2010年4月10日土曜日

朝一の会話



写真はジョゼです、ポルトガル人、天気が良いとこうやって日光浴をしてます。
 フランシスコ・ザビエルに会ったことはないけど、きっとこんな顔してたんだろうな?
って思います。




朝飯を食べていたら隣に座っていたジョセが言った、
「ウラ知ってるか、ありがとうって言う言葉はポルトガル語なんだぞ、ポルトガル語でアリガトウっていうのはこんにちはっていう意味なんだ」

 だから昔にポルトガル人が日本に来た時に 「アリガトウ」 って挨拶したら、日本人は警戒心を解いたんだぞ! って言ってきました。
 
 ってことは別にありがとうはポルトガルから来たわけではなくて、タマタマ同じ発音が友好的な意味だったから何とかなった
 ってことだろう? って思ったけど、それを聞いていた向かいに座っていたイタリアの親父が

 カンガルーって言う言葉はオーストラリアの先住民の言葉で、わからないって言う意味らしいぞ、イギリス人が来たときに
「あれはなんだ?」

 って聞かれて現地の先住民達がわからない? って言おうとして「カンガルー」って言ったのをイギリス人が、あれはカンガルーっていう動物だって勘違いしたみたいだ。それがイギリス人達のやり方だったんだ!

 って言っていました。僕のつたない英語力と少し異常な想像力で理解するとおそらくそういう内容のはずです。

 ちなみに昔いたバヌアツでは海の事はオーシャンでもシーでもなく、ソルトウォーターって言います。

 簡単にイメージできるよね、バヌアツ人が海を見てこれはなんていうの? って聞いたときにタマタマ海水はショッパイって思っていた侵略者達が、「塩水」ってこたえたのか、それとも湖と比較して答えたのははわからないけど、そのままいまでもソルトウォーターになっています。

 
 話は戻ってイタリア人の親父が「それがイギリスもしくは侵略者達のやりかたなんだ、だから世の中には真実では無い言葉が沢山ある」

 みたいなことを行っちゃったからジョセが

 「俺の話は本当だ、日本語のありがとうはポルトガル語だ!」

 って言い張ったから、朝飯でテンションの低かった僕には少し面倒な会話になってきました。

  ジョセが

 「よし、今日の気温は10度だとしよう、これを寒いというか、厚いというかどっちだ? そう考えると世の中に正当な意見など
無いし、真実なんてないんだ、だからありがとうはポルトガル語であるはずなんだ!」

 みたいなことになってきました

 よせばいいのに隣のテーブルにいたスウェーデンのおっさんが

 「俺はスウェーデンからきたから10度は温かいとおもうけど、もしアフリカから来てから10度は寒いだろうな」

 って言ったから、話は益々混乱しだしました。

 イタリア人の親父はテーブルにあったナイフを横にして、人さし指でバランスをとりながら、 結局はこのバランスが必要だ

 このナイフで言えばここが妥協点なんだ。だからここがグローバルスタンダードだ! ここが10度だとするとそれ以下は寒いということにして、それ以上は熱いということにとりあえずはしているんだ。
 
 僕の意見は

 「真実はそれぞれの心の中にしまっておくべきだ、みんなが自分が真実だと思ってるなら、それを尊重して、何も自分があってる
って朝の一番から他人に強要するのは人生にとってもマイナスだし、だいたい相手にとっての尊敬の念が無い、その前に面倒くさい」

って思っていました。 でもその自分に意見ををきちんと話さないのも尊敬の念がないのかな?って思いながらの、自分の英語力と朝一番の平和的な気持ちで、この会話に飛び込んで行ってもろくなことは無いと思ったので、聞き役にってっしていました。

 その後に隣のテーブルのスウェーデン人の親父が、その会話から上手くフェードアウトして朝飯のお替わりを取りにいったので、

 自分としてもなんとなくこの場を離れて二人で話し合ってもらったほうが良いかな? って思って、席を立ちました。

 
 その後に食器をかたずけていると、今度は2メートルぐらいある人が

 「俺の名前はナニナニだ(ゴメン忘れてしまった)」

 ってあいさつしてきたので、僕はウラです日本から来ました。っていったら

 「それは凄いな、お前みたいにデカイ人はみた事は無い!」

 って言われたので、二メートルに言われたくない!って思ったけど、まあ日本人にしてはデカイって言う意味だろうな。

 って思いました。

 それが今日の朝の出来事です。  みんなお話好きなんだな!って思いました。

親父


 イギリス編とは関係ないけど、昨年の6月19日に親父が亡くなりました。

 協力隊からテルヒロが帰ってくるまでは頑張る!と言って、昨年の秋からは

 前向きな治療は体を痛めるだけになる、ということで癌への治療も終わってしまい

 自らホスピスへ行くのをためらって、僕が戻ってくる1月まで必死に痛みをこらえていた

 ようです。

 今まで8年間、4箇所の転移に6回の手術を乗り越えて

 「前向きに戦えば克服できないものは世の中にない」

 という気合いの元で頑張ってきたのだと思います。

 だから癌の治療が終わってしまってホスピスしか行くところが無くなっても

 ホスピスという前向きでない治療に自ら進むこともできず、とりあえず僕の帰りを

 待っていてくれた親父は流石だと思います。
 
 だから僕が帰国して

 「今まで良く頑張ったんだから頼むからホスピスに行ってくれ」

 って言われてほっとしたのかもしれません。自分で決めたわけではないからね

 姉の勧めもあって、強引にホスピスへ連れて行ったのは2月になってからだと思います。

 そこから半年、「壮絶な」と言いたい所ですが、親父と息子のいい加減な闘病記は決して

 真面目に癌と戦っている方々にはおみせできない内容になってしまいました。

 今日からイギリス編としてブログを書きだすなかで、親父の話も結構入れていこうと

 思っています。 イギリスの話じゃ無いじゃん! って思うことも多いと思いますが

 許してくださいね!

 

ここからイギリス編です


 一年ぶりにブログを書きます、前回の最後は2009年の一月の末だったかな?
 
 早速ですが昨日イギリスに到着、今回はイギリス人のやってるボランティアへの参加です。
半年研修して、その後の半年マラウイに行きます。

 研修が正式に始まるのは5月からなんだけど、早めに来ても良いよ! ってことなので

 4月の8日に来てみました、たぶん20名くらいで研修が始まると思いますが、今のところ

 来ているメンバーは

 リトアニア人

 フランス人
 
 ブラジル人

 日本人 自分も含めて 二人

 カメルーン人

 って言う感じです、最終的には20名くらいになる予定です。

 きっと後半に来るのは韓国人とかの先進国の人だと思います。(フランス、イタリアもそうだけど)

 とりあえずそんな感じで始めます。のでこれからもよろしくです!

2010年3月8日月曜日

バヌアツ最終回

今は1月31日です。1月8日に帰国して三週間が経ちました。最終回を書かないとと思いながらも日本にいると何となく書く気になれず。ダラダラと来てしまいしたが、ブログを今までブログを読んでいただいた方にきちんと挨拶をと思い最終回を書こうと思います。
となんか日本で書くと文面まで固くなりますねー!

バヌアツからシドニーで3時間の乗継をして、成田に着きました。15時間ほどでバヌアツから日本に到着、2年間こんなに遠く感じていたところにこんなにあっさり着いてしまうとはというのが正直な感想です。
バヌアツに持っていった靴4足はすべて日本で履けるレベルではなかったのでサンダルに靴下を履き。
バヌアツから持ってきたすべての長そでと長ズボンを朝の7時の成田空港で着込みました。
荷物を宅急便で実家におくって一緒に戻ってきた同期と別れて一人で成田エキスプレスに乗って新宿に向かう途中、千葉の田園と寒そうな外の景色を見ながら。
「オー!ジャパン!愛すべきわが故郷!」
と思ったのかどうかは三週間前だったので忘れてしまいましたが。帰りの飛行機の中でカンタス航空の人達に朝の4時に起こされてスクランブルエッグとクロワッサンを食べさせらて、自ら無理してコーヒーの2杯も飲んだので、なんか胃の中がおかしかったのは覚えています。

日本について最初に何食べた?とみんながきくので書きますが。それは母親の作ってくれたウドンでした。
本当はずっとJRの立ち食いソバを食べようと帰国前から心に誓っていたのだけれど早朝のスクランブルエッグで胃袋が時差ボケで食べる気が起らず、とりあえず家に戻りました。
2年ぶりに会った母親は最初は少し老けたかな?って思ったけど、それは朝早くて僕に起こされて寝起きだったからで、午後には2年前に別れた時と同じ顔に戻ってました。
っていうかみんな2年前と全くと言ってよいほど変わっていなかったです。それが驚き!人の顔って変わらないなー!というのが実感です。ちなみに僕は日焼けしてたので少し変わってました。

そして少しだけ寝てから母親に「蕎麦食べたい」っていったら蕎麦がなかったみたいで、出てきたのがうどん
でした。でもやっぱり美味かった。きれいに刻んである白菜やニンジン、シメジ、豚肉も素敵でした。
「やっぱりダシ文化は素晴らしい、親というものはありがたい」
とおもいましたが、なんか具だけみるとチャンポンにも見えました。でもおいしかったです。
母親の一言は
「ブログ見てたからあんまり2年間離れて感じがしないねー」
でした、このブログ役に立ちました。

話は戻って成田で感じたことは、行き違う人がみんな挨拶してくれないなー!ということでしたが。
なりた到着して10分くらいして気がついたことは、これだけ人が多かったらすれ違う人全員に挨拶してたら
生活が成り立たないからそれは当り前だ!というとでした。バヌアツの大自然のなかで、それぞれ一人で歩いていたときに出会った感動は、日本では無いことだろうな、と感じます。
それぞれの国にはそれぞれの生活のスタイルにあわせた相手に対する尊敬の表わし方があるものなのだと納得しました。
JRのホームで駅員さんが慌てて階段を駆け上がってきたと思ったら、道を聞いたお客さんに快速と急行で
乗り換えが難しいので気を付けてください。と親切に説明しているのをみて。
「やはり日本人というのは律儀で素敵だ!」
とも感じました。

不景気、不景気というので町は世紀末のようになっているのかな?って思っていたら意外と何も変わって
なかったしね。ネズミ食べてるバヌアツの人が見たら何が不景気なのかな?雇用削減っていっても全員無職な
バヌアツ人は何のことかわからないだろうな?
なんて思いました。ちなみにバヌアツの人はネズミは食べるものがなくて食べているのではなくて、なんとなく居るから捕まえて食べてるみたいです。

お寿司は食べたくて帰国後三日目に一人で回転寿司に入りました。サーモンとエンガワがおいしかったです。

帰国後3日ですべてが日本モードに切り替わりました。結構あっという間でした。
ウィンドウズのアップデートくらい早かったです。ウィンドウズ95だったのがXPくらいのレベルにはなりました。

病気で療養中の父親も僕の帰りを待ってくれていました。すでに結婚している姉も電話をくれました。
家族と同じ国にいることは安心するものだなー!とも感じます。

一年半前にブログが始まったころに言われた事は、
協力隊でバヌアツに配属が決まった人が、インターネットでバヌアツを調べるとマラリアがあるとか、人食い人種だなどと書いてあるので、辞退する人が多い、そういった間違った情報が先行しないように、現地で活動している隊員がブログを書くことが一番効果がある。
ということでした。そういえばぼくも派遣前はそういった情報に踊らされていたなー!
今思えばこの2年間マラリアになった隊員は一人もいなかったし、現地の人に捕らわれて食われた隊員もいなかったなー! などと笑ってしまいます。
そしてここで一つ懺悔があります。
100かいくらいブログを書いていて、一度だけ嘘を書いたことがあります。それは
「もう何も欲しがりません」
という題名だったと思います。
僕がマーケットであった現地の人に山奥に連れて行かれて食われそうになって必死に逃げて帰ってくる。
という内容だったのですが、僕は何を思ったのかその一回だけ妄想が止まらずに嘘を書きました。
帰国後に親戚の人から連絡があって、
「帰国したらあの内容が本当なのか本人に聞いてくれ」
と近所の人に言われてたんだけど・・・
ということでした。あれは嘘です。自分の中ではあれは三部作になっていて、コウモリの話と牛タンの話を
書いてる内になんかこの流れで面白いのが書けそう!って勝手に妄想してしまいました。

あの一通は嘘です、ゴメンナサイ・・・(コウモリと牛タンは本当です)

ブログを書いて良かったことは自分の気持ちの中でバヌアツの派遣が決まった人が来たくなるようなブログ、という気持ちが働いていたのと、これはジャイカの公式なブログなのだから、いい加減なことは書けないのだ!
という気持ちがあったおかげで、文章がとても前向きになって、書いているうちに自分の気持ちが整理できて
それを読み直すうちに、自分の活動も前向きになっていったことだと思います。
もし個人で管理するブログであったら、もう少し愚痴が連なっていたかも知れません。

活動に迷って軌道修正したいときに過去のブログを読み返すことがよくありました。
ブログの中には前向きな自分の姿が描かれており、読んでいるうちに心のブレが修正されていったこともあった
のかもしれません。また協力隊の隊員なのだ。というプライドが文章の中に反映されていたのかなー?
と帰国して読み返してみて感じることもあります。バヌアツが僕という人間を輝かせてくれていたのではないのかな?と感じます。日本の自分も輝かないとね・・・

とこれが日本にもどって三週間の隊員の心境です。
「今後個人的にブログを書かないの?」
って聞いてくれる人もいますが。今のところ考えていません。このブログも僕がメールとして首都の事務所に
送ったものを担当調整員がアップしてくれていたので、僕はアウトルックに書いていただけだったので。ブログの作り方もしらないしね。

今後はしばらく日本で教員をしたいなー!って思って就職活動中です。人生で初めて教員のまねごとみたいなことを2年間やらしてもらって気がついたことは、教育って今すぐに結果が見えるわけではなくって10年後とか20年後にジワーッと教え子の記憶の中にその先生から教わったことがにじみ出てくるのではないかな?ということです。協力隊の活動もおなじで、今の僕は2年前とは変わってないけど、10年くらいしたらなんとなくにじみ出るものだと思います。
半年、1年先の学力の向上は塾の先生に任せて、教員は10年先に効き目が出てくれば良いのかな?なんて思います。まあそんな呑気なことを言えるのは僕の専門が体育だからだとは思いますが・・・・

とこんな感じで最終回は終わりたいと思います。ブログに関する感謝の気持ちを述べだすときりがないので
一人に絞ると、バヌアツ事務所の調整員さま僕をワールドレポーターに選んでくれたことも、わけのわからない文章でもOKを出してくれたこともとても感謝しています。

青年海外協力隊 18年度2次隊 体育だった 浦 輝大

爽やかすぎる二人


「ウラー!僕らの写真を撮ってくれよー」

っていうので、

「OK!ワン!ツー!スリー!」 

で写真を撮りました。
 
 デジカメなので、画像を見せてあげようと思って僕がカメラを二

人に見せるより先に

「ウラ、サンキュー!」

って行って全力疾走でどこかに走り去って行きました。
 
写真の意味わかってるのかな?って思いながらもあまりにも爽

やかな2人に驚かされました。

そのときの写真がこれです。右がお隣のクウィンティル、左がモシ

スです。僕はあまりにも早い展開に1人で取り残されて苦笑い

しました。
 
 

体育は重要じゃなかった


2年間の巡回指導が終わって今は首都で帰国の準備をしなが

ら、この2年間を振り返っています。
 
 自分の2年間の活動には悔いも後悔もありません。もしもう一度

2年前からやり直し!っていわれても同じように悩み、同じように苦

しみ、そして楽しみたいと思います。

 タンナを出発した時の事はまた今度書きますが、現在タンナ島の

家を引き払って首都で帰国準備をしながら、時々パソコンでタンナ

の写真を見たりして寂しく思うことがあります。

 そして最近になって大きく胸に響いてきた言葉があります。2学

期に巡回していたポートレゾリューションのラッキン校長に言われた

言葉で、別れの挨拶で僕が

「僕の仕事は体育の価値を広める事で、巡回指導で今はみんな

体育の価値がわかったでしょ、僕はタンナ全体に体育を広めるのが

仕事だから、次の学期は他の学校へ巡回にいかなければならない

んだよ」
 
という僕のお別れの挨拶に

「ウラ、何でもう巡回指導に着れくれなくなるんだ、もちろん体育は

重要だけどそれ以上に、お前が毎週学校に来てくれて会えること

のほうが俺たちには重要なんだ」

といわれた言葉です。
 
 また3学期に教えていたイキティの子供にも帰国の挨拶と僕には

後任が来るので彼が仕事を引き継ぐから大丈夫だよ、といった時に

「ウラ、俺たちはお前に会いたいだけなんだ」

と言ってもらえたことです。

そんなこと言われたら、いつまで経っても体育は広がらないし、技術

移転だって出来ないでしょ!

 ってそのときは思ったけど、全てが終わって今考えたら、そこが日

本人としての僕の悪いところだったのかな?とも感じます。
 
 仕事の為には自分を犠牲にすることは日本では美徳だけど、バ

ヌアツの人はそうは思って居なかったと思います。

 なぜウラは仕事を優先させているのかな?体育なんかよりも人と

してもっと大切なものがあるのじゃないかな?

 と思っていたのかもしれません。そこがわかっていずに、仕事優先

に生活している僕は不思議な存在だったのかもしれないです。

 全てが終わって思えば仕事なんて、体育の普及でも、青少年活

動でも、村おこしをする村落開発普及でもなんでも良かったのかも

しれません。

仕事の肩書きよりもウラっていう自分をもっとアピールして、もっと自

分らしく振舞う事をするべきだったのかも知れません。

 そこが日本人の苦手なところでもあり、自分の悪かったところなの

かな?とも感じます。

 僕はボランティアという立場だし、州全体の体育の普及なのだか

ら公私混同しないで、全ての人に平等な立場で接するべきだとい

う気持ちが根底にありました、

でもやっぱり

「俺たちはお前に会いたいだけなんだ」

って言ってもらえてことは一生の宝だと感じます。

もちろん公私混同しない僕のスタイルを評価してくれる人も沢山居

ました。でも仕事の量以外に人として評価してもらえたことは心の

財産になると思います。
 
 今までの人生でそういう価値観を知っていたとしてもこんなに強く

感じたことはなかったと思います。バヌアツで教わった一番大きなこ

とだと思います。

今は僕にそのことを教えてくれたバヌアツの人たちに感謝しています。

来年からは日本社会です。色々と悩むだろうけど、この経験は

決して忘れてはいけないと感じます。
 
 写真は黄色いシャツなのでフランス語学校の4年生です。

 英語学校はブルーのシャツを着ています。 

 一年生から4年生までフランス語にいて、その後に英語に転校す

る子供が結構います。先に英語から習うと、フランス語は難しくて物にならないそうです

あっさりだった最終日


タンナ島の最終日のことを書きます。

期待に反して意外とあっさりでした。僕がタンナを後にしたのは

12月6日です、その次の週から首都でバヌアツの協力隊員全

員参加の隊員総会があったので、それにあわせてバヌアツ出

国の一月七日よりも一ヶ月も早めに上京しました。

すでに11月末で学校も終わっていたので、仕事もなく、

お世話になった先生たちもあっという間に自分の地元へと散ら

ばっていきました。
 
 なので公務員の多いウチの村は意外と静かで、僕が日本に

帰ると行っても、「クリスマスだけでしょ!」

って思っている人が多かったみたいです。そして総会の為に他

の協力隊員4名と一緒に飛行機に乗ったこともあり、空港で

会った人達も休暇で首都に行くだけだと思っていたみたいです。
 
 飛行機に乗ってからの僕の気持ちを結構あっさりで、

「アー、これがタンナ島を見る最後なんだなー!」

なんて思いながらも、飛行機の席が通路側だったので、特に

自分の世界に入ることもなく、そのまま飛び立ってしまいまし

た。 

 それが僕のタンナ島最終日でした。
 
 いらない洋服は綺麗なものは高校の校長のドネルに島を経

つ朝に持って行きました。

 少し汚い服や靴などは僕が隊員としてタンナにきて巡回指

導を始めたときに、問題児の多かったコーナースクールの7,8

年生で常に気を使って僕を助けてくれたタイヨウ少年に託しま

した。

 彼はすでに小学校を卒業して中学校に通っていたので今年

は直接授業をすることはなかったのですが、個人的にずっと友

達だったし、洋服を上げても周りの人に自慢するような子では

ないので、無理やりに押し付けてきました。

きっと今頃は6人いる男兄弟で分け合ってくれていると思います。

 ガレージセールで村人に売るという方法もありましたが、自分

がタンナ島でお世話になった道具達が買われていくのは寂しい

きがしたので、2人の人に絞ってゆずる事にしました。みんなに

配らなかったのは、あげれた人とそうでなかった人が出来てしま

う事がイヤだった事と、みんなが家の殺到する事が怖かったこと

と、そのときにしなればならない別れの挨拶が苦手だった事もあ

ります。そのかわりに写真は50枚ほどプリントしてみんなに配り

ました。
 
 冷蔵庫やその他の雑貨は後任のヨリ君に譲り、首都には30

キロほどで上がりました。冬服はないので日本に戻ったら大変

だと思いますが、荷物はなるべく少なくして帰国しようと思います。

 それがタンナ島の最終日でした。感動の涙はなかったけど、

島を最後にする時はなんとなく誇らしげな気持ちになりました。

「出来ないながらもよく頑張ったなー!」というのが正直な気持

ちです。

 残り一ヶ月は首都での活動の報告、表敬訪問、最終レポー

トなどで終わりです。ブログの内容も落ちも何もなくあっさりして

いてごめんなさい・・・・ 
 
 写真のテーマは「夕日と少年」いつの間にか子供達は僕より

逆立ち上手になりました!