2010年5月13日木曜日

120%では駄目ですね・・・


  お腹のすいているアフリカの人達を助けたい。

 でもアフリカって電気とか水とか無いでしょ、ネット繋がらなかったらどうしよう?

 マラリアにかかったらどうしよう。

 戦争が始まったらどうしよう? デジカメ盗まれるかな?アイポットは大丈夫かな?

  って心配する人沢山いると思います。

   正論としてはこうです。

 「自分の保身ばかり考えてる人に、

   今にも死にそうな人を助けることはできないから行かないほうが良いよ」
 
 こうやって言うのは簡単だけど、僕はそうでもないと思います。

  自己犠牲とか、献身的なことはもちろん素敵だし、正論は口にするのは

 気持ち良いけど、最近思うことは

 そうやって無理して120%の自分で全力疾走してしまって2年くらいで息切れして

 、挫折感を味わうよりも、80%くらいで走って10年つづけたほうが

 結果的には良いと思うし。基本的には80%も途上国の人に何かしてあげなくても

 20%くらいの気持ちでなんとなく世の中には困っている人もいるんだな、

 ってことを意識しな人生を生きるほうが、結果的には自分にも世界にも良いと思います。

 
自分が幸せでない人は人を幸せにはできないだろうし、

自分に体力と経済力が無ければ人には優しくできないしね。

 日本人は桜みたいに一時パッと咲いて、

 後は散ってしまうような人生が美学の中にあるけど、

 それは武士のはなしであって普通の農民は自然を相手にしながら、

 コツコツと毎日8割くらいの気持ちで働けばそれが幸せなのだと思います。

 それが人生! 国際協力もそういうものだと思います。

 日本人がそんなに自分犠牲にして燃え尽きるほど頑張らなければならないほど、

 アフリカの人達は馬鹿でもないし、弱くもないです。

 もちろん助けは必要だけどね。

 どちらかと言えばパートナーとしての助けが必要だと思います。

身を削っての人助けは間違ってると思います。

自分を削って人を助けたら、

 削った自分の体をまた他の人に治してもらわないといけなくなるからね。

 
 バランスが大切だよね。そういうバランス感覚を身につけようと思っています。

2010年5月12日水曜日

お金と援助の問題

5月10日は赤十字の日

 ということでジュネーブの赤十字で2年間働いていて今はこのボランティア活動

 (CICD)に参加している

 ドーランドが赤十字の歴史についてプレゼンテーションしてくれました。

 ちなみに英語では その旗のとうり 「レッド・クロス」 が赤十字です。

 ちなみに今僕が参加しているボランティア活動は半年の間に自分でプレゼンテーションを

したり、僕だったらみんなに体育を教えたりして、点数稼がないとアフリカに行かせてもらえ

ません。 だから毎週土曜日には誰かのプレゼンがあり、それが結構熱いものになります。

 こないだはブラジル人のアランがブラジルの歴史のプレゼンをしましたが、

 「ポルトガル人が我々の国に攻め込んできた。」

 「彼らは僕たちを人間とは思っていなかったので、最初は殺しまくった」

 「途中で人間だと気がついて、キリスト教を広めだし、そして結果的には成功した」

 という内容でしたが、そこにポルトガル人のジョゼが居たから僕は結構緊張しました。

 ジョゼいわく

 「我々の国っていうけど、俺達が行かなかったら今のブラジルの発展もなかったし、

 お前だって産まれて無かったんだぞ」

 「ポルトガル人からの視点でブラジルへの植民地支配で俺達がどれだけの苦労と犠牲を

  払ったかをプレゼンテーションさせてもらったら、全く違う無いようになると思う。」

 と話していました。 まだその機会はないけどね。

 でもいつも思うけど、外国の人って違うなって思うのは、その場では相当ストレートな表現

するけど、その場だけで終わることです。 良く言えばさわやか、悪く言えば単純!

 でもその時に思ったのは、そういう話をお互いに面等向かってできることって偉いな。

 って思いました。

 今このプログラムには、中国人、韓国人、日本人といるけど、お互いにネガティブな問題

は話したことはないです。一つの理由にはそういったデリケートな問題をお互いにつたない

 英語で話し合おうとすると、時には誤解が産まれて、それを正そうと必死に違う言葉で表現

しようとすればするほど、さらにそれが新しい誤解をまねくこともあるというのも理由の

一つだと思います。


 ポルトガル人で40歳くらいのルイ―スが言っていたけど、

 我々より昔の年代のポルトガル人は人達は、

自分達のした植民地支配について恥じていたから、あまり海外

に出たがらなかった、そして我々の年代は少しずつ海外に興味を持ちだした。

 でも今の若いポルトガル人は我々よりもっと前向きに海外にでて、自分達のした過ちをとり

 かえそうとしてくれている。それが今のポルトガルだとおもう。とても頼もしい。

 と話していました。

 自分も見習わないとな!って思いました。


  話は戻ってドーランドの赤十字の話。

 スイスから始まった赤十字は

 国境も関係なく、

 宗教も関係なく、

 人種も関係なく

 政治的に動くこともなく

 みんなを平等に助け、誰でも参加できる。

 「完全に独立した」組織だそうです。

 というような内容でした。

 だからそのシンボルである旗も月のマークだったり、十字の赤だったり、

 なるべくどの宗教でも受け入れらしいように4、5のシンボルマークがあって、

 どれを使っても自由になっているということでした。

 
  歴史や今までの活動など一時間ほど話してくれました。質問コーナーになって

  旗のデザインとかドーランドはジュネーブで何をしていたか?
 
 とかみんなが聞きました。

 ちなみにドーランドはジュネーブで家庭に問題のある子供なんかの面倒をみるプロジェクト

 に2年間たずさわっていたようです。

  最後にルイースが聞きました。

 「完全に独立して政治的に走ることは無い、って言うことだけど、僕が気になるのは

 お金はどこから出ているの?おそらくUKユニオンとかスイスとか、

 ユニセフみたいにアメリカとかから出てると

 思うけど、そういうのが活動に影響したりしないのかな?

 イラク兵とアメリカ兵を平等に扱うのかな?」

 っていう鋭い質問がでました。

  みんなもその意見には興味があるようでした。 誰かがすかさず

 「まさか赤十字が俺たちみたいに古着を集めたり、活動のマガジン売って

 ファンドレイジング(募金活動)したりしないよね・・・」

 と言ったので笑いましたが、それは一瞬でやみました。
 
 ドーランドも
 
 「それは我々の永遠のテーマです、その矛盾があることは誰もが知っている」

 誰も答えが見つからないまま質問したルイースが

 「難しい問題だと思うから、今日はこのくらいにしよう」

 と提案したので、とりあえず終わりましたが、その場にいた50人くらいの人達の中には

疑問が残りました。

 でもそのうちの20人くらいは僕と同じように英語が完璧では無いので、ポイントをつかみ

切れてない人もいたと思います。 
 
 それでも発言する人もあれば僕みたいにブログに書く人もいるでしょう。

 青年海外協力隊でバヌアツでお世話になったOVの方から

 「ブルーセーター」

 という本にそこらへんの答えがつかめる部分がある。

 という話を聞きました。 ゴメンナサイ、普通ブログってそいう言うのすぐにクリック

できるように横に宣伝が張り付けてあるはずなんですけど、まだそういうスキルないから

 書きっぱなしです。 

 募金とか良心に頼って活動するのではなくて、きちんとビジネスパートナーとして途上国

 をみてく、お互いに利益がないとこの活動は続かない。

  というような内容だと思いますがまだ読んでないのでわかりません。

 お金と援助の問題は永遠のテーマだと思います。

2010年5月10日月曜日

癌の宣告

 出家した親父は

正座のタコが持病の糖尿病のせいで血行が悪くなおらずに、脚の脛が膿んでしまい。

 久しぶりに下界に降りてきたが、すでに血糖のコントロールができなくなっていて、

 ドクターストップ、それでも周りの人達の助けとおそらくそれなりに本人が頑張って

 いた事が認められて、何とか一年間の修行でインチキ坊主としての

資格はいただいたようだった。

 下界に降りてきてすぐに口内炎が治らずに町医者にいったら、その場ですぐに紹介状

を渡されて大学病院で検査。

 出家した時に離婚してたので、その時に埼玉にいた僕と実家の大阪で親父と暮らしてい

姉の三人で癌の宣告を受けた。

  
 「手術、抗がん剤、放射線治療、と言う三つの選択肢プラス何もしないという選択肢も

あります。

 もちろん治療するにあたってはこの三つを状況によってミックスして行います。」

 と言うことだった。

 「もし5年以内に再発すると、そこから3年、2年と再発する間隔が短くなることも

考えられます。癌は命にかかわる病気です、いい加減な気持ちでは治せません。」

 

 病院の帰りに家族三人で南千里で池のある大きな公園で途方にくれて座っていたのを

思いだす。 

 親父は良く言っていた

 「最初に宣告してくれた先生がボカした言い方をしないでキチンと正直に淡々と伝えて

くれたのが俺にとっては本当によかった。たいして貫禄のある先生では無かったし、

まだ30半ばくらいに見えたし最初に見た時は頼りなさそうな人だな、って思ったけど、

人間としての強さと誠実さがあの先生にはあった」

 と話していました。その先生は親父の手術をした後に他の病院に移ってしまったけど

 親父は癌が再発するたびに

「あの先生とももう一度話したいなー、どうすべきた聞きに行こうかなー」

 とつぶやいていました。

修行、大学、病気から学んだこと

 
 癌で修行をあきらめた親父が近所にあった関西大学に3年生から編入して

哲学を勉強して卒業、そのまま大学院にも通っていた、7年間ほど在籍して癌の再発

の為に三回休学した。

 「卒論だけ出したら大学院も終わるけど、そしたらもう大学に行けなくなるから、

 出さんままにしてるねん、別にいまさら卒業証書もらっても何の意味もないからな、

学生達と一緒に入れるのが楽しいだけやからな、

それにしても最近の学生は良く勉強するわ、俺らの頃とは全然違うわ」

 と言っていました。

癌と共に生活した8年間に親父は出家してお寺で修業するのと同じくらいかそれ以上に

人生について考えたのだと思います。

犬のおまわりさん


<写真は親父とは全く関係ないバヌアツの頃の写真です>
 

2006年の春に会社を辞めてから、協力隊の訓練が始まるまでの半年間、

 親父の4回目くらいの癌の転移の手術があったので大阪で一緒にくらしていた。

 癌は転移すると、手術のたびに一番最初に見てもらった先生まださかのぼってお伺い

を立ててから手術するので、今回は肺の手術だけど

最初の舌癌からリンパへの転移をみてくれた病院へ行ってそこの先生の意見を聞かな

ければならない、親父の場合は舌癌を手術してくれた病院では肺がんの手術はできないの

で大阪大学に紹介されてそこで肺がんの手術をすることになっていた。


 毎週のように病院の予約を取って検査を受けて2週間ごに検査の結果を待って、

 過去の病院に話を聞きに行く。 と言うことを繰り返していた。

「こんなことしてるうちにも癌はドンドン進行している、結局は手術できるってきまって

から、今度はまた手術の順番待ちすることになる!」

 転移が見つかってから実際の手術まで2カ月以上かかってしまうのが現状でした。

 その日も11時半の病院の予約が結局2時になって、親父はその間ずっと愚痴。

「お前だったらどうする?」

 を連発するから、心の中では

 「自分だったら死にたいな」 とこっちも言いかえしたいたい気持ちをぐっと抑えて

「ウーン、難しいな」


 と演技していましたが、結局はその演技が親父のイライラをさらに募らせます。

 でもそれが最低であり最高の返事なことは間違いないです、

余計なことを言ってはいけないのです。


 やっと名前をよんでもらって、20分の診察時間のところを親父は40分話こんでいました。

 みんながこうだったら11半の予約が2時になるのも当たり前だな。

 と思いながらも病院の先生達は時間も気にしないで、親父の話がおわるまできちんと

聞いてくれます。

  まあ先生も途中で息抜きしてくれてるんだろうけど、それにしても医者と言うのは忍

耐の居る仕事だなー! と僕はいつも感謝するとともに、関心していました。

  
 その日の帰りに親父の通院の為にかったビッグスクーターの後ろに親父を載せて

二人で病院から帰ってるとき、親父が鼻歌を歌っているのに気が付きました。

 「ニャン ニャン ニャニャーン! ニャン ニャン ニャニャーン!

泣いてばかりいる子猫ちゃん、犬のおまわりさん、困ってしまって

 ワン ワン ワワーン! ワン ワン ワワーン!」

 このフレーズをずっと僕のバイクの後ろでずっと繰り返していました。

 本人は全く無意識だったとおもいます。

 あれはたぶん6月で暖かくて西日の綺麗な病院の帰り道でした。親父は先生に話を

聞いてもらえてことと、診察が終わったことで気持ちが楽になったのか、神経質だった

行きとは全く違う気持ちになっていたのでしょう。

 
 運転しながら親父の鼻歌に気がついてしまった時

 「ふざけんなよー、親父!」
 
 って思って笑ってしまったけど、ヘルメットはフルフェイスなので親父は僕がニヤニヤ

していることを親父は気がつくはずもなく、僕は一人で

 「帰ったらすぐに姉ちゃんに電話して、このことを伝えよう、きっと姉ちゃんも

 お父さんらしいね! って喜ぶだろうな」

 って一人で笑っていました。そしてその通り、その晩に二人で大笑いしました。
 
 それがうちの親父です。笑える人でした。

 

 

毎日僕に会えますよ

 舌癌、リンパ、肺と7年間続いた癌の治療もすでにこれ以上は体を痛めるだけになる

のでできません。とホスピスを紹介された親父は本当に落ち込んでいました。

 そのまま行かないで一カ月が経ち、ついに姉が予約をとってくれて僕と二人で

淀川キリスト教病院に行くことになりました。

 「入院でも良いし、通院でも良いです。」

 と言われて親父は絶対に入院しない。


 と言い張っていました。

 そして通院生活も二カ月が過ぎ、薬の副作用とか食事とか倦怠感、不安などそろそろ

 なにか改善が必要になったときに先生が提案してくれました。

 「二週間ほどホスピスに入院してもらって、薬の調整と体調を整えてから、もう一度

 家に戻る方法もありますよ」

 と言ってくれました。

 親父は入院すると二度と家に戻れないとおもっていたので、散々粘っていましたが、

 僕は既に4カ月以上も自分の時間が無かったし、床ずれによる肩こりとか、オキシコン

チンという痛み止めの副作用の便秘など限界だったので、本当は一度入院してほしい

と思っていました。 僕自身に少し時間が欲しかったです。

親父は先生に

 「入院して何か良い事があるんですか? なんでそんなに進めるんですか」

 と言いわけがましく聞いていましたが。

 先生の答えは

 「ウーン、特別なことは何も無いですけど、しいて言えば通院だと二週間に一度しか

僕に会えませんが、入院してくれれば毎日僕に会えますよ」

  結局その日は親父が粘って、先生もそんなに無理強いしなかったので、

入院はしなかったですが、帰りのタクシーのなかで親父は一言

 「ああやって患者に言えたら、あの先生はホスピスの先生としては一流やな」

 と少し嬉しそうに話していました。

 僕も本当にそう思いました。
 
淀川キリスト教病院の先生と看護師さん達には本当にお世話になったと思っています。

 

薬では治らないこと

 二週間に一度のホスピスの通院で、親父はこの二週間の症状を訴えます。

 痛み、床ずれ、便秘、倦怠感、など親父は家では散々僕にぼやいていますが、

 それを先生に伝えても、新しい薬が増えるだけなので、親父はなるべく症状は軽めに

言います。

 それを後ろで聞きながら、

 「嘘つけ、この二週間毎日のように僕に、ここが痛い、これが嫌だ、どうしようもない」

 って愚痴ってたじゃないか!

 って思いながら、親父は薬が増えるのが嫌なので、言って無い事はわかっていたので、

 後ろで黙って聞いていました。

 先生が

 「浦さん、もし倦怠感とか湯鬱とか恐怖感とかが強くなってきてるのなら、

 安定剤みたいなものがありますよ、それを飲んでもらえれば少しは気持ちが楽になる

 と思いますよ」

 と提案してくれます。

 僕は親父に毎日愚痴られて、しかも言われっぱなしで最後には結局

 「お前にはこの気持ちはわからないだろうな」

 と言われるのはいい加減に嫌だったので、できれば飲んでほしいと思っていましたが、

 そこは親父の意思に任せるべきところなので、黙っていました。でも一度だけ

 あんまり親父がヒツコク
 
 「どうせお前にはお前の気持ちはわからないと思うけど、お前だったらどうする、

  ただ死ぬのを待つだけだ、生きていても意味が無い、お前だったらどうする?」

 となんどもきかれたので、いつもは僕は
 

 「は―!とか、イヤー!」

 とかってぼかしていたけど、その時だけは

 「悪いけど、お父さん、そう言われたってわかるわけ無いじゃん、しかもこっちが何も

言い返せないのわかってて、何回も聞くのは失礼だ、言い返せないのわかってるのに何回

も聞かれると、なんかこっちがいじめられてるみたいな気分になるから辞めて欲しいよ!」

 って言ったことありました。


 ホスピスでの新しい薬の提案を断ることに対しても

 「お父さんは目の前に先生が沢山薬っていう洋服を並べてくれてるし、

着てはどうですか?

 って提案してくれてるのに、それを全く来ようともしないで、ずっと裸で

 寒い! 寒い! って言ってるようなものだよ、寒いんだったら服着れば良いのに

 って僕はいつも思ってるよ。 お前だったらどうする? っていつも聞くけど、

僕だったらとりあえず服を着てみるけど、お父さんは着るの嫌なんでしょ。

だったら僕にどうしたらよい?って聞かないでよ!」

 って言ったこともあります。

 でも僕にもわかっていました7年間の癌の治療の中で、親父は安定剤も試したことが

あるし、それ以外の薬もお医者さんに提案されて色々と試していて、自分のなかで、

 それはあまり効き目が無い事はしっているから飲まないだけなのです。

  
 だから僕があまりそういうことをいって、親父が愚痴を言えないようにしてしまうこ

 ことはあまり良くないとはわかっていました。

 だから僕も毎日は厳しく言わないけど、ときどききちんと話しておかないと、単に

親父が可哀そうだからと思って、ずっと愚痴を聞いていても、お互いに良くないし、

 親父もそれはわかって居るから、たまに僕が厳しく言うのは納得済みでした。

 言われた後は親父も少し安心したような雰囲気があります。

 まあ効き目は三日くらいで、すぐに元にもどるけど、それはそれで良いのです。

 
 病院で先生に安定剤を勧められたときに、親父が僕のほうを振り返って

 「テルヒロはどう思うか?」

 と聞いてきました。

 その時僕は
 
 「親父の愚痴とかボヤキは癌になったからではなく、生まれつきのものなことはみんな

 が知ってるし、安定剤は心の病気には聞くと思うけど、病気ではなくて持って生まれた

 人間性には聞かないとおもうから、飲んでも意味ないかもしれない」

 
 と答えました。

 先生と看護師さんは笑っていました。

 親父も嬉しそうでした。

  「これでまた次回まで二週間は愚痴聞かないといけないな」
 
 って思ったけど、結局親父にとって一番大切なことは家事をしてくれる人よりも
 
 愚痴を聞いてくれる人だということはわかっていたから、自分としても納得できました。

 親父も帰りに
 
 「お前もなかなか上手い事言うな!先生達喜んでたな!」

 と褒めてくれました。 上手い事言ったつもりではなくて、事実を言っただけですが・・

 今はあの時が懐かしくも感じます。