2010年3月8日月曜日

バヌアツ最終回

今は1月31日です。1月8日に帰国して三週間が経ちました。最終回を書かないとと思いながらも日本にいると何となく書く気になれず。ダラダラと来てしまいしたが、ブログを今までブログを読んでいただいた方にきちんと挨拶をと思い最終回を書こうと思います。
となんか日本で書くと文面まで固くなりますねー!

バヌアツからシドニーで3時間の乗継をして、成田に着きました。15時間ほどでバヌアツから日本に到着、2年間こんなに遠く感じていたところにこんなにあっさり着いてしまうとはというのが正直な感想です。
バヌアツに持っていった靴4足はすべて日本で履けるレベルではなかったのでサンダルに靴下を履き。
バヌアツから持ってきたすべての長そでと長ズボンを朝の7時の成田空港で着込みました。
荷物を宅急便で実家におくって一緒に戻ってきた同期と別れて一人で成田エキスプレスに乗って新宿に向かう途中、千葉の田園と寒そうな外の景色を見ながら。
「オー!ジャパン!愛すべきわが故郷!」
と思ったのかどうかは三週間前だったので忘れてしまいましたが。帰りの飛行機の中でカンタス航空の人達に朝の4時に起こされてスクランブルエッグとクロワッサンを食べさせらて、自ら無理してコーヒーの2杯も飲んだので、なんか胃の中がおかしかったのは覚えています。

日本について最初に何食べた?とみんながきくので書きますが。それは母親の作ってくれたウドンでした。
本当はずっとJRの立ち食いソバを食べようと帰国前から心に誓っていたのだけれど早朝のスクランブルエッグで胃袋が時差ボケで食べる気が起らず、とりあえず家に戻りました。
2年ぶりに会った母親は最初は少し老けたかな?って思ったけど、それは朝早くて僕に起こされて寝起きだったからで、午後には2年前に別れた時と同じ顔に戻ってました。
っていうかみんな2年前と全くと言ってよいほど変わっていなかったです。それが驚き!人の顔って変わらないなー!というのが実感です。ちなみに僕は日焼けしてたので少し変わってました。

そして少しだけ寝てから母親に「蕎麦食べたい」っていったら蕎麦がなかったみたいで、出てきたのがうどん
でした。でもやっぱり美味かった。きれいに刻んである白菜やニンジン、シメジ、豚肉も素敵でした。
「やっぱりダシ文化は素晴らしい、親というものはありがたい」
とおもいましたが、なんか具だけみるとチャンポンにも見えました。でもおいしかったです。
母親の一言は
「ブログ見てたからあんまり2年間離れて感じがしないねー」
でした、このブログ役に立ちました。

話は戻って成田で感じたことは、行き違う人がみんな挨拶してくれないなー!ということでしたが。
なりた到着して10分くらいして気がついたことは、これだけ人が多かったらすれ違う人全員に挨拶してたら
生活が成り立たないからそれは当り前だ!というとでした。バヌアツの大自然のなかで、それぞれ一人で歩いていたときに出会った感動は、日本では無いことだろうな、と感じます。
それぞれの国にはそれぞれの生活のスタイルにあわせた相手に対する尊敬の表わし方があるものなのだと納得しました。
JRのホームで駅員さんが慌てて階段を駆け上がってきたと思ったら、道を聞いたお客さんに快速と急行で
乗り換えが難しいので気を付けてください。と親切に説明しているのをみて。
「やはり日本人というのは律儀で素敵だ!」
とも感じました。

不景気、不景気というので町は世紀末のようになっているのかな?って思っていたら意外と何も変わって
なかったしね。ネズミ食べてるバヌアツの人が見たら何が不景気なのかな?雇用削減っていっても全員無職な
バヌアツ人は何のことかわからないだろうな?
なんて思いました。ちなみにバヌアツの人はネズミは食べるものがなくて食べているのではなくて、なんとなく居るから捕まえて食べてるみたいです。

お寿司は食べたくて帰国後三日目に一人で回転寿司に入りました。サーモンとエンガワがおいしかったです。

帰国後3日ですべてが日本モードに切り替わりました。結構あっという間でした。
ウィンドウズのアップデートくらい早かったです。ウィンドウズ95だったのがXPくらいのレベルにはなりました。

病気で療養中の父親も僕の帰りを待ってくれていました。すでに結婚している姉も電話をくれました。
家族と同じ国にいることは安心するものだなー!とも感じます。

一年半前にブログが始まったころに言われた事は、
協力隊でバヌアツに配属が決まった人が、インターネットでバヌアツを調べるとマラリアがあるとか、人食い人種だなどと書いてあるので、辞退する人が多い、そういった間違った情報が先行しないように、現地で活動している隊員がブログを書くことが一番効果がある。
ということでした。そういえばぼくも派遣前はそういった情報に踊らされていたなー!
今思えばこの2年間マラリアになった隊員は一人もいなかったし、現地の人に捕らわれて食われた隊員もいなかったなー! などと笑ってしまいます。
そしてここで一つ懺悔があります。
100かいくらいブログを書いていて、一度だけ嘘を書いたことがあります。それは
「もう何も欲しがりません」
という題名だったと思います。
僕がマーケットであった現地の人に山奥に連れて行かれて食われそうになって必死に逃げて帰ってくる。
という内容だったのですが、僕は何を思ったのかその一回だけ妄想が止まらずに嘘を書きました。
帰国後に親戚の人から連絡があって、
「帰国したらあの内容が本当なのか本人に聞いてくれ」
と近所の人に言われてたんだけど・・・
ということでした。あれは嘘です。自分の中ではあれは三部作になっていて、コウモリの話と牛タンの話を
書いてる内になんかこの流れで面白いのが書けそう!って勝手に妄想してしまいました。

あの一通は嘘です、ゴメンナサイ・・・(コウモリと牛タンは本当です)

ブログを書いて良かったことは自分の気持ちの中でバヌアツの派遣が決まった人が来たくなるようなブログ、という気持ちが働いていたのと、これはジャイカの公式なブログなのだから、いい加減なことは書けないのだ!
という気持ちがあったおかげで、文章がとても前向きになって、書いているうちに自分の気持ちが整理できて
それを読み直すうちに、自分の活動も前向きになっていったことだと思います。
もし個人で管理するブログであったら、もう少し愚痴が連なっていたかも知れません。

活動に迷って軌道修正したいときに過去のブログを読み返すことがよくありました。
ブログの中には前向きな自分の姿が描かれており、読んでいるうちに心のブレが修正されていったこともあった
のかもしれません。また協力隊の隊員なのだ。というプライドが文章の中に反映されていたのかなー?
と帰国して読み返してみて感じることもあります。バヌアツが僕という人間を輝かせてくれていたのではないのかな?と感じます。日本の自分も輝かないとね・・・

とこれが日本にもどって三週間の隊員の心境です。
「今後個人的にブログを書かないの?」
って聞いてくれる人もいますが。今のところ考えていません。このブログも僕がメールとして首都の事務所に
送ったものを担当調整員がアップしてくれていたので、僕はアウトルックに書いていただけだったので。ブログの作り方もしらないしね。

今後はしばらく日本で教員をしたいなー!って思って就職活動中です。人生で初めて教員のまねごとみたいなことを2年間やらしてもらって気がついたことは、教育って今すぐに結果が見えるわけではなくって10年後とか20年後にジワーッと教え子の記憶の中にその先生から教わったことがにじみ出てくるのではないかな?ということです。協力隊の活動もおなじで、今の僕は2年前とは変わってないけど、10年くらいしたらなんとなくにじみ出るものだと思います。
半年、1年先の学力の向上は塾の先生に任せて、教員は10年先に効き目が出てくれば良いのかな?なんて思います。まあそんな呑気なことを言えるのは僕の専門が体育だからだとは思いますが・・・・

とこんな感じで最終回は終わりたいと思います。ブログに関する感謝の気持ちを述べだすときりがないので
一人に絞ると、バヌアツ事務所の調整員さま僕をワールドレポーターに選んでくれたことも、わけのわからない文章でもOKを出してくれたこともとても感謝しています。

青年海外協力隊 18年度2次隊 体育だった 浦 輝大

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