーだった、ポルトガルにある癌専門の病院に入院できたし、
発見がはやかったからすぐに治せたんだよ」
と言う話でした、僕も話に参加しようかな? って思ったけど、
もし親父の癌の話になって
「それでお父さんは今はどうしてるの?」
って聞かれたらまさか昨年に癌の治療をしたばっかりの二人に
「親父は亡くなりました」
とも言いにくいから、取り合えず黙っていました。
でも幸せそうに見える、ポルトガルからきたこの夫婦の人生にも色々なことが起こって
それで人生を考え直すというかおそらく
二人の時間を大切にしたくてここにきたのだろうなと感じました。
そこで結局僕が思ったことは
医学があるか無いかなんてそんなに関係の無いことなんだろうな、自分が信じて生きて
きた環境で、好きな人と一緒に人生を過ごすことができれば、それが一番幸せなことで
あって、どっちが良いとか悪いとかは無いと思いました。
もし進んだ医学をもっていて、
「あなたが私の国に産まれていれば・・・」
なんて言う人がいたらその人が間違っているということだと思います。
そんな同情は必要ないよね。
最後に我が愛犬だったスパイダーの話をしたいと思います。
詳しくは「追悼スパイダー」 と言うブログに乗っています。
スパイダーはおそらく事故にあったか犬を食べる習慣のあるバヌアツ人につかまって
死んだのだと思います。
そして彼自身は自分が犬として野生の掟の中で生きていることを十分に理解していた
と思うし、最後に愛する人とか僕とかに挨拶もできずに旅立って行ったけど、
彼自身には何の後悔も無かったと思います。
動物として弱肉強食の中で生きていて、その途中で亡くなったのだと思います。
それもまた誇り高き旅立ち方だったと思います。
だから誰にもみとられずに孤独に死んだとしても、それはそれで良いのだと思います。
結局は医学があるとか無いとかの問題よりも、納得して亡くなるのなら
同じことなのだと感じました。
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